これより良い物件はございません!~東京・広尾 イマディール不動産の営業日誌~ (web版)

 道路に面した一面だけはガラス張りの、4階建。2階の窓際には観葉植物が飾られているのがガラス越しに見える。その建物の1階のドアを開けると、私は元気よく挨拶をした。

「おはようございます!」
「おはよー」
「おはよう」

 既に出社していた桜木さんと綾乃さんと「おはよう」と声を掛け合った。自席に着くと、先ずはパソコンのスイッチを入れる。そして、自分は給湯室へ。パソコンが完全に起動するまでの時間を利用して、給湯室でコーヒーを淹れるのだ。インスタントコーヒーの粉を入れたマグカップをポットの下に置く。ジョボジョボとお湯の注がれる音とともに、コーヒーの香りが漂った。
 コーヒーの入ったマグカップを持って自席に戻ると、私の相棒(パソコン)は準備オッケーな状態になっている。

 私はマグカップをデスクに置き、ワークチェアに腰を掛けた。青いワークチェアは人間工学が何たらかんたらという、社長イチ押しの一品だ。
 いつものようにパソコンにIDとパスワードを入れていると、横から視線を感じて私はそちらをパッと見た。綾乃さんが神妙な面持ちで、じっとこちらを見ている。

「?? どうかしました?」
「なんか……藤堂さんが最近綺麗になった気がするのよ」
「え?」

 狼狽える私に、椅子に座ったままで綾乃さんはずいっと間合いを詰めた。綾乃さんのファンデーションのノリ具合がしっかり見えてしまうほどの距離の近さ。

「うん、間違いないわ。綺麗になった。前より垢抜けたと言うか……ねえ、桜木もそう思うでしょ?」

 綾乃さんは自分の正面に座る桜木さんに話を振った。
 突然綾乃さんから話を振られた桜木さんは、パソコンから顔を上げて困惑した表情を浮かべている。それでも、次の瞬間には話題になった私の顔を見た。黒目の大きな切れ長の瞳がこちらを見つめる。桜木さんにまっすぐに見られて、私は顔が急激に赤くなるのを感じた。
 いつも優しくて仕事ができる桜木さん。好きになるなという方が無理がある。いつか熱い眼差しで見つめられたいと思うけれど、これは何かが違う。晒し者にされたような恥ずかしさを感じる。

「うーん、……そう…かな? 元々綺麗だと思うけど?」
「はぁ? あんたの目、節穴? 元々綺麗が益々綺麗になったの! 不動産にしか審美眼が働かないの??」
「え…?」
「あ、綾乃さんっ!」

 綾乃さんが眉を寄せて桜木さんに文句を言う。私はそれを慌てて止めた。いや、もう居たたまれないからやめてくれ。

 正直言うと、私の顔を見たまま眉根を寄せた桜木さんを見て、嬉しさ半分、落胆半分だ。
 『元々綺麗』と言われてお世辞でもめちゃくちゃ嬉しい。でも、ここは嘘でも『益々綺麗になった』と言って欲しかった。
 そんな私の心の内など知るよしもなく、桜木さんはじっとこちらを眺め、ますます目を細めた。私は自分のまわりに視線を走らせ、咄嗟にデスクの脇に置いてあったファイルで自分の顔を桜木さんからパッと隠した。

「あ、ほら。審美眼の無い先輩だから嫌われたー」

 綾乃さんがからかうように桜木さんに言う。
 デスク越しに物凄い視線を感じる。美術品を鑑賞すると言うよりは、珍獣を観察するような視線。私は耳にかけていた横の髪の毛をおろすと、いつもより顔が隠れるようにコソッと直したのだった。

 実は、綾乃さんの指摘通り、最近色々と頑張っている。
 朝の髪の毛のセットも念入りにしているし、雑誌のメイク特集を見ながら自分なりにメイクの練習したり、つい先日は生まれて初めてまつげエクステをしてみたりもした。
 何色ものアイシャドーを重ねると、目元がいつもより大きく見えた。ピンクのチークをのせると、表情がパッと明るく見えた。化粧品コーナーの美容部員さんと選んだローズレッドのリップグロスはプルンと唇を艶やかに彩った。エクステで付けたお人形のように長いまつげがクルンと上を向いて、気分も上がる。

 なぜって?
 そりゃあ、好きな人に少しでも可愛いと思われたいというのが乙女心でしょう? 

