熱さに顔をしかめ、手を押さえたまま足元に目を向けた。地面に落ちても尚、ライターの火はついたままだった。何とかしなければ。そういう思いがなかったわけではない。でも、蓋を閉じれば火が消えることをぼくは知らず、呆然と立ち尽くし、火を眺めるしかなかった。

 どれくらいそのようにしていただろう。気づけばぼくの体は震えていた。チラチララ燃え続ける火が蛇の舌のようにも見えてきて、蛇に睨まれたカエルのごとく、ぼくは全ての動作を凝固させていた。

 ただただ怖かった。禁断の箱を開けてしまったパンドラは、きっとこんな気持ちだったに違いない。
 一歩、二歩と後ずさり、気づけば僕は逃げ出していた。何も考えることができず、闇雲に足を動かした。

 冷静さを取り戻したのは、家のすぐ前まで来た頃だ。

 ぼくは肩を大きく上下させながら、先程の光景を思い出していた。 

 ジッポライターの火はついたままだった。ぼくは激しく首を横に振る。

 大丈夫だ。根拠もなく、頭の中でそう繰り返す。駄菓子屋の前とは言え、アスファルトの上、しかも1メートル以上も店から離れていた。あれだけ火がつきにくかったジッポだ。きっと壊れていたのがたまたま着火しただけに違いない。じきにオイルは燃え尽きて火は消えてしまうはずだ。だから大丈夫。何も起こらない。
 家に入ると、ぼくはくずおれるように自分のベッドに倒れ込んだ。布団の奥深くに頭を突っ込み、固く固く瞼を閉じた。

 駄菓子屋が火事になったのは、その晩のことだ。ニ階に吉田のお婆ちゃんも住んでいて、その火事に巻き込まれて死んでしまった。

 ――大丈夫じゃなかった。

 地面に落ちたジッポライターを、せめて足で蹴飛ばしてでも店から離しておくべきだった。人を呼んででも消し方を聞くべきだった。家に帰ってからでも、やはり店に戻るべきだった。あれをしておけばこれをしておけばと頭の中で浮かぶ選択肢の多さにぼくは潰されそうになった。

 でも――遅い。どれだけ後悔したところで時間は戻せないし、戻らない。

 消防だけでなく、警察も現場に入ったが、火事の原因は突き止められなかったと噂に聞いた。警察がぼくのところに訪れることも――なかった。
 高校生活が始まった。通う学校が変わり、クラスメイトの顔ぶれも変わった。元々引っ込み思案の性格は健在で、ほくは誰とも混ざろうとはしなかった。

 そもそも僕は生きていていいのだろうか。火事のあったあの晩からずっと続いている自問だ。

 今でも目を閉じると、揺らめく炎がまるで大蛇のようにのたうちまわっている様が瞼の裏に蘇る。何層にも赤や黄色の襞が重なり、右へ左へ動き回る炎は、やがて駄菓子屋を呑み込もうとする。そんな夢を見て、目を覚ました夜は数え切れない。
 駅から高校に行く道すがらに警察署がある。その前で立ち止まり、何度、中に入ろうとしたか分からない。

 しかし、勇気が持てなかった。足が微塵も言うことを聞いてはくれなかったのだ。情けなくてその度に涙した。涙を流した分、ぼくはさらに臆病になった。

 逃げ出したい。逃げ出したい。事実から目をそらしたい。罪の意識は幾度も幾度もぼくを踏切の中へ、ビルの屋上へ――つまりはこの世から逃げる方向へ、ぼくを誘《いざな》おうとする。

 しかしその力が中途半端故に成就はしない。ぼくは生きてることに安堵し、そして悲しみに襲われた。
 もう嫌だ。警察にも行けず、この世からバイバイもできない弱虫のぼくは、もう自分を捨てるしかなかった。ぼくは捨てた。今までの自分を。自分らしさを。アイデンティティを。今まで培ってきた何もかもを。

 まず髪の毛を伸ばし始めた。サワより短かった髪の毛は、1年くらいで肩にかかり、高校を卒業する時には背中の中頃まで伸びていた。変化は髪の毛ばかりではない。"ぼく"とは言わず、自分自身のことを"わたし"と呼ぶようになった。ジーパンしか履かなかったのに、スカートばかりを履くようになった。もちろんメイクも覚えた。

 その変化に周囲の狼狽ぶりは半端なかった。どうした? 大丈夫? 特に両親の戸惑いは計り知れない。
 それでも慣れというのは恐ろしいもので、1年が経ち、2年が経つ頃には何も言われなくなった。

 時代も変わっていくからね。人だって変わるよね。母親の妙な物分りのよさ。その顔にわずかに安堵が混じっていることにも気づいていた。

 今でも時々、駄菓子屋のあった場所の前を通る。店のあった場所は更地になってしまったが、有効活用されることもなく、今はただの空き地になってしまっている。

 伸びっぱなしの草を見て、わたしはひたすらに手を合わせる。ごめんなさい、ごめんなさい……。許してもらえるだなんて思ってもいない。それでもこれが今の私に出来る精一杯なのだ。
 そんなこんなで高校生活を終え、わたしは大学に進学した。

 未だに自分を責めない日は一日としてない。幾ら当時と外見を変えても、罪から逃げおおせることはないのだと、日々痛感している。

 学校に通って、飲食店でバイトをして、マニキュアとメイクで自分をひた隠し、アクビと他愛もない会話をする。自分のことはほとんど語らない。アクビと一緒にいて楽しいのは、アクビの方からどんどん話をしてくれるからだ。

 でも、今日は違った。ファミレスで向かい合うや否や、谷口健介の名前を出され、早々にわたしは閉口した。この瞬間が、この空間が、わたしを真っ直ぐに射抜くアクビの視線が嫌になり、立ち上がったものの、腕を掴まれてしまった。
「逃げないでよ」
「逃げてないよ。離して、痛いし」

 アクビは首を横に振る。

「嘘、逃げてるでしょ。私と谷口君は何でもなかったんだからね」

 アクビ――伊藤由麻がそう口にする。高校で由麻と一緒になった時は本当に驚いた。美人で男子生徒から人気があって、気づけばわたしが目を奪われた由麻。そしてサワと付き合っていたとわたしが勘違いしてしまった女子生徒。