☆
なんだろう……
昼休みで、人がまばらになった模試の会場。自分の席で持参したお弁当を食べながら、私は窓際の方からの視線が気になっていた。
最初に気づいたのは、午前中の休憩の時だった。なにげなく視線をあげたら、さ、と目線を逸らした男子生徒がいた。気のせいだと思っていたけど、あれから何度か、ちらちらとした視線を感じる。
窓際の席で模試を受けている、すらりとした姿勢のいい男子。
なんとなく見覚えがあるような気がするから、多分、同じ予備校の人だろうとは思う。
気にはなるけど、別に向こうからも声かけてこないし、とりあえずほっとこう。
何事もないまま、昼食休憩が終わって、午後の模試が始まった。
模試が全部終わる頃には、もう七時が近かった。窓の外は、夕焼けが終わろうとしている。
疲れた……けど、手ごたえはあった。結構いい点、いくんじゃないかな。うん、こんな感じでいけば、志望校は大丈夫かも。
気分よく帰ろうとすると、さっきの男子が何人かの女子に囲まれているのが見えた。ああ、カッコいい人だから、学校の人気者ってとこかしら。と、また私と目が合ったその男子は、女子たちから離れて私の方へと歩いて来る。
え?
「ねえ、君」
「はい」
まさか、こんなとこでナンパもないだろう。なんだろう?
「君、昨日渋谷で、蓮と一緒にいただろ?」
「は?」
私は、改めてまじまじとその男子の顔を見つめた。……昨日? 確かに昨日は、上坂と一緒に美容室いって映画見て買い物とかしてたけど、どこかで見られたのかな。
でも、なんでこんな風に声かけられるんだろう。
私が戸惑っているのがわかったんだろう。その男子は笑いながら付け加えた。
「これなら、わかる?」
言いながらその男子は、自分の前髪を片手で全部あげてみせた。
「あっ!」
美容室を出て、上坂ともめているときに会った男子三人組のうちの一人だ!
「やっぱり。っていうかさ、俺、よくここで一緒に講習受けてるんだけど、憶えてない?」
「ええと、なんとなく……」
「さすがに昨日はイメージが全然違うからわからなかったけど、今日君を見て、あれ、と思ったんだ。ずいぶん、変わるものだね」
「それはこちらのセリフです」
人のこと言えない。この人だって、昨日は茶髪のオールバックだった。けど、今目の前にいる彼は、有名予備校に通う賢そうな爽やかイケメン。清潔そうなサラサラヘアは綺麗な黒髪だった。どっちの色が、本当の髪の色なんだろう。
「蓮と一緒にいたってことは、君、もしかして鷹高?」
「はい。……あの」
「あ、失礼」
畳み掛けるように話しかけられて答えを躊躇する私に、彼は爽やかに笑った。
「俺は、岡崎圭介。鈴ヶ丘だよ」
「梶原美希です。鈴ヶ丘なんですか」
私は、わずかに目を見開いた。
鈴ヶ丘といえば、ここらへんじゃ、一番の進学校だ。うちも一応進学校ではあるけれど、文武両道をモットーに遠足だの文化祭だの、勉強とは関係ないとこまで一生懸命楽しむ校風がある。
対して鈴ヶ丘は、今年は何人東大に入った六大学に入ったを自慢するばりばりのエリート校で、とにかく勉強第一の、よく言えば優秀な、悪く言えばお高くとまった学校だ。
あんな真面目な学校でも、チャラい男はいるもんだなあ。
「駅まで、一緒していい?」
岡崎さんは、さっきまで話していた女子たちに手を振りながら私をドアへと促す。
「……いいんですか?」
「何が?」
部屋を出る時振り返ったら、女子たちの鋭い視線と目があってしまった。
なんか最近、こういう場面によく遭うわ。大変不本意。
「彼女たち、置いてきちゃって。私、睨まれてましたけど」
「気にしなくてもいいよ。どうせ学校行けば嫌でも顔合わせるし。梶原さんと話せる機会の方が、貴重。前から美人だな、と思って気になっていたんだよね」
「私、パンダと同じ扱いですか」
淡々と言ったら、一瞬だけ岡崎さんは目を丸くして、それから笑い出した。
「蓮の相手にしちゃ珍しいタイプだと思ったけど、なるほど、こういう人なんだ」
「まあ、上坂と釣り合うタイプじゃないです」
「それ、自分で言っちゃう? 君、蓮の彼女じゃないの?」
「一応、今のとこは彼女らしいです」
「いやに不確定な要素ばかり並んだ関係だね」
「そうですね」
