恋の宝石ずっと輝かせて2


 どこでキイトと別れたのか、仁は覚えていない。気がつけば一人で暗い夜道を歩いていた。
 一体何があったのか。
 キイトの話を聞いた後は放心状態に陥り、仁は何も考えられなかった。
 そんな仁を見たキイトは酷く同情し、仁を応援してやりたくなった。
「仁、気をしっかり持て」
 キイトは仁の額に優しくキスをする。
 それはおまじないのようであり、キイトの唇が触れた場所は不思議な光を放ちそれが仁の中へと沁みこんでいった。
 仁はそっと自分の額に触れる。少し熱を帯びているようだ。
「力を少し分けてやった」
 キイトはそんなことを言っていた。
 でも仁はキイトから聞いた話に気を取られすぎて、キスをされても驚かなかった。なんだかよくわからないままに何かが触れたくらいにか感じなかった。
 それからぼーっとして、気がつけば住宅街で一人暗闇の中自転車を押していた。
 すぐに家に帰る気力がなく、自転車を押して歩きながら、何度もため息をついてはこの先のことを考えていた。
 トイラを人間にできるかもしれない。
 本当にそれでいいのだろうか。
 ユキを思ってトイラを救いたいのなら、仁は覚悟してかからなければならない。
 果たして自分は快くトイラを人の姿に変えていいものか。
 仁は今になって怖じ気ついてしまう。
「ユキ、僕は一体どうしたら……」
 仁はユキの気持ちを第一に考えると辛くなってしまった。
 気持ちがすぐれないまま、家の玄関のドアを開けた。
「ただいま」
 パタパタと母親が廊下を小走りするスリッパの音が近づいてくる。
「あら、遅かったわね。夏休みだからって遊び惚けてちゃだめよ。受験があるんだから」
「分かってるよ。腹減った。ごはん」
「はいはい」 
 母親は台所に立ち、出来上がっていた夕飯を温めなおした。
「あっ、そういえば、良子から電話があったわよ。アシスタントが夏休み取るから、仁に手伝って欲しいって」
 良子は母親の妹であり、獣医で動物病院を経営している。忙しいときは頼みやすいとあって、仁はよく仕事を手伝わされていた。
「わかった。後で連絡しておく」
「やっぱり仁も獣医目指して受験するつもりなの?」
 おかずとご飯をテーブルに置きながら母親が言った。
「うん」
 仁は軽く返事してからお箸を手に取り「頂きます」と呟いた。
「なんか仁に動物任せて大丈夫かしら。動物っていっても犬や猫だけじゃないのよ。結構ビビリなところあるのに、ライオンやトラとか診察することになったら怖いわよ」
 母親は脅かそうと冗談を言ったつもりだった。
「大丈夫だよ。黒豹と狼を相手にしたことあったから」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
 仁はご飯を口に入れ咀嚼していた。
「とにかくまずは大学入らないとね。そういえばユキちゃんはどこ目指してるんだろう。やっぱりアメリカいっちゃうのかな。仁と遠く離れちゃうとそのまま疎遠になっちゃいそうで怖いな。義理の娘にするならやっぱりユキちゃんがいいし」
 味噌汁をすすっていた仁がむせていた。
「気が早いんだよ」
「だってさ」
「それにユキは僕なんて選ぶわけがないだろ……」
 それをいいかけたとき、玄関のドアが開く音が聞こえ仁の父親が帰ってきた。
 母親はそっちに気を取られて玄関まで迎えに行った。
 仁は無表情でご飯を食べ続ける。虚しさがこみ上げて味などよくわからなかった。
 そして食事が終わると、良子に電話を入れた。
 早速翌朝に来いと言われるが、文句も言わずに素直にそれを受けるところは、自分でもお人よしだと思わずにはいられなかった。

 その翌日。
 仁は眠い目を擦って大きな欠伸を出しながら、まだ人通りもない道を自転車で駆けていた。
 朝の空気はひんやりとしていて気持ちがいい。
 少しは頭もすっきりするかと、更にスピードを出して冷たい空気の流れを味わっていた。
 動物病院に着くと、白衣を着た良子が眠たそうな顔をして迎えてくれた。
 早速、檻に入っていた動物の世話を命じられ、大きな欠伸を一つしながら、仁は仕事に取り掛かかった。
「元気そうな犬や猫なのに、なんでこんなに居るんだよ」
 仁が水を取り替えながら良子に聞いた。
「ほら、夏休みでしょ。旅行で家を留守するから預けていく人が多いのよ。ここは動物病院だから、もし何かあっても安心でしょ。こっちも稼ぎ時稼ぎ時」
「ふーん」
 仁は檻の中で大人しく寝ている猫を撫でていた。昔は猫アレルギーで触ることもできなかっただけに、こうやって堂々と猫に触れられることが嬉しい。
 これも太陽の玉に吸い込まれるジークを助けたときに、何らかの力が自分にも作用したお陰だと思っている。
