東出雲町の黄泉喫茶へようこそ

ほとんど毎日のように、私でない私の夢を見る。

『お願いだから追いかけてこないで』

 冷たい岩の前にいる私は、何度もそう誰かに叫んでいた。

 なぜかはわからない。でも、知られたくないという気持ちが胸の内に広がっていく。

 一枚の岩を隔てた先にいる誰か。その人を大切に思っていたはずなのに、今はいちばん恐ろしくてたまらない。

 こうやって夢と現実、ふたりの私の感情が溶け合い、どちらのものなのか判断がつかなくなる。

 やがて、私は岩の向こうにいる誰かに背を向けた。目の前に続く真っ暗闇の道を進んでいると、背後から自分を呼ぶ声がする。それが愛しくもあり、耳を塞ぎたいほど悲しくもあった。

 聞こえないふりをして、引き返したくなる足を無理やり進めた私は目的地にたどり着く。けれど、ここから先の記憶が曖昧だ。

 ただわかるのは失望と裏切りへのとてつもない絶望感。身を切り裂かれるような痛みとともに自分が狂っていく感覚。それらを味わって、この苦しみから逃れたいという一心で目覚めると、私は自分に問いかける。

「私は本当に、伊澄灯(いすみ あかり)なの?」

どうしてあのとき、他の言葉をかけてあげられなかったのだろう。

 もっと、一緒にいる時間を楽しく過ごせなかったのだろう。

 後悔は噴水のように次から次へと吹き上げてきて、戻らない時間に嘆いてばかりだ。

 思い出すのはいつも同じ場面。あれはこじんまりとした商店街の一角にあるレストランで、私――伊澄灯が妹の茜(あかね)とオムライスを食べていたときのこと。


「んーっ、トマトの酸味が染み渡る」


 このお店に来たら絶対と言っていいほど、私は『トマトスープオムライス』を頼む。

鶏ももや玉ねぎがゴロゴロとたくさん入ったチキンライスに、黄金色で半熟のふわとろ卵の舌触りと言ったら絹のように滑らかだ。

 オムライスという島の周りに広がるトマトスープの海。ざく切りされた形の残っているトマトが酸味を失わせず、さっぱりとして飽きさせない。

 そして、なんといってもスープだ。ジャガイモが入っているから、スープがトロトロしていて、オムライスによく絡む。

 ほくほくと湯気を吹きながらオムライスを口に運んでいると、携帯を弄ってばかりいた茜が頬杖をついて呆れたように私を見た。


「お姉ちゃんってさ、発言がババくさいよね」

「うるさいな。というか、食べてるときくらい携帯いじるのやめなよ」


 二十三歳である私とふたつ違いの茜は最近、携帯アプリのリズムゲームにハマっている。

一日一回ログインしなければ利用券がもらえないだの、今はイベント中だから手が離せないだの、まるで仕事であるかのように分刻みでゲームをしていた。

 現に「ゲームしないと」が口癖で、義務感に囚われているところを見ると、妹は二十四時間三六五日、携帯という魔物に支配されている。


「一緒にご飯を食べに来てるのに、感じ悪いよ」


 こうして食事中の携帯の使用について注意するのは、何度目だろう。言ったところで、「うるさいな」くらいにしか思っていないんだろうな。

 私だって、できることなら注意なんてしたくない。この会話になると妹は決まって不機嫌になるから、こっちも嫌な気分になるし、面倒なのだ。


「母親面しないでよ」


 予想を裏切らず、茜は唇をへの字にして文句をたれると、やけくそにオムライスを頬張る。こうなったら、小一時間は口をきいてくれなかったりする。

 うちは小学生のときに両親が離婚していて、シングルマザーの家庭で育った。働きに出る母の代わりに、家事をするのは私の担当。

もちろん妹の勉強を見るのも、進路面談に参加するのも私だったので、いつしか姉妹というよりは彼女の母親代わりのつもりになっていたのだと思う。


「心配にもなるでしょ。あんたは二十歳になってもバイトで、進学もしなかった。雑貨屋で働くなんて、歳とったら無理だからね」


 そう、茜はおしゃれをしたいからという軽率な理由で雑貨屋でバイトしている。

勉強も嫌い、仕事も三ヶ月ペースで変わる飽きっぽい性格。先が見えていないから『おばさんになったらスーパーのレジ打ちでもするよ』と言って、私の話を流す。

言っておくが、スーパーのレジ打ちではひとりで生きていけるだけの給料を稼げない。

家の家賃、光熱費にいくらかかっているかなんて、実家暮らしなのにお金を入れてくれるわけでもない彼女には想像すらできていないのだろう。



「雑貨屋でもしっかり社員になって働くとかならわかるけど、店長にはなりたくない、なにも考えない仕事がいいなんて、そんな仕事ないからね」


 茜が鬱陶しそうにしているのは気づいていたが、この話をしだすとどうも止まらなくなる。

本人に危機感はないが、母も四十七歳と高齢なのでそろそろ自立してもらわないと困るのだ。


「今はレジだって機械がやってくれるし、受付だってタブレットがしてるところもあるんだよ? 今は手に職がないと、生きていけない時代なんだからね。お母さんも心配してるし、いい加減――」


