「俺さ」
「うん」
それでもしばらく迷った後、上坂ははっきりと言った。
「メイクアップアーティストになりたいんだ」
松井さんから前もって聞いていたから、それほど驚きはしなかった。
「それって、どんなことするの?」
上坂は、立ち上がって私に椅子を勧めると、自分もキャスターのついた椅子に腰かけた。
「こないだここで、ケンジさんにヘアメイクしてもらったろ?」
「うん」
「簡単に言っちゃうと、あれが、そう」
「美容師とは違うの?」
「メイクアップアーティストには資格は必要ないから、乱暴な言い方をすれば、ヘアメイクができればそれはすでにメイクさんって呼ばれることになる。今は、あまり区別しないで使う人もいるよ。ただ、美容師と名乗るには、ちゃんと国家資格が必要になる。どっちにしても、やることは、お客さんをきれいにする仕事」
「そういえば、ケンジさんの事メイクアップアーティストって言ってたね」
「あの人はもともと美容師で、そこからメイクの世界に入った人なんだ。この店、ケンジさんのだし、自分でヘアメイクのプロダクションも持ってるよ」
ケンジさん、本当にすごい人だったんだ。
「ずっと、ケンジさんのとこにいたの?」
「そう。俺、あの人の弟子だから。っつっても、押しかけ弟子だけどな」
「弟子? って、美容師の」
「うん。えーと……」
上坂は言いにくそうに、視線をあちこちへとそらす。
「聞かせて」
私は、椅子の上で姿勢を正した。上坂はしばらくためらっていたけど、一度目を閉じて深呼吸すると、覚悟を決めたように話し始めた。
「……これ、誰にも話したことがないから、内緒だぞ」
「うん」
「俺、実は高校に入る前から、ずっとメイクの世界に興味があったんだ」
「そんな前から?」
「そう。子供の頃は、メイクなんて女がやるもんだと思ってたからさ、男でヘアメイクに携わってるやつがいるって知った時、正直、バカにした。きっと、なよなよした女々しい奴がやってるんだろうな、って思ってた。けど中学二年の時、母さんについて行った先の美容室に男のヘアメイクさんがいて……それが、ケンジさんだった」
話しているうちに、上坂の目に力が入ってくる。私は、その横顔を黙って見ていた。
「男のくせに、ってバカにできたのは、最初だけ。その手でみるみる母さんが変わっていくのを見て、俺は言葉が出なかった。派手な色を付けるわけじゃない、なのに、確かにその手で人が変わっていく……美容師ってこんなことができるんだって、すげえ感動した。ちょうどケンジさんが独立してここに店を開いたころだったんで、俺は頼み込んで無理やり弟子入りさせてもらって、こっそりとヘアメイクの基本を教わり始めたんだ」
「え? なら、高校になってから、ずっと……?」
「うん。ここで、雑用みたいなバイトをしながら、少しづつ勉強を重ねてきた。親にも友達にも、誰にも言ったことがないから、俺がこんなことしてるの知ってるのは、ここ……『アダマース』の関係者だけだ」
じゃあ、渋谷でよく見かけるって……遊び歩いているんじゃなくて、ここに通っていたのを見られてたんだ。
ん?
