「理事長」

 その日の帰り際、仕事で理事長室を訪ねた利樹はふと八咫にそう呼びかけてみた。

 なんだ? と八咫はデスクから目を上げ、訊いてくる。

「俺が高坂じゃなかったら、真生はどうするんだろうな」

「……何故、お前が高坂でないという選択肢があるんだ。

 っていうか、この私に、そんな態度をとる新米医師は居ないし。

 高坂でもないのに、その態度だというのなら、出て行け」
と言われてしまったが。

「くだらないことを気にするな」
と八咫はまた書類に目を落として言ってくる。

「今の真生には高坂が必要なんだ。

 すべてがお前にとっては生まれる前の出来事でも、真生にとっては、つい最近起こったことだ。

 なにもかも――」

 人を殺したことも。
 高坂と永遠の別れたを迎えたことも。

「お前が高坂でなくとも、高坂になってもらう――」
と再び、こちらを見て言う八咫に、

「お前、なんで結婚しなかったんだ?」
と訊いてみたが、

「忙しかったからだ」
と素っ気なく八咫は言う。

「病院の理事長、お前が思ってるより、激務だぞ」
と。