あの月が丸くなるまで

「ここ、親父と喧嘩するたびに、よく来るんだ」

「彼女連れて?」

「女連れなら、こんなとこ来ねえよ。だいたい女って、こんなとこよりヴィーナスフォートとか夢の国とかの方が好きじゃん」

「こんなとことは失礼ね。あんたより、ずーっと前から人の役に立っている立派なタワーよ。電波塔としての役目を終えたからって、この存在感はたいしたもんじゃない」

 真面目に言ったら、上坂が声をあげて笑った。そうして、私との間の距離を縮めて、肩を寄せる。




「ね、俺、美希の彼氏だよね?」

「……今のところは」

「キスしていい?」

「だめ」

「いいじゃん」

「だーめ」

「ちぇー。ちょっとはさあ、この雰囲気に流されてみようとは思わない?」

「全然。言ったでしょ? 好きでもない人と、キスなんかするもんじゃないって」

「俺、美希のこと好きだよ? だから、心だけじゃなくて、身体も美希とつながりたい」

 はずみで口をついたさっきの言葉を持ち出されて、か、と私の頬が熱くなる。黙ってしまった私に、上坂は、ここへ来たときとはうってかわって楽しそうな顔で言った。




「あのさ」

「何よ」

「美希は、ちゃんと俺に返せるもの、持ってるよ」

 耳元でささやかれた声に、どきりと胸が鳴った。

 返せるって、まさか……

「それ、ちょうだい」

 けれど、予想に反して上坂が指さしたのは、私が手にしてたランチバックだった。この暑さの中でコインロッカーに入れといたら悪くなっちゃうと思って、お財布をこっちに移してずっと持ち歩いていたのだ。




「多少見た目が悪くたって、まだ食えるって」

「見た目って……上坂、見てたの?」

 目を丸くした私に、上坂はやんわりと微笑む。

「だめだよ。こんなの……」

 私はあわててそれを背中に隠す。

 保冷材を入れてあるから食べるのに支障はないけれど……人にあげられるようなものじゃない。




「やっぱさ、一日一回美希の料理食べないと、調子悪くて」

「せ、製作者として、不出来なものを食べさせるわけには……」

「出来が悪くても、愛がこもっていれば美味しいって言ってたじゃん」

「な……愛なんて、これっぽっちだって入ってないんだから!」

「はいはい。それ、俺以外の人間が食べるの禁止な」

 笑いながら言った上坂に、ふと、気付く。

 もしかして……服を買ってくれたり食事に連れてってくれたのは、あの場面を見てたから……? 

 あの時、うっかり泣きそうになった私の事、上坂なりに慰めてくれた……?




「……上坂」

「ん?」

「あの……お金はちゃんと払うけど……このワンピース、ありがと」

 頬が熱くなって、少しだけ上坂から視線をはずす。

「こんなかわいい服、着たことなくて……すごく、素敵。似合うって言ってもらえて、嬉しかったわ。ありがとう」

 黙ったままの上坂が、どんな顔していたのかわからない。しばらくして、上坂が笑い声混じりのため息を吐くのが聞こえた。

「どういたしまして」




 それから、上坂は何かをふりきるように勢いよく伸びをした。

「よーし! あと、二週間。張り切って口説くぞー!」

「……ホント、物好き」

 私は苦笑しながら、肩を抱こうとした上坂の手をパシリと叩き落とした。
  ☆




「何、着て行こうかな……」

 週末、金曜日。授業の合間の休み時間に、私はぼーっと窓から外を見ていた。無意識のうちに口に出していたらしく、それと耳ざとく聞きつけた冴子が反応する。




「もしかして、明日のデートの服?」

「デートって……デートだけど……」

 それを認めるのはなんか悔しい気がするし、そのために服装を考えていたなんて知られるのは、もっと悔しい。

「珍しいわね。美希が服装のことで悩むなんて」

「そう?」

「少なくとも、私と遊びに行くときにスカートはいてきたことはないわね。いい傾向よ」

「別に、スカートはいてくって決めたわけじゃないけど……」

「はいてけ、はいてけ。その細い脚、若いうちに見せておけ」

「冴子、発言が親父っぽい」

 笑いながら視線を戻すと、校庭に次の時間が体育らしいクラスがわらわらと出てきた。

「あ」

 うっかりあげてしまった私の声で、冴子も気づいた。

「五組、次体育なんだ」 

 体操服の集団の中に、上坂を見つけてしまった。同時に、上坂も私に気づく。




 やつは、少しだけ微笑むと、私に向かって片手をあげた。それを見ていた周りの男子にからかわれたらしく、みんなで小突き合いながら笑っている。そんな風にじゃれる様子は、こっちから見ていても微笑ましい。

