スマホが鳴った。
「緊急の役員会? な、なんで今時期。どうしても出なきゃいけないんですか?」
分かりました。出席いたします。
緊急の役員会。私の会社では珍しい。
誰か飛んでもない不祥事を起こしたのか?
業績だって悪くはない、むしろ上がっているじゃない。
何が不服だって言うの? まったくうちの役員にはましな人物はいないんじゃない?
ま、その中に一人だけはいるんだけどね。ちょっとましな奴。
3時からか……。もう時期じゃん。
クライアントとの打ち合わせ、伸びちゃったからなぁ。
タクシー拾わなきゃ。
視界に入ったタクシーに手を上げ、乗車をアピール。
止まってくれると思ったタクシーは、ス―と私の前を通り過ぎた。
空車じゃなかった。
「ちぇっ!」
いつもは空車のタクシーがこの駐車スペースに2台は止まっているのに、今日に限って1台もない。それになんだろうやたら空車のタクシーにあたらない。
月末、年度末でもあるまいに、今日は付いていない。
「はぁ。」
ため息が漏れる。
「La misère(厄日)」
呟いたその一言が私の運命を物語っていたとは、今はまだ知らなかった。
「まったくこの『Tokyo』ていう街は忙しすぎる」
ま、でも手を上げれば止まってくれるタクシーに出会えるのは、この『Tokyo』ぐらいのもんだ。
フランスじゃ、流しのタクシーなんかには絶対に乗らないし利用なんかしない。
怖くて、何されるかわかったもんじゃない。メトロ(地下鉄)の方がよっぽど便利がいい。
それだけこの街は安全でもあるんだけど、タイミングが悪いとほんとうに困る。
また目に入ったタクシーに手をあげた。ウインカーを点滅しながら私の前で停車した。ドアが自動で開く。
初めてこの『Tokyo』でタクシーを使った時、ドアが勝手に開いたのには驚いた。
自動ドアだったなんて予想もしていない動きに、ポカンとしていたのを思い出す。
あの頃は、希望に満ちていた。
何でも出来ると思っていた永遠に。
始めは本当に小さなものだった。私だけの想いが形になり、人が集い、一つの会社としてその姿は変えていった。
たった一人から立ち上げた小さな仕事は今や、従業員数300名を誇る企業となった。
Pays de reve ペイドゥリーヴ社。私はその会社の代表として今仕事をしている。
代表、つまりは『社長』と呼ばれるようになった。
来年には株式上場をする計画がすでに本決まりになっている。
そうなればまた多くの資金を調達できるようになり事業の幅も拡大できる。
前途は明るい。
怖いものなど何もない。
止まったタクシーに乗り込み行き先を告げ、車が動きだしたと同時にスマホがまたなりだした。
耳にかぶる長い金髪を軽く寄せ、スマホを耳にする。
「はい、スレイユです」
私のスマホに直接かかってくる電話は会社からか、もしくは親しい友人位のものだ。いちいち着信番号なんかは確認しない。
「あのぉ、スレイユ・ミィシェーレさんの携帯でよろしかったでしょうか?」
ちょっと控えめな感じのいい声の男性だった。
「はい、そうですけど……」
「あ、よかった。私、城環越大学病院、医師の上原と申します」
城環越大学病院。その時はっと思い出した。
今日はその病院で、この前行った検査の結果を訊くことになっていた。
「スレイユさん今日ご予約日だったんですけど、ご来院されませんでしたので、失礼とは思いましたがご連絡をさせていただきました。お忙しいところ申し訳ありません」
「あ、いえ。私の方こそすみません。すっかり忘れていました」
「忘れてた?」呟くように思わず出したであろうという言葉に、その医師の苦笑いの顔が浮かび上がる。
「すみませんスレイユさん。これからでもよろしいので、こちらにお越しいただくことは出来ないでしょうか」
前に受けた健康診断で、再検査項目に該当した私は、あの大学病院で再検査を受けた。
その検査結果が今日出ることになっていた。
「これからですか?」
「ええ、できれば」
「すみません、私これから緊急の役員会がありまして、今、会社に戻るところなんですけど、済みませんけど、この電話で検査結果お聞きするわけにはいきませんか?」
検査結果。どうせ異常なし。まぁ、何かあったにせよ、軽いもんだと私は思っていた。
だって、どこも異常はないんだもの。痛かったり苦しかったりなんて何もない。
いつも通り、私は元気。
私の問いにその医師は渋るように
「そうですか。お忙しいのは十分にわかっています。ですが、お電話ではなかなか説明が難しく、直接説明を聞かれた方がよろしいかと思います。それに出来ることならば、早急にお聞きしていただきたいのですが」
電話では難しい? しかも早急に?
何かいやな予感がする。
そんな時、ふと感じた。今向かっている私の会社でも、いやなことが待ち構えているような。そんな感じがした。
その医師は電話口で柔らかな感じで言った。
「ご理解いただけますでしょうか?」
彼のその声に引き込まれるように
「仕方がありません。短時間でお願いいたします」
「わかりました。できるだけ要点だけをお伝えできるように準備させていただきます」
その言葉を聞き、通話を切った。
「すみません。行き先を変更してください」
「はい、どちらまで?」
「城環越大学病院へ」
その時一瞬。私の目に幼いシスターの姿が流れ、その姿は視界から消えていった。
「あ、スレイユか! 今どこにいる。もう時期役員会が始まる、早く戻ってこい」
片岡和樹《かたおかかずき》。私の会社の役員の一人、そして私の恋人。
彼との出会いがあったから今の私はあるのかもしれない。
私が一人でこの仕事を始めていた頃、とある企業に勤務していた彼が、私の行っていた事業に興味を持ってくれた。
と、……言えば格好もつくのだろうが、彼が初めてコンタクトを取ってきた時の言葉。
「こんなので仕事として成り立つのか? そんなものが流通できるのか? 夢見てるんだったら、痛い目になる前に手を引く事だな!」
思いっきりムカッときた。
よくある罵声? というものだろう。もしかして嫌がらせ!
無視! 無視した。
こういうメールやコンタクトは確かに多かった。
無視して1度や多くて3回くらいまで、コンタクトをこういう形で送ってくる相手も他にもいた。
無視すればそれで収まっていた。
でも、彼は違っていた。
和樹は、何通もメールを送り付けてきた。
まるでスパムの様に。いや、あれはもはやスパムだった。
着信拒否の対応をしてもアドレスを変えてはメールを送り付けてくる。
荒手の奴。
メールのタイトルは必ず「運営者さんへ助言」
何が「運営者さんへ助言」なんだ! ただの中傷じゃないのか。
メールは毎日の様に送られてきていた。
そのタイトルを見るたびに有無を言わさず、削除! 削除!
