あの翌日からは、会社に向かう足取りも軽くなった。
憂鬱な気分は抜けないけれど、僕たちには希望が見えている。今まで通りに罵声を浴びせられても、聞き流す余裕が出てきた。
皮肉なものだ。
あの男がもうすぐいなくなる、そう思うだけでこんなにも楽に毎日を過ごせるなんて。これなら、このままあの男が居座っても辛くないかも。いやいやそれじゃ元通りになっちゃうから駄目だよな。
そんな下らないことを考えながら、廊下で思い出し笑いをしているところを藤崎君に見られてしまった。
「山瀬さん、とうとう決めたんですね」
(はぁ? 何を言ってるんだ、君は)
意味が分からず黙っていると、彼が続ける。
「僕は応援してますよ」
そう言いながら笑顔を浮かべて去って行った。
やっぱり、彼のことは苦手だ。
ミキと会う約束をした日、午後から三河市のときわ台へと向かった。
三時ちょうどに家を出て、ときわ台駅に着いたのは三時五十分になろうとしていた。
(駅までの時間や乗り換えも考えると、一時間は見ておいた方がいいな)
早速、例の神社に行ってみる。
駅から五分ほど歩いて商店街を抜けると坂道が延びている。少し登ったところに神社への参道があった。鳥居をくぐるとすぐに石段が続いている。
周囲の木々がうっそうと生い茂っているせいで、まだ四時を過ぎたばかりだと言うのに薄暗い。
(通りからは上の方が見通せないな)
ミキが言う通り、絶好の場所だ。
段を数えながら登ってみた。全部で五十三段。思ったより勾配も急だ。途中に踊り場が一つあるけれど、登りきると息が上がってしまった。
大きく深呼吸をしてから周りを見渡す。
社殿は古いけれど手入れがしてあって、寂れた感じはない。でもこれだけ上って来なければならないからか、人影もない。
奥の方に抜ける道がある。きっとお爺さんの家の方へ行く近道だろう。
行ってみよう。
そこを歩いていくと車が走っている道に当たった。五、六段降りて歩道に立つ。教えてもらった住所を調べて、お爺さんの家を探した。
地図アプリを見ながら歩いていくと、見るからにお金持ちといった家が現れた。
立派な和風の門に石貼りの塀が続いている。表札で亀井の名前も確認したので、事前調査は完了。
さて、一旦家に戻ってから、今夜はミキと相談だ。
『こんばんは。例の神社、見てきたの?』
『行ってきたよ。確かにあの場所ならいけるかも』
『でしょ? 爺さんは見れた?』
『家は確認してきたけれど、お爺さんは見なかった。すごい家だね』
『どんだけ悪どいことして金儲けしたんだって感じでしょ』
『そっちはどう?』
『順調だよ。あの部長さん、インスタやってたよ』
『えっ、マジで』
そんなこと会社で一言も言ってないけど。意外だ。
『裏アカだね、あれは。綺麗なオネーサンと映ってる写真が多いから』
『よくそんなの見つけたね』
『実はね、元々プログラミングの仕事がしたくて勉強してたの。今でもそこそこの腕はあるからね』
『まさか、ハッカー!?』
『そこまでいかないよ。でも、ある程度はネットで調べていくことは出来るよ』
『そーなんだ』
『それで、部長さんの行きつけの店も数軒は絞り込んだから』
『ミキを敵に回したくないな』
『そう、敵に回すと怖いよ~』
その後も二人で色々と相談をした。
あの男は週末になると飲み歩いているらしく、酔って帰る所を事故に見せかけて……という作戦がいいだろうということになった。
それぞれ、もっと下準備と調査をしてから二週間後に最終打合せをする約束をして、この日は別れた。
一人になって、ふと思った。
本当に僕たちは殺人をするのかな。
こんな言い方は変だけれど、ミキとの話は楽しいし盛り上がっている。
自分の知らない相手、しかもそいつは極悪非道なヤツ。そんな悪役を倒すヒーローみたいな気分がある。
敵を倒した報酬として、自分の嫌いな奴がいなくなるなんて最高のゲームじゃないか。
銃やナイフを使って襲う、なんてことならもっとためらう気持ちが出来るかもしれないけどね。
ナイフと言えば、あの犯人はまだ見つかっていないらしい。
同一犯人による連続通り魔じゃないかって警察が発表してた。まだ死んだ人はいないけれど、最初は服を切り裂く程度だったのが段々とエスカレートしてるから危険だって。
人を切る快感てあるのかな。
ちょっと想像がつかないや。
仕事をしていても、あの男のことが気にならなくなってきた。
どうせ、もうすぐいなくなる。
(可哀想に)
私を立たせて怒鳴りつけているあの男を、憐れむような気持ちで見下ろしている。