 相変わらずだなあ。




「ずいぶんと仲良くなったじゃない」

「そうでもないわよ」

「じゃあその手は何よ」

 軽く振り返した私の手を、冴子がじーっと見つめている。

 まあ、一応手くらいは降り返してやっても、いいかなー、って……そんなたいした意味はないわよ。ないわよ。

 口に出したら言葉通りじゃない感情がにじんでしまいそうで、私は黙ったままだった。

「調子に乗っていると、裏切られるのはあなたの方よ」

 ふいに冷たい声が背後からかけられた。振り返ると、薄く笑った青石さんだった。ちょうど、席に戻るとこらしい。




「どういう意味?」

「そのまんまの意味よ」

「上坂のイマカノに妬いてんの?」

 冴子がよこやりを入れると、青石さんは、む、とした顔になる。

「忠告しただけよ。せいぜいその優秀な頭で考えてみたら? 蓮が、あんたなんかに本気になるはずないってこと。どうせ他の女みたいに、すぐに飽きて捨てられるだけよ」

「ふーん」

 ま、私もそうは思うけど。




 そうだよね。上坂が女とつき合う時って、いつもそんな感じ。青石さんだって、きっとそうやって上坂とつきあって、別れてきたんだろう。




 青石さんは、今でも上坂のこと好きなんだろうな。どれほど私が恋愛にうとくても、それくらいはわかる。

 今、どんな、気持ちなんだろう。




 私の反応が薄かったせいか、それ以上何も言わず、青石さんは私に背を向けて、席へと歩いていった。そこで、今のやり取りを見ていたらしい玉木さんと何か話をして、二人してこっちを見てくすくすと笑っている。




「どういうんだろうね、あれ」

 呆れたように、冴子が言った。

「ぼちぼち、私も身の回りに気をつけた方がいいかな」

「そうね。あんた意外にドジなとこあるから」

「そんな風に言ってくれるのは、あんただけよ」

「学年トップの頭脳を持った才女が、実はおしゃれに興味のないドジっこだったって?」

「そこまでひどくない。……と思う」

 ちょうどその時チャイムが鳴って、私たちは笑いながら席へと戻った。




 明日は、新月。
 土曜日の朝。

 なんとなく落ち着かない気持ちのまま家の前で待っていると、約束の時間ぴったりに、上坂は角を曲がって現れた。

「美希、おはよ! 待っててくれたの? わー、ミニスカートだ、かわいい!」

 私の姿を見つけると、上坂は、ぱ、と顔を輝かせた。

「おはよ。制服だって、ミニスカートじゃない。そんな珍しいもんじゃないわよ」




 何着て行こうか迷ってクローゼットをひっくり返しているところを莉奈さんに見つかった。そして、私は着ないから、と言って持ってきてくれたのがこのブルーのミニスカート。一目ぼれして買ったんだけど、拓兄にミニスカートを禁止にされたそうで……莉奈さんの足を他の男に見せたくないって、どんだけ独占欲が強いの、兄貴。




「それとこれとは別! 美希の足って、ホントきれいだよねー……で、なんで、そんな顔してんの? どっか具合悪い?」

 おそらく仏頂面になっているだろう私の顔を覗き込む。

 だって……力入れてないと、頬がにやける。

 かわいい、なんて言われて舞い上がっているようじゃ、私もまだまだ修行不足。

「別に」

 それだけ言うと、私はさっさと歩き始めた。いつまでも自分ちの前でぐだぐだしてて誰かに見つかるのは避けたい。莉奈さんあたりは、どっかで見ているだろうけど。




「今日は、髪しばってないんだ」

 隣に並んだ上坂が、私の髪に目を止める。

 学校へ行くときは、長い髪を一つにまとめている。一応校則では長髪はゴムでとめるようになっているけれど、それほど厳しい規則じゃないから、冴子みたいに縛っていない子も多い。私が律儀に一つまとめにしているのは、授業中に邪魔だからだ。

