「僕は実りの神様だからね。お金を生み出すのは朝飯前なのだ」
拳を握って、ふんっと鼻を鳴らすオオちゃんは得意げだ。力の使い道については褒められたものではないけれど、お金に困っていないことはわかった。
「神様の力をろくでもないことに使ってるよね……」
オオちゃんを憐れむように見て、陽太くんがボソリと呟いた。
「むむっ、これも人助けのためだぞ。言えなかった言葉、変えたい別れの形、黄泉喫茶を必要としてる人間はたくさんいるのだ。灯のようにな!」
そう言って、私の服の裾を軽く引いたオオちゃんは唐突に「なぬっ」と変な声をあげた。何事かと彼を見下ろすと、私はじっと凝視されている。
「おぬし、ときどき変な夢を見たりしないか?」
それは確証をもって告げられていた。でも、どうしてオオちゃんが私の見るおかしな夢のことを知っているのだろう。
ほとんど毎日のように、私でない私が冷たい岩の前で誰かに話しかけている夢を見る。そこから先は、いつも真っ暗な闇に閉ざされてしまって見えない。
ただなぜか、知りたくないと思う。それを知ってしまったら、私は私でなくなってしまうような気がするから。
「ふむ、懐かしい気がすると思った。那岐も気づいていたのだろう?」
沈黙を肯定ととったのか、オオちゃんが私の答えを待たずに振り向く。その視線の先にいたのは、那岐さんだった。
「やっぱりな、会ったことがあるような気がしてた」
なにがやっぱりなのかはわからないけど、切なげな彼の眼差しに目を奪われる。自然と見つめ合う私たちの間に、オオちゃんが立った。
「まだ断定とは言えんぞ。灯のほうは、おぬしを見てもなにも感じていないようだからな」
「わかってる。だが、可能性は高いだろ」
那岐さんたちは勝手に話を進めているが、そろそろ帰ってもいいだろうか。
まあ、無職なので急いでいるわけでもないのだけれど、早めに再就職先を決めなければならない。
できれば、この足でハローワークにでも足を運んで就活に勤しみたいところだ。
「なになに? 那岐の探してる人って、灯ちゃんだったの?」
水月くんまで参戦してしまい、話が段々盛り上がってきた。私は恩人相手に失礼だとは思ったのだが、ひと声かけることにする。
「あのう、そろそろ帰ってもいいでしょうか」
おずおずと聞いてみると、みんなの視線が一気に私に集中する。心なしか圧を感じたので一歩後ずさったとき、那岐さんに強く手首を掴まれた。
「お前、無職だそうだな」
「え、まあ……」
「だったら、うちの調理スタッフとして雇ってやる。食住付きで、月収三十万でどうだ?」
「え、食住付きで三十万!? そんな、働きに見合わないお金はもらえません」
給食の調理スタッフとして働く母の月の給料は十五万円程度だ。あきらかに世間の平均賃金と比例していない。
「頭が固いな、なりふり構ってる場合じゃないだろ。二十三にもなってニートなんて、はっ、笑えねえ」
「今、笑いましたよね……」
冷笑、嘲笑の類だったけど。
「いいから、つべこべ言わず、俺に雇われてろ」
横暴だけど、那岐さんの言っていることはごもっともだ。東京からずいぶん離れることになるし、お母さんのことも心配ではある。
でも、看護師やめて次になにをしたらいいのかもわからない。だったら、腹をくくって働かせてもらうべきなのかもしれない。
幸いにも、住居まで提供していただけるわけだし。
