亀井のお爺さんが死んでから初めての火曜日。
 今日も朝からあの男は藤崎君を呼びつけて罵声を浴びせている。その様子を横目で見ながら、哀れにさえ思えてきた。
(今夜、死んでしまうかもしれないのに)
 あの男がいなくなれば私だけじゃなく、藤崎君だって他の人だって幸せになる。みんなのためでもあるんだ。
 昼休みが終わる頃、珍しく藤崎君に声を掛けられた。
「山瀬さん、もう終わったんですか」
「え、何のこと?」
「隠しても無駄ですよ。僕は山瀬さんのことならお見通しですからね」
 まさか、あのことを知ってる?
 そんな訳あるはずない。
「私には何のことだかさっぱり分からないけど」
「もうすぐ分かりますよね。それまで待ちますよ」
 そう言うと、また笑みを浮かべて去っていく。いつも一方的だし、何を知っているというのか。
 彼が薄気味悪くなってきた。


 夜は駅前のラーメン屋さんで食事をしてから、ネットカフェへ立ち寄る。
 一人暮らしの僕は家にいてもアリバイが作れない。ミキが終わらせるまで、毎週火曜の夜はここで過ごすことになる。
 扉を開けると、いつものように反応がない。むしろ声を掛けられると調子がくるってしまう。
 カウンターへ回り込んで、やっと店長が顔を上げる。
「ごめんごめん、また気が付かなくて」
 ヘッドホンを外しながら受付作業を始めた。
「悪いなんて全然思っていませんよね」
「山瀬さんにはバレてるか」
 悪びれもせずニコニコしている。
 この人の憎めないところだ。
「どうぞごゆっくり」
 店長の声を背に、いつものようにブースへと向かう。

 こうしてモニターを眺めながらぼぉっと過ごすのも嫌いじゃない。家に一人でいるよりも居心地がいい。
 今まではあのサイトで不平や不満をぶつけて、似たような立場の人たちと共感してきたけれど、あの男がいなくなったらサイトには行かなくなるかもしれない。
 それでもこの店にはきっと足を運ぶだろう。
(ミキは今頃どうしているかな)
 かすかな期待を胸にしながら、ネットを彷徨っていた。


 木曜の朝はこれまでとは違う緊張感で、早く会社に行きたいような、行くのが怖いようなそんな気持ち。
 休日の昨日、会社からの連絡はなかった。あの男も一人暮らしだから、奴の身に何かあってもまだ発覚していない可能性もある。
 ドキドキしながら出社すると――あの男は来ていないっ。
 マジか!? と思ったら、体調が悪くて休むとの連絡が入っていたらしい。
 連絡してきたと言うことは、まだ生きてるんだぁ。と、がっかりしていたら、水野が「天敵がいないと寂しいのか」とからかってきた。
「そんな訳ないでしょ」と返す。
 楽しみは一週間お預けになった。


 それからの七日間はとても長く感じた。
 小学生の頃にクリスマスを楽しみにしていた頃のように。あの男から文句を言われる度に、あと五日、あと三日と心の中でカウントダウンしていた。
 そして迎えた火曜日。
 約束の一ヶ月で最後の火曜日だ。ミキは今夜実行するはず。
 仕事も終わり、高揚した気分でネットカフェへと向かう。
 店が見えたあたりで、警察官が二人、階段を降りてきた。すれ違う時に僕の方を見ていた気がする。
(何だ? バレた? そんなはずは……)
 僕の中のマイナス思考が加速する。
 ミキが捕まったのか?
 それにしては、僕へ辿り着くのが早すぎる。
 亀井のお爺さんの件は事故として処理されたはずだし。
 いや、そう思っていたのは僕だけか。警察へ確認したわけじゃないし。確認なんてしたら怪しいと思われちゃうし。あの時、誰かに見られていたのかも。
 店への階段を上がりながらも、負の妄想がぐるぐると廻っていた。

「いらっしゃい」
 入るとすぐに店長から声が掛かる。今まで警察官の対応をしていたのだろう。
「今、警察が来てましたよね」
「あぁ、また例の通り魔が出たらしいよ。駅の反対側で男の人が刺されたんだって」
 なんだ、そうだったのか。って、それも怖いじゃないか。
「不審な人物が来たら通報してくれってさ」
「そうですか。早く犯人が捕まるといいですね」
 少し気持ちを落ち着けてブースへ入る。
 新着ニュースにも通り魔殺人のことが載っていた。刺された人は高齢の男性で、意識不明の重体らしい。関係のない人を次々と刺して殺すという感覚は僕には分からない。
 僕たちがやったことは、殺したいほど憎い相手を代わりに殺してあげる、というものだ。
 この犯人とは理由が違う。
 結局、僕自身は何もしなかったけれど。そして、もうすぐ僕が殺したいほど憎かったあの男も……。
 画面を眺めながら、時間が進むのをとても長く感じていた。