中身なんか見る価値なんかない。どうせ悪口ばかりだろう。
だって初受信コンタクトがあんな内容なんだもの。
そう決めつけていた私。
ある日間違って彼のメールを開いてしまった。
開いた時サブジェクトを見て、ああ間違えて開いちゃった。
すぐに削除しようとした。
その時ふと目にした本文の内容。
その内容は、罵声でも中傷でもなかった。
当時、インターネットを利用して仕事をしていた私のサイトについて、こうあるべきだという助言が記載されていた。
しかも扱う商品の見せ方や、日本人に受け入れてもらえるためには、どうしたらいいのか……。
ずっと彼は送り続けていたらしい。
その内容はとても興味深かった。でも今までのメールはすべて削除してしまっている。
しかも一時削除ではなく完全削除してしまっている。
復活しようにも、もう戻に戻すことは出来ない。
その日から、「運営者さんへ助言」のサブジェクトは必ず開くようになった。
そして思い切ってその相手に返信、コンタクトを取った。
意外にもすぐに返信が来た。
「よければ一度お会いしませんか」
ムムム、いきなりか!
でも、削除してしまった内容がどうしても気になる。あの頃の私にとって足りない物、どうしても乗り越えることが出来ない、壁のようなものにぶち当たっていた頃。
彼の助言は、救いの神の様にも思えた。
もし荒手のナンパだったら? これを口実に私と出会おうとしてるんじゃないのか?
会って変なことしてきたら……その時は、そいつの顔に思いっきりパンチ食らわせてやる。
そんなことを考えながら、初めて和樹とコンタクトを取った。
意外にも彼が合う場所に指定してきたのが、私の行きつけのカフェだった。
「偶然よね」
呟くように口にしながら会うことに承諾した。これはあくまでもビジネスで会うことを付け加えて送ってやった。
私は、当時よく行きつけのカフェでもモバイルパソコンを持ち込んで仕事をしていた。
カフェのマスターも気さくな人で、私のお気に入りの場所。
しかもフランス菓子がとても美味しいお店。
フランスにいた頃を思い出させてくれるあの味に、私は懐かしさをも感じているくらいだった。
約束の1時間前に私はいつもの様にカフェの戸を開けた。
カウベルの音がカランカランと鳴る。
「やぁ、スレイユちゃん」
マスターがにこやかに私を迎えてくれる。いつもと変りなく。
「いつものミルクティでいいかな?」
「はい、お願いします」
店の中はこの時間空いていた。ただ一人若い男性のサラリーマン風の人が本を読みながら、珈琲だろうか? 何かを飲みながら静かに奥の席にいた。
あの人は。この店でよく見る人だった。
歳は私より若いだろう。
サラサラの髪に、可愛い感じに整った顔付き。まだ、少しあどけなさを感じさせるような人。
ただこの店で見かけるだけで、話したことはなかった。
私の視線を感じたのだろうか、彼は読んでいた本を置き、私ににこやかに頬笑み返した。そして、席を立ち私のすぐ近くに来て
「約束の時間より1時間も早いよ」と言った。
「え! 嘘」
「僕は片岡和樹。こうして話すのは初めてですね、スレイユ・ミィシェーレさん」
「嘘!」
目が丸くなった。
この人が例のメールの人?
まさか! でもどうして?
でもちょっとイケメンで気になっていた人。
嘘嘘! ただ意外だっただけ。しかもこんなに近くにいて、よく見かける人だったからちょっとびっくりした。
「いやぁ、こうして話せるようになるのに随分と時間がかかっちゃったなぁ」
はにかみながら、言う彼に
「もしかして、私とこうして何かを求めていたりするの?」
警戒! 容姿にごまかされてはいけません。
「ハハハ、そう来たか。どう取るかは君次第だよ」
年下から君呼ばわり! 完全に下に見られた。
「あのね。こう見えても私あなたより年上だと思うんだけど、それに、どうして私の仕事の事知ったの?」
彼は一歩身を引いて
「これは失礼。マスターと話しているの聴こえちゃったんだ。これでも僕IT系の仕事しているんで、ちょっと興味があってね。調べたんだよ、君の事。おっと失礼また君って言っちゃったね」
何となくこうして彼の話を聞いてると憎めない。
憎めないって、それは警戒心がもう崩壊しているという事? 多分私、ずっと気になっていたのかもしれない。
これってきっかけ? 多分そうだと思う。
なんて今思えば、まんまと和樹の策略にはまった私。
でも、あの時和樹と会わなければ、和樹の事を知らなければ、和樹がしつこくメールを送ってくれなければ。
今の私はないし、今の私たちはなかったと思う。
それに彼の力は私の想像を超えていた。知識もさることながら人脈も広く私の仕事のサポートをしてくれる人たちが飛躍的に増えた。
フラン生まれのフランス育ち。何が私を引き付けたのはいまだわからないけど、私は日本という国に魅力を感じこの『Tokyo』という街に憧れ、この街で私の求めるものを手にしたい。それが具体的に何かといわれればうまくは言えないけれど、今私はその物が形となりつつあることを実感している。
会社として設立するとき、和樹は言った。
「僕は君の傍にいたい。僕は表に出るべき人材じゃない。表に出るべき人材は君の方だ」
その言葉の通り、彼は役員として、私のサポートに回り、私が表の顔としてこの会社を運営するようになった。
こうして彼と共に歩み続けてもう8年の月日が流れている。
籍を入れても。結婚、も……考えた。
「スレイユ、どうしたんだ。え、役員会に遅れる? なんで、役員は全員もう集まっているんだ。社長の君が遅れるということは、いささか役員に失礼じゃないか」
「ごめん、和樹。ちょっとどうしても外せない用事が急に出来ちゃって。役員にはあなたからうまく言っておいてくれない」
「まったく、仕方がないなぁ。何とかしてみるよ。でもすべての役員が君の事を受け入れているわけじゃない。中には敵もいるんだ、そのことはよく考えておいてくれ」
「わかってる。でも、お願い」
「一体どうしたっていうんだ! 急用って何なんだよ」
「大した事じゃないんだけど、どうしても行かないといけないみたいで……」
そのあとの言葉が続かなかった。
彼は少しイラついた感じで
「わかったよ。でもできるだけ早く来てくれ。今回は何か波乱が起きそうだ」
「そう、わかった」
何かヤな予感は当たるっていたのかもしれない。
これが和樹とまともに話せた最後の言葉だった。
役員会は社長不在のまま始められた。
この議案に対し承認、賛成という役員は起立を願います。
12人いる役員全員が起立した。
その中に片岡和樹。
彼の姿もあった。
私が在籍しない役員会で議題は決議された。
社長 「スレイユ・ミィシェーレ」の解任という議題が。
「Idiot!」(馬鹿!)
