土曜日の朝は会社へ向かう電車内も空いている。
僕が勤めている不動産会社は、物件を見にくるお客が多いからという理由で土日も休まず営業をしている。企業向けの賃貸部門に所属する僕も、交代での出社日だった。
個人向けほど忙しくはならないからのんびりとした気分で行きたいところだけれど、今日はあの男も出社予定だし、昨夜のことも引っ掛かっていた。
*
この人、いきなり何を言ってるんだろう。まぁシャレのつもりなんだろうけれど。
『交換殺人なんて、出来たら面白いね』
『でしょ? やっちゃおうよ』
マジか。ヤバい人なの?
ちょっと探りを入れよう。
『ミキは殺したいほど嫌な奴っているの?』
『もちろん。だからここに来てるの』
そう言われればそうか。
『どんな奴なの?』
『爺さんなんだけれどね。早く死んで欲しい』
『ボクみたいに、ぱーっと吐き出しちゃいなよ』
しばらく間が空く。
『今日はこれから用事があるから、また今度チャットで話してもいい?』
『OK』
『それじゃ、そのときに交換殺人の相談だね』
『妄想なら何でもありだしね』
僕の最後の書き込みには反応せず、ミキは退室していった。
*
あの時のノリであんな風に言ったけれど、また会うことはないかもしれないしな。特にチャットだと、それっきりという相手も少なくない。
それにしても――いきなり交換殺人なんて言い出したミキのことが気になる。
そんなことを考えてるうちに会社へ着いてしまった。
今日は穏やかに過ごせればいいなと思いつつ、扉を開けた途端にあの男の怒声が響いてきた。
「こんなもんじゃ資料にならねぇだろうが! 一体、昨日は何をやってたんだよ」
賃貸部の部長、木戸が藤崎君に罵声を浴びせている。
俯いている彼は一年後輩で、昨夜も一緒に残業をしていた。彼も僕と同様、あの男の攻撃対象となることが多い。ちょっと内気な感じで気弱そうだから、反撃されないと思っているのだろう。
彼が怒ったり、口答えしている場面を見たことがないし。僕も似ているからよく分かる。
あの男の狙う標的にピッタリなんだ。
「部長、もうその辺で。修正は私も手伝いますから」
なおも大声で喚いているあの男と彼の間に水野が割って入った。
ヤツは唯一の同期だけれど、僕から見ても仕事ができるし如才ないというか人当たりが良いというか。
こういうタイプにはうるさく言わない。
それでも不承不承といった態度で不機嫌そうに席を立ち、藤崎君を睨みつけながら部屋を出て行った。タバコを吸いに出たようだ。
藤崎君は水野に肩を軽く二度叩かれると、黙って頭を下げた。
定時を過ぎると、珍しいことにあの男が誰かを怒鳴りつけることもなく、静かに帰っていった。何の用事があったか知らないけれど、毎日がこうあって欲しい。
「山瀬、今夜は何か予定あるか」
僕の机へ水野がやって来た。
「いや。飲みに行く?」
「流石、話が早い。こいつを誘って気分転換しないか。お前も昨夜、やられたって聞いたぞ」
ヤツの後ろには藤崎君がついてきていた。
駅近くの居酒屋へ入りテーブルに着く。
「そっちに二人じゃ、狭くない?」
「全然平気。すいませーん、中生を三つ」
僕の気遣いをスルーして水野が注文していく。喉が潤った所でヤツが切り出した。
「しっかし、木戸部長も何とかならないのかなぁ。あれじゃ、会社の雰囲気も悪くなるだけだよな」
「変わらないよ。変わる訳ないじゃん」
「おまえらは明らかに狙われてるし。パワハラだよ、なぁ」
僕たちの話にも言葉は挟まず、藤崎君は自嘲気味の笑みを浮かべるだけ。
実を言うと、ちょっとだけ彼のことが苦手なんだよね。真面目なんだけれど何を考えているのか分からないところがあって。
「去年、木戸部長がうちの支店に来てからずっとあんな感じだもんな」