岡崎さんは、目を細めてくすくすと笑っている。私たちは、エレベーターを使わずに階段を下りた。さっきの女子達と鉢合わせして、ぎすぎすと睨まれるのは避けたい。同じように思ったのか、岡崎さんも何も言わずに一緒に階段を下り始めた。
「あの教室で模試受けてたってことは、君も理系?」
「薬学部志望なんです」
「薬剤師? 実家が、医者とか」
「そうではないですけど……母が看護師なんです」
「ふうん。うち、実家が総合病院でさ、俺、医大目指しているんだ」
「お医者さんですか。大変ですね」
階段を下りながら適当に相槌を打ったら、岡崎さんは苦笑した。
「梶原さんさ」
「はい」
「もっとこう……俺とお近づきになりたい、とか思わない?」
「はい? 何でです?」
「だって、これだけのイケメンだよ? それで一流高校を出て医者志望の病院跡取りとか言ったら、たいていの女の子は俺に興味を持ってくれるんだけど」
「それは失礼しました。きゃあ素敵、とか言った方がよかったですか?」
ついに岡崎さんは吹き出してしまった。
「ホント、梶原さんておもしろい……蓮が気に入るのわかるなあ。そんなに蓮の事好きなの?」
「なんでそうなるんですか?」
「だって、心が動かないほど好きな男がいるから、俺に興味がないんだろ?」
「たいした自信ですね」
「それだけの努力をしていると自負しているからね」
「口だけじゃないところは、嫌いじゃないです」
模試、朝から全部受けてたみたいだし、この人もセンター受けるんだろう。試験が終わって余裕な顔していられるのは、よほど出来がよかったか、結果なんてどうでもいいかのどちらかだ。ひやかしで受けてるんじゃないんだったら、きっと前者だろう。
あと、きっとこの人も上坂と同じで、自分が女性を引き付ける魅力があるって自覚している人だ。学校と遊びをきっちり使い分けることができるあたり、人生失敗しないタイプ。
とん、と最後の階段をリズミカルに降りると、岡崎さんは私の行く先を遮るように目の前に立った。あらためて同じフロアに立つと、上坂と同じくらい背が高い。
「この後、時間ある?」
「お茶しない? とかいう使い古されたセリフを吐いたらバカにしますよ?」
「今日の試験の解答と問題の傾向について、ぜひ君と議論をしたいんだけど」
「……」
それは、少し心惹かれるお誘いだった。さっきの数2の問いで、一つだけ気になる問題があったし。
でも。
「それに、蓮の話、聞きたくない?」
「上坂の?」
「俺、結構蓮とはつきあい長いんだ。家同士のつきあいがあってね。いわゆる、幼なじみってやつ。彼女なら知ってるだろ? あいつの家の事。だからあいつ、高校入るまでは俺と同じで、一応優等生で通ってた。その分、裏では……そんな話、聞きたくない?」
「すごく、興味あります」
「なら……」
「でも、それはあなたから聞くべき話ではありません」
私が言うと、岡崎さんは軽く目を見開いた。
「必要があれば、きっと上坂が話してくれます。そうでなければ、私には必要のない話なのでしょう。どちらにしても、面白おかしく他人から聞かされる話ではないと思います」
岡崎さんは、笑みの消えた顔で私を見下ろしている。
と。
バンッ!!
急に大きな音がして、私はびくりと肩をすくめた。岡崎さんと二人で音のした方を振り向くと、ガラスの壁の向こうに、なぜか息を切らした上坂が立っている。どうやら、今の音は上坂が思い切りそのガラスを叩いた音らしかった。
「上坂? どうしたの?」
入口を回って中に入ってきた上坂は、ぜいぜいと息を整える。
「そろそろ終わる頃だと思って迎えに来たけど……圭?」
「よ。昨日ぶり」
「なんでお前がここにいるんだよ」
「美希ちゃんと一緒に、模試受けてたんだよ。俺たち、同じ予備校だったらしい」
妙ににやにやしながら言った岡崎さんにへえ、とだけ答えると、上坂は不機嫌そうに私の手を取った。
「帰るよ、美希」
「おいおい、俺も今、彼女を誘っていたんだけど?」
「言っただろ。コイツはだめ」
「蓮も一緒でいいよ。せっかく模試も終わったんだし、これからどっかで遊ばない?」
「美希は、そういう女じゃないから」
「だから、俺と一緒にいるのを見て、あわてて走ってきた?」
え?