「友達……にも?」
私は首をかしげると、上坂が、ふ、と微笑んだ。
「誰も、知らない。ここに知り合いを連れてきたのは、美希が初めてだよ」
「……じゃあ、なんで私なんて連れてきたの?」
てっきり、歴代の彼女たちをここで飾り立てていたのかと思ってた。
上坂は笑んだまま、それには答えなかった。
「話を戻すけどさ。……ここでメイクの勉強を始めた時は、面白そう、と思うくらいで、まだヘアメイクなんて漠然とした夢だった。けど、だんだん自分にできることが増えるにつれて、夢ではなくて現実にできるかも、と思い始めたら、それを選べないことが苦しくなってきて……一番なりたいものになれないなら、あとは何でも同じだと思っていた。親父の言う通り、大学に行って議員になって……って、そんな風に生きていくんだと、ずっと思ってた。けど、美希と付き合い始めてから、その考え方が少しずつ変わってきた」
「そうなの?」
「うん。俺も、やりたいことをやりたいって、言っていいんじゃないか、って思うようになったんだ。俺、東京タワーで聞くまで、美希が学年一位をキープしている意味なんて考えたこともなかった。あん時はすごいな、って思ったけど、なりたくてずっと頑張っていること、実は俺にだってあるんじゃん、って気づいて。ここに通っていることがばれないように成績も落とさないようにしてきたし、学校の勉強のあとで美容師の勉強をほとんど徹夜でするようなこともあった。そんなに好きで諦めきれないのに、俺はその将来を選んで生きようとしてなかった。だから、『なりたい自分』をはっきりと語れる美希を見て、目から鱗が落ちた気分だった」
「それで、ご両親に話してみたんだ」
私が言うと、急に上坂は神妙な顔になって私を見た。
「直接的なきっかけになったのは、美希の入院」
「へ? なんで?」
「俺のこと好きでもないのにむりやりつき合わされて怪我して、なのに、自分で選んだことだからって言った美希は、潔くて、めちゃくちゃかっこよかった。それに比べたら俺なんて、どうせやっても無駄だって言い訳しながらただ流されるだけで、なのに諦めることもできなくて……そんな自分が情けなかった。そりゃ、そんな俺が美希に彼氏だって認めてもらえるわけがないよな」
あの時、上坂のことをママには彼氏って、確かに紹介はしなかった。でもそんなことが理由で、彼氏って言えなかったんじゃない。
口にしかけた言葉をあやうく飲みこむ。
それをうまく説明できる自信はなかった。
そんな私の様子には気づかないようで、上坂は続けた。
「だから俺、美希の隣に対等に立てる人間になろうと決めた。そのためにまずは、自分の夢を口に出せないことを、何かのせいにするのはもうやめる。それで、あの日、親父にはっきりと言った。大学は行かない、メイクアップアーティストになりたいって」
「それで、ケンカ?」
「うん。最初はまともに聞いてもくれなかった。それでも話を続けたら、わかってないって親父に怒鳴られて、スマホは壊されるわ殴られるわで大変だった」
「え?! 大丈夫だったの?!」
「思い切り、顔が腫れちゃってさ。そんな顔で学校行くわけにいかなくて休んだんだけど……俺も少し考えたくて、そのまま家を出てきた。母さんは、大学だけは行って趣味でやればいいって言ってたけど、それじゃ、だめなんだ。片手間じゃなくて、俺は本気でやりたい」
「それが、家出の原因だったのね」
「逃げ出したみたいで、カッコ悪いなあ、俺……」
上坂は、また頭を抱え込んだ。
「なんで? ちゃんとお父様にやりたいこと言えたんだもの。全然カッコ悪くない……むしろ、カッコいいと思うよ? 松井さんも、二人には頭を冷やす時間が必要だって言ってた」
「でも、何の問題も解決はしてない」
「そりゃ、いきなり今まで信じてたものを覆すんだもの、ご両親だってびっくりするでしょ? そもそも、メイクアップアーティストって何する仕事なのか、私だってわからないくらいだし。でも、上坂が本気でやりたいなら、ご両親が納得してくれるように、もう一度ちゃんと、話してみなよ」
「親父なんて、素直に俺の話を聞くような人間じゃないよ」