枝豆に手を伸ばしながら、水野が続ける。
「どうやらさ、木戸部長は社長の親戚らしいよ。姪の息子だったかな。それで支店長も黙ってるって話だよ」
「そんな情報、どこから聞いてくるの」
「事務の金井さんから」
うちの支店のお局様だ。
「その金井さん情報だと、美樹ちゃんにもちょっかいを出しているらしい」
「新入社員の小島さんですか?」
珍しく、藤崎君が反応した。
僕はミキという名前に反応してしまった。
「部長は単身赴任でこっちに来てるし、女癖が悪いって噂だよ」
「パワハラにセクハラって、最低だね」
思わず言ってしまった。
「そうやってさ、面と向かって言ってやればいいんだよ」
水野はニヤニヤしている。
そんなこと、僕が言えないのは分かってるくせに。誰だって言えないでしょ、会社の上司なんだし。
「パワハラだーっ! って叫ぶのは冗談にしてもさ、山瀬も藤崎も少し反論してもいいと思うよ」
「例えば?」
「うーん、例えば、あまりにも理不尽な時には『それはおかしいと思います』とか」
「そんなことが言えたら苦労しないよ」
言ったって聞く耳なんか持たないし。一言でも反論しようものなら、その何倍もの罵声が返ってくる。
大きなため息を一つ、そしてジョッキに残っていたビールを飲み干した。
「とにかくさ、あまり溜め込まずに吐き出さないと、精神的に参っちゃうぞ」
大丈夫、僕は吐き出してるから、と心の中でニヤリとやり返す。
それと同時に、ミキの言葉が浮かんできた。
水野がトイレに立つと、藤崎君がボソッとつぶやく。
「僕は聞き流すようにしています」
意外、と思って彼を見ると、こう続けた。
「山瀬さんの考えてること、僕には分かってますから」
何だそれ。
ちょっと不気味な笑いを浮かべてるし。同じ立場だからって、分かったふりをされてもなぁ。
僕は君みたいに聞き流したりなんてできないんだよ、と言ってやりたかったけれど止めておいた。
僕が勤めている不動産会社は、物件を見にくるお客が多いからという理由で土日も休まず営業をしている。企業向けの賃貸部門に所属する僕も、交代での出社日だった。
個人向けほど忙しくはならないからのんびりとした気分で行きたいところだけれど、今日はあの男も出社予定だし、昨夜のことも引っ掛かっていた。
*
この人、いきなり何を言ってるんだろう。まぁシャレのつもりなんだろうけれど。
『交換殺人なんて、出来たら面白いね』
『でしょ? やっちゃおうよ』
マジか。ヤバい人なの?
ちょっと探りを入れよう。
『ミキは殺したいほど嫌な奴っているの?』
『もちろん。だからここに来てるの』
そう言われればそうか。
『どんな奴なの?』
『爺さんなんだけれどね。早く死んで欲しい』
『ボクみたいに、ぱーっと吐き出しちゃいなよ』
しばらく間が空く。
『今日はこれから用事があるから、また今度チャットで話してもいい?』
『OK』
『それじゃ、そのときに交換殺人の相談だね』
『妄想なら何でもありだしね』
僕の最後の書き込みには反応せず、ミキは退室していった。
*
あの時のノリであんな風に言ったけれど、また会うことはないかもしれないしな。特にチャットだと、それっきりという相手も少なくない。
それにしても――いきなり交換殺人なんて言い出したミキのことが気になる。
そんなことを考えてるうちに会社へ着いてしまった。
今日は穏やかに過ごせればいいなと思いつつ、扉を開けた途端にあの男の怒声が響いてきた。
「こんなもんじゃ資料にならねぇだろうが! 一体、昨日は何をやってたんだよ」
賃貸部の部長、木戸が藤崎君に罵声を浴びせている。
俯いている彼は一年後輩で、昨夜も一緒に残業をしていた。彼も僕と同様、あの男の攻撃対象となることが多い。ちょっと内気な感じで気弱そうだから、反撃されないと思っているのだろう。