「……わかりました、お世話になります。あ、でも……荷物を取りに行きたいので、一旦東京に帰り――」
言いかけた言葉は「親に送ってもらえ」という那岐さんの声に、バッサリと切り捨てられた。
理由はわからないけれど、意地でも私を帰したくないらしい。それから何度頼んでも、ことごとく帰還を却下されたから。
こうして……私は身ひとつで、島根県東出雲町の黄泉喫茶に再就職する運びとなったのだった。
翌朝、都会ではありえないほど聞こえる鳥のさえずりに気持ちよく目が覚めた。
見覚えのない木目の入った天井に慣れない敷布団。
ずっとベットだったので、身体のあちこちが凝り固まったように鈍く痛む。
上半身を起こして腕を伸ばすと、私に与えられた八畳の畳部屋を見渡した。
昨日、母に荷物を送ってもらうように頼んだのだが、すぐには届かないので近場にあった安い服屋で下着やら私服やらを買い揃えた。
それらは部屋にあった年季の入っている木製のタンスに仕舞わせていただいている。
他人の家なのに畳の香りと障子窓から成るこの部屋が懐かしく感じるのは、私も根っからの日本人だからなのだろう。
私は那岐さんから借りた那岐さんのお母様の浴衣を脱いで、私服のワンピースに着替える。
姿見の前に立って長い黒髪を後ろでひとつに結い、襖を開けて廊下に出た。
私の部屋は二階にあり、しかも那岐さんの部屋の隣にある。彼の部屋の前を通ったが、物音ひとつしないので、もう起きているのかもしれない。
手すりに手を滑らせながら階段を下りていくと、お味噌汁の香りがふんわり鼻腔に広がった。
土間と履物を脱ぎやすくする台代わりの沓(くつ)脱ぎ石、上がり框(かまち)のある玄関前を通って八畳続きの居間に行く。
ここは庭に面した縁側が隣にあるので、緑の葉をつける紅葉や桜の木が目の保養になる。
縁側につり下げられた風鈴の音も、エアコンのない部屋を涼しくしてくれているようだった。
「起きたなら、運ぶの手伝え」
広間の入り口に突っ立って、庭を眺めていた私の背後から声がかかる。振り返れば、紺色の浴衣の上から白いエプロンをつけた那岐さんが立っていた。
あ、那岐さん、寝癖がついたままだ……。起きてすぐに、朝食を作ってくれてたのかな。
私は那岐さんのそばに歩いていくと、ぺこりと頭を下げる。
「おはようございます、那岐さん」
挨拶もそこそこに、私はほとんど無意識に背伸びをして、彼の跳ねた髪を手櫛で直してあげる。
すると、那岐さんは目を見張ったまま身を固くした。
彼の手には白米がつがれたお碗がふたつ、お盆の上に乗っている。それがゆっくりと横に傾いていくのが見えた私は慌てて、お盆を支えるように持った。
「だ、大丈夫ですか?」
「問題ない、お前は台所にある鮭を持ってこい」
早口でそう言うと、那岐さんは私の横を通ってテーブルの上にお碗を並べる。
彼の様子がおかしかったので気にかかったが、話しかけるなオーラが見えた気がしたので大人しく台所に向うことにした。
「あの、那岐さんはここにひとり暮らしなんですか?」
目の前に並ぶだし巻き卵やほうれん草のおひたし、焼いた鮭に豆腐とネギのお味噌汁といった定食並みのメニューをありがたく頂きながら、目の前に座る那岐さんに尋ねる。
「両親は若いときに俺を産んだから、まだまだ遊びたかったんだろう。とっくの昔に俺を置いて蒸発したからいない」
「蒸発って……」
ある日、突然いなくなったってことだよね?