「聞かせるのよ。ここで上坂が身に着けた知識や技術を、ご両親はまだ知らないわけでしょ? だから、レポートの一つだと思って準備してみれば? 題して『メイクアップアーティストを職業とした場合の上坂蓮に関しての一考察』」
身を乗り出して話す私に、上坂はぱちくりと目を丸くした後、屈託なく笑った。
「なるほど。現在、俺と親の間には、メイクアップアーティストに関する意識の相違が生じているわけだ」
「そうよ。その無駄に賢い頭を、存分に発揮するときよ。がんばって」
「そっか。……やっぱ美希って、頭いいな」
「だてに学年一番はとってないわよ。それだけが取り柄だからね、私」
「それこそ、何言ってんだよ」
ぎ、といすを鳴らして立ち上がると、私の目の前に立って上坂が私をのぞきこんだ。
「美希はかわいいって。もっと自信持てよ。……そのワンピース、やっぱりかわいい。足きれいだから、そういう靴も似合うな」
お世辞とはわかっていても、頬が熱くなる。うつむいた視界に、自分の腕時計が映った。約束の時間にはまだ早かったけど、なんとなく居心地悪くなって私は立ち上がる。
「もう、帰らなきゃ」
「まだいいじゃん。帰り、送るよ?」
「ううん、もう少ししたら、松井さんが迎えに来るの。ここまで車で送ってくれたのよ」
「で、俺を連れて来いって?」
少しばかり嫌味を含んだ口調で、上坂が言った。私は、首をかしげる。
「私もそうなのかと思ったけど、松井さん、連れ戻せとは言わなかったのよね。ただ、話してこいって言っただけで……でも、一緒に帰る?」
小早川先生も、話を聞いてあげて欲しいみたいなことは言ってたなあ。
誘う私に、上坂は少し考えるように視線を落とした。
「……いや、自分で帰るよ。今、ケンジさん、外出中なんだ。お世話になったから、黙って帰るわけにはいかない。今夜きちんとあいさつをして、明日になったら一人で帰る。自分で出てきたんだから、帰る時もちゃんと自分の足で帰らないと」
そう言った上坂に、いつもの軽薄さはない。
会えなかった一週間の間、上坂は何を考えていたんだろう。未来を形にする決心をした上坂は、いつものへらへらしてる時とは全然違う顔をしていて……私は無意識のうちに、見惚れていた。
ぼうっと、その顔を見つめながら、何も考えずに言葉が零れ落ちる。
「上坂、ちょっと変わったね」
「そうか?」
「うん。ちゃんと、目標が定まったせいかな。前からカッコよかったけど、今の上坂は地に足がついている感じで、すごく、素敵……に……見え……」
私の言葉を聞いていた上坂の目が、丸くなっていることに気づいて、口をつぐんだ。自分の言葉がようやく頭の中に入ってきて、頬が瞬時に熱くなる。
「私……帰る、またね!」
私はあわてて身体をひるがえした。ドアノブを掴んだ瞬間、その手を上からノブこと握られる。上坂のもう片方の手が、私の身体に巻きついて……気がつけば私は、後ろから上坂に抱きしめられていた。
心臓……口から飛び出しそう。
上坂は、その姿勢のまま、何も言わなかった。
「あの……」
「ん?」
「は、離して……」
「やだ」
「でも……」
私の体に回された腕に、わずかに力がこもった。上坂の体温を、首筋に熱く感じる。息苦しいほどに、心臓が跳ねていた。
どうしよう。どうしたら、いいの。
頭が真っ白になって何も考えられないまま、めちゃくちゃ早くなっている自分の心臓の音だけを聞いていた。
だめだ、私。数学ができても英語ができても、こんな時にどうしていいのか、全然わかんない。
「美希」
私の手を掴んでいた上坂の手が、ゆっくりと体をあがってきて、私の顎にかかった。そっと、私の顔を横にむける。目の前には、少しだけ緊張したような上坂の、顔。
目を細めて、その顔が近づいてくる。その仕草に操られるように、私もゆっくりと目を閉じ
「蓮―! 美希ちゃん来て……おっと……」
持っていたドアノブが勢いよく引かれて、体勢が崩れた。振り向くと、目を丸くしたケンジさんが立っている。
「あらあ……」
「失礼しますっ!!」
その横を急いで走り抜ける。後ろを振り返ることなく、私は店を飛び出した。
いやいやいやいやいや! 何、今の?! 何しようとしたの、私?!