水野にも「何かあったのか。最近、変わったな」と言われた。
そう言えば文句を言われることも減ってきた気がする。
でも、もう手遅れだけどね。
また水曜日になり、ときわ台まで行ってみた。
この日はデニムのパンツにグレーの薄手のニット、キャップを被って動きやすく目立たない恰好を意識してみた。
お爺さんの顔を覚えるのと、囲碁教室の場所を知るための尾行。ここで不審に思われてトラブルになったら、せっかくの計画が台無しになる。
すでにドキドキだ。
まずはお爺さんが出て来るまで張り込まなければならない。
張り込みと言えばアンパンでしょ。と思ってコンビニでペットボトルのコーヒーと一緒に買ってきた。
夕方から九時まで囲碁教室へ行くというミキの情報だから、四時半に張り込み開始。神社への裏道の近くで待つことにした。ここからなら、道の反対側にある立派な門も見える。
帰りにあの急な段を上ってくるくらいだから、行く時も神社を通っていくはずだ。僕の予想だと五時から六時ごろに出掛けるはず。
スマホをいじりながら時間をつぶそう。
あんパンを食べる間もなく、門が開いた。
時計を見ると五時半になろうとしている。
出てきた男性は小柄で痩せた体型の老人だった。髪は白く、大きな目が特徴的だ。これなら見間違いそうにもない。
亀井であろう老人は、思った通り、こちら側へ渡ろうと信号待ちをしている。
僕も境内へと移動する。しばらくすると、お爺さんも境内へと上がってきた。社殿にお参りしているかのような僕には見向きもせず、駅の方へと降りる石段へ向かっていく。
彼の後を距離をとって続く。
(なんか探偵みたい)
ドキドキがワクワクに変わってきた。
急な段を降り始めた背中を見ながら、このまま突き落としたら……という思いが一瞬浮かんだ。まだ六時前だし下の道にも人通りがある。
今はダメだ。
そのまま距離を保って石段を下り切った。もうお爺さんは駅の方に向かって歩いている。近道だからといっても、あの段を上り下りするだけあって足腰は丈夫そうだ。多少ゆっくりではあるけれどよろつくこともない。
そして雑居ビルへと入って行った。上を見上げると袖看板に「囲碁クラブ」と記されている。
間違いない。
あのお爺さんは、僕が殺す相手。亀井順二だ。
憂鬱な気分は抜けないけれど、僕たちには希望が見えている。今まで通りに罵声を浴びせられても、聞き流す余裕が出てきた。
皮肉なものだ。
あの男がもうすぐいなくなる、そう思うだけでこんなにも楽に毎日を過ごせるなんて。これなら、このままあの男が居座っても辛くないかも。いやいやそれじゃ元通りになっちゃうから駄目だよな。
そんな下らないことを考えながら、廊下で思い出し笑いをしているところを藤崎君に見られてしまった。
「山瀬さん、とうとう決めたんですね」
(はぁ? 何を言ってるんだ、君は)
意味が分からず黙っていると、彼が続ける。
「僕は応援してますよ」
そう言いながら笑顔を浮かべて去って行った。
やっぱり、彼のことは苦手だ。
ミキと会う約束をした日、午後から三河市のときわ台へと向かった。
三時ちょうどに家を出て、ときわ台駅に着いたのは三時五十分になろうとしていた。
(駅までの時間や乗り換えも考えると、一時間は見ておいた方がいいな)
早速、例の神社に行ってみる。
駅から五分ほど歩いて商店街を抜けると坂道が延びている。少し登ったところに神社への参道があった。鳥居をくぐるとすぐに石段が続いている。
周囲の木々がうっそうと生い茂っているせいで、まだ四時を過ぎたばかりだと言うのに薄暗い。
(通りからは上の方が見通せないな)
ミキが言う通り、絶好の場所だ。
段を数えながら登ってみた。全部で五十三段。思ったより勾配も急だ。途中に踊り場が一つあるけれど、登りきると息が上がってしまった。
大きく深呼吸をしてから周りを見渡す。
社殿は古いけれど手入れがしてあって、寂れた感じはない。でもこれだけ上って来なければならないからか、人影もない。
奥の方に抜ける道がある。きっとお爺さんの家の方へ行く近道だろう。
行ってみよう。
そこを歩いていくと車が走っている道に当たった。五、六段降りて歩道に立つ。教えてもらった住所を調べて、お爺さんの家を探した。
地図アプリを見ながら歩いていくと、見るからにお金持ちといった家が現れた。
立派な和風の門に石貼りの塀が続いている。表札で亀井の名前も確認したので、事前調査は完了。
さて、一旦家に戻ってから、今夜はミキと相談だ。
