「柏木涼太」

 そう思った僕は、花穂ちゃんに向かって兄ちゃんの名前を口に出す。


「……え?」

 だけど、いまひとつな反応だ。


「柏木涼太、覚えてない?」

「……覚えてるような、覚えてないような。でも、すごく大切な人だった気がするの。ここまで出かかってるのに、思い出せない……」

 花穂ちゃんは苦し紛れに首の前辺りに手のひらを横に当てて、“ここ”と示してくる。


「……でも、すごくリョウちゃんに会いたかった。あなたが、リョウちゃん、なんだよね?」


 きっと花穂ちゃんが目覚めてから、こんなに会話したのも表情を変えたのも、今が初めてなのだろうということは、さっき花穂ちゃんのお母さんと話した様子からわかる。

 花穂ちゃんのお母さんも、信じられないと言わんばかりの顔をしてこちらに来ていた。


 目覚めてから、唯一兄ちゃんの姿をした僕に反応して、兄ちゃんの呼び名を口にしたんだから。

 それでも完全に兄ちゃんのことを思い出したというわけではなさそうだ。

 けれど、もしかしたら、兄ちゃんの存在が花穂ちゃんの記憶を取り戻すためのきっかけになっているのではないかと思った。


 目が覚めたら全てを忘れて、家族でさえも知らない人になってしまった花穂ちゃんが、おぼろ気にでも思い出せた唯一の人間が兄ちゃんだったのなら。

 ──僕は、兄ちゃんになろう。と思った。