「Putain de Merde!」(ピュタン ドゥ メ-ルド! このくそ野郎)
自分の姿を鏡に写し出し、自分に向かって声を張り上げ、怒鳴った。
部屋の中はもうめちゃくちゃ。
帰るなりそこらじゅうの物を投げては壊し、ひっくり返しては床に散らかし、挙句の果てにワインを3本一気飲みした。
飲み干した後、すぐにトイレに駆け込み飲んだものすべて吐き出した。
最後は何も出なくなっても、トイレの中で「うげっ!」と声にならない声をあげながら便器を抱え込んでいた。
ようやくトイレから出て、ふと写し出されたその姿に、私は叫んだのだ。
だけど、どんなに叫んでも、誰一人私を心配してくれる人なんかいやしない。
悔しさが湧き出てくる。
みじめな自分の姿を見ていて、涙が湧き出てくる。
「なんでよ! なんで私がこんな目に合わないといけないの」
そう言いながら、目の前に転げ落ちていた珈琲カップを手に取り、呆然としながらそのカップを眺めていた。
和樹の使っていた、お気に入りの珈琲カップ。
そのカップを見ながら、みじめな自分を自分で慰めようとしていることに気が付き、怒りがまたこみあげてきた。
そのみじめな無残な私の姿を映し出す鏡に、そのカップを思いっ切り投げつけた。
鏡も、カップも粉々に砕け散った。
その時飛び跳ねた破片が、私の頬をかすめた。
すぅーと血が頬からにじみ出る。
ほんの数時間前の事だった。
数時間前、私のすべては砕け散りすべてを失った。
役員会、そして病院からの連絡。
この二つが私の人生を閉ざしたのだ。
会社へ帰るのを遅らせ、私は病院へと向かった。
そこで明かされた真実。
余命2カ月の宣告
すぐに入院をするようにあの医師は言った。
しかし、入院をしたところで、私の命が助かる見込みはもうない。
確実に私はあと2カ月後、死を迎える。
病名は……わからない。
何処が悪くて、どうして私はあと2カ月で死なないといけないのか、その原因さえ不明。
あの上原医師の話では、現在の医学では解明が付かない難病であるとしか言えないと、言葉を選ぶように私に説明をした。
だけど、あと2カ月という言葉が、その時から私の頭の中をずっと駆け巡っていた。
物腰柔らかくとても紳士な彼の言葉は、何も私の耳には入らなかった。
正直取り乱しそうになったのは事実。
そんなことをいきなり言われて平然としていられる人がいるだろうか?
私には到底無理なことだ。
死を予期していたわけでもないのに。
「もう時期あなたは死ぬんだよ」
なんていきなり言われて「はいそうですか」なんて気軽に返せるほど私の心は強くないのだ。
でも、不思議と時間が経つにつれ、私の気持ちは落ち着きを取り戻しつつあった。
どうせ、死ぬんだったら、もう死ぬことが決まっているんだったら、何も病院のベッドで何もせずにその時を待つのはいやだ。
そんな想いが胸の中から湧き上がる。
「大丈夫ですか? スレイユさん」
心配そうに私の顔を静かに見つめ、上原医師は優しく問いかける。
「………正直なところ、大丈夫と返せるほど、余裕があるわけじゃないんですけど」
「そうですよね。いきなりこんなことを言われて平然としていられる人はいませんよ」
この人は言葉がうまいのか。それとも相手の感情をコントロールするのがうまいのか? 上原医師の声を訊くとなぜか心がおちついて来るような気がする。
「先生、私入院はしません」
「それはどうしてですか? これからどのような症状が出てくるかさえも分からないんですよ。できるだけ、安静にされている方がよろしいかと思いますが」
「それでも、今は私何ともないんですもの。いつもと何も変わらないんです。それに私に残された時間があとわずかというのが本当なら、私はやり残したことを精いっぱいやって悔いを残したくないんです」
きっぱりと答えた。いや正確には答えられたというべきだろう。
「そうですか、わかりました。貴方の意思を尊重いたします。でも、何かあったらすぐにご連絡ください。それと気休めかもしれませんが幾つかお薬を処方しておきます。症状をいくらかでも緩和させることが出来るかと思いますので」
処方箋をもらい、すぐに薬局で薬を受け取り、急いで会社に戻った。
会社に戻る途中、不思議とさっきまでの話がまるで夢でも見ているかのような、嘘のような、自分のことなんかじゃないような、そんなことが現実にある訳がない。
自分に言い聞かせてるというよりも、まるっきり信じていない。私は意外と楽天家だったのかもしれない。
それも究極な楽天家の様だ。
会社に向かう、仕事に向かう。
私はこの仕事が好きだ。
自分で始めた夢の仕事だ。この夢を多くの人と分かち合いたい。
だから会社の名も「Pays de reve ペイドゥリーヴ社」日本語にすれば「夢の国の会社」
仕事に没頭すれば嫌なことも全て忘れることが出来る。
後残された時間が本当にわずかなら、やるべきことは山の様にある。
やるべきことではない。やり残していることが山ほどあるんだ。
悲しんでいる暇なんか、そんな暇があったら一つでも仕事をこなしたい。
私には仕事がある!
今の私から仕事を取ったら何が残るの?
くすっと笑い、自分に活をいれたかの様に身を奮い立たせた。
会社に着き、自分のオフィスに入った途端、私の思いは見事に打ち砕かれた。
私のディスクの上に置かれた一枚の紙きれ。
役員会での決議報告書。
社長不在のまま役員会は開催され、その議題は社長である私の意見など一言も受け付けず、決議された。
告
緊急役員会において、代表取締役社長 スレイユ・ミィシェーレの解任を役員全員の賛成の元決議されたことを報告する。
辞令
解任 代表取締役 社長 スレイユ・ミィシェーレ
「は?」
目を疑った。
私、まだ動揺しているんだ。
何これ? 嘘でしょ。
役員会終わったんだ。
「役員全員」
この文字がやたらと気になった。
役員には和樹もいるのに。
和樹も私のこの役員会の決議に賛成したの?
和樹も私にこの会社を辞めろって言うの?
私と一緒に立ち上げたこの「夢の国」を出て行けというの?