私は、暗くなった外に視線を向けた。
私たちがいたのは、一階のロビー。ガラス張りだから、外からは話している私たちの姿が丸見えになっていただろう。
走ってきたから、息切らしていたんだ。でも……なんで?
「とにかく」
上坂は、きつい視線で岡崎さんを見返した。
「絶対、コイツには手を出すな」
「蓮、本気なんだ?」
岡崎さんは、平然と上坂の視線を受け止めている。
「でもさあ、そんなつまんなそうな子、蓮のタイプじゃないだろ。俺はどっちかって言うと、こないだの、真奈美だっけ? ああいう甘え上手な……」
「余計な口出すなよ」
岡崎さんの言葉を途中で止めると、上坂は、じゃあな、と言って私を連れて歩き始めた。
「またね、美希ちゃん」
笑顔で手をふる岡崎さんに、私は軽く会釈を返す。不機嫌な上坂と違って、岡崎さんは楽しそうな顔で私たちを見送っていた。
「ねえ」
「ん?」
「なんで青石さんと別れちゃったの?」
上坂に握られたままの私の手を見ながら、聞いてみる。
「なに、急に?」
「だって、岡崎さんも言ってたじゃない。どう見たって、私って上坂のタイプじゃないもの。青石さんの方が上坂の雰囲気に合ってるし……私よりよっぽどお似合いだと思うの」
自分で言うのもなんだけど、もし、私と青石さん、どっちが上坂に似合っているかと聞かれたら、迷わずに青石さんって答える。
「……似合っていたからだよ」
「は?」
「今の俺に似合っていたから、ダメだった。だから、逆に美希は……似合わなくて、ヤバイ……」
「なによ、それ」
「それより」
くるり、と上坂が振り向く。なんだか、怒っているような顔。
「また一緒になっても、あれには気をつけろよ?」
「あれ?」
「圭だよ。岡崎圭介」
「ああ、岡崎さん。なんで?」
「あれは、危険な男だ。あんな顔して、手あたり次第女に手を出すやつだぞ? 遊びだとお互い承知の上なら口出すことじゃないけど……お前はそういうことする女じゃないだろ? だから、うっかり気を許すんじゃないぞ」
「その基準で気を付けろっていうなら、今私の手を引っ張っている男が一番危険な男だけど」
「俺はいいんだよ。美希の彼氏だから」
「彼氏と危険な男が同じ属性ね。私って、そんなに軽く見られてたんだ」
からかうように言ったら、上坂が無言になった。そのまま、じ、と私の顔を見つめている。
「上坂?」
怒ったのかな?