 それを今日は流したままなのは……たまたまよ、たまたま。おしゃれとかじゃなくて。うん。




「学校行くわけじゃないし」

「綺麗な髪だなあ」

 何気ない仕草で、上坂が私の髪を持ち上げた。

「勝手に触んないでよ」

「少しくらいいいじゃん。美希の髪、ホント綺麗だよね。しっとりした手触りで、俺、好き。パーマとかかけたことない?」

「パーマは、禁止よ」

「そんなこと気にしないで、みんなやってるよ? 美希は真面目だなあ」

 けらけらと笑う上坂に、む、とする。

 髪は、清潔ならいいと思うだけ。わざわざ校則を破ってまで髪の毛をいじりたいというほどの欲求がないし。それだけのこと。




「俺の髪も、綺麗だって言ってくれたよね」

「そうだっけ?」

「またまたー。でもこれ、雨の日だけはだめなんだ。少ししけってくると、すーぐくるくるくるーって」

 おどけながら言ったその顔に、思わずくすりと笑ってしまう。

「美希も、こういう髪にしてみたいって思う?」

「私には、似合わないわよ」

「んー、確かに美希にはロングストレート似合ってるけど……」

 上坂は少し考えるそぶりを見せると、ぽん、と手を叩いた。




「ね、映画の時間ずらしてもいい?」

「いいけど……なんで?」

「行きたいとこができた」

「どこ?」

 今日は、映画を見に行く予定だったからスカートだったけど、歩くんだったら、今ならまだ着替えに戻れる。

「まあいいから、ついてきて」
  ☆




 電車に揺られてついた先は、渋谷にある美容院だった。落ち着いた趣の外観は、あたりの雰囲気から一歩引いた感じ。ここって、私たちの世代じゃなくて、もう少し上のお姉さま向けの美容院じゃないのかな。