すぐに和樹の携帯に電話をかけた。
コール音はなる。コール音は続く。
でも彼奴は出なかった。
居留守? わざと出ないの。
何度もかけた。何度も。メールも送った。何度も。
でも和樹からの返信は何もなかった。
呆然と、まるで魂が体から抜けていったような状態になっている時、オフィスのドアをノックする音がした。
私が声を出す前にそのドアは開いた。
ゆっくりと見上げるとそこには役員の一人、吾妻幸太郎《あずまこうたろう》の姿があった。
吾妻幸太郎、彼は役員の中では一番の敵対派。
「やぁお戻りでしたか、スレイユ社長。いや、元社長と言うべきですね」
「な、なんですかこの報告書は。社長である私の意見は何一つ通す事は出来ないんですか?」
「何を言われるんですか。貴方自身の進退の決議に対して、あなたの意見を聞いてどうするんというんですか? それに役員全員の賛同を得た決議ですよ」
吾妻幸太郎は、不気味ないやらしい笑みを浮かべながら私に向けて言う。
「あなた一人だけがどんなにあがいたところで、役員全員の意思は貴方の解任という結果を導いているんですよ。たとえあなたが役員会に在席していたとしても、結果は変わることはなかったでしょうね」
「和樹は、片岡和樹は」
「片岡君ですか。彼も自分の意思ですよ。彼は彼自身、あなたがこの会社に不必要であるということに賛同したんです。しかも誰も彼にそうするように裏から手を回すような卑劣なことはしていませんよ」
「そ、そんな。和樹までもが……信じていたのに。唯一私のパートナーだと信じていたのに」
「そんな泣き言をいまさら言われましてもね。そうそう、スレイユさん早くあなたの私物は整理してくださいよ。もう時期新社長がここの席に座ることになりますからね」
「新社長? いったい誰なんですか?」
「ハハハ、野暮なことをお聞きになりますね。もうあなたには関係のないことじゃないですか」
鋭い眼光が私を突き刺した。
後で聞いたことだが、会社の株式が大量に売られていた。裏で手を引いていたのがこの吾妻幸太郎であることを。
それを阻止できなかった。気づくことさえ出来なかったのは私の失態でもあると言える。
そういうことはすべて和樹に任せっきりだった。
もう何も考えることが出来ない。
私はもう時期死を迎えると今日宣告された。
会社はすでにほかの会社に売られていた。
私は……何もかも。
何もかも失った。
頬からにじみ出る血を手の甲ですくい、口にした。
私の赤い血の味がした。
私の血の味は苦かった。
甘い人生なんかない。今までの苦労は何だったんだろう。
苦労? 私は苦労だなんて思っていない。
楽しかった。
念願の日本に来て始めたこの仕事が楽しくて、生きることがとても幸せで、たくさんの仲間に出会えて。
私は幸せだった。
でも、その幸せは一度にすべて私の前から消えうせた。
カーテンの隙間から外の明るさが、少しずつ私を照らし始めていた。
部屋中に散らばった荒れ狂った後のかけらをただ目にして、何も考えることすら出来ないのに、なぜか体中が急に火照りだす。
熱でも上がったのか?
訳の分からない病気のせいだろうか?
病名さえも分からないなんて。なんでもいいから私は、この病気で死ぬんだという何か実証が欲しいのか。
それともまだ信じていないのか?
もう時期死を迎えるというのに何も変化がない。
いたって健康。
心の中以外は……。
おもい体を何とか動かし、シャワーを浴びに向かう。
シャワーを浴びれば少しは気がまぎれるだろうか?
これは現実じゃなくて、夢だったら。
目覚めればいつもの通り、和樹が傍にいて微笑んでくれる。
きっとそうだ!
着ているものを一枚ずつ脱ぎ捨てた。
ブラのホックを外し、押し絞められていた胸を開放して一息つく。
最近少し太ったのか?
また少し胸が成長したかのような気がする。この年になってもまだ私は成長期なんだろうか。
それでもウエスト周りはまだすっきりしていると思う。
補正下着なんか使わなくても、体形の維持位は出来ている……つもりだ。
その白く透き通るような肌に、少しぬるめのシャワーのお湯が全身を包み込む。
たちこめる湯気の中
「ほんとうにこれは夢よね」
と、ひとり呟いた。
バスローブを身につけ、部屋の扉を開いた。
虚しさが私を包み込んだ。
さっきと何も変わっていない。
夢じゃないんだ。……現実。
そう、これは現実だ。
この荒れ果てた部屋がそう私に言い聞かせている。
「そっかぁ、現実なんだ。夢なんかじゃないんだ。なぁんだ、夢かとおもっちゃった」
あれ? 意外と冷静なんだ、私。
不思議と虚しさや悲しみ、怒りが薄れている。
現実を受け入れようとしている。
これって病気のせい?
こういう病気なの?
訳わかんない。
「あはははは」
なんだかおかしくなってきた。
笑えて来た。
ふと目にするガラスの破片。
何も考えていなかった。
ほんとうに何も考えていなかった。体が、手が自然とその破片をつかみ取った。
鋭くとがったガラスの破片。
この次に取る行動はおのずとわかっていた。
恐怖?
何も感じない。これを無意識というんだろう。
バスローブがはだけ、白い肌があらわになった。
乳首のあたりから徐々にはってくるような感覚。
この感覚。私かんじている……
なんだか気持ちいい。
ぬくもりはないけれど、誰かに愛されているような。そんな感じ。
この破片をこの胸に突き刺せば。
案外死ぬときって、気持ちいいのかもしれない。
興奮はしていない。でも私の躰すべてにエクスタシーが駆け巡ろうとしている。
ピンと張り詰め、固く立ち上がった乳首。
痛いほど固くなっている……。
ゆっくりと、鋭くとがっているガラスの破片を自分へ向け、破片を持つ手に余す手を添え。
徐々に高鳴る鼓動にめがけ。
赤い血が、あの苦い私の赤い血が一度に噴き出るだろう。
辺り一面真っ赤に染まる。私のこの白い肌も赤く染まる。
カーテンの隙間から差し込む光に照らされ、きらりと輝くその破片を。
突き刺す……。
インターフォンのチャイムが鳴った。
その音に反応するように動きも止まった。
またチャイムが鳴る。
急速に熱が冷めてしまったかのように、手にしていたガラスの破片が手から落ちた。
そして、またチャイムが鳴り響く。
その音に呼ばれ、ふわりとした感覚のまま立ち上がってインターフォンの画面を見た。
誰もいない。
なにも映っていない。
いたずら? こんな時に。
ふらふらと玄関に向かい、ロックを解除してそっとドアを開けた。
バスローブ一枚の姿で。
ドアの隙間から、黒い影? 黒い布地が見えた。
「ようやく開けてくれた! よかった」
「誰?」
「初めまして、スレイユ・ミィシェーレさん」
そこにいたのは小柄な、まだ若きシスターだった。
◇◇
「誰? あなた。神のご加護ならもう私はいらないわよ」
「そのようですね。でも、下着ぐらいは履かれた方がよろしくないですか? 目のやり場に困ってしまいます」