けれどしばらくそうしていたあと、上坂は、目をそらして思い切り大きなため息をついた。
「どうしたのよ?」
「…………………………何でもない」
そうして私の方を向かないまま私の手を取ると、今度はがっちりと指を絡めてつないだ。
「遅いし、送るよ」
「? うん」
なんだろう。
めずらしく無口な上坂と、私は駅へと向かった。
「ん」
週明けの月曜日。いつもと同じように屋上でお弁当を渡したら、上坂がかわりに、ずい、と紙袋を差し出してきた。
「あげる」
なぜか上坂は、少し赤い顔をしてそっぽを向いている。
不思議に思いながら受け取ってその中をのぞきこむと、なにかかたまりが入っていた。取り出してみると、それはラップでくるんだ二つのおにぎりだった。
「どしたの、これ」
「美希がやってみれば、っていうから、作ってみた」
「は?」
言われて改めてそのおにぎりへと視線を落とす。
きちんとのりで巻いたそれは、きれいな三角形をしていた。
まさか……
「上坂が作ったの? これ」
「まあ……」
「食べて、いいの?」
「うん」
「いただきます」
私は、巻いてあるラップをとって、一口かじってみる。ちらちらと、上坂が私を見ていた。
「ど?」
「……上坂」
もごもごと口にご飯を入れたまま、お行儀悪く私は呟く。
「握る時に、力入れすぎ」
持った時に、大きさのわりに重いのが気になったよね。どれだけ力一杯握ったのよ。
「え? だっておにぎりって、握るんでしょ?」
「そうだけど……もっとふわりと仕上げないと……ご飯がつぶれちゃってるじゃない」
「えー……そっかあ……」
がくりと肩を落としてしまった上坂に、私はさらに続ける。
「でも、形はすごく綺麗だわ。塩加減もばっちり。味は悪くないわよ、これ」
「ホント?」
とたんに、ぱっと上坂は笑顔になった。
「ホント。美味しい」
「っしゃ! やったね!」
両手をにぎって、上坂は全身で喜びを表す。
器用そうだなと思った手は、やっぱり器用だったらしい。握力はともかく、そのおにぎりはきれいな三角形をしていた。はじめのうちは、なかなかこんな風には綺麗な三角形にはならないんだけど。
もう一口かじりながら、お弁当を開け始めた上坂に言った。
「自分で、作ってみたんだ」
「うん、俺、料理なんてやったの初めて。あ、今日はミートボールだ。やったね」
おにぎりを料理と言っていいのかは微妙なとこだけど、初めてならそんなものかしらね。
「怒られなかった?」
上坂の家は、男子厨房に入らず、の厳しい家だって言ってたから、下手に台所になんか上坂がいたら怒られるんじゃないだろうか。
「親父はいなかったし、母さんは驚いた顔してたけど何も言わなかったな。花村さんに、塩とかのりとか教えてもらった」
「花村さん?」
「家政婦さん。俺が生まれた時からうちにいるばあちゃんだよ」
「そうなんだ」
初めてにしては塩加減が絶妙だと思ったら、家政婦さんに教えてもらったのか。どうりで美味しいと思った。あ、中身、こんぶだ。
「俺にもさ、できるんだ」
ぽつり、と私のお弁当を見ながら上坂が呟いた。
「ん?」
「俺、今まで料理なんて、女がやるものだって思ってた。最近は男もそういうのやるらしいってのはもちろん知ってるけど、結局、それを知ってても、俺の中で料理ってのは他人事だったんだ。……やってみれば、普通にできるもんなんだな」
「……美味しいよ。このおにぎり」
もう一度言ったら、顔をあげた上坂が、にこりと笑った。
「作ってる間さ、美希がこれ食べたら、なんて言うかなって思って、妙にドキドキした」
「え?」
「一番初めにここで昼食べた時、俺が卵焼き美味いって言ったら、美希がすごくいい顔したんだよね。だから、美希が俺の作ったおにぎり食べてくれて、そんで美味しいって言ってくれたら、俺もそんな顔になるのかなって」
ど、どんな顔してたの。私。
上坂は、いただきまーすと手を合わせると、早速お弁当を食べ始めた。
「これ、かわいいな。どうやって作るの?」
「人参の真ん中を型抜きで抜いて、同じ型抜きで抜いたチーズをはめたの」
「あー、なるほど。聞いてみる分には簡単だけど、俺にもできるかなあ」
「作ってみたいの?」
次々におかずを口に運びながら、上坂は笑った。
