一通りの教室を案内してもらい、大体の位置を覚えたところに、知らない女子生徒が現れた。彼女はまっすぐに悠真に向かってくる。
「市川先生!私と結婚してください!」
私は鼻から牛乳が出るような錯覚を覚えた。
はぁぁ!?なに今の……錯覚?
対する悠真は困ったように笑っているだけだ。
「先生優しいからまた騙されちゃうよ!私が守ってあげる!」
騙されるってひょっとして私が?そんなことするかぁぁぁ!!
「私本気なんだから!」
「ありがとう」
悠真の出した言葉に私は唖然とし、女子生徒は嬉しそうに微笑んだ。
そして、
「約束ね!」と言い残して、足取り軽やかに去っていった。
「約束しちゃっていいんですか!?」
まさか悠真の心がこんなに変わりやすいなんて思わなくて、思わず抗議をしてしまう。
「彼女は騙してなんかないです!絶対に!!」
もちろん自分のことだから断言して言えることだ。
悠真はしばらく無言だったが、やがて少しだけ寂しそうに笑った。
「誰にも言わなかったけど、みんな知ってるんだなー……
湯澤くんは?倉田に聞いたの?」
「い、いや……その……」
もごもごと言うと、また悠真は笑った。
「うん……彼女はそんな人じゃないって信じてる…………。
だけどもし本当にそうだったとしても、俺の気持ちに変わりはないよ。それぐらい好きだ」
こんなセリフ、今まで聞いたことがなかった。だから嬉しくて頬が赤くなるのを俯いてごまかした。
「…………その言葉彼女に言ってあげてください」
「えぇぇ、照れるなぁ。普段だったら絶対言えないけど……また会えるためだったら何度だって言えるよ」
言いたい。自分が吉井橙子だって……だけど信じてもらえないだろう。
なんだか騙しているような気がしてきた。
「不思議だな。湯澤くんにならなんでも話せるような気がするんだ。ありがとう」
その悠真の言葉が嬉しくて切なくて、なんだか涙が出てきそうになった。
康樹君の家に帰宅すると、いつから来ていたのか倉田がいた。
彼は大学卒業後就職せず、今はフリーターとして毎日の食費を稼いでいるらしい。
いつも不思議に思うのだが、倉田とつきあう女は大変なんじゃないかと思う。
「よっ!元気にしてるか?」
いつものように軽い調子で倉田は声をかけてきた。
「なによ……冷やかしに来たんなら帰ってよ」
「うわ……なんだその言い方。心の友に向かって」
意味不明である。
ちょうどそのとき2階から降りてきた康樹君を見て、奈美に告白されたことを思い出した。
一応本人に言ってから断るべきだと思い、悠真からもらった学級写真を見せて今日のことを話した。
すると……
「へぇ……かわいいじゃん。まさか断るなんて言わないよね?」
それは私にとって意外な言葉だった。
「当たり前に断るよ。だって今日会ったばっかりだし、私女だよ?」
「会った初日につきあうことなんて珍しいことじゃないよ。それに体は男だ。学校ではお姉さんは湯澤康樹として生活しなきゃだって」
つまりどういうことだ?
「つまりその女の子とつきあえって話だろ」
首を傾げる私の横で倉田がとんでもないことを口にして、強引に話はまとまった。
学校に行くたびに、隣に座る竹山奈美の視線が気になり、私は複雑な気持ちになっていた。
元をたどればなんで自分は男になったんだろう……?
例えばドラマだと、階段か何かから落ちたらその拍子に入れ替わるというのがお決まりのパターンだが、そもそも私は何が起こったのかさえ覚えていない。
戻りたいなぁ……
窓の外を見てぼんやりと考えていると、自分の座る机に何かが投げられたのがわかった。よく見ると、それはノートの切れ端を切った手紙のようだ。
「……?」
先生にバレないように見てみると、かわいらしい字で文字が書かれている。
【あのこと考えてくれた?】
隣の奈美を見たが、彼女は気づかないフリをして授業に専念している。
来たな……とうとうこの時が。
【もうちょっと考えさせて】
そう答えることしかできなかった。奈美を傷つけるかもしれないとドキドキしながら返事を待ったが彼女の返答は、
【うん。ゆっくり考えて】
その言葉に少しだけ安心した。
それにしてもこの先どうしよう……
放課後、教室の席に座ったまま外に視線を向けながらこれからのことを考えていた。
・このまま男として行き抜く
……そんなのやだ。私は悠真と結婚したい。
・いっそ悠真に正体をバラしてしまう
……でも悠真は信じてくれないかな?