熱くなった頬を両手で押さえながら、道端でぜいぜいと息を吐く。心臓がありえない勢いでばくばくしていた。
信じられない。私、なんてことを……あと、三センチ。ケンジさんがくるのが、もう少し遅かったら、私……
「お疲れ様でした」
ふいに声をかけられて、ぎょっとして顔をあげる。
車にもたれて煙草を吸っていた松井さんが、落ち着いた様子で私を見ていた。
「首尾よく、届け物はできたようですね」
「松井さん?! は、早いですね。まだ、一時間たってませんよ?」
「時間通りに行動する秘書は二流です。あらかじめ先を予測して先回りができなければ、国会議員の第一秘書なんて務まりません」
「予測……?」
吸っていた煙草を簡易灰皿にもみ消すと、松井さんは車の後ろのドアを開けてくれた。
「例えば、あなたが一時間も経たずに美容室から赤い顔で飛び出してくるだろう、などですね。あなたが単純な方で助かりました。面白いほどに、予想通りです」
「はあ……」
言い返すだけの余裕も気力もなく、私はおとなしく車へと乗り込んだ。
☆
次の日、どうやら、上坂は朝のうちに家に帰ったみたいだった。朝、私が家を出る時に、これから帰る、とメールが来たけど、学校には来なかったようだ。昼になって携帯をチェックすると、『帰り、迎えにいく』と、短いメールが来ていた。
「あれ?」
放課後になってもう一度携帯を確認すると、画面は真っ暗なまま。どうやら、電池が切れてしまったらしい。そういえば、昨日はあの騒ぎで充電するのなんてすっかり忘れてた。
「なに、予定変わったの?」
昼の連絡を知っている冴子が、私の独り言を耳にとめた。
「たぶん変わってないと思うけど、電池切れてる」
「どうすんの?」
「時間はわかっているだろうから、とりあえず下まで行くよ」
「ふーん。ならそのニヤケタ顔、昇降口までにどうにかしなよ」
「なんで私がそんな顔」
「ゆるみまくってるよ。ごちそうさま」
「……」
そんなつもりはないんだけど。
これから上坂に会える、ってだけでこんなに浮かれるなんて、ちょっと認めたくない。
昨日のことを思い出すと、また頬が熱くなる。気を静めるために、私は一度大きく息を吐きだした。
そろそろ、私も自分の気持ちに向き合わなければいけないのかな。上坂に偉そうなこと言っておいて、私だって、ずっとごまかし続けてきたことがある。
上坂は知らない。私の、本当。
「初々しいこと」
からかうように冴子に指摘されても、その自覚はあるので反論ができない。私が黙ってカバンを手にした時だった。
「ちょっと、いいかしら」
背後からかかった冷たい声。誰だかなんてすぐにわかる。私はゆっくりと振り向いた。
「いい気になるんじゃないわよ」
案の定、そこにいたのは青石さんだった。
あれ?
その顔を見て怪訝に思う。今日、彼女と話すのは初めてだけから、気付かなかった。いつもあれほど身だしなみに気をつかっている彼女の目が、赤く腫れぼったい。
まるで……一晩泣き明かしたような。
「これ以上蓮にまとわりつかないで。あんたのことなんて、本当は蓮は好きでもなんでもないんだから」
まるであたりを気にしない青石さんの声に、教室に残っていた生徒も何事かと視線を向けてきた。
「人から聞いた上坂の気持ちをうのみにするほど、私はばかじゃないつもりだけど」
私が淡々と答えると、青石さんは勝ち誇ったように笑った。
「すっかり彼女気取りね。かわいそう。自分がからかわれていることも知らないで」
「……どういうこと?」
ただならぬ雰囲気に、私はまっすぐに青石さんに向かいあって次の言葉を待った。
「よ」
「あ」
校舎をでると、校門の柱にもたれて上坂が待っていた。手ぶらだったけど、一応、制服だ。
「じゃ、また明日ね。……がんばって」
冴子が、ぽん、と私の肩を叩いて帰っていった。
できれば私も、このまま帰っちゃいたかったなあ。
私は、上坂に気付かれないようにため息をついて言った。
「連絡、くれた? 私の携帯、電池切れてて」
「あ、やっぱり。電話したら電源が入ってなかったから。よかった、ここで捕まえられて」
上坂は、穏やかに笑った。
「いろいろ、話したいことがあるんだ。時間、いい?」
「……うん」
私たちは、微妙な距離をとって歩き始めた。
☆
