永遠に続く夏の恋の泡沫

タイヤが大きめの石を踏んだのか、車がガタンと揺れた。

山奥の田舎町のことだから、道路の舗装が行き届いていないのだろう。

「起きた?」

運転中のお母さんが、バックミラー越しに訊いてくる。後部座席に突っ伏していた私は、起き上がると精一杯伸びをした。

「今どこ?」

「もうすぐ着くわ」

あたり一面には杉の木が鬱蒼と茂り、ところどころ陽だまりが落ちている。薄暗い地面できらきらと瞬く陽だまりは、まるで宝石のようだ。
窓越しに景色に見とれているうちに、車は林道を抜けた。

「きれい……」

林を抜ければ、そこは湖だった。

照りつける真夏の日差しに、エメラルドグリーンの水面が反射している。水面にはまるで鏡のように、青空に伸びた入道雲が鮮明に映り込んでいた。

水べりには、古いボート小屋が佇んでいる。だけど湖には遊泳中のボートはないし、そもそも辺りには人っ子一人いない。

「相変わらず、この世から忘れられたみたいに静かなところね」

お母さんの声を聞き流しながら窓を開ければ、生暖かい湖畔の風が私の頬を撫でた。澄んだ水と葉っぱの匂いを、お腹いっぱいすうっと吸い込む。
私がお母さんの実家があるこの町で過ごしたのは、小学五年生の終わりまでだった。

お母さんが再婚し東京に移り住んでからは、毎年この場所は夏を過ごすためだけに来る。

森林に囲まれたこの小さな町は、気候が穏やかで、夏を過ごすには最適だ。

みんな、元気にしてるだろうか?
窓を開けっ放しにしたまま幼馴染たちの顔を順に思い浮かべていると、ふいにお母さんが言った。

「優芽。あれ、皐月くんじゃない?」

湖の途切れた先は、竹林の道になっている。その手前に山の上へと続く長い石段があり、石段を登った先には”龍天神”と呼ばれる竹林に囲まれた神社がある。

ふもとには、しめ縄が巻かれお神酒の供えられた小さな祠があった。
祠の前に、黒髪の男の子が立っている。

「本当だ、皐月だ」

ダークグレーのTシャツに黒のハーフパンツというラフな出で立ちの皐月は、私が気づく前からすでにこちらを見ていた。そして、私と目が合うとにこっと人懐っこい笑みを浮かべる。

男にしては色白の肌に、猫に似た切れ長の瞳。去年より少しだけ背が高くなったけど、思いのほか変わっていなくてなんだかホッとした。笑うと途端に子供っぽくなる笑顔もそのままだ。
皐月は車で過ぎ行く私に向けて手を振りながら、よりいっそう目を細めた。

「おかえり、優芽」

「ただいま、皐月」

皐月の顔がしっかり見れたのは一瞬のことで、車はすぐに祠の前を過ぎ林道へと入っていった。強風が吹いたのか、竹林がザワザワと激しく揺れている。

「良かったわね、皐月くん。元気そうじゃない」

「うん。病気が大分よくなったみたい」

ボート小屋の息子である皐月は、子供の頃深刻な病気にかかっていて、家にこもっていることが多かった。だけど何年か前から奇跡的に回復しはじめて、徐々に私たちと同じように生活できるようになった。

あの分だと、去年よりもさらに良くなったみたい。
嬉しくなって、自然と顔が綻んだ。

まるで太陽の熱を直に浴びたみたいに顔が熱いのは、きっと気のせいではないだろう。
竹林の道を過ぎて山道を下れば、やがて平地に行き着いた。清流のほとりにある白い家が、お母さんの実家であり、小五の終わりまで私の住んでいた家だ。

おばあちゃんが亡くなってからは、うちの別荘的な場所になっている。
古風な洋風の建物で、緑色の三角屋根の上では風見鶏がくるくると旋回していた。中庭に面したルーフテラスは、昔から私のお気に入りの場所だ。

「綺麗に掃除されてるわね。三上さんにお礼を言わなきゃ」

先に中に入ったお母さんが、嬉しそうな声を上げている。

三上さんとはお母さんの旧くからの知り合いで、私たちがいない間、定期的にこの家の掃除をしに来てくれている。気さくで面倒見のいいおばさんで、息子の響とは小学校からの付き合いだ。