「今度は、ちゃんと弁当に挑戦してみようと思って」
「甘いわね。素人がいきなりこのレベルにたどりつくなんて、思わない方がいいわよ」
私だって、散々卵焼き失敗してきたんだから。
「ふふふ、俺の手先の器用さをなめんなよ。俺はやればできる子なんだ」
「せいぜい、失敗するように祈っているわ」
「失敗かよ! そこは成功するように祈ってよ!」
「だって、料理なんて失敗してなんぼでしょ。そうやって少しづつ覚えていくものなのよ」
「でもできれば成功したい……食べるのは美希なんだし」
「私? なんで?」
一瞬なぜか言葉を詰まらせた後、上坂はにやりと笑った。
「だって、美希って丈夫そうだし。何食べても、腹壊しそうにないじゃん」
「まずかったら一口も食べてやらない」
べ、と舌を出した時、上坂のスマホが鳴った。けれど、それをちらりと見ただけで、上坂は電話に出なかった。
「鳴ってるよ?」
「うん」
そのまま、お弁当を食べ続ける。その様子に、私は首をかしげた。
「いいの?」
言ってるうちに、電話は切れてしまった。上坂はようやくスマホをとると、そのまま電源を落としてしまう。
「ごめん。うるさかった?」
「そんなことないけど……出ても、いいよ?」
というか、今まで誰から電話がかかってこようが、私なんか気にせず出てたでしょうが。
「いいんだ」
「……はあ」
☆
「普通、デート中にかかってきた電話に出ないって言ったら、浮気相手からの電話って相場は決まってるんだけど」
のんびりと冴子が、頭上をとんでいくボールを見ながら言った。
五時間目の体育は、バレーボール。うらうらとした陽気に誘われて眠いのか、みんなまったりとボールを追っている。
「そんなの、今さらだよねえ。あいつ、女遊び激しいこと隠す気もなかったみたいだし、実際呼び出されてそのまま遊びに行っちゃったこともあったし」
じゃなければ、よほど嫌な相手とか。あ、もしかして、誰かおうちの関係の人かな。こないだ会った秘書さんとは、あまりいい雰囲気じゃなさそうだった。
「それかさ」
頭の上に来たボールを、冴子は軽く当てて相手コートに戻した。勝負を決めようというよりは、のんびりラリーを続けようというスタンスの試合だ。あっちのコートでも、ぽーんぽーんと軽やかにボールが上がっている。
「美希と一緒の時間を邪魔されたくなかったんじゃない?」
「へ?」
「あいつ、思ったより美希の事本気なのかも」
独り言のようにつぶやく冴子に、ぶんぶんと首を振った。
「それこそ、ないない」
「そうかなあ……まあ確かに美希って、上坂にしてみれば今までにないタイプだよね。一体美希の何が気に入ったんだろう」
「それはこっちが聞きたいよ」
私が眉をしかめると、ホイッスルの音がした。授業終了までまだあるけど、どうやらやる気のないのは先生も同じようだった。
と思ったら、次の授業の邪魔になるので、バレーで使ったネットをしまう時間が必要だったらしい。私たちが片付けるのか、これ。
「もし、上坂が本気だったら、あんたどうする?」
ポールからネットを外していると、冴子がぼそりと言った。
「ないって、そんなこと」
「あいつ、うまそうだし、初めてでも痛くないかもよ?」
「そういう問題? 私は、誰でもいいわけじゃないわよ」
笑いながら、外れかけたネットをまとめるために歩き出した時だった。
「美希!!」
「え? ……きゃ!」
冴子の切羽詰まった声が聞こえた瞬間、何かを踏んでしまってバランスを崩す。仰向けに倒れていく私の上に、太いポールが迫ってくるのがスローモーションのように目に入った。
あー、私の持ってたネットに引っ張られちゃったんだー……
あとで考えれば、そっちじゃなくて、まずは床に手をつけばよかったんだ。けれどその時の私は、目の前に迫ってくるそれを受け止めようと手を伸ばしてしまった。次の瞬間、後頭部に強い衝撃をうけて、そのあとのことは、憶えていない。
☆
目を開けたら、世界が白かった。
「美希?」
ぼんやりとした白い視界の中に、笑っていない上坂がいた。そんな表情の上坂は……ああ、そうだ。東京タワーで、見たことあるなあ。学校では見たことない。
ということは、これあの時の夢なのかなあ。
「気がついた? 頭、痛くない?」
「……頭?」
