水野は簡単に言うものの、あの男に対して反論など僕には出来るはずもなく、今までと同じように押しつぶされそうな日々を必死にこらえていた。
(ミキはどうしたかな)
 あれから店には行っていないけれど、ふとしたときにミキが打った文字を思い浮かべる。
 僕の中で、あの四文字が大きくなっていった。

「いらっしゃい。山瀬さん、久しぶりだね」
 今夜は珍しくヘッドフォンを外していたらしく、店長がすぐに気づいてくれた。
「久しぶりと言っても、一週間くらい来てなかっただけですよ」
「そうだっけ? 毎日のように来ているイメージがあるからかな」
 苦笑しながらブースへと移動する。
 パソコンを立ち上げるとブラウザのトップページにある記事が目に入った。
(ここの近くじゃないか)
 三駅隣の住宅街で歩いていた女性が背中を切り付けられたらしい。傷は浅く、命には別条がないようで、犯人は今も逃走中と書かれている。
 帰りはちょっと怖いな、などと思いながらあのサイトへアクセスした。

 まず掲示板に目を通していく。
 ここ数日でミキが書き込んだ形跡はない。
 やっぱりあの時だけ、面白半分でアクセスしていたのかな。それとも、もう他の誰かと話がまとまって……。いや、そんな簡単に行くはずがない、と様々な思いが交錯していた。
 少し迷ってから、チャットルームに移動する。ルームタイトルは「この前の話の続き」とした。
 ミキに伝わるかどうかは分からないけれど、なりすましを防ぐにはこれでいい。
 会えるかな。
 そんな不安を抱く間もないほど、すぐに入室を知らせる音が鳴った。

(マジかよ。僕を待ってた?)
『こんばんは』
 表示されている名前はミキだった。
 念のため、本人か確認するためにカマを掛ける。
『こんばんは。この前の話だけど、どこまで話したっけ』
『なりすましを疑ってるねー。もちろん、交換殺人の話』
 本物のミキだ。
『ごめん、確認してみた。簡単に話すにはヤバすぎる内容だしね』
『そうだね。誰にでも話すわけにはいかないから、カオルさんが来るのを毎日チェックしてたの』 
『この一週間は、ここへ来る気分さえ起きなかったからなぁ』
『相変わらずひどいんだね、あの男』
『そう、もうほんと嫌だ。毎日が苦痛になってきた』
『じゃあ、やっちゃおうよ。交換殺人』
 また軽いノリで危ないことをサラッと言う。
 実際に話しているわけではなく、文字だから言えるのかもしれないけれど。
『それより、この前の続き。ミキが殺したいほど憎い相手ってどんな人なの』
『ちょっと長くなるよ』
『短くしてよ』
『えーっ、何それ!』
『冗談。ボクの話も聞いてくれたんだから、今度はボクが聞く番』

 ミキはやっぱり女性だった。
 彼女の両親は町工場を営んでいたんだけれど、経営が悪くなりヤミ金融に手を出してしまった。それがきっかけで借金を返すために借金をする、なんて状況になり、挙句の果てに二人で自殺してしまう。
 当時、大学生だったミキは借金と共に一人残された。大学も辞めて働きながら返済していたけれど、彼女にとっては額が多すぎて焼け石に水だったそうだ。
 そこへ借金の全額を肩代わりしてくれるというお爺さんが現れた。
 なんて優しく親切な人だろうと思ったら、こいつがとんでもないワルで、単に借用書を買い取っただけ。
 それを形にして無理やり愛人にさせられているらしい。

『なんかドラマにありそうな話だね』
『そうかな。韓流ドラマとか? 見たことないけど』
『今はそのお爺さんと暮らしてるの?』
『マンションを借りてくれて一人暮らし。そこへ週一か週二で来るんだ』
 それなら悪い話じゃない気がするけど。
 僕の手が止まったのを察知したみたい。
『私にとってはカゴに閉じ込められた気分なの。色々と制約をつけるし』
『なるほどね』
『後で分かったんだけれど、爺さんもヤミ金やってて、そのときの金を基に私みたいな女性を集めてるんだ』
『集めてる?』
『そう。自分で言ってたもん。趣味みたいなもんだって』
『ひどい言い方だな』
『働くのもダメなんだよ。これなら生活が苦しくても、前の頃の方がマシ』
『どうして?』
『少しずつでも借金を返していけば、いつか終わるって希望があったけれど、今のままじゃ爺さんが死ぬまで閉じ込められてるってことなんだよ』
 この時に初めて、ミキは本気なのかもしれないと思った。

『逃げ出せないの?』
『監視されてるわけじゃないから、逃げ出せないわけじゃないけど』
 ここはミキが続けるのを待つところだ。
『借用書は爺さんが持ったままだし、ずっとこそこそしながら生きていくのは嫌』
『それで、交換殺人か』
『する気になった?』
『どうしてボクに話す気になったの?』
 返事をはぐらかしてみた。
『カオルさん、真面目そうだからかな』
『ボクが?』
『書き込み読んでると、真面目そうなのが伝わって来るよ。だからこそ、パワハラをまともに受け止めちゃって苦しんでいるのかなって』
 文章なのに、そんな風に感じ取れちゃうのか。
 そうだよ、僕は藤崎君のように聞き流せないんだ。
 ミキの言葉もね。


 それ以上は彼女も急かすことなく、返事をしないままあの日は落ちた。
 また会う約束もしていない。
 彼女の思いを聞いてしまったことで、戻れなくなるような気がしたから。
 今ならまだお互いに引き返せる。ネットでありがちな、不満を言っていたのが暴走しただけと自分をごまかすこともできる。

 だけど、僕の方から彼女に会いたいと願うことになってしまった。


 相変わらず、あの男から罵声と嫌味を浴びせられる毎日を過ごす中、また水野が僕と藤崎君を例の居酒屋へと誘った。
 席へ着くと、ビールが来るのももどかしそうに切り出した。
「会社じゃちょっと言えない話でさ」
 ここでも声を落としている。
「二人には悪い知らせなんだけど……」
「もったいぶらずに話して」
 僕の言葉に、水野はなぜか姿勢を正した。
「木戸部長が支店長になるらしい」

 一瞬、ヤツが何を言っているのか分からないほど衝撃を受けた。
 まさか、そんな……。
「すぐに変わる訳じゃないけど、支店長が本社へ戻る内示を受けたそうだ」
「部長が本社へ戻るんじゃなくてですか?」
 藤崎君も驚いている。
「来春の移動で交代するらしい」
 ヤツのネタ元はお局様だろうから、確実な話なんだろう。あの男が支店長になるということは、あと数年は今の状況が続くということだ。
 大げさじゃなく、目の前が真っ暗になった気がした。
 直接に相対する機会は減るかもしれないけれど、よりによって支店のトップに立つとは。あの男が本社へ戻るかもしれないと微かに期待していたのに……。

 もう、その後の話はよく覚えていない。