その言葉にはっとなり、バスローブであらわになった体をくるんだ。
「綺麗な身体なさっているんですね。出来ればこのドア開けていただければ助かりますけど。ちなみに布教で来た訳じゃないんですけど」
私よりかなり歳は下の様に見えるけど、その姿がそう感じさせているのか? それとも彼女自身がそうなのか。
目の前のその彼女から感じる清楚な感じが私の手を動かしたのだろう、ドアチェーンを外し、玄関ドアを開けた。
「とりあえず、入ってくれる? この格好で開けっ放しはまずいでしょ」
「そうですね。それではお邪魔します」
ゆっくりと彼女の足が動いた。
コツリ、と。片方の足が玄関の床を鳴らした。
違和感のある音。その足元を見ると、ヒールのない黒のローファーの靴。
私が子供のころから見ていたシスターの靴とは少し感じが違う。着ている修道着は同じようなものだが、靴一つでイメージがこうも変わるものだろうか。
裾の長いローブから見える黒い靴。そしてさっき聞いたコツリと床を鳴らした音。
立っている彼女のその姿はいたって普通のシスターの姿だ。
そんな違和感を感じながらも。
「布教じゃないなら、あなたがここに来た理由は何? それにどうして私の名を知っているの?」
「どうしてあなたの事知っているかって? そんなこと別にいいんじゃない、スレイユ・ミィシェーレさん。そういえば私まだ名乗っていませんでしたね。私の名はカオリ・ラヴィナーレ。一応、母親がフランス人で父親が日本人のハーフっていう設定なの」
「設定なのって?」
「そう、設定。そして私はシスター、神の使い。私は、主の使い。主の御心のままにあなたを導くためにここに来たの」
「主の御心のままに私を導くって……」
ああ、なんだ! もう迎えが来ていたのか。
そっかぁ私、死んだんだ。
あっけないな。死ぬのって。
もっと痛くて苦しいものだと思っていた。
気持ちよく死ねたんだ。それならよかった。て、言うことはやっぱりこの子は私の魂を天国に導きにやってきたんだ。
あと2カ月くらいは時間あったんだけど、ま、いいかぁ。どうせ、どうあがいたって死ぬことには変わりはないんだろうし。
そんなことを一人考えている私に、少しもじもじと躰をさせながら彼女が私に言った。
「ねぇ、黙って立っているの今私ちょっと苦しんだぁ。だって結構歩いてきたんだもの。あの凄まじく散らかったお部屋で構わないから座らせてもらえないかしら、それにのども乾いちゃった。できれば何か飲み物ほしいんだけど」
はぁ、もう何もかも知ってるんだ。そうよね、主の使いだし当然か。でも最近の使いはのども乾くんだ。人間らしいのね。
気が楽になった。もう死んでいるていうことが、こんなに気持ちを安らかにしてくれるなんて思ってもいなかった。
でも、あの部屋に行けば私の無残な亡骸が残されている。
それを私もこの子も見ることになるんだろうな……それはちょっと嫌かもしれない。
仕方ないか。ま、この子は見慣れているかもしれないんだろうけど、一言言っておいた方がいいんだろうね。
「中にいれるのはいいんだけど、物凄く悲惨な状態よ。それに、私の亡骸が残っているけど大丈夫? 多分、あなたは見慣れているとは思うんだけど」
彼女はゆっくりと顔を上げ、私の目を見つめながら
「亡骸ですか?」と言った。
「だって私もう死んだんでしょ。今ここに居るのは私の魂。だからその抜け殻がまだ残っているんでしょ」
当然の様に言う私に彼女はにっこりとほほ笑んで
「スレイユ・ミィシェーレさん。あなたはまだ死んではいませんよ」
「えっ! それってどういうこと?」
にこやかに彼女、カオリ・ラヴィナーレは言った。
「死んだ人がドアを開けれますか?」
「あ、! でも……」
「面白い方ですね。スレイユさんは」
「はぁ……」
「とにかくお部屋行っていいですか?」
「あ。はいどうぞ」
いきなりかしこまる私。ペースは彼女にすでに握られている。
「はぁ、想像以上ですね。この散らかり方は」
あきれるような声、まぁそう言われても仕方がない。
そして彼女は追い打ちをかけるように
「ほら、ないでしょ、あなたの亡骸というものは」
彼女が言うように私が想像していた、無残な血まみれ姿の私の亡骸は、どこにもなかった。
「ないですね……。私の早とちり?」
「そうですね、勝手にあなたがそう思いこんだだけですよ」
そう言いながら彼女はソファーの上に腰を落とした。
そんな彼女の歩く姿を見てちょっと変だなって感じた。
なんだろうどこかぎこちない。
カオリ・ラヴィナーレは「はぁ」と言いながら、ようやく落ち着いたという感じに安どの声を出す。
「ミネラルウォーターでいい? あとはワインとビールくらいしかないんだけど」
「十分ですわ」
冷蔵庫から、ミネラルウォーターのボトルを取り出し、彼女にわたそうとしたとき、せりあがった修道着のローブの裾から黒いタイツを履いた足が見えた。
その足は片方が極端に細かった。
異常と言えるほど細く感じる。
その足のタイツは少したわんでいた。
私の視線を感じたのだろうか?
「もしかして、気が付きました? 私の足のこと」
触れてはいけないところだったんだろうか? でも彼女は何も臆することなく言った。
「私、左足途中からないんです」
そう言いながら、ローブの裾をたくし上げた。
それは一目でわかった。黒いタイツの上からでも彼女の左足がひざ下から別なものに変わっていることに。
「それって、義足?」
「ええ、そうですよ。ここに来るのにずっと歩いてきましたから、ちょっと痛いんですけどね。出来れば外したいんですけど、いいですか?」
またにっこりとしながら私に問いかける。
見た目は、幼そうに見えるけど、意外と芯は強い子の様だ。
「別にいいわよ。そういう事情なら」
「ありがとうございます」というなり立ち上がり、着ている服のボタンをはずし始めた。
スルッとローブが床に落ちた。
彼女の張り詰めた若い肌があらわになった。
着ていたローブのせいだったんだろうか、幼そうにしていて意外と胸はあるようだ。
それに整ったボディライン。
大人と子供の中間点といった感じがする。
でも、なんだろう。
このしなやかさを感じる体に、色気さえも漂わせる雰囲気。
同姓の私が見ても何かそそられるのは、この子の特質だろうか?
そして目に入る腰のあたりに着けているベルト。
タイツを下ろし、下着だけの躰になると、その片脚は膝の下から別な機械じみた足に変わっていた。
腰から延びる束帯は太もものあたりでもう一つのベルトを支え、彼女が身に着けている義足を持ち上げるように、また束帯が義足へと繋がっていた。
その義足をつけた彼女の姿は、なぜかとても美しく見えた。
品のある身体。躰……私の体が何だか安物の様に感じる。
安物? 三十を過ぎた女とまだ十代であろう彼女の躰を比較するのが、もともと違いがありすぎるのでは?