 綾乃さんが気づいてくれたのだから、少しは効果があったのだと思う。けれど、肝心の私の好きな人は、さっきから私が以前に比べて綺麗になったかどうかさっぱり分からないといった様子で眉根を寄せている。
 うーむ、まだまだ努力が足りないようだ。

「ねえ、藤堂さん。27歳ってね、女の人が1番綺麗な時期なんだって」

 髪で顔を隠して俯き加減でメールチェックをする私に、綾乃さんがコソッと話しかけてきた。私は綾乃さんを見て首をかしげた。

「そうなんですか? 初めて聞きました」
「昔、一緒に働いてた先輩に言われたの。外面の美しさと、内面の美しさが1番バランスよく磨かれるんだって」

 うふふっと綾乃さんは楽しそうに笑う。確かに、20代も終わりに近付いてくると、学生の頃よりは落ち着いたと思う。

「じゃあ、この後は下降傾向?」
「ちがーう! 何言ってんの! 外見の加齢はともかく、内面の美しさは何歳まででも美しくなるんだよ。若いときにはなかった心の成長みたいな? ほら、女優さんとかで歳取っても落ち着いた美しさがある人って多いでしょ?? 何歳だって、年相応の美しさがあるんだよ」

 悪い方に捉えた私をみて、綾乃さんは頬を膨らませた。

「とにかく、私は藤堂さんは綺麗になった気がするってことを言いたかったの!」

 それだけ言うと、綾乃さんは自分のパソコンをカタカタと操作し始めた。
 『年相応の美しさ』と聞いて、すぐに私の脳裏には先日ご成約頂いた水谷様の顔が浮かんだ。凜とした佇まいと、ピンと伸びた背筋、落ち着いた口調。きっと、彼女のあの美しさは、彼女自身の努力と経験に裏打ちされた自信から来ている。

 私は隣の席の綾乃さんを見た。綾乃さんも、とても綺麗な人だ。見た目が綺麗なのは勿論だけど、親切で優しいし、常に自分の考えを持っている。
 私も次の誕生日が来たら28歳になる。上っ面の見た目だけでなく、中身も磨かないとならないようだ。
 でも、中身ってどうやったら磨かれるのだろう? 読書? 勉強? マナー講座??

「私も綾乃さんみたいに綺麗になれるように頑張ります」

 私もコソッと綾乃さんにそう伝えると、綾乃さんは目をぱちくりとしてから、照れくさそうに笑った。

「ありがと。藤堂さん、好きな人でも出来たの?」
「え? いないですよ」

 私は両手を目の前でブンブンと振った。綾乃さんの質問を、咄嗟に否定してしまった。
 好きな人はあなたの目の前にいる。まさに真正面の席だ。だけど、ここで『実は……』とぶっちゃけカミングアウト出来るほど、私は神経図太くない。

「そうなの? なんだ。綺麗になったから、好きな人でも出来たのかと思った」

 綾乃さんは屈託なく笑う。さすが、女性だけに同性のことに対して鋭い。
 パッと視線を移動させると、デスク越しにじーっとこちらを見つめる桜木さんとバチッと目が合った。

「ほら、もうすぐ宅建試験があるじゃないですか。だから、それどころじゃないです」

 私はあははっと笑い、頭の後ろに片手をあてながらそう言った。

「ああ、そっか。来月下旬だっけ? 頑張ってね」

 桜木さんは思い出したようにそう言い、ニコッと笑った。
 桜木さんの笑顔、格好いいなぁと密かに心の中で悶絶。初めて会ったときはちょっと格好いい人程度の印象しかなかったのに、今やめちゃくちゃ格好よく見えるのは恋の成せる技か。
 ああ、神様、ありがとう。今日も頑張れる気がするわ。

 しかしながら、桜木さんのご指摘通り、宅建試験まではあと1カ月を切っている。あと少し、ラストスパートをかけて私は勉強しなければならない。恋に現を抜かしてる場合ではないのだ。

「はい。勉強頑張ります」

 私は元気に笑顔で返事する。

 ──それに、あなたに少しは綺麗になったと気付いてもらえるように、頑張ります。

 心の中でこっそり呟いた。
 朝起きて窓を開けると少しだけひんやりした風が頬を撫でる。ついこの前まで日中の気温が3日連続35℃超えが、とか、どこぞで過去最高気温を更新したとか言ってたのに、いつの間にか秋の足音は着実に近づいて来ていた。私はしばらく窓を開け放って空気の入れ替えをすると、パタンと窓を閉めた。