『こんばんは。例の神社、見てきたの?』
『行ってきたよ。確かにあの場所ならいけるかも』
『でしょ? 爺さんは見れた?』
『家は確認してきたけれど、お爺さんは見なかった。すごい家だね』
『どんだけ悪どいことして金儲けしたんだって感じでしょ』
『そっちはどう?』
『順調だよ。あの部長さん、インスタやってたよ』
『えっ、マジで』
そんなこと会社で一言も言ってないけど。意外だ。
『裏アカだね、あれは。綺麗なオネーサンと映ってる写真が多いから』
『よくそんなの見つけたね』
『実はね、元々プログラミングの仕事がしたくて勉強してたの。今でもそこそこの腕はあるからね』
『まさか、ハッカー!?』
『そこまでいかないよ。でも、ある程度はネットで調べていくことは出来るよ』
『そーなんだ』
『それで、部長さんの行きつけの店も数軒は絞り込んだから』
『ミキを敵に回したくないな』
『そう、敵に回すと怖いよ~』
その後も二人で色々と相談をした。
あの男は週末になると飲み歩いているらしく、酔って帰る所を事故に見せかけて……という作戦がいいだろうということになった。
それぞれ、もっと下準備と調査をしてから二週間後に最終打合せをする約束をして、この日は別れた。
一人になって、ふと思った。
本当に僕たちは殺人をするのかな。
こんな言い方は変だけれど、ミキとの話は楽しいし盛り上がっている。
自分の知らない相手、しかもそいつは極悪非道なヤツ。そんな悪役を倒すヒーローみたいな気分がある。
敵を倒した報酬として、自分の嫌いな奴がいなくなるなんて最高のゲームじゃないか。
銃やナイフを使って襲う、なんてことならもっとためらう気持ちが出来るかもしれないけどね。
ナイフと言えば、あの犯人はまだ見つかっていないらしい。
同一犯人による連続通り魔じゃないかって警察が発表してた。まだ死んだ人はいないけれど、最初は服を切り裂く程度だったのが段々とエスカレートしてるから危険だって。
人を切る快感てあるのかな。
ちょっと想像がつかないや。
仕事をしていても、あの男のことが気にならなくなってきた。
どうせ、もうすぐいなくなる。
(可哀想に)
私を立たせて怒鳴りつけているあの男を、憐れむような気持ちで見下ろしている。
水野にも「何かあったのか。最近、変わったな」と言われた。
そう言えば文句を言われることも減ってきた気がする。
でも、もう手遅れだけどね。
また水曜日になり、ときわ台まで行ってみた。
この日はデニムのパンツにグレーの薄手のニット、キャップを被って動きやすく目立たない恰好を意識してみた。
お爺さんの顔を覚えるのと、囲碁教室の場所を知るための尾行。ここで不審に思われてトラブルになったら、せっかくの計画が台無しになる。
すでにドキドキだ。
まずはお爺さんが出て来るまで張り込まなければならない。
張り込みと言えばアンパンでしょ。と思ってコンビニでペットボトルのコーヒーと一緒に買ってきた。
夕方から九時まで囲碁教室へ行くというミキの情報だから、四時半に張り込み開始。神社への裏道の近くで待つことにした。ここからなら、道の反対側にある立派な門も見える。
帰りにあの急な段を上ってくるくらいだから、行く時も神社を通っていくはずだ。僕の予想だと五時から六時ごろに出掛けるはず。
スマホをいじりながら時間をつぶそう。
あんパンを食べる間もなく、門が開いた。
時計を見ると五時半になろうとしている。
出てきた男性は小柄で痩せた体型の老人だった。髪は白く、大きな目が特徴的だ。これなら見間違いそうにもない。
亀井であろう老人は、思った通り、こちら側へ渡ろうと信号待ちをしている。
僕も境内へと移動する。しばらくすると、お爺さんも境内へと上がってきた。社殿にお参りしているかのような僕には見向きもせず、駅の方へと降りる石段へ向かっていく。
彼の後を距離をとって続く。
(なんか探偵みたい)
ドキドキがワクワクに変わってきた。
急な段を降り始めた背中を見ながら、このまま突き落としたら……という思いが一瞬浮かんだ。まだ六時前だし下の道にも人通りがある。
今はダメだ。
そのまま距離を保って石段を下り切った。もうお爺さんは駅の方に向かって歩いている。近道だからといっても、あの段を上り下りするだけあって足腰は丈夫そうだ。多少ゆっくりではあるけれどよろつくこともない。
そして雑居ビルへと入って行った。上を見上げると袖看板に「囲碁クラブ」と記されている。
間違いない。
あのお爺さんは、僕が殺す相手。亀井順二だ。