 ついつい、説教を続けてしまう私に茜はとうとう「うるさいな!」と逆上する。勢いよく席を立って机に手をつくと、私の方へ身を乗り出してきた。


「毎日毎日、同じ話ばっかり! 私だってバイトで疲れてるのに、今その話をしなくたっていいじゃん!」

「今しなくていいって言っても、茜は私がこの話をすると怒って逃げるじゃない」


 ここで私が引き下がればこの喧嘩も終息するのだろうが、茜と似て負けず嫌いな上に頑固な性格が優位になる。私は踏み止まれずに言い返してしまった。


「お姉ちゃんはさ、料理もうまくてお母さんにいつも褒められてたよね。看護師にもなれて、なんでもできて……。私みたいなできそこないの気持ちなんて、わからないんだよ!」


 そう言って茜は鞄に携帯をしまうと、自分の分のお金だけ置いて席を離れていく。


「茜、待ちなさいよ!」


 私も慌てて鞄を肩にかけ、伝票を手に遠ざかる背中を追いかけた。机に食べかけのオムライスをふたつだけ残して――。



 会計を済ませてお店を出ると、やたら外が騒がしかった。
 私は支払いも任せて勝手に出て行った茜に絶対に文句を言ってやると息巻いて、家の方角へ足を進める。

 そして、ちょうど商店街のアーケードを抜けた先、目に染みるような青空の下。いつもなら川のように流れる車の群れが一か所、滞っているのに気づく。

 空気が張りつめる中、私はそこへ向かって進んだ。
地面が沼にでも変わってしまったかのように、足が重くなる。のっそり、のっそりと歩いて、ようやく〝それ〟を目の当たりにする。


「う、そ……」


 目を背けたいはずなのに、私は横断歩道の血だまりの中で倒れている彼女から目をそらせずにいた。だって、そこにいたのは――紛れもなく、妹の茜だったから。

***

――二年後。
 七月の半ば、私はハンカチで汗を拭いながら東京から島根県東出雲町の中心地、揖屋町(いやちょう)へやってきた。

 私がはるばる七時間半かけてここへ来たのには、理由がある。

 国道九号線から約三百メートル南方にある小丘に、あの世の住人に会える喫茶店があると聞いたからだ。

 その噂を耳にしたのは三日前、二年務めた病院を辞めるの日のこと。

 おこがましいけれど、私は看護師として多くの人を救うために心を尽くしてきたつもりでいた。

いいことをしていれば、必ず自分に返ってくる。それが母の口癖だったから。


 でも、人を助ける職についていた私は、これまでしてきたことがバカらしく思えるほどの理不尽――唐突に家族の命を奪われた。

 母は茜のことを忘れるように曾祖母の代から続いていた食堂で無心に働いていたが、昔ながらの客は高齢だ。

死別や腰痛の悪化、手足の骨折で身体の自由が利かなくなったなど、客足は遠く一方。

東京とはいえ駅から四十分も離れた場所にある古い食堂が新規の客を捕まえられるわけもなく、六ヶ月前にやむお得ず畳むことになってしまった。

 なので母は今、学校給食を作る調理スタッフとして勤務している。

 私はというと病院で妹と同い年くらいの患者が入院してくると涙が止まらなくなり、後悔に胸が詰まって仕事どころではなくなってしまう日々が続いた。

それでもなんとか続けようとしていたのだが、回復の見込みがなく三ヶ月前に退職を願い出たのだ。

 たぶん、私はもう看護師に戻ることは一生ないのだと思う。

 そして、いよいよ退職の日。私は長年入院している患者に挨拶をして回っていたのだけれど、そのうちのひとり、文(ふみ)さんという六十八歳のおばあさんが「会いたい人がいるのなら、『黄泉喫茶』へ行ってみなさい」と言ったのだ。

 そこは亡くなった人との思い出の料理を食べると、一度だけその人に会える喫茶店なのだとか。会えるのは食べている間だけで、別れは当然来る。それでも会いに行く覚悟があるのなら、行ってみなさいと私の手を握った。

 そのときの文さんの目は真剣で、まるで自分も行ったことがあるような口ぶりだったのを今も鮮明に覚えている。

 こうして私は、おとぎ話のような噂を信じて島根県まで来た。普段なら絶対に疑って足を運ばないだろうけれど、私を信じさせたのは文さんの人柄と妹に会いたいという願いがあったからだ。