「夏も終わりかー」

 ベランダを眺めたまま独り言ちた。物干し竿にぶら下げた雑巾がゆらゆらと風に揺れている。ここに住み始めたときはまだ春だったのに、時が経つのは早いものだ。
 ぼんやりしているとスマホがピピッと鳴る音が聞こえ、慌ててアラームを止めた。時刻は『AM 7:00』を示している。

「やばっ、遅れちゃう!」

 大急ぎで顔を洗い、パジャマ姿から私服に着替えた。
 今日は日曜日。いつもなら9時近くまでのんびりと寝ているけれど、今日はそういうわけにはいかない。何故なら、今日はお出かけする予定なのだから。その行き先は『目黒のさんま祭り』だ。

 実は、目黒駅は私の住む場所からさほど遠くない。距離で言うと2キロ位。自転車なら10分でいけるし、頑張れば歩ける距離なのだ。
 先日テレビの夕方のローカルニュースでその存在を知り、行かなかったことを悔やんでいたら、前に座る尾根川さんが目黒のさんま祭りは2回行われることを教えてくれた。1回は目黒駅前の周辺で行われる、私がテレビで見たものだ。もう1回は目黒川沿いにある、目黒区の区民施設で行われるらしい。
 この2つは全く別の独立したお祭りのようだが、どちらも無料でさんまの配布が行われる。そして今回のものは区の施設で行われるが、区民以外も参加可能と聞き、参加することにした。

 だって、気仙沼産のさんまの炭火焼きだよ?
 無料だよ?
 絶対に美味しいに決まってる!
 それに、さんまに多く含まれるDHAなるものは記憶力向上効果があるらしいから、宅建の勉強をする今の私にはぴったり!
 なんて、後付けの言い訳も思いついた。

 事前にホームページで10時過ぎから5000匹のさんまが配布されることを把握していた私は、9時過ぎには家を出発し、5分前の10時ちょうどには到着した。しかし、そこで言われたのは思いがけない言葉だった。

「おねーちゃん、悪いね。もう配布数量終わっちゃったんだよ」

 ねじりはちまきをした日焼けしたおじさんの言葉に、私は目が点になった。

「配布って、10時からですよね?」
「そうだよ。電車の始発で来て待ってる人も多いからねー」
「そうですか……」

 なんと言うことだ。要するに、私は出遅れたらしい。目の前には広場で炭火焼きの準備をする人達。なんてこったい。今からここで5000匹のさんまが美味しく焼かれるというのに、お預けとは!!
 項垂れる私に、ねじりはちまきのおじさんが申し訳無さそうに眉じりを下げた。

「あっちの建物の裏で屋台やイベントもやってるから、よかったら見て行ってよ。楽しめると思うよ」
「はぁ……ありがとうございます」

 いや、もう燃え尽きた。
 朝っぱらから燃え尽きたよ。
 休日の朝早くに起きて、やる気満々でさんまを食しにてくてくと歩いて来たのに……まさかのお預け状態とは!!

 しかし、ねじりはちまきのおじちゃんに罪は無い。私はおじさんにお礼を言うと、教えられたイベント会場に向かう事にした。

 この区民施設はちょうど、目黒川を挟むように位置しているようだ。さんまの配布場からイベント会場に向かう途中に橋があり、橋の下は目黒川だった。

 東京都世田谷区、目黒区、品川区を流れるこの川は、川底も川岸も全てコンクリート壁で覆われ、水も殆ど流れていなかった。崖のように垂直な川岸は、5メートル以上はありそうに見え、川に人が入ることを物理的に拒絶している。
 目黒川と言えば都内有数の桜の名所だ。てっきり私はせせらぎの音がする川の岸辺に桜並木があるのだと思っていた。
 広尾のイマディール不動産の近くを流れる渋谷川を広くしたような川の構造は、イメージとだいぶ違う。けれど、真っ直ぐな川の切り立つ人工壁の上には遥か遠くまで桜並木が続いていた。きっと、春にはこの川面をピンク色に染め上げるのだろう。

 屋台では各地の物産品や、ちょっとした食べ物が売られていた。ステージでは子ども達がフラダンスを披露している。首に花をかけて、満面に笑みを浮かべて。見ていたらハワイに行きたくなった。ハワイに行ったことなんて、1度も無いけど。
 