「スマホの電源入れたら、メールの未読三桁いってた」
「一週間分だもんね」
「めんどくさいから、全部消去しちゃったよ。ラインも美希のだけ読んだけど、連絡しなくてごめん」
「理由はわかったからいいわ」
……ということは、岡崎さんのアレは見てないってことだよね。うん、別に悪いことしてたわけじゃないんだけど、ないんだけど。
「ケンジさんとこにいる時にさ、スマホないと誰とも連絡とれないんだなって、今さら思ったよ。人の電話番号とか、憶えてないもん。せいぜい覚えてたの、自宅の家電だけだった。俺、美希の携帯番号くらいは暗記しとこ」
笑いながら話す上坂に、私はただ笑みを返しただけだった。
人気のない公園のベンチに座って、私たちは取り留めもない話をする。多分、お互いに話したいことは別のことなんだろうけど、どちらも言い出せないままどうでもいい話を意図的に続けていた。
空は、次第に茜色に染まっていく。私が東の空を見上げたタイミングで、短い沈黙がおとずれた。
空には、丸くなりかけた月が一つ。
「……俺さ」
しばらくして、上坂が言った。
「今日、帰ってからもう一度母さんに話した。今度は本気で、メイクアップアーティストになりたいって」
「お母様?」
「うん。親父はもう仕事行ってたから、とりあえず、母さんに」
「お母様、なんて?」
「ちゃんと、仕事内容とか、就職についてとか、今までのこともきっちりと話した。俺がそこまで真剣に考えているとは思っていなかったみたいで、ずいぶん驚いてたけど、ずっと黙って聞いていてくれて、最後に『本気でやってみたいなら、いいんじゃないの』って」
「認めてもらえたのかな?」
「どうかな。でも、思っていることは全部話せた。親父に話すときの、いい予行練習になったよ」
そう言って上坂は、少し、笑った。
「そういえば美希、こないだ家に来た時、母さんに会ったんだって? 忘れていたことを、美希が思い出させてくれたって言ってたけど、なんのこと? 笑ってごまかすだけで、何の話か教えてくれなかったんだけど」
「……上坂が学校ではどうだとか、そんなこと。あ、あのおにぎり、お母様にも作ってあげたんだね。喜んでたよ」
「あー……あれは、練習分。俺は美希の弁当があったし、捨てるものもったいなかったし」
少し赤い顔をして、上坂が視線をそらす。その顔が妙に可愛くてくすくすと笑っていたら、上坂が、に、と笑った。
「美希のこと、かわいいお嬢さんねって、褒めてた」
「ええっ?!」
今度は上坂が笑い始めた。
無理して笑っているだろう上坂の顔に、薄闇がかかる。夜が始まろうとしているけど、帰ろう、と言い出せなかった。もしかしたら、上坂も同じだったのかもしれない。
だから私は、空を向いて別のセリフを口にする。
「もうすぐ、満月だね」
上坂が言わないから、私が言った。
「……うん」
「かみさ」
「美希」
私の言葉を遮る声に、ゆっくりと視線を戻す。上坂が、じ、と私を見つめていた。
「俺、これで終わりにしたくない」
私は目をそらして……大きく息を吸った。
「……ねえ、上坂」
「ん?」
「なんで、私につきあおうなんて言ったの?」
答えが返ってくるのには、少しだけ間があった。
「なんでって……美希、美人だし。鷹高クールビューティーに興味があったし……それに……それに、俺……」
「それに、賭けてたからでしょ? 私が落ちるかどうか」
さりげなく続けると、上坂が息をのむのがわかった。
「……なんで、それ……」
「青石さんが教えてくれた。学食Aランチ一ヶ月分なんて、私ってずいぶん安く見積もられたものね」
『面白半分に、みんなで賭けたのよ。あんたが落ちるかどうか。あんた、蓮のこと好きになったんでしょ? だから、もうおしまい。いつまでも勘違いして、蓮にまとわりつかないで。あんたみたいなブスと一緒にいるなんて、蓮が可哀そう。もう蓮に近づかないで!』
叫ぶ声は、まるで泣いているように聞こえた。
「確かに、美希に声かけたきっかけはそうだった」
気まずそうにだったけど、案外あっさりと上坂は認めた。
「お高くとまってる真面目ながり勉が、ああいうときってどんな顔すんのかって馬鹿話になってさ。俺なら絶対落ちるから、ってみんなに煽られた。それなら賭けようぜ、って……軽いノリだったんだ。ごめん、あの頃の俺は、お前のこと何も知らなかったから。もっと鼻持ちならない女かと思って……ああ、本当に、ごめんて」