「お前、思い切り頭打ったんだよ。それでそのまま気を失って……」
「お弁当……」
「は?」
「お弁当、食べてて……」
「美希?」
不審そうな上坂の声が、ずいぶん遠くで聞こえる。
ふわふわと……なんだか、みんな遠い。
「上坂が、ぐちゃぐちゃになったお弁当、食べたいって言ってくれて……」
「……うん」
「卵焼き美味しいって、言ってくれて……」
「うん」
「そんな風に褒められたのが、初めてで……」
「うん」
「……私、多分、嬉しかったの……」
「……うん」
なんだか笑うのに失敗したような顔の上坂。きれいだなあ、なんてぼんやり考えていたら、その手が、私の額にそっと触れた。
途端に、激しく頭が痛んで、反射的に身体を丸める。
「いたたたたたた!」
「美希?!」
痛みで、はっきりと目が覚めた。
顔をあげると、焦ったような顔の上坂が私を覗き込んでいる。
「俺のこと、わかるか?」
「あれ? 上坂? なんでここに……ここは?」
私は、ベッドに寝ていた。匂いからして、私がいるのは多分、保健室。
「起きた?」
カーテンを開けて、養護の丸山先生が顔を出した。声で丸山先生だ、ってことがわかったけど、ぼんやりと白い塊が見えるだけ。
あ、私、めがねかけてない。
「せんせー、頭、痛いぃ……」
うう、がんがんとひどく頭痛がする。
あー……そうだ。
バレーの片付けしてて、こけて……なんかあちこちに衝撃をうけて……あのまま、気絶しちゃったのか。
だからだろう。私は、運動着のままベッドに寝ていた。
「バレーのボールに足を取られて転んで、後頭部をひどく打ち付けたのよ。一時的に失神してたみたいだけど、気分はどう?」
「痛いです」
「生きてる証拠ね。一応、これから病院に行って検査してもらうわ。起きられる?」
「病院……そんなにひどいんですか?」
「打ったのが頭だから、念のため調べてもらいましょう。今度から転ぶときは、まず頭をかばいなさい。おかげで鼻は大丈夫だったみたいだけど。あなた、ポールを抱きしめて倒れてたらしいわよ」
「私……受験、もうだめかも……」
「それを調べに行くんでしょ。起きる時は、無理しないようにゆっくりとね。眩暈がしたり吐き気がしたら、無理して動かないように」
「はい……」
「先生、俺も一緒に行っていい?」
私が身体を起こすのを手伝ってくれながら、上坂が言った。めがねを渡してくれて、ようやくあたりがはっきりと見える。
「上坂、授業は?」
「自主休講です」
「あっそ。まあ、いいわ。男手あった方が助かるかもしれないし。吐き気は、する?」
「ええと……今のとこないです」
でも、頭がすごい痛い。鼻もこれ以上低くなったら困るけど、頭もできれば大事にしたかった……
「病院て、どこですか?」
「樺澤に連絡いれてあるわ」
樺澤かー……いるかな。今日、帰り早いって言ってたから、もう帰っちゃったかな。
私は、上坂と先生に支えられながら、学校を後にした。
☆
「美希!」
病院につくなり、血相変えたママが駆け寄ってきた。
「原先生から頭打ったって連絡をもらったけど……大丈夫なの?」
「うん、多分。ママ、お仕事は?」
「ちょうどあがったところに電話もらったのよ。こっちに来るって言われたから、待っていたわ」
ああ。そっか。ママがこの病院の看護師でなくても、保護者のところには連絡が行くよね。
「お母様でいらっしゃいますか。養護の丸山と申します。このたびはお嬢様にお怪我をさせてしまい、大変申し訳ありませんでした。後ほど、担任の原もまいります」
深々と、丸山先生が頭を下げた。
「いえ、すぐに対応していただいてありがとうございました。それより、CTの用意をしてありますので、こちらへどうぞ」
その様子に、丸山先生がわずかに目を見張る。
「あの……?」
「私、ここで看護師をしているんです。ご案内します」
「まあ、そうなんですか。原からは何も聞いておりませんでしたので……では、よろしくお願いいたします」
そのあと私はすぐにCTをとられ、ママと先生たちが画像診断の結果を聞く間、控室でベッドへと寝かされていた。
「気持ち悪くなったら、すぐ言えよ」
上坂は、ずっと私についていてくれた。
「ありがと」
「横向いてた方が楽?」
「気持ち悪いわけじゃないの。後ろ頭痛くて、上向けないだけ」