 時計を見ると、まだ10時半だ。そこで、私は前々から行きたいと思っていた場所を見に行く事にした。それは、目黒駅から目黒川を交差するように通っている目黒通りという幹線道路。
 実は、目黒通りの目黒駅から自由が丘の方向に進むエリアは家具屋さんが集中しており、通称『インテリア通り』と呼ばれている。

 リノベーション物件を売り出すときは家具付きで売ることも多々ある。そこで気付いたのだが、家具1つで部屋の印象はだいぶ変わる。アットホームな雰囲気だったり、クールな雰囲気だったり。そんなこんなで、最近オシャレなインテリアに興味津々の私は、インテリア通りをウインドウショッピングすることにした。

 インテリア通りでは、片側2車線の道路の両側にインテリアショップが点在している。通常の家具屋から、北欧風などのコンセプトを決めて家具を集めているお店、アンティーク調など様々だ。各店ともにオーナーさんのセンスが光っており、見ていて全く飽きない。こんな家具を揃えたいなぁ、なんて、想像が膨らんだ。

 最後に入ったお店は、照明専門のお店だった。店の中にあるのは暖色系を中心とした照明器具の数々。シャンデリア風や、ランタン風、花などを模した変わり種まで揃っていた。
 そこでシェードに絵が描かれており、電気を灯すと影絵になるミニスタンドライトを見つけ、私は目を奪われた。シェードの厚さを変えることで、透過する光量を調整して絵を浮き上がらせるのだ。

「そちらの商品は今、その1点のみになっています。可愛らしいですよね」

 店員さんが気さくに話しかけてきた。値札をみると、『¥6,000』と書いてある。確かに可愛らしいけど、どうしようかな。私が迷っていると、店員さんが奥に行き、また戻ってきた。

「今ならこちらのLEDもお付けしますよ」
「買います!」

 我ながらチョロい客である。でも、凄く気に入ったので後悔はなかった。

 帰り際はスーパーに寄って夕食の買い物をした。何を買ったか。それはもちろん、生さんまにかぼす、おろし用の大根だ。

 家に帰り、試しにカーテンをしめて買ったばかりのランプに灯りを灯すと、部屋の壁にはぼんやりとヨーロッパ風の街並みが浮かび上がった。空には妖精(?)が飛んでいる。

「可愛いなぁ」

 思わず独り言を言ってしまうほどの可愛らしさ。普段使いにはやや暗すぎるけど、可愛らしさには文句なし。今日は寝る前に、このランプを灯してアロマでも焚こうかな。

 でも、その前に。午後はしっかりと勉強して、夕食は自宅でビール片手にさんまパーティーをしよう。
 10月も下旬のとある日曜日。
 私は緊張の面持ちで都内にある私立大学に向かっていた。今日はいよいよ、ここで宅地建物取引士の試験があるのだ。

 会場の手前の歩道ではスーツ姿の人達が沿道に立ち、何かを配っていた。受け取ってみると、ピンク色のそのチラシには『直前チェックポイント』と書かれていた。色々な資格の塾のスタッフの方達が、テスト直前のチェックシートなるものや、さっそく今夜開催されるテスト解説授業の案内を配っているようだ。私はそれを幾つか受け取ると、くるりと丸めて鞄に突っ込んだ。

 大学の敷地に入ると人の流れについて行き、校舎の前で自分の受験番号を確認して受験会場の部屋を探した。受験会場の案内には9号館と書いてあり、随分とたくさん校舎がある大学なのだなと驚いた。

 少し古い校舎の講義室で自分の受験番号が貼られた座席に座った私は、鞄からがさごそとテキストを取り出した。何回も繰り返し読み込んだテキストは角がぼろぼろになっており、何枚も付箋が飛び出している。私はその付箋が貼られた部分をもう一度読み返した。

【問】
代理に関する次の記述のうち、民法の規定及び判例によれば、誤っているものはどれか。

1、売買契約を締結する権限を与えられた代理人は、特段の事情がない限り、相手方からその売買契約を取り消す旨の意思表示を受領する権限を有する。

2、委任による代理人は、本人の許諾を得たときのほか、やむを得ない事由があるときにも、 復代理人を選任することができる。

3、復代理人が委任事務を処理するに当たり金銭を受領し、これを代理人に引き渡したときは、特段の事情がない限り、代理人に対する受領物引渡義務は消滅するが、本人に対する受領物引渡義務は消滅しない。