 上坂がガラスのドアを開けて中へ入ると、控えめにいらっしゃいませの声がかかった。美容院独特の匂い。店内には小さくジャズがかかっている。

 受付にいた細身の男性が、私たちに気づいてカウンターの向こうから出てきた。やけにくねくねとしたその人は、上坂に向けて満面の笑顔を向ける。




「あら、蓮じゃないの」

「こんにちは、ケンジさん」

「珍しい時間に来るのね。どうしたの?」

「今日はケンジさん、ここにいるって言ってたから。この子、どうです?」

 ずい、と上坂は私の背を押した。

「え?! ちょっと、上坂……?!」

「まあ、上坂の彼女?」

「そう。綺麗な子でしょ」

 ケンジさん、と呼ばれた男性は、まじまじと私の顔を覗き込んだ。真剣に見つめてくる視線に気圧されて、ひきつりながらもなんとか笑顔をつくる。




「こんにちは……」

「はい、こんにちわ。ちょっと失礼するわよ」

 そう言って私を頭の先から足の先まで見下ろしたケンジさんは、最後に私の髪を一すくい取ってまじまじと見つめた。

「艶のあるキューティクル……しっかりとしたコシ、弾力……見事ね。これなら、ゴムでしばっても跡つかないでしょ。高校生?」

「俺と同じ、高校三年生」

「ふーん」

 そう言ってその男性は、手を離して今度は私の顔を覗き込む。間近にあるその瞳がぎらぎらと輝いていて、思わず一歩下がりかけた。




「ふふふふふふふ、いいの? アタシ好みのアレンジで」

「もう、思う存分。ケンジさんの心のままに」

「わかったわ。期待してね! さああなた、お名前は?」

「梶原、美希です」

「美希ちゃんね。こっちへいらっしゃい」

「あの、どういう……」

「だいじょーぶよー。怖くないからね、アタシにすべてを任せて」

 上坂へと視線を向けると、やつはへらへらと笑いながら私に手を振る。

「ちょっと、上坂!」

「だーいじょーぶ、だーいじょーぶ。俺も後で行くから」

 よくわからないまま、私は美容院の二階へと連れ込まれてしまった。




  ☆




 連れて行かれたのは、鏡と椅子、それとシャンプー台が据え付けられている個室だった。

 こういうタイプの美容院て、初めて見た。二階の廊下には同じようなドアが他にもあったけど、あれも個室なのかな。




「蓮とは長いの?」

「え?」

 私を椅子に座らせてばさりとカットクロスをかけたケンジさんは、機嫌よく話しかけてくる。

「彼女なんでしょ?」

「一応」

「一応?」

 見ているとケンジさんは、ちゃっちゃと私の髪をといて器用にまとめていく。

「来月にはフラれる予定ですから」

「は?」

 ケンジさんは目を丸くしたけれど、その手は止まらない。




「どうして?」

「そういう約束なんです」

「あなた、蓮の彼女よね。どういうつきあいなの?」

「そもそも、つき合っていること自体が疑問ですね。上坂に対しては、彼女の定義を半日かけて問い詰めたい気分です」

 どうにも、やつにはいいように振り回されている感が抜けない。

 ぷ、とケンジさんが吹いた。

「美希ちゃんて、面白いわ」

「そうですか? むしろ、つまらないって言われることの方が多いですけど」

「真面目なのね」

「そっちの方がよく言われます」

 さっき、上坂にも言われたし。

 私の声が不機嫌に聞こえたのか、ケンジさんがあわてて言葉を繋げた。

「あら、ごめんなさいね。悪い意味じゃないのよ。真面目、結構じゃない」
「そうでしょうか」

「そうよ。だって、真面目って、相手に対して真剣、ってことでしょ」

 鏡越しにケンジさんに視線を向けると、それに気づいたケンジさんが目を合わせてにっこりと笑った。




「ほら、今どきの子って、なんにでも適当な子が多いじゃない。今だけ、自分だけが楽しければいい、って刹那的な風潮があるし。ちょっとめんどくさくなるとすぐ投げ出すし、何事も上っ面しか見ないのよね。アタシが真面目って言ったのは、そのいい加減さがないのかしら、ってことよ、美希ちゃんて、そういう人たちから浮いていそう。アタシは好きだけどね」

 まあ、浮いているのは確かだけど……この人は、それを好きって言ってくれる人なんだ。

 少しだけ緊張が解ける。そんな私の髪をいくつかに束ねたケンジさんは、腰のバッグからハサミを取り出した。




「髪、切るんですか?」

「毛先をそろえるだけよ。ずいぶん、美容院にも行ってないでしょ。伸ばしてるの?」

「そういうわけじゃないんで、短くしてもかまわないです」

 しゃれっ気のない私が髪を伸ばしているのは、ただ美容院に行くのが面倒なだけだ。長くしていれば、どんなに髪がまとまらなくても、最終手段として一つに結わえるだけでいい。髪は、短いほうが手がかかる。




 ケンジさんは肩のあたりで私の髪をそろえて、鏡の中を覗き込んだ。

「そうねえ……短いのも大人っぽいわね。うーん、悩むとこだけど、せっかくきれいなんですもの。このままの長さを生かしましょう」

 しゃきしゃきと、リズミカルな気持ちいい音が響く。なんとなくその手つきを見ていて、この人上手い人なんだなあ、と思った。




 以前一度行った美容院で、踊るようにはさみをやたら振り回して髪を切る美容師さんに当たったことがある。おそらくパフォーマンス的な目的だったのだろうけど、目の前で凶器となるハサミを振り回されるのは、かなりの恐怖だった。でもケンジさんの切り方は、意図したものなのかそうでないのか、視界にハサミがあまり入ってこない。丁寧に髪を触ってくれる手つきが、心地いい。




