会社にいても、あの男のことは全くと言っていいほど気にならなくなっていた。それよりも気になることがあるから。

 今度の水曜日にもう一度行くか。でも天気予報は雨だ。どうする?
 雨だと石段も滑りやすくて、死ぬ可能性はより高くなるはず。
 でも傘をさして待つのは目立つだろう。
 レインコートでずぶ濡れになると、その後で逃げる時に目立ってしまうかもしれない。
 お爺さんも傘を持っているはずだから、とっさに武器として反撃されたら失敗するかも……。
 僕の出した答えは、雨なら中止。
 水曜、休日で遅く起きた朝は雨が降っていた。


 もう二週間が過ぎてしまった。期限までチャンスはあと二回。前回はなぜ失敗したかも考えた。
 まずは上ってくるのがお爺さんかどうか、確認できなかったことが一番の原因。この前のときに隠れた場所は上った所から少し離れていたから、下が覗き込めなかった。せめて石段の途中辺りから見える所まで近づいておかないと。
 そうすることで、いきなり飛び出して突き落とすことも出来るはず。
 正面から行ったのでは相手だって身構えるだろうから、この方が一石二鳥だ。

 火曜の夜には久しぶりにネットカフェへ立ち寄った。
「あ、久しぶりだね」と声を掛けてくれた店長との挨拶もそこそこに、ブースに入る。
 見馴れた掲示板には、この日も不平不満が連なっていた。その中にミキの名前は見当たらない。彼女も僕と同じように緊張しているのだろうか。
 そして迎えた三度目の水曜日。
 この日は朝から青空が広がっていた。

 前回と同じように支度をして家を出る。
 お爺さんが囲碁教室へ行くのも見届けた。念のため、この前入った喫茶店には行かず、少し離れたファミレスへ行った。
 八時半には神社下へ着いた。
 もう着替えも済ませてある。ゆっくりと石段を上り、隠れる場所を探す。右手にある大きなイチョウの陰ならば、外灯の光は届かないし下からも見えないはずだ。
 準備はすべて整った。
 二週間前よりもずっと落ち着いているのが自分でもわかる。

 そろそろお爺さんが来るはずだ。
 すると階段を上ってくる足音が聞こえた。でも駆け足のように早い。
 これは――現れたのは若い男だった。
 ニット帽を被ってマスクをしている。こちらに気付いた様子はない。
(早く行ってくれ)
 そんな僕の願いは届かず、階段から少し離れた所で立ち止まっている。
 このままじゃマズい。お爺さんが来ちゃう。
 案の定、別の足音が聞こえてきた。
 今度はゆっくりとしている。
(頼む、早くいなくなってくれ!)
 しかし、男は動かない。一体何をしているんだ。その間にも足音は近づいてきた。
 顔が見えてくる。間違いない、亀井のお爺さんだ。
 でも、あの男がいたのでは何もできない。
 せっかく今夜こそはと、思ってきたのに……。
 もうお爺さんは階段を上りきる。
 がっくりとして大きなため息をつきそうになった、その時。

「あっ!」
 思わず小さな叫び声をあげてしまった。

 姿を現したお爺さんに、男がいきなり駆け寄り両手で突いた。
「うわぁー」
 叫び声を上げてお爺さんがよろめく。そのはずみで男のマスクに手が掛かった。
 もう一度、男が両手を突き出すと、鈍い音を立てながらお爺さんが転げ落ちていく。男は落ちていたマスクを拾うと、裏道へと駆け出して行った。
 僕は何が起きたのか理解できず、呆然としていた。
 しばらくすると下の方で大きな声が聞こえてきた。通りがかりの人が集まり始めたみたいだ。
(ヤバい、僕もここを出なきゃ)
 我に返って、裏道へ向かう。
 通りを出たときには辺りに人影もなかった。鼓動が早くなっているのを気付かれないように、下を向きながら駅への道を歩いて行った。 
 それにしても、あの若い男は一体……。


 翌朝、起きてすぐにテレビやネットのニュースを見た。
 お爺さんのことはどこも取り上げていなかった。少なくとも、殺人だとは思われていないようだ。でも、助かったという可能性もある。
(確かめなきゃ)
 会社に行っても仕事が手につかない。
 あの男はねちねちと嫌味を言ってくるけれど、自分のことを心配した方が良いのにと聞き流した。
 そうなのだ、もしお爺さんが死んでいれば僕の役目は済んだことになる。
 誰がやったかなんて、ミキには分からない。結果が出れば、今度は彼女の番だ。

 会社を出るとそのままの足で、ときわ台へと向かった。この二ヶ月で何度も来た道を歩いていく。神社下へ着くと階段の登り口に白い花が供えられていた。
(やっぱり……)
 確信を胸にお爺さんの家へと急ぐ。
 流石に階段を通る気にはならなかったので、初めて道なりに上っていった。大きな円を描くように道は続いている。
(これじゃ、近道をしたくなるのも分かるなぁ)
 十五分ほど歩くと、やっとあの立派な門が見えてきた。門は開けたままになっていて、白黒の幕が張られている。
 お爺さんは亡くなったんだ。

 帰りの電車では不思議な安心感と共に、あのニット帽の男のことを考えていた。
 自分と同じような女性が複数いるらしいとミキは言っていた。きっとその女性に関係しているのだろう。それ程、あの亀井というお爺さんは恨みを買っていたんだな。
 まさか交換殺人だったりして。
 下を向きながら笑みをこらえた。


 金曜の朝は軽やかな気分で会社へと向かった。
 僕の役割は幸運な形で終わった。後は待つだけ。
「おはよう」
 先を歩いている水野に追いついて声を掛けた。
「あ、おはよう。なんか機嫌がよさそうだな」
「そう? いつも通りだよ」
「いや、いつもは朝からどんよりとした顔してるぞ」
「そうかなぁ」
 心当たりは大いにあるんだけどね。

 夜はネットカフェへ。
「いらっしゃいませ」
 声を掛けてくれたのは店長さんではなくバイトの男性だった。
「珍しいですね、夜はいつも店長さんなのに」
「急用が出来たとかで、無理やり交代させられました」
 そう言いながらも、怒っている様子はない。とても穏やかそうな人みたい。
 ブースに入り、腰掛ける。
 ここの所、気持ちにも余裕がなかったけれど、今夜の僕は違う。
 なんてラッキーだったんだろう。自分で人を殺すことなく、嫌なあの男を殺してもらえるなんて。
(ここに幸運の持ち主がいますよ)
 廻りのブースにいる見知らぬ人たちへ教えてあげたい。そんな気分。
 ミキも亀井のお爺さんが亡くなったことはとっくに知っているはずだ。
 来週の火曜日には、早速実行してくれるかもしれない。