私もシングルマザーの家で育ったからわかる。たとえば、幼稚園のお迎え。お母さんは仕事で忙しくて、私はいちばん最後だった。
そして、小学校の運動会。昼は親と一緒に食べるのが恒例だったのだけれど、食堂はお昼時がいちばん混むので、お母さんはこれなかった。
みんなが家族に囲まれているのを羨ましく思いながら、ひとりで食べたお弁当は味気なく感じたのを覚えてる。
片親がいないだけでも、周りの子とは違うんだって寂しい思いをした。
お母さんが大変なのはわかる。
でも、働いてくれているありがたさを知るのなんて、大人になってからで、子供時代は常に心に北風が吹いてるような思いで過ごしていた。
それが両親ともいなくなるなんて、想像もつかない孤独感があったことだろう。
「代わりに俺を育ててくれたのは、母方のばあちゃんだった。この家もばあちゃんの持ち家だ」
気にした素振りもなく、淡々と料理を口に運ぶ那岐さんにかける言葉が見つからない。本人はなんでもないことのように言うけれど、苦労したに違いない。
私は躊躇いながらも、「おばあ様は、今はどこに?」と聞いてみる。
すると、那岐さんは一瞬身を強張らせて、平静を装いながら口を開いた。
「ばあちゃんは去年に他界した」
「そうだったんですね……」
寂しかったですよね、なんてわかりきったことを聞くのはやめた。そうでないわけがないし、簡単におこがましく共感なんてできない。
私も妹が亡くなったとき、『辛かったよね』『悲しかったよね』と親戚や友人、同僚から声をかけられた。
ありがたいはずなのに、それが逆に〝わかるわけない、実際に失ったわけではないのだから〟と心にささくれを作った。
そんな自分が心の狭い人間に思えて、嫌になって……苦しかった。
痛みはきっと、本人にしか理解できない。だから、私は励ましの言葉や安易な共感は避けて、彼に寄り添うことに決めた。
「那岐さん、このだし巻き卵、大根おろしとよく合いますね」
「そうか? 普通だろ」
謙遜というよりは本気で興味がないといった様子の彼に、私はかぶりを振る。
「いいえ、那岐さんのお嫁さんになる人は、かなりハードルが上がると思います。あ、でも……夫に花嫁修業をしてもらえるって、一石二鳥、コスト削減かも? 口も人相も悪いのが傷ですけど、いろいろオプションがついてきてお得ですね」
「さりげなく俺を貶しつつ、人を便利ロボットみたいに言うな」
「あ、つい……すみません。とにかく、それくらいどの料理もおいしいってことです」
お味噌汁のだしの取り方も市販の出来上がったものではなく、かつお節と昆布からとっていた。ここまでくると、食堂を手伝っていた私でも敵わない。
心からそう思って素直に伝えたのだが、那岐さんはふいっと横を向いてしまう。心なしか耳が赤い気がするのは気のせいだろうか。
じっと見つめていると、那岐さんが恨みがましくこちらに視線を寄越す。
「そうかよ。でも、今日の晩ご飯はお前が作れよ」
「それはもちろん。毎回作ってもらうのは申し訳ないですから」
住む場所と食費まで出してもらっている身なので、今夜だけとは言わずに毎日でも私が作ってもいい。ただ、那岐さんが作ったほうが絶対においしいと思うけれど。
内心苦笑いしながら、どこか懐かしい味がする彼の手料理を食べて穏やかな朝を過ごしたのだった。
***
午前八時半、私は歩きで十分かけて那岐さんと黄泉比良坂にやってきた。あのしめ縄も柱も年季が入った木製の門の前にふたりで立つ。
相変わらず向こう側は透けて道が続いており、誰がこの門の先に喫茶店があるだなんて思うだろうか。
経験したというのに半信半疑なまま立ち尽くしていると、那岐さんが訝しむように私を振り返る。
「早くしろ、行くぞ」
「あ、はい」
先に歩き出した彼の背に続いて門を潜ると、最初からそこにあったかのようにオーク材の調度品で飾られた重厚感ある空間が広がる。
蓄音機から流れるクラシック音楽に迎えられて足を進めると、水月くんが羽交い絞めにするようにして陽太くんの頬を引っ張り持ち上げていた。
「なにこれ、どういう状況?」
隣にいる那岐さんを見上げれば、呆れ顔でため息をついている。
「知らん、俺が聞きたいくらいだ」
彼らの珍行動を前にふたりで固まっていると、水月くんが待ってましたとばかりに満面の笑みを浮かべる。
「今日から灯ちゃんがうちで働くって言うから、陽太と笑顔で迎えようなって話をしてたんだよ。ほら、人付き合いの基本だろ?」
水月くん、それだと陽太くんが余計に人間不信になる気がするよ。
口角を半ば強制的に上げられている陽太くんの目は、まるで死んだ魚のようだ。
お気の毒に……。
苦笑いしていると、スカートの裾を引っ張られる。視線を落とせば、浅葱色の袴を着たオオちゃんがつぶらな瞳で私を見上げていた。