4、夫婦の一方は、個別に代理権の授権がなくとも、日常家事に関する事項について、他の一方を代理して法律行為をすることができる。

(2017年度 宅地建物取引士試験より引用)

 例えばこんな試験問題は、知っていれば当たり前のようにわかる問題だ。けれど、知らなければ全く分からない。当然私も、勉強を始めたばかりの頃はさっぱり分からなかった。
 
得点源の頻出とされる問題は絶対に落とさないように何回も繰り返しチェックし、過去問や予想問題も出来るだけ得点を取れるように真剣に取り組んだ。テキストも読んだし、やれることはやったと思う。はっきり言って、こんなに勉強したのは学生時代以来だ。
 しばらくすると試験官の方が筆記用具以外は仕舞うように指示を出し、問題が配られる。白い小冊子を受け取ると、嫌でも緊張した。

 試験開始の合図があり、私は鉛筆を握る。鉛筆にしたのは、マークシートの試験は鉛筆で受けろと高校の時の先生が言っていたのを思い出したから。シャーペンよりも鉛筆の方が、マークが塗りやすいかららしい。けれど、たぶんほんの気休め程度の差だ。

 問題を読んでる最中に、まわりからパラッと問題のページを捲る音がすると、否が応でも焦りが生まれる。そんな自分に、私は「大丈夫。大丈夫」と言い聞かせた。

 ここまで、平日の夜や土日は忙しくても必ず勉強する時間を確保して頑張ってきた。事前に実際に時間を測って模試を解く練習もした。焦るな、大丈夫だ。あんなに勉強したんだから、きっと大丈夫。私は何度も自分にそう言い聞かせた。

 すぐに焦りそうになる気持ちを落ち着かせて、目の前の問題だけを見た。頻出問題で見覚えがあるものもあれば、4つある選択肢のうち2つで迷うもの、はたまた全く見覚えがないものもあった。
 残り時間15分を残して全部の問題を終えた私は、迷った問題をもう1度読み返した。

「終わり。筆記用具をおいて下さい」

 試験官の方が終わりの合図をして、鉛筆を机に置く。正直、分からない問題も幾つもあった。けれど、この5ヶ月間自分なりに頑張ったつもりだったので、試験を終えた私はとても晴れやかな気持ちだった。

 その日、私は少し寄り道して帰る事にした。
 恵比寿駅で下車すると、駅ビルに直結した商業施設で秋から冬物の洋服などを見て、気に入ったものを2着ほど購入した。秋冬向きの暖色カラーのニットとスカートで、明日の通勤から早速大活躍してくれそう。結果も知らないくせに気が早いけど、今日まで頑張った自分へのご褒美だ。
 その後、私は同じ商業施設の地下にあるスーパーマーケットに立ち寄って食材の買い出しをした。最近は会社から帰った後は勉強していて自炊していない。久しぶりに料理をしようと思ったのだ。

 帰り道には駅から少し歩いたところにある、最近人気のタピオカミルクティーのお店に行き、看板メニューのタピオカミルクティーを注文した。店の外では購入したばかりのタピオカミルクティーをスマホで撮影している女の子が何人もいる。きっと、SNSに上げるのだろう。印象的なロゴが付いた透明カップに黒く大きい丸が沈むミルクティーは、たしかに写真映えしそうだ。太いストローでクルリと回すと、黒い丸がゆったりとミルクティーの中を浮いては沈んだ。

「ん、おいし」

 タピオカミルクティーのタピオカが、すっごくモチモチしてて美味しい。タピオカのサイズがコンビニのそれとは全然違うし、モチモチ具合が尋常じゃない。紅茶もスッキリとして飲みやすい味わいだった。いわゆるダージリンやアッサムティーといった一般的な紅茶というよりは、中国茶のような味わい。流石に人気のお店だけある。私はそれを片手に持ち、のんびりと歩いて家路へと付いた。