彼が怒ったり、口答えしている場面を見たことがないし。僕も似ているからよく分かる。
あの男の狙う標的にピッタリなんだ。
「部長、もうその辺で。修正は私も手伝いますから」
なおも大声で喚いているあの男と彼の間に水野が割って入った。
ヤツは唯一の同期だけれど、僕から見ても仕事ができるし如才ないというか人当たりが良いというか。
こういうタイプにはうるさく言わない。
それでも不承不承といった態度で不機嫌そうに席を立ち、藤崎君を睨みつけながら部屋を出て行った。タバコを吸いに出たようだ。
藤崎君は水野に肩を軽く二度叩かれると、黙って頭を下げた。
定時を過ぎると、珍しいことにあの男が誰かを怒鳴りつけることもなく、静かに帰っていった。何の用事があったか知らないけれど、毎日がこうあって欲しい。
「山瀬、今夜は何か予定あるか」
僕の机へ水野がやって来た。
「いや。飲みに行く?」
「流石、話が早い。こいつを誘って気分転換しないか。お前も昨夜、やられたって聞いたぞ」
ヤツの後ろには藤崎君がついてきていた。
駅近くの居酒屋へ入りテーブルに着く。
「そっちに二人じゃ、狭くない?」
「全然平気。すいませーん、中生を三つ」
僕の気遣いをスルーして水野が注文していく。喉が潤った所でヤツが切り出した。
「しっかし、木戸部長も何とかならないのかなぁ。あれじゃ、会社の雰囲気も悪くなるだけだよな」
「変わらないよ。変わる訳ないじゃん」
「おまえらは明らかに狙われてるし。パワハラだよ、なぁ」
僕たちの話にも言葉は挟まず、藤崎君は自嘲気味の笑みを浮かべるだけ。
実を言うと、ちょっとだけ彼のことが苦手なんだよね。真面目なんだけれど何を考えているのか分からないところがあって。
「去年、木戸部長がうちの支店に来てからずっとあんな感じだもんな」
枝豆に手を伸ばしながら、水野が続ける。
「どうやらさ、木戸部長は社長の親戚らしいよ。姪の息子だったかな。それで支店長も黙ってるって話だよ」
「そんな情報、どこから聞いてくるの」
「事務の金井さんから」
うちの支店のお局様だ。
「その金井さん情報だと、美樹ちゃんにもちょっかいを出しているらしい」
「新入社員の小島さんですか?」
珍しく、藤崎君が反応した。
僕はミキという名前に反応してしまった。
「部長は単身赴任でこっちに来てるし、女癖が悪いって噂だよ」
「パワハラにセクハラって、最低だね」
思わず言ってしまった。
「そうやってさ、面と向かって言ってやればいいんだよ」
水野はニヤニヤしている。
そんなこと、僕が言えないのは分かってるくせに。誰だって言えないでしょ、会社の上司なんだし。
「パワハラだーっ! って叫ぶのは冗談にしてもさ、山瀬も藤崎も少し反論してもいいと思うよ」
「例えば?」
「うーん、例えば、あまりにも理不尽な時には『それはおかしいと思います』とか」
「そんなことが言えたら苦労しないよ」
言ったって聞く耳なんか持たないし。一言でも反論しようものなら、その何倍もの罵声が返ってくる。
大きなため息を一つ、そしてジョッキに残っていたビールを飲み干した。
「とにかくさ、あまり溜め込まずに吐き出さないと、精神的に参っちゃうぞ」
大丈夫、僕は吐き出してるから、と心の中でニヤリとやり返す。
それと同時に、ミキの言葉が浮かんできた。
水野がトイレに立つと、藤崎君がボソッとつぶやく。
「僕は聞き流すようにしています」
意外、と思って彼を見ると、こう続けた。
「山瀬さんの考えてること、僕には分かってますから」
何だそれ。
ちょっと不気味な笑いを浮かべてるし。同じ立場だからって、分かったふりをされてもなぁ。
僕は君みたいに聞き流したりなんてできないんだよ、と言ってやりたかったけれど止めておいた。