振り向いてぎろりと睨んだ私に、上坂は申し訳なさそうに言った。
「けど、お前、思ってたよりずっと……かわいかった」
「は?」
「話してみると美希って、みんなが言うような高慢ちきな女じゃ、全然なかった。普通に可愛い女の子だったよ。教室で見てた優等生のお前と違うことが気になり始めてどんどん魅かれて……真っ直ぐに自分を見てくれる女だってことに気がついたときには、本気でお前に惚れてた。だから賭けのこと気になっていたけれど、言い出せなかった。お前に、嫌われたくなかったんだ」
その言葉に、つきん、と心が痛んだ。
嫌いになんて。
上坂が、黙ったままの私に自嘲するように笑った。
「これからもお前と一緒にいたいなら、このままその話をしないわけにはいかないと思って……なのに、先に言われちゃったな。信じられないかもしれないけど、俺から言うつもりだったんだ。ごめん」
「謝らなくてもいいわよ。残念だったわね、ランチ一ヶ月分」
「本気でそんなのが目的だったわけじゃない。つまらない毎日の中で、面白いことならなんでも良かったんだ。……そんなことが、面白いと思ってたんだ、あの頃は。でも、今はもう、そんな風に思えない」
薄暗がりの中で、まっすぐな上坂の視線を受け止める。
「俺、美希が好きだよ」
「悪いけど」
私は、ベンチから立ち上がった。
「これ以上、知らないところで馬鹿にされるのはまっぴら。もう私に構わないで」
「やっぱり、俺の言うこと、信じられない?」
「信じられるわけないでしょ? さぞ面白かったでしょうね。いいようにふりまわされて毎日お弁当まで作って……私じゃなくたって、それで喜ぶ女子なんて他にいっぱいいるじゃない」
「俺は、美希がいい」
言いながら、上坂が私の手を、ぎゅ、と握った。
「遊びなら、確かにもっと楽に付き合える女はたくさんいる。けど……美希のことは遊びにしたくない。この一ヶ月。一緒にいて、俺のこと、全然好きにならなかった? それとも、少しは、好きになってくれた?」
「私は……」
つかまれた手が、熱い。真剣に見つめてくる上坂の瞳が……怖い。
私は、その眼を見ていられなくて、視線をそらした。
「月が丸くなるまで。あんたのその言葉、気に入ったからつきあってみたわ。もうすぐ、約束の満月になる。だから、おしまい」
「まだ丸くない」
「でも」
「美希が俺を好きになるまで、あの月は丸くならない」
「何言って」
「お前さ、俺といて、楽しかったろ」
「……」
反論しようとした声が、喉の奥でかすれて消える。
ない、って言えばいい。全然好きなんかじゃないって言えば、それで終わる。
なのに……
「今までの俺はさ……到底、美希の隣に立てるような男じゃない」
私の手を握っている大きな手に、心なしか力がこもる。
「夢をあきらめて、ふらふらと遊び歩いてただ今日だけを面白おかしく過ごして……同じような仲間とつるんで適当に生きてきた。そんな俺は、一生懸命に前をむいて自分の足で立っているお前には釣り合わない。でも、なりたいものになるって決めた今の俺なら、少しはお前に近づけたか? 確かに始まりは賭けだったけど、お前の相手が他の奴にならなくてよかったって、今は心底思ってる。だから……」
「きゃっ!」
ぐい、と腕を引かれてもう一度ベンチに座り込む。
反射的に振り向いて見た上坂の顔は、公園の街灯を背にして陰の中にあった。暗くても、その表情が真剣なのがわかる。つかまれた手に本能的に恐怖を感じた私は、思わず身体をひいた。と、引っ張られるようにして上坂は、そのまま私の上に覆いかぶさってくる。
「あのっ……上坂!?」
「本当に……好きなんだ。美希……」
ベンチに押し倒されたような格好になってしまった私は、じたばたと起き上がろうとする。けれど、押さえつけている上坂の力が強くて……動けない。
「や……やだっ! 離して!!」
「お前の手なら、こんなに簡単につかめるのにな」
「え……?」
しみじみとした低い声は穏やかで、狂気に駆られているようには聞こえなかった。少しだけ落ち着いて、私は上坂の顔を見上げる。
上坂は、困ったように笑んでいた。
