いつものように電車へ乗り込み、変わり映えのしない駅で降りる。
 たくさんの人が降りるけれど、誰も僕のことなんか気にしちゃいない。駅前のこじんまりしたロータリーにはタクシーが二台。それを横目に今夜もあの店へと向かう。
 まっすぐ家に帰る気分なんかじゃないし。
(コンビニで何か買っていこうかな)
 野沢菜明太のおにぎり、それとお茶をレジで差し出す。
「あと、特製肉まんもください」
 レジ袋をぶら下げて二、三分歩くと、有名チェーン薬局の黄色い看板が見えてきた。その横にある階段を二階へ上がっていく。

 扉を開けて中へ入ると軽やかな電子音が鳴った。
(また気付いてないし)
 店長さんはDJみたいに大きなヘッドホンをしながら、視線を手元へ向けている。いつものように海外ロックバンドの動画でも見ているのかな。
 カウンターの前へ回り込むと、ようやく僕に気がついた。
「あ、いらっしゃい」
「全然気づいてなかったでしょう。よくそれで店長としてやっていけるよなぁ。ちょっとうらやましいです」
 会員証を渡しながら、笑いかける。
「ほら、山瀬さんみたいに優しいお客さんばかりだから。ちょっとくらいさぼってても平気なんだよ」
 会員証には番号しか書いていないのに、店長さんは名前も覚えてくれている。ブース番号が印刷された紙を受け取り、笑顔のまま軽く頭を下げた。
 決して広いとは言えない通路を進み、十六と書かれたブースへ入る。スーツの上着をハンガーに掛け、リクライニングチェアに座った。
 電源を入れると、眠っていたモニターに輝きが戻る。


 仕切りの高さは百五十センチほど、覗こうと思えば隣の人の顔も見えるけれど、ここネットカフェでは誰もそんなことをしない。
 隣にいるのはどんな人なんだろう。
 男性かな。女性かもしれない。
 何をしているのかな。何をしようとしているんだろう。
 椅子の上に立ち上がるだけで暴ける脆い秘密だけれど、暗黙の了解で守られている。

 とっても不思議で、僕にとっては特別な空間。
 ここにいる間は、いつもの自分から変われる気がしている。
 何をしても、どんな風にふるまっても、それが僕だとは分からない。
 匿名性なんてない、調べれば個人も特定できるなんて言うけれど、今ここには誰にも気づかれない僕がいる。


 残業続きで疲れがたまっていて、電車の中ではスマホを触る気にもならなかった。
 暖かい肉まんを頬張りながら今日のニュースに目を通していく。特に大きな出来事もなかったみたい。
(野沢菜明太のおにぎり、美味しいな)
 最後の一口をお茶で流し込んで、両手をキーボードに添える。
 ここから、秘密の楽しみが始まる。
 もう覚えてしまったアドレスを打ち込んで、エンターキーを押す。
 見馴れた画面が現れた。

 『あなたが殺したい人は誰ですか』――いわゆる闇サイトだ。

 ここの掲示板には嫌いな相手に対する不平不満、いや罵詈雑言がこれでもかと書かれている。
 それを眺めていくのが僕には止められない。
 生きていく中でこんなにも辛い目に合っている人が自分の他にもいるんだ、というある種の共感が生まれる。もちろん、恨みつらみを書き込むこともあるけれど、あの男を殺したいと真剣に思っているわけではなかったんだ。
 ミキに出会うまでは。


 サイトにログインして掲示板を開く。
 ここでのハンドルネームは好きなアイドルから取った、カオル。ネームはインする度に変えられるけれど、僕を含め、常連さんは同じものを使っている。名前が被ることはあっても誰も気になんてしちゃいない。
 みんな自分の不満をぶちまけたいだけなんだ。
 今日の僕もその一人。
 あの男がどんなに非道い奴なのか、ブラック上司の見本のようなあの男への思いを書き込んでいく。それでも足りずに、チャットルームへ移動した。
「愚痴の聞き役募集」とタイトルを付ける。
 誰か相手をしてくれる人が来るまで、スマホでゲームをしながら待つことにした。

 五分ほど経っただろうか。
 呼び鈴に似た音がパソコンから聞こえてきた。
(思ったより早く来てくれたな)
 スマホをおいてキーボードに向かう。
 画面に目をやると、ミキという名前が表示されていた。今までにチャットで話したことはない気がする。
『はじめまして、ミキさん』
『はじめまして』
 やはり初めてだったみたい。
 女性なのかな。そんな詮索をしないのも暗黙の了解だけれど。
『愚痴を聞いてくれるなんて、ありがとう』
『カオルさんの書き込みを見て来たけれど、あの男ってひどい奴だね。私まで腹が立ってきちゃって』
『読んできてくれたんだ。クズみたいな奴なんだよ、あいつは』
『上司なの?』
『うん。とにかく頭ごなしに怒鳴り散らすんだ。それも人前で』
『一番やっちゃいけないパターンだ』
『声も大きいし、口も汚いし、人の話を聞く耳を持たない』
『最低だね』
 タイミングよく返してくれるので、キーボードを打つ手も滑らかになる。
 それにつれて、怒りもぶり返してきた。
『今日も契約が取れなかったのをボクのせいにしてきて、無理やり残業だよ』
『そうなんだ』
『ねちねちと嫌味をずっと言いながらね』
 あ、間が空いた。

 でも僕の愚痴は止まらなくなってる。
『追加の資料を作るからって指示だけ出して、自分はさっさと帰っちゃうんだから』
『労いの言葉なんて絶対にないしね』
 右隣のブースに新しいお客さんが入ってきた音がする。
『他の人が怒鳴られているのを聞くのも、嫌な気分になるし』
『まさにパワハラ! ブラック上司の見本みたいな奴だよ』
『ごめん、ちょっと離れちゃってた』
 ミキが戻ってきた。
『退室表示になってなかったから、一人で愚痴ってた』
 自嘲気味に笑う。
『なるほどね。こんな奴、いなくなったらいいのにね』
『ほんとだよ。いなくなったら気分がいいなぁ』
『じゃ、いなくなってもらっちゃえば?』
『そんなん無理でしょ』
『交換殺人、してみる?』
 画面に現れた突拍子もない文字を見て、キーボードを打つ手が止まった。