拝啓、嘘つきな君へ【試し読みver】

朝、教室につくと私は必ず本を開く。一番後ろの窓際の席、そこで黙々と自分の世界に浸るのが私の習慣だ。
といっても、昨日まで夏休みだったせいでその習慣とやらは今日から再開することになるのだけど。
夏休みが終わったとはいえ季節はまだまだ夏だ。湿気を帯びた蒸し暑い風が煩わしい。
どうもこの季節は好きになれない。暑いし虫がたくさん出てくるから。それに、あまりいい思い出がない。
目線を本に落としている間、教室ではクラスメイトたちがそれぞれの休暇について語り合っていた。私の席にまで聞こえてくるほど大きな声。久々に会った友人たちに夏の思い出を話したくて仕方がないといった感じ。
彼女たちの口から出てくるのは海に行ったり、彼氏と夏祭りに行ったり、そんな楽しげな話ばかり。
彼氏もいなければ誰かと遊びに行く予定もなかった私からすれば、充実している彼女たちは少しばかり眩しい。
もっとも、だからといって恋人や友人を作ろうとは思わないけれど。
……だって私には見えてしまうから。
本を閉じ、和気あいあいと話し込んでいる彼女たちに視線を移す。注視するのは顔でもなければ体でもない。彼女たちの頭上。

『つまんないなぁ。こいつの話いつまで続くんだろう』

――目に飛び込んできたそれは、まぎれもなく彼女たちの心の声だった。
私は、人の心が見えてしまう〝呪い〟にかかっている。
だから彼女たちの頭上に目を向けると見えてしまう、その心が、醜い本心が。
呪いといっても別に誰かに呪われたわけではないし、悪事を働いたわけでもない。
ただ、人の顔を見るとその人物の思考が文字となって頭上に見えてしまうだけ。言ってみれば超能力のようなもの。
けれど私は、これを超能力だなんて思ったことはない。

『こっちは彼氏に振られたばかりなのに、なんでこいつばっかり幸せそうなの?』

口では笑顔を作り楽しげに頷く半面、彼女たちはそんなことばかりを考えている。どれだけ仲がよさそうに話をしていても、私の目に映るこれこそが真実だ。
彼女たちは嫉妬し合い、蔑み合い、それをひた隠しにしてドロドロの友情を演じ続けている。
私の目には、そんな光景だけがひたすら飛び込んでくるのだ。
これを超能力なんて便利なものと呼べる人間が一体どれだけいるのだろう。少なくとも私には無理だった。
心なんて見たくもないのに、顔を見るだけで問答無用で内側を暴いてしまう。だから私はこの体質を〝呪い〟だと思うことにしている。
長期休暇が終わっても、やはり彼女たちは変わっていない。ほかのグループの子も同じだ。
表面上ではどれだけ仲が良さそうでも、誰しも不満のひとつやふたつは必ず抱えているものだ。それを言い合える仲ならばともかく、彼女たちは常に嘘の仮面を被って生きている。

――この世界は汚い。

それが私の結論だった。
だから私は人を信用することができないし、誰かと深く関わろうとも思わない。
……時折考えてしまう、物語の主人公のように裏表のない人がいればいいのになって。絶対に嘘をつかない、絶対に裏切らない、そんな人。ちょうど今読んでいる本の主人公がそんな子だ。
けれどそんな人が現実にいるわけもなく、気が付けば私は本の虫となっていた。もともと本が好きだったのもあって、ますますのめり込んだ。
現実で満たされないのなら空想の世界で生きよう、と。
物語の世界だけが私の居場所だ。主人公は、ヒーローだけは決して私を裏切らないのだから。
私は彼女たちの心から、そして醜く汚れた世界から目をそらすように視線を本に戻した。
どうせ彼女たちは何も変わっていないんだろうなあ、という自分の思考に確信が持てた今、これ以上見たくもないものを見る必要はない。
うんざりして小さくため息をつき、ページをめくる。すると、見計らっていたかのように誰かが隣に歩み寄ってきた。
「山下さん!」
その人物はおもむろに私の名前を呼んできた。
「あ、櫻井さん。おはよう」
私は明るくもなく、かといって暗くもないといった掴みどころのない態度で応じた。こうすれば誰かに好かれることも嫌われることもなく、ただのクラスメイトという距離感を維持することができる。
私にとっては、容姿もなるべく目立たない地味な女の子であることを強調するのが肝要だ。
肩にかかる程度の黒髪で、前髪は目が隠れるかどうかといったラインに切りそろえる。茶髪や金髪なんてもってのほか。幸い、身長や体型も平均的なおかげで狙い通り地味な感じを演出できていると思う。
そうした工夫の甲斐もあって、普段はクラスメイトたちから嫌われることもなくひとりの時間を確保することに成功していた。
けれど、この櫻井さんだけはいつも執拗に声をかけてくるのだ。
「いい加減『あかね』って呼んでくれていいのに。それより、山下さんは夏休みどうだった?」
櫻井さんは後ろで括ったポニーテールをわずかに揺らしながら訊ねてきた。
煩わしく思いながらも本を閉じ、櫻井さんに顔を向ける。そのまま彼女の頭上に目をやり、質問の意図を探った。

『山下さん、いつもひとりだけど大丈夫かなぁ。なんとかして私がクラスに溶け込ませてあげないと!』

なるほど、それで私に声をかけてきたのか。
どうやら櫻井さんも夏休み前からさして変わっていないらしい。彼女が私に声をかけるときはいつもこんな感じだ。さすが、クラス委員をやっているだけあって正義感が強い。
櫻井さんはクラスの中心的人物で、先生からも生徒からも好かれている。誰に対しても平等に接していて、心の中だって優等生そのものだ。手足もすらりと伸びていて、一見すると物語の主人公のよう。
でも、私は櫻井さんが苦手だ。
「夏休みかぁ。結構楽しかったよ」
私は思ってもないことを言って彼女との会話を終わらせようと試みる。
確かに、櫻井さんはいい人だと思う。他の子たちと違って他人への不満をあまり持たないし、持ったとしてもそれを口にする勇気のある人だ。ある意味裏表のない人間と言える。
だけど、それでも私はこの人を好きになれない。私が恋焦がれる物語の主人公たちとはかけ離れている。
だってこの人は、私のことを何もわかっていない。わかってくれようとしない。
私のことを心配しているみたいだけれど、大きなお世話だ。私は望んでひとりになっているのだから。
それなのに櫻井さんはこうして私から心安らぐ時間を奪っていく。理想の世界から私を引き離し、汚い現実を直視させようと仕向けてくる。
なにより、彼女はそれが正しいことだと信じきっているのだ。その傲慢さをどうしても受け入れることができずにいる。