「好きになった女は、今までたくさんいた。でも、別れたくないと……離したくないと思ったのは、美希が初めてだ。圭とのツーショット見た時は、あやうくスマホ投げそうになった」
「み、見たの?! あれ?!」
「すげえむかついた。自分の中に、そんな気持ちを感じたのも初めてだった。……細い腕。こんな風に、お前の心も捕まえておくことができればいいのに……なあ、美希。俺、どうしたらいい? どうしたら、俺の気持ち、信じてくれる?」
違う。上坂の気持ちが、信じられないわけじゃない。
信じられないのは……
「私は……」
「ぎゃっっ!?」
いきなり上坂が叫ぶと、その身体が浮いてベンチから転げ落ちた。
「うちの大事な妹になにしてんだよ、てめえ!」
ぽかんとする私の耳に、聞いたことのある怒鳴り声。
起き上がってみると、拓兄が息をきらして立っていた。上坂は、おなかを抑えたまま転がって呻いている。どうやら、ベンチの向こう側から蹴飛ばされたらしい。
「美希ちゃん! 大丈夫?」
その後ろから、莉奈さんが心配そうな顔で走り寄ってきた。
「莉奈さんも……どうして?」
「さっき大地君から、美希ちゃんが帰ってるかって電話があったの。バイトに行くときに美希ちゃんが同じ高校の男子と公園の方へ入って行くのを見たらしくって……美希ちゃんの携帯、つながらなかったし心配してたのよ」
あー……大兄、茶髪とか嫌いな人だから、上坂のこと見た目で判断したな。拓兄が乗り出してきたってことは、おそらく大兄から来た電話って、莉奈さんが言ったような穏やかなものじゃなかったんだろう。
うちの兄貴ズは、そろいもそろって過保護だ。自分たちだって、ちゃっかりかわいい彼女がいるくせに。
「私の携帯、充電きれちゃってたの」
「そう? それならよかった。なんともない?」
「私は大丈夫だけど……」
私は視線を上坂に戻す。
上坂は、上半身だけ起こしてお腹を押さえている。拓兄の蹴りが、見事に横っ腹に決まったらしい。
「美希は嫌がっていたようだけど?」
座った目で見下ろすその顔は……拓兄、怒ってる?
こっそりと莉奈さんの耳元に話しかける。
「莉奈さん、拓兄……」
「もうね。美希ちゃんに連絡とれないってわかってから、心配でずっとそわそわしてて。公園に入った時にちょうど美希ちゃんの悲鳴が聞こえて、それでキレちゃったみたい。私、こんなに怒った拓巳、初めて見るわ」
「私も……久しぶりだよ」
私たちの方を振り向かないまま、拓兄の静かな声が響く。
「いい加減な気持ちで、俺の妹に手を出すな。今度こんなことしたら、蹴飛ばすだけじゃすまねえぞ」
上坂はなんとか立ち上がると、拓兄に軽く頭を下げた。
「すみません。二度と美希さんの嫌がることはしません。でも……嫌がらないのなら、いいでしょ?」
「なに?」
顔をあげた上坂は、私の方をまっすぐに見て言った。
「美希。言ったろ? 俺、本気でお前のこと好きだから。あきらめないよ、お前のこと」
「お前……!」
「拓……お兄ちゃん!」
ベンチを超えて飛びかかろうとした拓兄ちゃんを、とっさに立ち上がって抱きとめた。驚いたような顔で、拓兄ちゃんが振り返った。
「美希」
「私はいいの。だから、もうやめて。お願い。もう、いいの」
「お前……」
必死にその腕につかまる私を、お兄ちゃんは複雑な顔で見ていた。そして、不機嫌そうな顔で上坂を振り返る。
「たとえ美希がやめろと言っても、お前が美希を不幸にするなら、俺は全力でお前を叩きつぶしてやる」
鋭く言い切った拓兄ちゃんに、上坂は目を丸くした。
「美希、愛されてんなあ」
「ふざけんな」
睨みつける拓兄ちゃんを気にすることなく、上坂は私に向かって笑った。
「でも、俺も気持ちは負けてないから。絶対にお前を、つかまえてやる。よろしく、お兄さん」
「お前に……!」
何か言いかけた拓兄ちゃんは、ふいに言葉を止めるとめちゃくちゃ渋い顔になって頭を抱え込んだ。
「拓兄ちゃん……?」
「いや、気にすんな。おい、お前」
「上坂です」
「お前なんかお前で十分だ。もしお前が本気なら……美希を泣かすようなうかつなこと、絶対にするな」
「わかりました。約束します」
真面目な顔で拓兄ちゃんに言うと、上坂はぱんぱんとズボンの土を払った。
「というわけで、美希。もう一ヶ月延長な」
「いつからそんなルールが導入されたのよ」