「ああ……でっかいたんこぶできてるもんなあ」
CT取ってる間は我慢して上向いていたけど、今は横になっている。これでばかになったら、本気でどうしよう。公式の一つとか歴史の年号とか忘れてそう。
「バレーボール踏みつけて転ぶなんて、私そんなにドジなつもりなかったんだけど。このままじゃ、受験が思いやられるわ」
「違う」
重い空気を笑い飛ばそうとした私に、上坂は顔を引き締めて呟いた。
「違うんだ……」
「何が?」
「美希が転んだボール……意図的にお前を転ばせようと、足元に転がされたものなんだって。小野さんが言ってた」
「……え……?」
「やったのは、恵美だって」
恵美……玉木恵美。
「無様に転べばいい、くらいの軽い気持ちだったそうだ。こんな大事になると思ってなかったって、本人たちも青ざめていた」
「たち、なんだ」
は、と上坂が顔を上げた。私は、目を閉じる。
実際にボールを転がしたのは玉木さんだったとしても、けしかけたのは青石さんかもしれない。どちらにしても、私を狙ったことには変わりない。
理由なんて、わかってる。
私が、今、上坂の彼女であるから。
「……ごめん」
「上坂のせいじゃないよ」
「でも……」
私が目をあけると、見たこともないほど真剣な目をした上坂がいた。その上坂に、私は、ふ、と笑ってみせる。
「らしくないよ、そんな顔。いつもみたいに、笑ってよ」
手を伸ばしたら、その手を上坂が握った。
「さすがの俺も、こんな時に笑えない」
「こんな時だから、笑うんじゃない。ほら、私、大丈夫だったでしょ?」
「美希……」
「上坂のせいじゃない」
私は、もう一度言った。
「条件付きだろうとなんだろうと、上坂の彼女でいることを選んだのは、私だもん。謝らないで。私の選択を、上坂が否定しないで」
「……うん」
ようやく、上坂は微笑みらしきものを作ってくれた。そうして、私の手を自分の頬に沿えると、自嘲するようにため息を漏らす。
「美希は、強いな」
「そう?」
「うん。強いし……俺より、よっぽどでかい」
「強いはともかく、でかいってなによ」
「負けた、ってことだよ」
「あら、私、勝ったの? やったね」
ふたりでくすくすと笑っていると、カーテンをあけてママが顔を出した。
「美希、具合どう?」
上坂が、あわてて手を離して立ち上がる。
「今は平気。どうだった?」
「ん、どこも異常なしよ。でも、まだ頭を打って半日経ってないから、大事をとってこのまま一晩入院することになったわ。今病室を用意しているから、もう少しここで待っていて」
「入院? やだなあ」
「寝てるだけであっという間に一晩くらいたっちゃうわよ。ここ、ご飯美味しいのよ?」
「はあい。先生は?」
「学校への報告書を持って、丸山先生と原先生は帰られたわ。お二人とも心配なさってたから、学校行ったら経過報告がてら保健室にも顔を出してね」
「うん」
それからママは、気をつけの姿勢で立っていた上坂に向き直った。
「上坂君? 君も、今日はありがとうね」
「あ、俺……」
「ありがと、上坂」
上坂が何か言うより前に、私は言葉を被せた。
「たまたま保健室にいたからって、丸山先生に手伝わされることになったのは運が悪かったわね。もう大丈夫だから。遅くまでつきあわせて、ごめんね」
まくし立てるように言った私を、上坂は目を見開いて見ていた。そして、きつく唇を引き結ぶと、失礼します、と一度頭をさげて出て行った。
「いいの?」
「何が?」
上坂の帰った後姿を見送って、ママが言った。
「あの子、美希の彼氏じゃないの?」
「違うわよ。たまたま、保健室にいただけ。あんななりしてお人よしだから、か弱い女子をほっておけなかったみたい。それだけ」
私は、そう言うと、もう一度目を閉じた。
ごめんね、上坂。でも、上坂が彼氏なのは……私が彼女でいられるのは、今だけだから。そんな機会ないだろうけど、もし万が一この先ママが上坂と会うことがあっても……その時の私たちは、もう、他人だから。
転んだせいかな。あちこちが……痛い。
☆
「美希、入るよ」
次の日。昼前に退院した私が自宅の部屋で寝ていると、学校終わった冴子がお見舞いに来てくれた。
「頭、大丈夫?」
「まだ少し痛むけど、大丈夫」
「ワタシ、ダレダカワカリマスカ?」