そういえば、響も元気してるかな。そんなことを思いながら私も続いて中に入ろうとすると、突然「わっ」と背後から大声が聞こえた。

驚きのあまり跳ねるように振り返れば、男の子が二人ケラケラと笑いながら私を見ていた。

双子の彼方と日方だ。黒髪に狐顔の二人は、皐月とは違って去年よりずいぶん背が伸びている。

「彼方と日方、びっくりさせないでよ!」

「優芽って、毎年これで驚いてるよな」

「少しは学んで欲しいよ」

「怒り方も去年とそっくりそのままだな」

「デジャビュかと思ったし」

私が怒れば、双子はますます喜んだ。背が伸びても、悪戯好きな性格は変わっていないようだ。

ひとしきり笑ったあとで、彼方と日方が口々に喋り出す。

「お前、相変わらず色気がないな」

「彼氏できたのかよ」

「何よ、いきなり。そんなのいないよ」

「マジかよ、東京って意外と遅れてるんだな。俺ら、二人とも付き合ってる子いるんだぜ」

「本当に? 彼女たち、二人の見分けついてるの?」

「時々間違えられるよ」

平然と答える日方に、思わず笑ってしまう。

「でもよかったよ」

彼方が、私の肩にポンと手を置いた。

「よかったって、何が?」

「優芽に彼氏ができてなくて」

それの何がよいのかさっぱり分からず眉根を寄せれば、何かを含んだように二人は顔を見合わせて笑い合った。

「響がさ、飯屋でバイトしてるんだ。あとで行こうぜ」

「いいよ。ご飯屋さんって、もしかしてうなぎの”仙家”?」

「そうそう。ていうか、他に飯屋なんてこの辺にないし」

ここは町の外れにあって、中心部に行けばまだガソリンスタンドやご飯屋さんなんかがあるけれど、この界隈にはほとんど何もない。小学校ですら、徒歩一時間という驚きの立地だ。

「皐月も誘う?」

「どうだろな。あいつの病気良くなったみたいなんだけど、昼間はやっぱり出歩きたがらないんだ。だから誘っても無理かも」

「そっか。それは残念」

皐月は子供の頃、日光に当たったらいけないという特殊な病にかかっていた。今でこそよく笑うようになったけど、子供の頃はいつも孤独な目をしていたのを覚えている。

『この病気は、一生治らないかもしれない』
そう言って、皐月はよく自分の未来を悲観していた。だから、治って本当に良かったと思う。

皐月は、私にとって特別な存在だから。
湖のほとりにある“仙家”は、皐月のボート小屋からわりとすぐだ。

自転車のない私は、彼方の自転車の後ろに乗せてもらった。私と彼方、それから日方を乗せた二台の自転車は、颯爽と竹林の道を走り抜けていく。竹林の途切れた先には、エメラルドグリーンに輝く湖があった。

祠の前にはもう皐月の姿はなく、代わりに背中の曲がったおばあさんがいた。小豆色の着物に手ぬぐいのほっかむりという恰好で、祠に向かい両手を合わせしきりにブツブツと祈っている。

「あのおばあさん、まだお参りしてるのね」

名前も知らないそのおばあさんは、子供の頃からよくこの祠で祈っているのを見かけた。階段の上まで参拝に行きたくとも、足腰が弱っていけないのだろう。

「この町のお年寄りは、龍神伝説を本気で信じ込んでいるからな」

背中越しに、彼方が言った。

「龍神伝説って?」

「え、この町に住んでたのに、知らないの?」

隣を自転車で走行している日方が、驚いたように声を上げる。

「この湖に伝わる伝説だよ。昔、俺らが生まれるよりもずっと前に、この湖に子供が落ちていなくなってしまったらしい。その子が龍神になって、この田舎町を世俗から守ってくれてるって話。この辺じゃ有名だよ」

「ふうん、知らなかった」

「田舎町にありがちな伝説だよ。そんな民話のひとつでもなけりゃ、ほんとになーんもない町だから」

茶化すように、日方が笑った。

私は後ろを振り返り、いまだに祠に手を合わせ続けているおばあさんを見つめる。輝く湖畔とは対照的に、竹林に面したその祠には陰が落ちていて陰鬱としていた。やがてカーブにさしかかると、おばあさんの姿は完全に見えなくなってしまった。