「それにしても暑いな」


 国道九号線の高架を潜って、踏切を渡る。民家の壁には【黄泉の国への入り口 黄泉比良坂】と書かれた看板が掲げられていた。

 黄泉比良坂は日本神話に詳しくない私でも、ざっくりとだが知っている。

 イザナギとイザナミという神様の夫婦がいて、妻であるイザナミが火の神様を出産したときに死んでしまうのだ。

 夫であるイザナギは黄泉の国へイザナミに会いに行く。イザナミは現世へ帰れるかどうか黄泉の国の神々に聞いてみるから、返事をするまで来ないでほしいと頼む。

 しかし、待てども返事がないことにしびれを切らしたイザナギは約束を破って黄泉の国に足を踏み入れてしまった。

そこで会ったイザナミはひどい姿をしており、逃げ帰るイザナギ。怒ったイザナミは大勢の黄泉の兵を使って追いかける。

 イザナギは坂の麓にあった木に実っている桃を三つ投げると、黄泉からの追っ手を退散させることに成功した。その桃の木があった坂が黄泉比良坂である。


「あれ、どっちに行くんだろう」


 歩いていくと木々が生い茂る森の中に、ふたつに分かれる細い道があった。私はどちらかというと明るい、左側を進むことにする。

 ふと、どこからかせせらぎが聞こえてきた。視線を向けると土で淀んだ池があり、その中で鯉が泳いでいる。

その真上には木の枝がいくつも伸びていて太陽を遮っているせいか、沼底の暗さを助長させていた。

 池の堤を渡ると黄泉比良坂の入り口、死者の門が現れる。年季の入った木製の門に、くすんで歪にうねるしめ縄が不気味な雰囲気を醸し出していた。


「この先に喫茶店なんてあるの?」


 門の向こうには変わらず道が続いており、その両側を挟むようにして青葉をつけた木々が鬱蒼と立っている。


「茜……もう一度会えるなら、ちゃんと謝りたい」


 あの日、私が小言を言わなければ、普通に食事をしていれば、彼女の思いを聞いてあげてれば。きっと、事故に遭うことなんてなかった。

 ふと文さんの言葉を思い出す。再会できても、黄泉の国の住人になった茜とはまた別れなくてはいけない。私はその痛みに、もう一度耐えられるのだろうか。


「ううん、耐えなきゃ。あんなお別れのままじゃ、ずっと後悔する」


 言葉に出して、文さんの言っていた覚悟を決める。
 ゴクリと唾を飲み込んで、私は一縷の望みにかけるように門を潜った。


 ――その瞬間、目の前の景色はガラリと変わった。

 重厚感あるオーク材のテーブルと、赤い座面の椅子がいくつか並んでいる薄暗い店内。席の天井からステンドガラスような照明傘が吊り下げられていて、暖色の灯りをともしている。

 蓄音機の褪せたゴールドのホーンから流れるのは、クラシック音楽。昭和にタイムスリップしたようなレトロな空間がそこにはあった。


「なっ……なに!? ここは、なに!?」


 それ以外の言葉が出てこない。困惑と疑問が竜巻のように頭の中でぐるぐるとしていて、ついには私までその場で回転してしまう。

 鳥居の向こうには、何の変哲もない道が続いていたはずだった。なのに、私はどうして喫茶店の中にいるんだろう。

 これはまた、おかしな夢を見ているに違いない。

 そう思うのは最近、暗闇の中で道を隔てている岩に『お願いだから追いかけてこないで』と叫ぶ、カオスな夢を繰り返し見ているからだ。

「仕事辞めて、ほっとしたから? 看護師って精神的に病む人が多いってよく言うし、病気って気を抜いたときが一番怖いのよね」


 ひとりでぶつぶつと言いながら、私は改めて店内を見渡す。

 席の仕切りには観葉植物が飾られ、わりとどこにでもありそうな喫茶店だなと思いつつ、カウンターを見ると、そこには長身で白いワイシャツに腰巻きの黒いエプロンがよく似合う男が立っていた。

 ――かっこいい人だな。

 無駄な肉のついていないスッキリとした輪郭に、均等に配置された顔のパーツ。鼻筋も通っており、薄い唇も相まって端正な顔立ちを作り出している。

 しかしながら、その清楚な黒髪に反して切れ長の瞳は凶器と言っていいほど鋭い。私が恐縮しきって肩をすくませていると、男が大股で目の前にやってきた。


「お前、どこかで会ったか?」

「え、初めてだと思いますけど」 


 こんな美男なら記憶から消えることはないと思う。なにより、平気で人を刺しそうな凶悪な目つきの彼を簡単に忘れられるはずがない。人間というのは命の危険に敏感な生き物なのである。

 だが、彼は私の顔をまじまじと見つめて、納得がいかなそうに腕を組む。その眉間にしわが寄り、ますます人相が悪くなった。


「まあいい、水月(みづき)」


 誰かの名前を呼んだ男はカウンターを振り返る。すると、薄いブラウンの髪と瞳を持つ二十歳くらいの青年が黒革のメニュー表を手にこちらに駆けてきた。

 喫茶店の制服に身を包んでいるので、おそらく同僚だろう。