「美希ちゃんみたいな子がまだいるなら、最近の若いコも捨てたもんじゃないわよね」

「若いコ……ケンジさんって、いくつなんですか?」

「やあねえ、アタシに歳を聞くなんてヤ・ボ」

 ……このノリ、上坂にめっちゃ似てる。

「蓮があなたを気に入るのも、わかるわあ。ほら、ああ見えて蓮も真面目だから……」

「ええっ?! あれがですか?」

「あまり内面をみせないからね、あの子。でもね……」

「ちょっと、ケンジさん?」 

 と、ちょうどドアが開いて、上坂が顔を出した。




「何、話してんですか」

「いいことしか話してないわよ」

「そうは聞こえないですけど?」

「気のせい、気のせい」

 言いながら、髪をそろえ終えたケンジさんは、ムースらしきものを髪にわしわしと塗りたくる。上坂は、椅子を一つ引っ張ってきて私の後ろに陣取った。




「余計なこと言わないでくださいよ」

「あら、ここへ連れてきたってことは、多少のことは覚悟してんでしょう?」

「そうですけどさあ……」

「ありえない褒め言葉を聞いたわ」

 ため息をつきながら言ったら、ぬ、と上坂が後ろから顔を出した。

「なになに、俺がかっこいいって? 色気を感じるって? 素敵だって?」

「ちょっと、蓮! アイロンの前に顔出さないでよ。こげても知らないわよ」

「ああ、すんません」

 のんきに謝って上坂は顔をひっこめた。

「まったくもう。あら、美希ちゃん、熱い? 顔が赤いわ」

「いえ、大丈夫です……」

「熱かったら言ってね」

 そう言うとケンジさんは、またブロックに分けた私の髪をくるくると巻き始めた。
 長い髪がケンジさんの手でふわふわに変わっていく。

 その様子を興味深く見ていると、私の後ろで上坂も真剣にその手つきを見つめているのに気づいた。鏡越しだったけど、その眼は、私が思っているように何をしているか興味津々、という視線とはちょっと違うような気がした。

 それはケンジさんに言わせれば、『真面目』な視線だ。

 上坂?




「ん、こんなもんかしら。一応、傷まないようにコーティングはしてあるからね。じゃ、次。美希ちゃん、めがね取ってくれる?」

「めがね、ですか?」

 よくわからないながらも、めがねをはずしてケンジさんに渡す。めがねを取ると、とたんに視界がぼんやりとしか見えなくなった。

「目、悪いの?」

「両目とも、〇・一なんです」

「あら、アタシと同じくらいなのね。コンタクトは? これ、便利よ?」

「一回試したんですけど……」




 高校に入った時に、一度コンタクトを使ってみようと思ったことがある。けれど、検査の時に試してみたら痛くて痛くてどうしても入れられず、結局、止めてしまった。

 あとで聞いたら、初めて使うならハードレンズよりソフトレンズの方がよかったらしい。手入れが楽なのを、と言ったらハードを勧められたのだけど、あんなに痛いものだとは思わなかった。一週間ほどで慣れるらしいけど、無理。あれは、無理。めがねで十分。