「響~」

うなぎの“仙家”の前に自転車を停めるなり、双子は慣れた様子で店内へと入って行く。

「響~、優芽が帰って来たぞ~!」

”仙家”は、テーブル席が四席ほどのこぢんまりとした食事処だ。お昼を過ぎたこの時間、お客さんは全くいなくて閑散としている。

すぐに、響が慌てた様子で奥から姿を現した。

「何だよ、お前ら。勝手に入ってんじゃねーよ」

「誰もいないんだからいーじゃん」

「ていうか大丈夫なの? こんなガラガラで潰れない? この店」

去年までは黒髪だったのに、響の癖がかった髪は茶色に染まっていた。ジーパンにTシャツ、それに黒のバンダナにエプロン姿という店員スタイルだ。

もともと背が高かったけどさらに伸びていて、彼方と日方よりは頭ひとつ分近く差がある。男の子というよりも、もう男の人と呼んだ方が合っている気がした。

「ただいま、響」と挨拶すれば、響は私を見て「おう」と小さく返事をした。
ちょうど休憩時間だった響を伴って、四人で湖畔まで出る。
水は穏やかで、時折吹く風に緩やかな波紋を作っていた。

「それで俺に彼女が出来たとたん、こいつも躍起になって彼女作ってさー」

「躍起になんてなってねーよ、偶然じゃん」

「でもあれだな、今年から俺らは彼女と祭りに行くから」

「去年までみたいに、お前らとは一緒に行けないからな」

彼女持ちの彼方と日方が、揃いも揃って私と響を見下す発言をしてくる。

「でもさ、去年の夏の一番の思い出といえば、あれだよな」

ふたりの彼女自慢にうんざり気味になっていると、ふいにからかうような口調で彼方が言った。

「今年こそはって思ったのに。また響が優芽に……」

「ぶん殴るぞ、彼方」

「お~こえ~。ていうか、いてーよっ! ごめん、ごめんって!」

響が彼方の言葉を遮り首にプロレス技を決めていたその時、吹き荒れた風に水面がにわかにざわついた。

じわじわと円状の波紋が広がり、辺りの木々が一斉にざわざわと騒ぎ出す。
空には突如雲が立ち込め、日の光が遮られた。

「雨が降るのかな」

プロレスごっこで盛り上がる響と彼方の隣で、日方が中空に手をかざす。
その時、ふと私の脳裏に妙な違和感が沸き起った。

「……ねえ、日方」

「ん?」

「前に、この湖で事件がなかったっけ?」

どうしてそんなことを突然言い出したのか、自分でもわからない。ただ大切な何かを忘れているような、居てもたってもいられない焦燥感に胸がざわついた。

「事件? この平和な町で、事件なんか起こるわけないだろ。テレビの見過ぎじゃないの」

日方は、私の疑問を爽快な笑い声で一蹴する。

「まあ、事件らしい事件といえばあれだな。俺らが小五の時の夏の事件が、この町では一番の大事件なんじゃないか」

「夏の事件?」

「何だよ、当事者のくせに忘れたのかよ」

呆れたように、日方が言った。

「優芽がこの湖で溺れて、町人総出で大捜索が行われたんじゃないか。見つかった優芽は奇跡的に生きていて、その時優芽を見つけたのが……」

そうだ、覚えている。

湖の底の景色も、遠く聞こえる地上の喧騒も。水面へと昇っていく泡も、嘘みたいに静かな水の世界も。

あの時、私を見つけてくれたのは――。

「響じゃないか」

「そうだったね」

やっと彼方とじゃれ合うのをやめた響に、私は視線を向ける。

振り返った響は私と目が合うと、すぐに顔を反らした。湖から反射した光のせいか、耳が赤い。

「あっ!」

そこで、日方が声をあげる。

「皐月だ。おーい、さつきぃ~」

のらりくらりと湖畔を歩んでいた私たちは、いつの間にかボート小屋の手前まで来ていた。

桟橋につけられた一艇のボートにもたれるようにして、皐月が文庫本を読んでいる。私たちに気づいた皐月がこちらを見て笑ったのが、遠くからでもわかった。

大仰に手を振っている日方は、そのまま皐月の方へと駆けていく。