 家に帰ると、久しぶりにグラタンを作った。秋らしくカボチャとキノコのクリームグラタンだ。ツーンとする目の痛みに耐えながら玉ねぎを薄切りにスライスし、フライパンでしっかりと炒める。玉ねぎを飴色になるまで炒めるのは手間だけど、手間を掛けたからこその美味しさがそこにあるのだ。
 ホワイトソースはバターを溶かして小麦粉と牛乳を混ぜて作る本格派だ。案の定、作ったホワイトソースはたくさん余ってしまったけれど、それは今度クリームシチューにでもしようと思う。グラタンに入れるカボチャやキノコも全て旬のものを購入した。
 オーブンレンジを開けると表面にのせたチーズの焦げた芳ばしい香りがした。表面には焦げ目がつき、中はトロリと垂れる熱々のそれを私はスプーンで掬い、フーフーと冷まして1口だけ食べた。

「んー。私、天才かも」

 我ながら、中々の出来栄えだと思う。カボチャのホクホク具合と、キノコの食感と、ホワイトソースの蕩け具合が絶妙だ。マカロニと刻んだ鶏胸肉も良い具合に絡み合っている。味付けもいい感じ。

 上手に出来たから、桜木さんに食べて貰いたいな、なんて思ったり。
 あの時みたいに『凄く美味しい!』って言って、笑ってくれるだろうか。そう言ってくれたら、すごく嬉しいなぁ。きっとこのホワイトソースなんて全部なくなっちゃうだろうな。
 それを想像して1人ニヤニヤしている私はきっと、端から見られたら完全に怪しい女だっただろう。

 美味しく夕ご飯を頂くと、いつの間にか解答速報の授業の時間になっていた。気合いを入れて夕ご飯を作っていたので、すっかりと時間が経つのを忘れていた。
 私は慌てて食器を片付けてパソコンを開くと、生中継の解説授業の様子を食い入るように見つめた。
 

 
 宅建試験の終わった翌週、私は尾根川さんとどの問題が難しかったね、なんて話題で盛り上がりつつも、日常業務に取り組んでいた。
 水谷様のご契約を頂いた以降、私はもう1件ほど契約に持ち込むことに成功していた。とは言っても、私の営業スキルが向上したと言うよりは運がよかっただけだ。お客様がホームページを見て指定した物件にお連れしたところ、そのまま成約となったのだ。でも、成約は成約。嬉しくないと言えば嘘になる。実を言うと、めちゃくちゃ嬉しい。この調子で最低でも月に1~2件はコンスタントに成約出来るようになりたい思った。

 そんな中、私は接客室でお客様──佐伯様と向きあっていた。

「やはり、現状維持でのご売却をご希望ですか?」
「ええ。短期間に転居するのもリフォームするのもお金が掛かりますからね」

 何回目かの確認に、目の前の佐伯様ははっきりと言い切った。

 イマディール不動産では中古物件をリフォームやリノベーションして高く売却することを得意としている。しかし、お客様の中には、リフォームやリノベーションをしたがらない方もいらっしゃる。
 リフォームやリノベーションするためには売る前に自分が別の場所に転居する必要があるし、お金がかかる。リフォームやリノベーション費用は、物件をイマディール不動産で購入した場合はイマディール不動産で負担するが、オーナーさんが保有したままの場合はオーナーさんが負担する。
 その数十万円から高い場合は1000万円を超えるリフォーム、リノベーション費用の負担を嫌い、現状維持のまま、即ち、住みっぱなしのままで売却をご希望される方も多いのだ。

「ハウスクリーニングはしたんですよ。もっとそちらが頑張って売ってくれないと困りますよ」

 そう言って佐伯様はコーヒーをごくりと飲んだ。

「はい……」

 怒るわけでもない、落ち着いた冷ややかな口調に、胃がキリキリと痛む。お昼に何か変なもの食べたっけ? いや、このタイミングだし、原因は目の前のこの方か。
 頑張ってくれないと困ると言われても、こっちにも色々と言いたいことはある。まぁ、お客様に向かってそんなこと、当然言えるわけないんけどね。
 
 佐伯様の物件は、既に売り出しから3カ月が経過していたが、未だに買い手がつかない。今日の打合せに際し、少しばかりの値下げ、もしくはリノベーションをすることを再度こちらから提案したのだが、やはり良い返事は得られなかった。

 リフォームやリノベーションを渋るお客様に、こちらがそれをする事を強要する事は出来ない。となるとそのまま売るわけなのだが、これがなかなか難しいのだ。同じ物件でも、かたや新築みたいにピカピカの物件と、かたや薄汚れてフローリングに傷が付いてたり、生活感が溢れている物件。
 買う方は何千万円も支払うのだから、そのマイナス要素が購入希望のお客様に与える心理的影響は大きいのだ。