「鷹高クールビューティーで英語教師と付き合っている小野冴子さんです」
「あんたそれ、人前で言ったら息の根とめるわよ」
涼しい顔で言って、冴子はベッドの近くに座り込んだ。私が起きようとすると、わずかに顔をしかめる。
「起きて平気?」
「うん。検査結果もなんともなかったし、大事を取っていただけだもん。明日は、学校行くよ」
「さすがに、青石さんたちもこりただろうから、もう手出しするようなことはないと思うよ」
冗談のつもりだったんだろうなあ。私は、軽く笑ってみせる。
「そうよね。向こうもびっくりしたでしょうし、せいぜい次はまた靴を隠すくらいよ。それより、気を失うって、あんな感じなのね。めったにない経験をしたわ」
「ばか。下手すれば命にかかわるとこだったんだから。……じゃなくて、上坂が」
「上坂? どうかしたの?」
「昨日、うちの騒ぎを聞きつけたらしくて、休み時間に様子を見に来たの。そこで美希が倒れたことと一緒に、私がつい、玉木さんのことまで話したものだから……ものすごく、怒ってたみたい」
「上坂が……怒ったの?」
普段へらへらしてるから、あいつが怒ったとこなんて想像もつかない。
そういえば、昨日病院から帰った後、上坂からは何も連絡はなかった。帰る時の思いつめたような顔が気になるけれど、その理由を確かめるのもなんか怖い気がして、結局、私からも連絡はしていなかった。
「怒鳴ったりしたわけじゃないの。ただ、無言で思い切り壁叩いてへこましちゃった。その時、玉木さんを睨んだあいつの迫力ったら、クラス中が静まり返ったわよ。上坂のあんな顔、多分、誰も見たことがないんじゃないかな、ってくう達と話してたの。美希がまだ意識を取り戻す前の話だから、こっちも少し動揺してたし」
「あんたでも動揺することがあるんだ」
怒った上坂に、動揺する冴子。どっちも、私は見たことがない。
それほど、心配させちゃったのね。
「ごめんなさい」
「うむ。罰として、さっさと元気になること。今日のノートは、明日見せるから」
「今日じゃなくて?」
「今日はまだ、勉強なんかしないで寝てなよ。なにせ、怪我したのが受験生の最大の武器なんだから」
「来年、大学生になれるかなあ」
「受験に落ちたってせいぜい浪人するだけよ。死にゃしないわ」
そう言うと、冴子は立ち上がった。
「とりあえず元気そうな顔見たから、帰るね」
「ありがとね。また明日」
ひらひらと手を振って、冴子は帰っていった。
私は、いい加減寝てるのも飽きたので、そのまま起きだす。
上坂が、怒ったんだ。……私のために怒ってくれたんだ。
「あら、美希。起きていいの?」
キッチンをのぞくと、ママが夕飯を作っていた。今日はシフトを交代してもらったと言って、私と一緒にお昼に帰ってきていたのだ。
「これ以上寝てたら、おしりに根が生えそうよ。リハビリ、リハビリ」
言いながら私は手を洗って、ママの手伝いを始めた。
☆
「おはよう」
次の日、クラスに入ると、ざ、とクラスメイトが私に注目した。
「美希ちゃん、大丈夫なの?」
「梶原、頭は?」
わらわらとみんなが集まってくる。
「大丈夫よ。ありがと」
一通り声をかけてくれた友達と話をして、自分の席についた。視線を感じて顔をあげると、青石さんと玉木さんがこっちを見ている。私が顔をあげたとたん、気まずそうに視線を逸らされてしまったけど。
気にしてるんだろうな。かといって、こっちから声かけるのも変だし。
「上坂、何か言ってた?」
冴子が、私の席まで来て聞いた。
「ううん、それが、今朝は会ってないの」
今朝は、家を出ても上坂はいなかった。別に待ち合わせしてるわけではないから、いないな、と思っただけで学校来ちゃったけど、携帯を見ても連絡も来ていない。
実はおとといからずっと、上坂からの連絡はなかった。
手元の携帯を、じ、と見つめる。
そういえば、私から連絡とったことってないな。………………一応、彼女なんだから、こっちから連絡してもいいのかな。でも、なんて言えばいいんだろう。
しばらく悩んだけれど、結局私はそのまま携帯の電源を落としてカバンの中にしまってしまった。
ま、いいや。そのうち、なんか言ってくるだろう。
けれど、お昼になっても上坂は現れず……その日から上坂は、姿を消してしまった。