でもなんだろう。私よりもずっと大人びた感じがする。
見た目はまだ幼そうなんだけど。
腰のベルトを外し、太もものベルトがワンタッチで外れた。
膝上を覆うように装着されていた義足が外れる。
ソファーにまた腰を落とし「ふぅ」とため息のような声を発する彼女。その外れた足の先は丸く途切れていた。
「ああ、やっぱり赤くなってる」
その足の先端を見て彼女は言う。
その姿に私の胸の鼓動がドキッと高鳴った。
片脚のない少女のその姿に……。
「どうかしました?」
「い、いえ。なんでもないわ」
「そうですか。すみません、いきなりこんな格好になってしまって。初めてお邪魔するのに」
「いいのよ、気にしないで。それより、だいぶ赤くなっているけど大丈夫? お湯で濡らしたタオル持ってくるね」
「ありがとうございます。そこまでして頂けるなんて恐縮です」
またにっこりとほほ笑んで彼女は返す。その微笑みは私の気持ちを幾分やすらかにしてくれるような気がする。
タオルをお湯で濡らし固く絞って彼女の所に行き、そっとその膝の部分にタオルをあてがう。
ちょっとびくっと躰を震わせる。
しみたんだろうか? 赤くなっているところがすりむけているのかもしれない。
彼女の躰は温かく、ほのかな甘い香りがした。
「どうしてこんなになってまで私の所に来たの?」
その問いに彼女、カオリ・ラヴィナーレはこう言った。
「主があなたの所に行くように導いたからです」
「導きがあった。でも私のこの状態を誰が伝えたの? 昨日の事なのに、あなたはまるでずっと前から私がこうなることを知っていたかのように言った。一体どういうことなの?」
「そうですね。私はあなたの命があと2カ月であること、あなたの会社からあなた自身が裏切られてしまう事。そして無意識に、その命を絶とうとしようとしたこと。すべて私は知りながらここに来ました。私自身が見て感じたあなたの未来。その時が訪れるまでずっと私はあなたと出会うことを禁じられていました。その時が来るまでです」
「禁じられていた? 私の未来をあなたは見ていたというの? どういうことなの。こうなることが分かっていたんだったらもっと早く私に教えてくれれば……。でももし、それが主の導きということなら仕方ないのかしら」
「随分と理解が早いですねスレイユさん。でも本当は主は存在しないんですよ」
「主が存在しないって……」
私はフランスで生まれ、生まれながらのキリスト教徒。
幼き頃からミサに出向き、祈りをささげてきた。
この日本に来てからも、近くの教会に出向き祈りをささげていた。
彼女はその教会にいたのだろうか? 私を陰ながら見ていたんだろうか?
でも彼女は言った。私の未来を感じ、それを見たと。
本当の事なんだろうか?
それでも今のこの状態を、彼女は言い当てるかのように私に話した。
まるで隠しカメラでも仕掛けていてそれを見ていたかのように。
もしそんなカメラが仕掛けられたとすれば、でもそんなことはないと思う。
それは彼女のあの微笑みが、私に語り掛けているように感じたからだ。
それに主が存在しないなんてシスターの彼女が言うべきことじゃないと思うんだけど。
主とはイエスキリストの事を言うんだろうけど、実際に私はキリストに会ったことなんかないし、聖書を熱心に読み込んでいるわけでもない。
いつのころからだろう。祈ることは誰のためでもない、自分のために自分の心を浄化させるためにいようと思うようになった。
そんな熱心でもない教徒に存在しないと言われた主からの導きのため、彼女は私の未来を見たのだというのか?
そもそも、未来を予言できる能力を持つこと自体普通じゃない。
信じがたいことだけど、やっぱり受け入れてしまう自分がいる。
それに彼女のその姿に、私は何かを求め始めている。
カーテンの隙間から差し込む陽の光に、カオリ・ラヴィナーレのその躰が照らさている。
綺麗だった。
彼女のその肌を照らす光はまるで、マリア様を見ているかのように光り輝いていた。
「ねぇ、あなたのその言葉、私信じてもいいように思えてきた」
「そう、でも信じるも何も現実に今あなたに起こっていることは、事実なんだもの」
「だったら、あなたが今の私のこの運命を変えてくれるとでも言うの?」
彼女の裸体は透き通るように美しく、その肌に引き込まれような感覚に襲われる。
例え同性であろうとも、湧き上がるこの欲情を抑えることは、苦しみにさえも感じた。
さっき出会ったばかりのこの子に。
私は異常者なのか?
まだ私の半分くらいの年の子に、熱く感じるこの躰がこの子を求めている。
「どうかなさりましたか?」
今まで、少し半開きのようなうつむき加減の瞳が、大きく見開きこの私を見つめている。
「あ、ううん。な、何でもないの」
そう言いながらも私の心臓の鼓動は、少しづつ高鳴り始めている。
私は同性愛者だったんだろうか?
それともこれはもう、何もない自分が生み出した新たな自分自身の想いなのか?
バスローブ一枚、羽織っただけのこの姿。それに質素な下着を身に着けたこのシスター、カオリ・ラヴィナーレの身体から感じる、彼女の歳にあわないエロスのオーラが、私をいけない行動に導こうとしている。
「スレイユさん。あなたは私が救いの手を差し伸べるかのような期待をお持ちの様ですけど、実際私はあなたを救うことは出来ません。いいえ、助けようなんてこれっぽっちも思っていません。だって私は、あなたを助けるためにここに、あなたに会いにきたんじゃないんですから」
その言葉を彼女から聞いて少し胸に刺さった。
言葉というものは恐ろしいものだ。
今までの彼女の話から、私は神の使いが手を差し伸べてくれたんだと……そう感じていた。しかし今彼女はきっぱりと言った。
私を助けるために来たんじゃないと。
私の未来の姿を、この子はずっと前から知っていたと言った。
それならこうなることが分かるのなら、これからどうなるか? その未来も見えているんだろう。
だとするならば、私の進むべく道を彼女は知っていることになるんだろう。
そう私は考えていた。
だから彼女は私のこのボロボロになった運命を、変えてくれる力を持っていると信じていたのに。
そんなに甘くはないか……現実は。
「そうだよね。そんなうまい話があるわけがないよね」
クリっとした目をしながら彼女はにっこりとほほ笑んで
「そうですよ。そんな都合のいいようなことってないんですよ」
まったく、この子は恐れを知らないんだろうか? 私がどんなに苦しんで、さっきまでいたのか。その悲しみと失望感を彼女は何も知らないのに、それなのに、微笑んで返す言葉は一言一言が私の心に少しづつ刺さる。
「はぁ、」と。ため息をつきながら彼女の隣に腰を落とした。
そんな私を見て
スレイユさんの身体綺麗ですね。
はだけたバスローブから私の裸がさらけ出されていた。
トリガーを引いたのはどっちだ?
私か?
それともこの子か?