「では、現状でのお写真を撮らせて頂きまして、物件情報を近々更新させて頂きます」
「よろしくお願いしますね」
「はい。内覧のお客様がいらっしゃいましたら、ご連絡させて頂きます」

 佐伯様は笑顔で頷かれると、イマディール不動産を後にされた。やっと帰ってくれたと、胃に刺さった棘が何本か抜け落ちるのを感じる。

 私は表に出て佐伯様の背中をお見送りしたあと、資料の残る接客室に戻った。そして、物件情報をもう1度読み返す。
 住所は渋谷区広尾。築34年、11階建てのマンションの4階だ。駅までは徒歩9分とそこまで遠くは無く、駅からは大通りを通るので道は明るい。管理体制はそこそこで、昼間は管理人さんがいて、夜は無人になるが、オートロックは付いている。条件はなかなかいいと思う。
 ただ、最大の問題は内装だと思った。築34年。建ったのは昭和の時代、バブルよりさらに前だ。この時にはまだ多かった、玄関を開けたからすぐにダイニングキッチンが広がる間取りは流行遅れだと言わざるを得ない。キッチンの中にガス給湯器があったり、お風呂もコンクリート床にバスタブが置かれていたりと水回りも古く、至る所に古さを感じさせた。
 
「うーん、勿体ないね。500万円かけてリノベすれば、上手く行けば1000万円上乗せできるかもしれないのに」

 私からその話を聞いた桜木さんは、眉を寄せて頭の後ろで手を組んだ。
 
「そうなんですよ。でも、何回かご提案したんですけど、住んでるうちに売却をご希望みたいで」
「そっか。じゃあ、仕方ないね」

 残念そうに眉尻を下げる桜木さんに、私も同意の意味を込めて少しだけ肩を竦めて見せた。本当に残念だ。でも、お客様がそれをお望みなら、そうするしか無い。

「藤堂さん、大丈夫? 俺が担当代わろうか?」

 私はよっぽど暗い表情をしていたようで、桜木さんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「大丈夫です。ご心配おかけして申し訳ありません」
「そう? 無理だと思ったら遠慮なく言ってね」

 こちらを見つめる桜木さんの眉間が、僅かに寄っている。きっと、職場の先輩として心配してくれているんだろう。
 優しいなぁ。あなた、これ以上私を惚れさせて一体どうするつもりですか? と聞きたいくらいだ。聞けないけど。

 かわりに私が両手に拳を握って『頑張ります』のポーズをすると、桜木さんも釣られるように少しだけ笑ってくれた。
 貴重な桜木スマイル、頂きました!
 これで今日も私は頑張れそう。

 接客を終えて少しだけ時間に余裕が出来た私は、オフィスの端に置かれたレジ袋を持って外に出た。
 今月末はハロウィンなので、その飾り付けに、レジ袋に入っていたオレンジ色のカボチャとコウモリのオブジェをオフィスの入り口付近に置いた。10月下旬ともなると外の風はだいぶ涼しくなる。僅かに吹く風は肌に触れるとひんやりとした。

 
 ***

 
「trick or treat!」
「もちろん、トリートよ。はい、どうぞー」

 小さなモンスターに脅されて、私はお菓子の袋を差し出す。10円の駄菓子をいくつか詰め合わせたそれは、イマディール不動産の広告入りだ。お菓子の袋を受け取った子ども達は、それを持っている袋にいれると、満足げな表情を浮かべて次のお店へと向かう。

 10月の最終日はハロウィンだ。
 田舎育ちのせいか、私が子どもの頃は、ハロウィンはそれほどメジャーなイベントでは無かった気がする。けれども、いつの間やらどんどん浸透して、今や国民の一大イベントに成長したらしい。ニュースではクリスマスの経済効果を超えたと言っていた。

 イマディール不動産がオフィスを構える広尾では、外国人居住者が多いこともあり、ハロウィンはとてもメジャーなイベントのようだ。夕方になると、辺りの住宅街には可愛らしいモンスター達が至る所に出没し始める。その可愛らしいモンスター達は住宅街から流れて商店街の中までやってきて、「お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ」と、なんとも可愛らしい脅しをしてくるのだ。地域に馴染んだこの商店街らしい光景だ。