 獣医になりたいと思ったのは、目の前に獣医の良子がいることも影響しているが、一番の動機はトイラやキースのような動物たちにまたどこかで会えるかもしれないと思ったのがきっかけだった。
 動物を見ると、つい人間の言葉を話すのではと期待するようになってしまった。
 猫の世話が終わると、今度は犬の檻の前に立った。
「あれ、こいつ楓太(ふうた)じゃないか。なんでこんなに怪我してるんだ」
 目の前には柴犬が、あちこち包帯を巻かれた姿で寝そべっていた。
「瞳ちゃんが言うには、家を飛び出したかと思うと、派手な喧嘩して帰って来たらしいの。家にいると、まだ怪我も治ってないのに隙を見てすぐ飛び出しちゃうんだって。それで暫く入院させてるの。そういえば瞳ちゃん、仁によろしくっていってたわよ。なんか仁もててるみたいね」
 楓太は八十鳩瞳が飼っている犬だった。
「そんなんじゃないって。良子さんのお得意のお客さんみたいなものだろ。だから愛想良くするしかないじゃないか」
「まあね、私も時々愛想良くしすぎておじさんたちを勘違いさせるときあるわ。一緒に食事いかがですかとか言われた」
「まさか、真に受けてないだろうな。柴山さんに知られたら、大変だぞ」
「大丈夫大丈夫、そんな誘いに乗らないって。私は高校生のときから圭太一筋よ」
 囚われたトイラたちを助けに行くときに、火事まで引き起こしたあの大騒動だったが、そのことは一切覚えておらず、良子と柴山圭太は寄りだけは戻していた。
 その柴山だが、只今ピューリッツアー賞を目指す勢いで写真を撮りまくっているらしい。
 お互いいい年なのに、いつ結婚するのか未定だが、二人が言うにはこの時一番いい関係を保っているらしい。
 高校生の時から、お互いこの人しか居ないと思った気持ちは、今も続いているところが仁には羨ましかった。
「あっ、仁、楓太に餌やるとき気をつけて。閉じ込められて気が立ってるから噛み付くかもよ~」
 良子は冗談交じりに仁をからかう。
「ええ、そんなの嫌だ」
「何行ってるの、将来獣医になりたいんでしょ。嫌がってどうすんの。犬の気持ちを考えて接しなさい」
「ハイハイ」
 仁は適当に返事する。
 その時、良子は掛かってきた電話に反応して、慌てて受付へと走っていった。
 仁は楓太をチラリとみてから、ドッグフードを準備すると、それを持って檻の柵をはさんで対峙した。
「おい、楓太、くれぐれも噛まないでくれよ」
「安心しな、お前さんのことは噛まないから」
「お前喋れるのか?」
「お前さんは、拙者が話してもあまり驚かないみたいだな」
 犬が喋っても慣れきってしまい、落ち着いて檻のドアを開け、仁は餌を楓太の前に差し出した。
 楓太はゆっくりと立ち上がり、匂いを嗅いでから食べ出した。
「もしかして、人の姿になれるとか」
 仁は楓太の食べている様子をじっと眺めながら質問する。
 楓太は顔を上げて、口の周りを舌で嘗め回してからまた喋った。
「拙者は話せる力をニシナ様に与えられただけだ」
「お前、ニシナ様のことを知ってるのか?」
「なんだ、お前もニシナ様のことを知ってるのか? お前は動物の姿に変われるのか?」
「いや、僕は普通の人間だ」
「ふーん。だけどなぜお印がついてるんだ」
「お印?」
 楓太が自分の額を前足で何度も触って場所を知らせた。
 仁もそれに合わせて自分の額に触れる。
 そして、キイトがここにキスしたことをおぼろげに思い出した。

「お印とはなんだ?」
「神の使いに選ばれし者。それは特別な意味を与えられる」
「例えば?」
「それは自分で考えな。それがつけられたのなら、お前さんは気に入られたってことだ」
「気に入られた? とりあえず有難いってことか。まあいっか。ところでさ、ニシナ様のことだけど、風太はニシナ様がどこにいるか知っているのか」
 仁の問いに楓太は何も答えなかった。ひたすらむしゃむしゃと餌を食べている。
「どうして黙ってるんだ」
 仁が催促すると、楓太はゆっくりと顔を上げた。
「今それを拙者の口から言うことはできないからだ」
「と、言うことは知っているのか? それなら無事かどうかくらい分からないか?」
「ニシナ様はとても危ない状態とだけ教えといてやる」
「えっ、危ない状態? それって危篤ってことなのか? それとも命を狙われてるっていう意味? どっちなんだよ」
 仁が責め立てるように訊けば、楓太は頑なに口を閉ざしてしまった。ひたすら餌を食べている楓太。仕方なく仁は話題を変える。
「それじゃ、カジビはどこにいるか知ってるか?」
「ん? カジビ?」
 楓太は反応し、じーっと仁を見つめる。
「な、なんだよ」
「カジビがどこにいるのか、本当にお前さんはわからないのか?」
「分からないから訊いているんだよ。僕はただの人間だぞ。本当なら楓太のような仲間たちと交わることなんてないんだぞ」