無意識だった。躰が勝手に動いていた。
カオリ・ラヴィナーレの躰を引き寄せ、私は彼女の唇に自分の唇を重ね合わせていた。
ゆっくりと、そして熱く、息が少しづつ上がっていく。
カオリ・ラヴィナーレは嫌がるそぶり一つあらわさない。それどころか私の唇を強く重ね合わせながら、彼女の熱い舌が割り込んでくる。
この子、キス上手。
和樹とのキスとは比べ物にならい程、溶けていきそうになる。
温かい。肌の温もりが躰全身に伝わるようだ。
長いキスの後、彼女の瞳をずっと見つめていた。そんな自分がとても恥ずかしくなって一言「ごめん」と、言ってしまった。
「別に構いませんわよ」
ちょっとうつむきになりながら、カオリ・ラヴィナーレは言う。
「私はいけない聖職者なんです」
「それってどういうこと?」
「……そ、そう言う事。なんです。初めてじゃないんです私」
初めてじゃないって……
まぁ今どきのこのくらいの年の子だったら、それなりの経験がある子は多いだろうけど、彼女は仮にもシスターの姿をしているし、自分でも主の使いだと言っていた。その聖職者。でも、何か事情があるのかもしれない。
「い、今どきのシスターも恋愛位するかもしれないわよね」
苦し紛れに出たような言葉に
「恋愛? そんなんじゃないんですけどね」
ちょっと悲しげな声が返ってくる。
そんな彼女の姿を見て、いとおしさを強く感じてしまう自分が今ここに居る。
彼女の耳元にやさしく息をかけるように囁いた。
「今日は時間……大丈夫なの?」
小さく頷く彼女の躰を私は抱きしめた。
抱きしめると心が和らぐ。暖かい気持ちになれる。さっきまで冷たく何も感じ無かったあの心は温かさを感じていた。
私は何か忘れかけていたものを、今思い出したような気がする。
人の心の温かさ。人の身体のぬくもり。
ずっと前に、どこかにおいて忘れてきてしまった想い。
この子は、それを私に思い出させてくれた。
それからもう、言葉なんかいらなかった。
いけないことをしている。それは分かっている。
この子はまだ未成年だ。しかもシスターという聖職者であるのに。
私たちは、お互いの肌を重ね、触れ合い、目の前にいるその人の心を求めあった。
和樹とはもう数えきれないほど肌を重ね合わせた。
でも、彼との恋は何か冷たさをいつも感じていた。
満ち足りない想い。どこか寂しさだけがいつも最後に私を襲う恋。
カオリ・ラヴィナーレの鼓動は、私のこの満たされない心を溶かしてくれるような温かさを伝えてくれた。
今まで私は何かを犠牲にしていた。
その何かは今までわからなかった。
でも、彼女のその体に触れるたびに想いは蘇《よみが》る。
私たち二人はお互いの躰すべてを、残すところなく触れ合った。
全部を、すべてを二人は共に受け入れた。
言いようもない高揚感が私たちを包み込み、お互いの躰と心を激しくかよわせた。
初めてだ。
これほど愛しさを感じ、一人の人を思えるこの感じを得たのは。
二人の瞳が合わさるように見つめあい、高鳴る鼓動が静かに落ち着くのを感じながら、私たちは抱き合う。
「いけない子ね」
「そうですか? でも、素直な私の気持ちがこうなっただけですよ」
「素直な気持ちか……。それを言うなら私はあなたに諭《さと》されたのかもしれないなぁ」
「うふふ、私は司祭様じゃありませんわよ」
「そうだけど」ちょっとむくれてみた。
「スレイユさん、可愛いい」
「ちょっと大人をからかわないの!」
毛布に潜り込む彼女を追うように私も毛布の中に潜った。
長いつややかな髪が私の顔を覆いつくす。柔らかい甘い香りが鼻をすすった。
「ねぇ、今日泊っていきなさいよ。いいでしょ」
彼女の髪をなでながら、毛布の中で囁《ささや》く。
なでるその頭がこくりとうなずく。
「うれしい。もう一人でいることに私耐えられないの」
カオリ・ラヴィナーレのその幼い体を抱きしめた。
お互いの体液でべとべとになったその体で。
「私たちの躰べとべとだね」
「べとべと」
「お風呂はいろっか」
「うん」
素直な言葉が返ると、可愛さが倍増してくる。
バスタブの中で。
「おなかすいたね。何かケイタリング頼もうよ。カオリは何が食べたい?」
「ピッツアが食べたい」
「ピッツアかぁ、いいねぇ。後一緒にフライドチキンも注文する?」
「フライドチキン? 食べたいけど太るかなぁ」
「大丈夫また運動すればカロリーは消費されます。食べたら今夜は寝かせないぞぅ!」
「スレイユのエッチ!」
ぶぅと、ほほを膨らませて怒った顔がまた可愛い。
もう最初に出会った時の、あの清楚なシスターの面影はなくなっていた。これが彼女、カオリ・ラヴィナーレの素顔。そして本当の心の姿だと思った。
この子といれば、怖さなんか忘れられる。
私は一人なんかじゃない。その安心感が私を迷走の世界へと引き寄せていった。
そしてカオリは呟いた。
「でも、ここにはケイタリングは届かない」
「どうして?」
「だって……、もうこの部屋は存在しないんだもの」
「……え」
カオリ・ラヴィナーレのその言葉の意味が理解できなかった。
この部屋がもう、存在しない?
それはどういうこと?
だって引っ越しだってしていないのに、部屋はあのままのはず。それなのに存在しないって言うのはどういうことなの?
まさか異次元でも迷い込んでしまっているの。私たち……。
「ねぇ、ねぇ、カオリちゃん。何言ってるのよ。確かにあの有様の部屋だから、人はあげることすらできないけど、確かにまだちゃんと家賃も払っているし、部屋自体が存在しないって、消えちゃったってことなのかしら。そんなことってあるの?」
カオリ・ラヴィナーレは少し困った表情で。
「正確には存在しないんじゃなくて、見つけ出すことが出来ないって言った方がいいのかぁ」
「それってどういうことなの」
浴室から出てあの散らかり放題の居間に行くと、がらんとした空間だけが広がっていた。
何もなくなっていた。
家具も何もかも……。
「どうしたのこれ?」
「覚えていないの? あなたがすべて片付けたのよ」
そんなはずはない、だって、私片付けた記憶なんて何もないんだもの。そもそもいつやったったの? この子が私の所にやってきてから、まだ1日もたっていないっていうのに。
「楽し時はすぐに消えてしまう。私はあなたと出会ってからもうすでに1週間という時間が過ぎているのを、あなたは気づいていないの?」
「1週間? そんな。だって」
「あら嫌だスレイユ、ボケちゃったの」
記憶の断片をつなぎ合わせるように思い出してみる。
だけど、その1週間の記憶はすっぽりと抜け落ちたように、浮かんでこない。
「もう、ここには私たちいることも出来ないのよ」
「ちょっと、ちょっと待って」
混乱する頭の中を必死に冷静にしようと努力しているんだけど、どうしても信じられない。
「だって、私たちさっきまでベッドで一緒だったじゃない。絶対、そうよ。1週間もずっといたって言うの?」
「さぁ、どうでしょ。うふふ、それは私にもわからないわスレイユ。でもあなたは私にこう言ったのは確かよ」
すべてをなくして片付けて、て。
私そんなこといつ言ったの?