「あの子、袋パンパンだったねー」
「そうですね。沢山回ったんでしょうね」

 一緒に対応する尾根川さんと話ながら、私は先ほどの子供を思い出して頬を緩めた。小さなスパイダーマンは、持っていた白の巾着の袋にお菓子を詰め込みすぎて、まるでサンタクロースのようになっていた。

「これ、自分も子どもの頃にやりたかったなぁ」
「無かった?」
「え? 無いですよ。尾根川さんはありました?」
「無かったと思う」
「よかった。うちが田舎だから無かったのかと、ちょっと焦りました」

 私達は顔を見合わせてあははと笑う。そんな立ち話をしていると、こっそりと近づいてきた魔法使いに「お菓子をくれなきゃ魔法をかけるぞ!」と脅された。
 
「それは困った。これでご勘弁を」
「よし。勘弁してやろう」

 お菓子の袋を差し出すと、嬉しそうに笑い、手を振って去ってゆく。その次に来たのはプリンセスだった。ドレス姿にティアラをつけて、「trick or treat !」。なにこれ、可愛すぎるんですけど。

 怖いんだけど可愛らしい、ちょっと心がほっこりとした秋の夕暮れだった。
 
 11月に入ると、朝晩の気温はぐっと下がる。ジャケットを着るだけだと少し肌寒いけれど、コートを着るにはまだ早い。毎年毎年、この季節になると着る物に迷う。一体全体、去年の私は毎日なにを着ていたのだろうかと、毎年同じようなことに悩んでいる気がする。

 そんな肌寒い中、リノベを終えた物件の確認から戻ってきた私は、駅からオフィスまでの道を足早に歩いていた。なぜ足早かって、それは寒いからですよ。風が吹くと首や袖の隙間から冷気が入り、その冷たさにぶるりと震える。
 大急ぎでオフィスに戻ってきた私は、到着直前、オフィス前の物件案内を眺めている中年の男性の後ろ姿に気付いた。男性は物件案内を見ながらも、チラチラとガラス張りの中を窺っているようにも見えた。

「こんにちは。物件をお探しですか? ここに出ていないものも沢山あるので、よろしければご紹介しますよ」

 私はその男性に声を掛けた。男性はハッとしたようにこちらを向き、私の顔を見た。年齢は40代後半位だろうか。眼鏡をかけた、中肉中背の大人しそうな雰囲気の男性だ。

「あの……、希望を言えば探して貰えるんですか?」

 男性はおどおどとした様子で、そう言った。私はにっこりと微笑む。

「もちろんです。お客様の理想のおうち探し、お手伝いさせて頂きます」


 ***


 私はアンケート用紙に目を通しながら、先ほどの男性──久保田様と接客室で向き合っていた。

「ご家族4名様で住まれるマンションご希望ですね? 間取りは3LDK、ご予算は5000万円……失礼ですが、場所はこのエリア限定ですか?」
「はい。子どもが学校を転校したくないと言っていますし、妻も一から新しい土地で近所付き合いするのは煩わしいと言っていますから」
「つまり、エリアは譲れないということですね?」
「はい。そう考えています」
「なるほど。承知いたしました」

 私は承知したことを伝えるためにしっかりと頷いて見せる。
 久保田様がご希望されたエリアは広尾から恵比寿にかけての、まさにイマディール不動産があるあたりのエリアだった。先日のハロウィンでお子さんが持ち帰ったイマディール不動産の広告を見て、散歩ついでに店前で物件案内を見ていたと言う。
 今現在、久保田様は勤務先の社宅に入居しているものの、社宅取り壊しのため今年度中に退去する必要があるため、物件を探しているそうだ。

「畏まりました。ご希望にあう物件がありましたら、ご連絡させて頂きます」
「お願いします」

 久保田様は何度か頭をぺこぺこと下げ、イマディール不動産を後にした。私は笑顔でその後ろ姿をお見送りする。

 ──が、しかしだ。
 接客業なので一見すると私は柔やかに微笑んで受け答えしていたはずだ。しかし、内心では相当焦っていた。

 この辺りで予算5000万円で家族4人が住める3LDK。はっきり言って、非常に厳しい。その場で『無いです』とあからさまに表情に出さなかった私は、以前に比べたら相当成長したと思う。しかしながら、これはいわゆる、『予算と物件の希望が噛み合っていないお客様』と言わざるを得なかった。