「めがねもかわいいけどね。ちょっと、動かすわよ」

 座っていた椅子がくるりと後ろを向いて、なにやらむにむにと顔をいじられ始めた。

「もしかして、メイクとかします?」

「少しだけね」

「あの、私がメイクなんて、似合わないです」

「そんなことないわよ」

「でも……」

「心配しないで、アタシにまかせときなさい」

 手を止めようとしないケンジさんに、抵抗することをあきらめる。

「……上坂、そこにいるの?」

「ん? いるよ。なに、心細いの? なんだったら、手、握っていてあげようか」

「絶対いらない。……あっち行っててよ。あんまり、見ないで」




 むにむにされてるとことか目を閉じてるとことか……気にしすぎかもしれないけど、なんとなく、恥ずかしい。

 そこで上坂は黙ってしまった。めがねをかけてないから、上坂がどんな顔をしているのは見えない。

「上坂?」

「ああ……うん。じゃ、見えないように後ろにいる。だから、ここにいてもいい?」

「いいけど」

 がたり、と上坂が立ち上がって、私の背後へと回った気配がした。くすくすとケンジさんが笑うのが聞こえる。




「美希ちゃん、化粧品でアレルギー起こしたことある?」

「少なくとも今まではありません。というより、メイク自体、したことがないので」

「エクセレント! 美希ちゃんの肌なら、メイクなんて必要ないわ」

「十代でメイクなんて、そもそも必要ないのでは?」

「そうね。こんなに綺麗な肌を持っていたらそう思うかもしれないけど」

 言いながら、ケンジさんの細い指が、私の顔をなぞっていく。




「例えば、ニキビの痕が残ってしまったり、細い目とか丸い鼻とかが気に入らない女の子。そんな子が顔を上げるには、少しのメイクが必要になることもあるのよ」

「え……?」

「そういうのは、大人になった女性がもっと綺麗になるためのメイクとは違って……いわば、笑顔になるためのおまじない、ってとこかしら。気になっていたニキビ跡をファンデで隠してようやく笑えるようになる子もいるの。それでその子が幸せになれるんなら、メイクってとても素敵なことじゃない?」

 ああ、そうか。

 高校生がメイクなんて、って思ってたけど、そういうメイクもあるんだ。

「……すみません。傲慢でした」
自分が必要としないからって、高校生のメイクを軽蔑するようなことを口にした。それは、肌荒れに悩んだことのない私の傲慢さの現れだ。

 小さい声で謝ると、ケンジさんは一瞬だけ動きを止めた後、けらけらと笑いだした。




「やだー、謝らなくてもいいよの。確かに、制服にケバいメイクは似合わないもの。アタシだってそういうコには、頭からクレンジングオイルぶっかけてやりたくなっちゃう。もったいないわよね。そんなものなくても自分が十分にいい素材なんだって、全然気づいていないんだから。アタシもついつい口出しちゃうけど、こんなおじさんに説教されたってそういう子は気にもとめやしないわ」

 あ、一応おじさんでいいんだ。

 あくまでも明るいケンジさんの声に、私もつられて笑顔になる。

「だからね、美希ちゃんもこの肌を大切にしなさい。今の時期にしか持つことのできない、貴重な肌よ。あ、あと、過激なダイエットも駄目よ。肌まで痩せて、かさかさしわしわになっちゃうんだから!」

「はあ……」

 幸い、ダイエットが必要なほど太ってはいない。むしろ、部分的にはもう少し脂肪がついてほしいところだ。




「美希はもうちょっと太ってもいいよ。俺はどっちかというと、ぽっちゃりと丸いほうが好み」

 やっぱり男の人はそう思うよね。……いや、上坂の好みなんかどうでもいいんだけど。

「あいにくと、食べても太らない体質なんで」

「んまっ! なんて羨ましいの! アタシなんて、すぐ食べたものがついちゃうからうっかり食べ過ぎたりなんてできないのに!」

「ケンジさん、苦労してますもんね」

「それをわかってて、アタシの目の前でばくばく夜食食べるのはどこの誰よ!」

「だって俺、成長期だしー」

 くつろいだ様子で、上坂とケンジさんは話を続けている。




 仲、よさそうだな。ここ、上坂の行きつけってことなのかしら。いつも近所の美容室しか行ったことないけど、ここがかなりの高級な美容室だというのはわかる。




「さ、できたわ。はい、めがね」

 カットクロスを脱がせて、ケンジさんがめがねを渡してくれる。それをかけると、満足そうなケンジさんの笑顔が見えた。

「いい? これから私が美希ちゃんにかわいくなるおまじないをかけるわ。ビビディ、バビディ……」

 聞いたことのある魔女の呪文を唱えながら、ケンジさんはくるりと椅子を回した。

「ブー!」

 カールした髪が、ふわりと浮いた。鏡の正面に座った私は、そこに映る自分に目を見張る。

 そこにいたのは、栗色の髪をした可愛い女性。




 やたらと髪にスプレーをかけていると思ったら、色をつけていたのか。くるくるとアイロン巻いていたけど、思ったよりきつくない。ゆるいウェーブをかけただけなのに、だぼっとしてた髪が全然重さを感じさせない仕上がりになっている。

 なにより。

 え、なんでこんなに目がぱっちりしてんの? 眉を整えただけで、こんなに表情ってかわるものなの? 唇がつやつやなのは、リップのせい? 