「俺はスペックが高いので、どんな状況にも臨機応変に対応できます。それとさ」
「なに?」
「今度は、俺のこと、名前で呼んでよ」
「なんで?」
「お前、つきあってんのに、一度も俺のこと名前で呼んでくれなかったじゃん。仲いいやつで俺のこと苗字で呼ぶなんて、おまえくらいのもんだよ」
私だけ。だったらそれって、名前で呼ぶよりよっぽど。
「またね。上坂」
ふ、と笑うと、上坂はぺこりと一礼をして私たちに背を向けた。その足取りは、意外に軽い。
「あれは、どういう精神構造をした男なんだ?」
仏頂面も極まれりな顔で拓兄が言った。
「多分、拓兄が苦手な部類の人間だよ」
あー、でも。高校の頃の拓兄って、割と上坂に近い人種だったような気がする。拓兄、年々、お父さんに似てきちゃったから。
「奴には細心の注意を払え。うっかり気を許すな。今日だって間に合ったからよかったものの……」
「そうだ。ありがと、拓兄。でも、もうすぐ私たち関係なくなるから。無用な心配よ、それ」
「え、いいの? 美希ちゃん、ホントは彼のこと、好きなんでしょ」
う。
さくりと莉奈さんに言われて、私は迷ったけど素直にうなずいた。
「なにい?!」
きっかけは、些細なことだった。きっと、上坂は覚えてはいない。
あれは、入学してすぐの春。
クラス委員となった私は、配るように先生に言われたプリントを持って廊下を急いでいた。
『きゃ……』
暑いほどの陽気に全開していた窓から、強い春の風が吹きこんで、私の持っていたプリントが大量に宙を舞う。
あわてて拾い集める私の目に、一枚のプリントが窓の方へ飛んでいくのが見えた。
ああ、下まで拾いに行かなきゃ……と、そのプリントを見送っていた時だった。
『よ、と』
私の横を駆け抜けて、一人の男子生徒が窓から外へと飛び出した。……ように、見えた。
その男子生徒は、器用に窓枠に手をかけて、空へと身を乗り出していた。長い腕の先で、プリントは見事にその男子生徒に捕獲され……って、ここ、三階!!
見ているこっちの方が血の気が引いて、私はその場から動けなかった。だから、その男子生徒が、
『はい』
と、そのプリントを差し出しても、お礼を言うこともできなかった。
男子生徒はそんな私を気にするでもなく、廊下の向こうで読んでいる女生徒たちの方へと走っていく。
その場に残された私の目と心には、いまだに窓から空へと羽ばたいていきそうな男子生徒の姿が焼き付いていた。
真っ青な空をバックにしてふわりと広がった少し長めの明るい髪も、しなやかに伸びた細長い身体も、プリントを差し出したときの笑顔も。
後から気がついたんだけど、それは一般的に恋と呼ばれる感情だったらしい。
まだそのころきっちりとネクタイをしめていたその男子生徒は、けれど、あっという間に鷹高一のチャラ男になってしまった。それは全く私の好みじゃなかった。
なのに、廊下ですれ違う度、校舎で見かけるたびに、視線だけは彼を追っていて。彼は、どんどんかっこよくなっていって、比例してその周りには綺麗な女子が増えていって。その中に割り込むほどの自信は自分にはなくて。
だから、おしゃれになんの興味を示さないことで、彼を違う世界の人間だと思い込もうとした。自分には似合うことのない、関係のない男子だと、思い込もうとした。
本当は、ずっとずっと、好きなままだったのに。
そうやって、この想いを胸に秘めたまま、卒業するものだと思っていた。のに。
莉奈さんは、穏やかな目をして言った。
「だから、彼のこと守ったのね」
「でも、あいつ、かっこいいしもてるし……そんな人と私なんて、釣り合わないじゃない。だからあいつにつきあってって言われた時も、一度くらいつきあってみたら高校時代のいい思い出になるかな、って打算があった。どうせ私なんて、つまんない人間だってすぐにわかってフラれるだろうし、私だって」
「どうせとかつまんないとか、自分のことそんな風に言うな」
ふいに、拓兄が口をはさんだ。
「お前は、いい子だよ。ちゃんと、誰かに好きになってもらえるくらいに。お前は、もっと自信を持っていい」
その言葉に、莉奈さんも微笑みながら頷いた。
「私もそう思うわ。彼にとって美希ちゃんは、全然つまんない女の子なんかじゃないのよ」
「でも……怖いよ」
「何が?」