 あまり遅くなると帰りが怖いので、十一時半を過ぎた頃に店を出た。
(この後に一人でいてもアリバイになるのかなぁ)
 家へ帰り、誰かに電話でもしようかと思ったけれど、こんな時間にいきなり電話するのも後で怪しまれるかも。
 宅配ピザは深夜配達ってしていないのかな。これも怪しいか。
 大きな物音を立てるとか。近所迷惑だよな。
 うだうだとしている間に二時近くなってしまった。
 もういいや。寝ちゃおう。明日にはいい報せが聞けると信じて。

 遅くまで寝ていてもいいのに、会社へ行く日と同じように目が覚めてしまった。
(どうなったんだろう)
 気になる。でも確かめる方法がない。あの男も含めて、うちの部署は休みの日。今日の出社当番は水野のはずだ。
(奴に聞いてみようか)
 でも何て聞く?
 聞いたところで、会社へ連絡がいかないかもと先週分かったはずじゃないか。
 焦るな、待つしかない。
 それでもじっとしていられず、家からあのサイトへアクセスしてみた。チャットルームはもちろん、掲示板にもミキの痕跡はない。寝るまでに何度もアクセスしてみたけれど、結果は同じだった。

 翌朝。
 いつもよりも早く家を出た。
 一報を聞いた時もわざとらしくならないように驚かなきゃ、そんなことを考えながら会社へ入る。自席に座っていても落ち着かない。
「おはよう。珍しく早いじゃないか」
 出社してきた水野が声を掛けてきた。
「おはよう。ちょっと早く起きちゃったから」
 そこは嘘じゃない。あまり眠れなかった。あの様子だと、やっぱり昨日は何も連絡がなかったんだ。
 確かめてみようと奴の方へ向き直った時だった。

「あ、おはようございます。木戸部長」
 水野が入り口の方へ顔を向けた。
 あれほど驚かないようにとしていたのに、その姿を見て声にならないほど驚いてしまった。誰にも気づかれなかったみたいだけれど。
(どうして……)
 どうしてあの男がここにいるの、なぜ生きているの、どうして……。
 昨日はミキと約束した交換殺人の期限だったのに。
 まさか――騙された?
 そんなはずはない。騙された経験をしているミキなら、そんなことをするはずがない。僕はまだ信じていた。

 ネットカフェに寄る気も起きず、まっすぐ家に帰る。
 食事の支度をする前にサイトへアクセスし、掲示板を確認した。ミキからのメッセージはない。
 「どうなった?」とタイトルをつけてチャットルームを立ち上げた。しかし、入室を知らせるチャイム音は深夜まで鳴ることはなかった。


 それからの数日は家へ帰るとサイトにアクセスしていた。
 もちろん、ミキが実行することをあきらめず、アリバイのために火曜の夜はネットカフェで過ごした。
 だけど翌週も、翌々週も木曜になるとあの男は出社してきた。
 僕は騙されたんだ。
 彼女のことを信じていたのに。怒りなのか、悲しみなのか、それとも失望なのか、今でも複雑な思いが渦巻いている。ほんの少しだけ、安心した気もするし。

(この数カ月は一体何だったんだろう)
 それでも、今までと変わったことが一つだけある。
 あの男のことが怖くなくなった。
 文句を言われようと理不尽な叱責を受けようと、聞き流す余裕が生まれた。
(いつ死ぬか分からないんだし)
 そう思えるようになったんだ。心にゆとりが出来たら、あの男からの暴言も日に日に少なくなっていった。僕の反応がつまらなくなったのかもしれない。
 こうしていつの間にか、何事もなかったかのように穏やかな日々を過ごし始めていたある日、それは始まった。


 家に帰ってきて郵便受けを開ける。
 何枚かのチラシと共に、あて名のない封筒が一つ。
 封もしていない。
 中には一枚の紙が入っていた。開くと、定規で書いたような直線的で角ばった文字が目に入る。
『ツギハ オマエノバンダ』
「何これ……」
 思わず声に出してしまった。