 自分のこと、ブスだとは思ってなかったけど……えええ、私って、結構かわいいじゃない。




「どう?」

「これ……私……」

 うんうん、とケンジさんは満足そうにうなずいている。

「原石がいいから、ちょっと磨いただけでここまで光るのよ。蓮、すごい掘り出し物ね!」

「でしょ? 今のままでも十分綺麗だけど、手を入れたらどうなるかな、と思って連れてきたんだ」

「まだまだ開発しがいがありそう。ぜひまた連れていらっしゃいよ」

「機会があったらね」

 椅子から立ち上がった私に、上坂は手をさしだした。

「さ、行こうか、お姫様」
 ☆




 テンションの高いケンジさんに見送られて、私たちは美容室を後にした。

 さっき鏡で見た自分の姿で外を歩いていると思うと、なんとなく気分が弾む。うん、いつもより背筋が伸びる。

 いわゆる、ナチュラル系って言うのかな? それほど濃い化粧をしているわけでもない。髪型はかなり変わっているけれど、染めているって程の色もついていないし、パーマをかけたって程のウェーブでもない。なのに、少し少しが積み重なって、いつもの私とは全然違う。自分が可愛くなることがこんなに嬉しいなんて知らなかった。

 そうか。女の子はみんな、こんな気分になりたくておしゃれをするものなのね。




「気分は、どう?」

 足取りの軽い私に、上坂は満足そうに微笑んだ。

「悪くない」

「ああ見えてもケンジさん、超売れっ子のメイクアップアーティストなんだ。ケンジさんにメイクしてもらえるなんて、レアなんだぜ?」

 妙に誇らしげに、上坂が言った。

「そうなんだ。でもこれ、あんたの手柄じゃないで……あ、私、お金……!」

 ああいうとこって、メイクだけでもお金、かかるよね。

「今日は、サービスだって」

「でも」

「前々から、彼女出来たら紹介しろって言われてたんだ。ケンジさんも可愛い女子高生いじれて楽しんでたから、それで帳消し」

 上機嫌な上坂は、美容室の中からずっと私と手を繋いだままだった。




「ケンジさん、仲よさそうだったね」

「うん、ケンジさんにはいろいろとお世話になってる」

「ふーん。だから、いつも彼女連れてくんだ」

 なるべく感情を込めないように言ったら、上坂が私をのぞきこんできた。




「気になる?」

「全然」

「うわ、そこは気にしようよ。むしろ聞いてよ」

「私には関係のない話だもん」

「あるでしょ。美希は俺の彼女なんだし」

「期間限定だけどね」

「それでも、今は俺のものだよ」

「上坂は?」

「俺が、何?」

「上坂は、私のものなの?」

 一瞬目を見開いた上坂が、にやり、と上坂が笑う。




「俺は、俺のものだよ」

「……それ、一番最低な答え」

 私が顔をしかめた時、軽いメロディーが流れた。

「あ、ちょっとごめん」

 手を離した上坂がポケットからスマホを取り出す。

 ああ、またか。

 せっかく可愛くしてもらって浮かれてた気持ちが、しゅるしゅると沈んでいく。




「真理ちゃん? ごめーん、今デート中なんだ。……うん……そう。えー? 俺だって会いたいよー。……うん、わかってるって」

 流れる人波を見ながらなるべく意識しないようにしているのに、私の耳はがっつりとその会話を追ってしまう。いつまでも途切れないそれは、私といるときよりよほど楽しそうだ。

 というか、仮にも『彼女』といるときの会話じゃないよね、それ。

 ……なんだかイライラしてきた。




「うん。いいよー。じゃ、またねー」

 ようやく上坂が通話を切ると、私は上坂に向き直る。

「私、帰る」

「え?」

 驚いたような上坂の顔を、多分私は無表情のまま見ていた。

「なに、どうしたの?」

「どっか遊び行くんでしょ? いいよ、行けば」

 そうして背を向けた私の腕を、上坂が掴んだ。




「行かないって。今日は、美希とデートだし」

「今日は、ね」

 顔だけ振り返って、眉をひそめたままの上坂を睨みつけていると。

「「「蓮―!」」」

 賑やかな声が聞こえて、とっさに二人で顔を向ける。見れば、通りの向こうから、三人の男子が手を振っていた。




「よう。なんだよおまえら」

 手を振り返した上坂を見て、わらわらとその人たちが近づいてきた。みんな背が高い。上坂と同じ軽そうな雰囲気で、世間的にはイケメン、って言われる顔をしていた。
 中央の、短い髪をつんつんと毛羽立てた男子が声をかけてくる。……銀髪? 