そんな記憶さえもなかった。
「でもそれはあなた自身が望んで願った事なのよ」
カオリ・ラヴィナーレは私の横でつぶやくように言った。
「私はその願いを、かなえてあげただけ。声には出さなくてもあなたの心の叫びが、私に届いた。だから私はあなたの願いを叶えただけ」
すべてを失った私の心の叫びを彼女は、叶えたという事なの。
もう時期死を迎えるこの私。
仕事も地位も全てを奪われたこの私。
確かにすべてをもう片付けたかった。だから、私自身のこの存在も消そうとした。でも……それは出来なかった。
この子、いいえ、彼女が私の元に現れてから、私はその事を忘れていた。
思い出そうともしていなかった。それがすでに1週間という時間の中であったと言うの。
楽しい時間はすぐに過ぎ去ってしまう。
私は最後に彼女と楽しい時間を過ごすことが出来たんだ。だから思い残すことなく記憶もなくしていたんだ。
そう思うしかなかった。
だって事実だもん。
会社を首になってすべてと失って、この命さえもあと2か月で消えてしまう。
だから私はすべてを消し去ろうとしたんだ。
そしてカオリ・ラヴィナーレは、私のこの願いを叶えたという事なんだ。
不思議な出会い。
彼女から感じる何となく不思議な感じが、これは現実であるということを強く感じさせている。
「さぁ、私たちもここから出ましょ」
脱衣所にはきちんと衣服が用意されていた。
まるで夢を見ているようだ。
すべてが夢の中で起きているような、そんな出来事ばかりが私をずっと追いかけて、そして包み込んでいた。
私が求めている夢。
それは何だったんだろう。
ふと頭の中に浮かんだ想い。
すべてが順調に進んでいた。
何もかも、仕事も、恋人も。
それが一瞬に無くなった時、私はどうするんだろうか?
前からそんなことを頭の片隅にずっとあった。
そんなことはあり得ない事実だとわかっていても現実に、もし、起こったら。
私はどんな行動をして、どんな思いになるんだろう。
幸せすぎてはいないのか?
ずっと思っていたその不安……それが現実となり今私を襲っている。
思っていたことが夢であり、その夢が現実となって姿を現し。その夢の中で私はまた夢を見ているかのような出来事に巡り合っている。
頭の中が混乱しすぎている。
「私たちもここから出るって、私はどこに行ったらいいの? もう行く場所なんかないわよ」
「大丈夫ですよ。主の御心のままに、私と共に最後の日まで一緒に……」
「一緒にって?」
「大丈夫です。スレイユ、あなたが求めているその世界に私がいざないます。あなたはただ信じてくれればそれでいいんです」
やっぱり、カオリ・ラヴィナーレは私を導きに来てくれたんだ。
にっこりと微笑んだその笑みに吸い込まれるように
「さぁ、目を閉じて。祈りましょう」
言われるままに祈った。彼女と共に。
静かに目を開けると、そこはすでに私のいた部屋ではなかった。
Pays de reve ペイドゥリーヴ社
ペイドゥリーヴ。フランス語で夢の国。
私の会社の名。
私は人々に夢を見てほしかった。
始めは夢という漠然としたイメージしかなった。
夢って何だろう?
そう考え、自分が抱いている夢をいつも追っていた。
寝ている時に見る夢。目標に向かう夢。
夢と言ってもいろんな形がある。
そんな漠然とした夢という現象を形に出来ないだろうか?
そこからだ。私は……そうだ。
私は研究者だった。
夢を形にする研究。周りの人たちはそんなバカげた事に何の価値があるんだと、相手にもされなかった。
それでも自分の想いは消すことは出来なかった。
そしてようやく、研究の成果が見え始めた時。彼が現れた。
そう、片岡和樹《かたおかかずき》だ。
片岡和樹。彼は本当に実在した人物だったんだろうか?
彼自身、もしかしたら私の夢の中で描かれた男性だったのではないのか?
Pays de reve ペイドゥリーヴ社もほんとうに存在している会社なのか?
ステンドグラスに反射する陽の光が私の瞳に映りだされている。
そして私の横には、あの片脚のないシスター。カオリ・ラヴィナーレの姿があった。
「カオリ」
一言彼女の名を呼ぶ。
「はい、なんでしょう。スレイユさん」
彼女のその微笑みは、私が追い求めていた姿だったのかもしれない。
「ねぇ、あれからどれくらいの時間がたったの?」
「さぁ、どれくらいなんでしょうね」
返す彼女の言葉に、私は覚る。
もう時期私の命の火が、消えようとしているんだと。
「ここは、教会?」
「そうですよ、スレイユさん」
「そっかぁ、どこの教会かはわからないけど、できれば最後は自分の生まれた国に帰りたかったなぁ」
「そうですか。でも残念ながら、ここはスレイユさんの生まれ故郷ではありません。申し訳ありません」
「何もあなたが謝ることじゃないわよ」
軽く微笑んで見せた。
その私の姿を見て彼女は
「スレイユさん、あなたが望んでいた夢とはなんだったんでしょうね」
「さぁ、なんだったんだろう。私もよくわかんないよ」
「そうなんですか? でもあなたは自分の追い求めている夢をちゃんと見ていたんじゃないんですか」
自分の追い求めている夢。
記憶が少しづつ戻って来るような、不思議な感じがする。
そうだ、私は夢を追い求めていたんだ。
「ねぇ、聞いてくれる? 私の夢の話を……」
カオリ・ラヴィナーレのその微笑みは、私が追い求めていた人の幸せの微笑みだと。
今気が付いた。
今私に残されたものは……
「残ったのはこの白い肌の躰だけ。もう好きにしていいよ」
スレイユ……スレイユ・ミィシェーレ。
「あなたの夢を私に聞かせてくださいませんか。スレイユ・ミィシェーレ」
すべてを失い何もかも残すことなく、この世界から私は消えたかった。
でも、最後に私のこの夢の話だけは、誰かに聞いてもらいたかった。
その最後の夢を私は今から語る。
この水先案内、カオリ・ラヴィナーレに。
「少し、長くなるけど……いいかな?」
「ええ、大丈夫ですよ」
陽の光が私たち二人を包み込む。暖かい光の中、私の意識は静かに薄れていった。
被験者ナンバー001
スレイユ・ミィシェーレ
「あなたはこれからあなたが求める夢の世界で、生きることを望みますか?」