・奈美とつきあってラブラブになる
……ありえない。早く戻りたい!
よしっ!悠真の家に行って軽くシュミレーションをして思い出そう、と思ったときだ。運動場を1人の女の人が歩いているのが見えた。その人はまっすぐに校舎へと向かっていく。
あれは……私だ!康樹君が学校に来ているのだ。
なんで?学校には来ないって言ってたのに……
私は慌てて階段を駆け下りて行った。
**康樹 side**
俺は自分が通うはずだった中学校まで来ていた。担任が橙子さんの婚約者だと話は聞いていたが、好奇心でその人物と竹山奈美を見に来たのだ。
一応変装はしてきた。
家にあった眼鏡に、母に協力してもらって髪型も変えてみた。野球帽を深くかぶってるし、たぶんバレないだろう。
それに最終手段もある。
「よしっ!」
気合だけ十分に、俺は歩き出した。
しかし、制服でない人物が歩いているのはただでさえ目立つ。昇降口ですでに俺はダウンしてしまった。
「康樹君!」
ちょうどいいところに助け舟がやって来た。俺はのんきに手を振って橙子さんを出迎える。
「なんでこんな所にいるの!?」
「家でじっとしているのに飽きちゃって」
「だからって見つかったらマズいよ……もし知ってる人が来たら……」
と、そのときだ。下駄箱に1人の少女が現れた。
一瞬マズいと思ったが、俺の姿を見られて困る人ではない。なるべく平静を装っていると橙子さんが話し出した。
「え……っとこの人は……」
「恋人なの……?」
ぽつりと呟いたのは、他ならぬ彼女だった。
「湯澤君にはもう好きな人がいたんだね……私なんか告白しても無駄だったんだ」
「ちっ違う!この人は……知り合いのお兄さんの婚約者で……竹山さんが思うような人じゃないって!」
橙子さんの弁解に女の子はしゅんとなっていた表情を少しだけ明るくさせた。同時にそれが恋する乙女の表情にも変わる。
もしかして……この子が橙子さんの言ってた俺のことを好きな人か?
写真で見るのとは違う。余計にそのかわいさが際立っていた。
だから思わず言ってしまった。
「俺とつきあってください!!」
橙子さんの体で、男口調で。見事にヘンタイ女の出来上がりだ。
しかも、その場面を他に見ていた人物がいたのだ。
「…………あれ、湯澤くんに竹山さん。何やってるの?」
現れたのは俺も学級写真で知っている、担任の市川悠真だった。彼は生徒2人に問いかけながらもまっすぐに俺のことを見ていた。
自分の婚約者と2ヶ月ぶりに対面したのだ…………
・
私は心臓が飛び出すかと思うほど緊張していた。目の前に悠真がいて、康樹君(私の本体)をじっと見ているからだ。
やばいやばいやばい……これ絶対バレたよ!
しかし、悠真はしばらく康樹君を見た後、私へと視線を向けてきた。
「……湯澤くん、何かあったの?」
「え……いや、ただ知り合いが遊びに来ただけというか……」
もごもごと答える間に、康樹君はダッシュで逃げ出した。それを見て私はほっとしたが、なんと悠真はその後を追おうとしたのだ。
「先生!」
思わず呼び止めると、悠真の体は止まった。その間に康樹君が走り去るのを見て、悠真は追いかけるのを諦めたらしい。
だけど明らかにその表情は何かを考え込んでいる様子だった。
*****
いよいよ思い出さなきゃいけないと思い始めたときには冬休みになっていた。
23日、私は1人で悠真の家の横を通る道路まで来ていた。
康樹君の話だと、クッキーの散歩コースはすでに決まっていて、いつも悠真の家の横の道を通ることがわかった。
きっとここに何かある。
――と、思ったものの特に何もなかった。
そうだ。料理を作っていたのになんで道路に出る必要があるのだろうか。
私は思い直して帰ろうとしたときだった。
「……?」
少し離れた道路の色が変色していることに気づいた。近づいてみると、それは血のように見える。
もしかしてここで事故があったとか……?
「あれ……こんなトコで何してんだよ」