「俺らこれから『ダブル』行くんだけど、お前もいかね?」

「わり、俺今デート中」

「新しい彼女?」

 長めの髪に赤いメッシュをいれた男子にじろじろと見られて、思わず上坂の後ろに隠れる。男子たちは、おー、と口をそろえて声を上げた。

「これはまた新鮮な反応だな。よく見れば、めっちゃかわいーじゃん。清純系? 彼女ちゃんも一緒に遊ぼうよ」

「昼飯まだだったら、彼女も一緒にどう?」

「ちょっとー、せっかくのデート、邪魔しないでくれる?」

 軽く笑ってはいたけど、上坂は彼らからかばように私の前に立ってくれた。上坂の背中が、今ほど頼もしく見えたことはない。


「なんだよ、俺たちは女連れでも構わねえぜ。むしろ大歓迎。人数足りない分はどこかで声かけて……」

「この子はだめ」

「へえ、珍しいね。蓮がダメ出しするの、初めて聞いた」

 茶髪のオールバックのお兄さんが、驚いたように目を丸くした。

「確かに、レベルたけーよな」

「スタイルいいよね。足首、細ー」

 にやにやしながら、その人たちは上坂の後ろにいる私をのぞきこむ。視線が、体中にからみついてくるようで気持ち悪い。



 上坂が、追い払うように手を振った。

「『ダブル』行くんだろ? さっさと行けよ」

「へいへい。飽きたら、いつもみたいにこっちに回してくれよ」

「みんなでフラれた彼女を慰めてあげるからさあ」

「ばーか」

「じゃ、またな、蓮。気が変わったら来いよ。もちろん、彼女も歓迎するよ?」

「待ってるぜ」

 げらげらと笑いながら、その人たちは離れて行った。詰めていた息を、そ、と吐く。

 そっか。今日は、置いていかれないんだ。


「ああ、もうこんな時間か。俺たちも何か食べに行こうぜ」

 スマホで時間を確かめると、けろりと変わらない様子で上坂が言った。そんな態度が、やけにむかつく。

「帰るってば」

 ムキになって言ったら、上坂がにやりと意地悪な笑顔を作った。

「でも、今美希が一人でこの街歩いたら、あいつらみたいなのがわらわらと寄ってくるよ?」

「なんで?」

「だって、今日の美希、めちゃくちゃかわいいもん」

「っな、ことっ……!」

「試しに、一人で歩いてみる?」

 そう言われて、さっきの男子たちのまとわりつくような視線を思い出した。体中を品定めするような視線は、今思い出しても足がすくむ。



 大丈夫、っていつもみたいに強がるのは簡単。でも本心は……本当は、こんなとこで一人にされたくない。普段ははかないスカートなんかはいているのも、心細い気持ちに拍車をかけているのかも。

 それでも、置いていかないでなんて、上坂相手に口が裂けても言えるわけない。

 結局私は何も言えずに、ただ無言で、きゅ、と上坂の袖を握っただけだった。

 上坂は一瞬だけ目を丸くして、それから穏やかな笑みを浮かべる。



 あ。それ。

 最近よく見るようになった、学校ではしない優しい笑顔。

 なんだかそれは、少しだけヤバイ気がする。

 私は、上目遣いでその顔を睨んだ。余裕な態度が、ホントむかつく。


「美希の食べたいもの、何?」

「……………………ハンバーグ」

「おっけ。煮込みハンバークのうまい店、知ってんだ。行こ。それから、予定通りに映画、な。その後少し、買い物つき合ってよ」

 勝手に予定を並べながら私の手を取ると、上坂は人波をぬって歩き出した。

 そうしてなし崩し的に、今日の私たちのデートは続行となってしまった。