「いや、お前さんはカジビがどこにいるかわかるはずだ」
「えっ? なんでそう思うんだよ」
「自分でよく考えな」
 そしてそれ以上、仁がどんなに声を掛けても楓太は再び言葉を発することはなかった。

 手伝いが済み、良子の動物病院から開放されると、仁はユキの家へ向かった。
 途中神社に立ち寄り、キイトを探したが会うことはできなかった。
 仁はキイトにキスをされた額に手を当てて、暫く蝉の鳴き声を聞いて佇んでいた。
 自分に何ができるのか考えたとき、仁は覚悟を決めた。
 その気持ちのままユキの元へと向かった。
 ユキの家に近づけば、ふんわりと甘い匂いが漂っている。
 家に上がれば、暑い中、汗を欠きながらオーブンを使ってクッキーを焼いているユキがいた。そのエプロン姿が可愛い。
「仁、ちょうどよかった。ちょっと味見して」
 焼いて間もないふにゃっとしたクッキーを手渡され、仁は口に頬張る。
 その様子を不安げに見詰めながら、ユキは仁の言葉を息を飲んで待っていた。
「うん、おいしいよ」
 聞きたかった言葉が聞けて嬉しかったのか、ユキはほっと一息つく。
「よかった。これならキイトも食べてくれるね。今日はキイト、神社にいないのかな」
「さっき見てきたけど、居なかった」
「そっか。すぐに腐るもんじゃないからいいけど、焼きたて食べてもらいたかったな」
 ユキはキッチンに戻り、使った道具の片づけをし始めた。
「なあ、ユキ、ちょっとトイラと話できないかな」
「うん、いいけど、ちゃんと何を話したか、後で必ず教えてよ」
「分かってるよ」
 そういうや否や、ユキはダイニングテーブルに向かって座りだした。
「で、俺に何の用だよ」
「おお、もうトイラなのか。出てくるのが早いな」
 仁もまたダイニングテーブルを挟んだ正面に腰を落ち着けた。
 仁はカジビのこと、ユキと意識を離した後も人の姿になれる方法があること、そして楓太のことを話した。
 トイラは黙って聞いていたが、時々考え込むように何かを思いつめる。
 それはトイラの意思だが、見かけはユキだ。
 仁は複雑な思いで、その様子を見ていた。
「なんだかややこしいことになりそうな気がする」
 気難しそうに懸念しているトイラ。
「なんでだよ。トイラは人間になれるんだぜ。まずはいい話じゃないか」
「お前、なんか俺に隠してることないだろうな」
「何を隠すんだよ。全て今話したじゃないか」
 トイラは目の前にあったクッキーを一つ手にして食べた。
「甘いな」
 その言葉は自分の話に対して言われたように聞こえ、仁は喉の奥で声が詰まった。
「だから、カジビを探し鏡を手に入れ、トイラの意識をそこに閉じ込めてから人の姿にする。これが分かっただけでも少し前に進んだじゃないか」
「で、ニシナ様の件はどこに組み込むんだ」
 懐疑心を持った目。トイラの意識だが、ユキの顔でみられると仁は居心地が悪い。
「ニシナ様はもちろん探すのを手伝うよ。犬の楓太の口をもっと割らすこともできるかもしれないし、カジビが何か知ってるかもしれないじゃないか」
「もし、カジビが悪い奴だったらどうするんだよ。キイトの話じゃ赤石を手に入れようとしたことがあるんだろ。そんな奴を信用できるのか?」
 トイラなのにユキにお説教されてる気分を仁は味わう。ユキならこの話に賛成するだろうに、トイラが乗り気にならないのが仁を焦らせる。
「それを言ったら、ジークだってそうじゃないか。ジークは改心してきっと今頃一生懸命森の守り主に仕えてると思う」
「でもカジビがジークのように改心した保障はないんだぞ。俺たちを騙す可能性だって考えられる」
「トイラはどうしてそう疑り深いんだ」
 仁は目を逸らす。
「それを言うなら、仁はどうして騙されやすいんだ」
「なんでそうなるんだよ。騙されてなんかないよ」
 自分を否定され仁はイライラしていた。
「いいえ、仁は本当に騙されやすいわ。私もそう思う」
「えっ、今はユキなのか?」
 仁は戸惑い、自分が誰を見ているのかわからなくなっていた。
「ほら、騙されたじゃないか。俺がユキのフリをしただけだ」
「なんでそんなややこしいことするんだよ。顔はユキのままなんだからそれは誰でも騙されるよ」
 話にならないと、仁は首をうな垂れた。
10
「なあ、トイラ、本当の気持ちを教えてくれ。人間になりたいとは思わないのか?」
「ああ、もちろんそうなったら嬉しいさ。でも、本来俺は消える運命にあったものだ。そんなことしたらこの世のルールを変えてしまいそうで怖いんだ」
 トイラの気が急に弱くなった。
「消える運命って……そんな。あの時太陽の玉が割れて、ジークが吸い込まれそうになったけど、トイラがもしあれに吸い込まれていたらどうなってたんだ? あれはブラックホールみたいなものなのか?」
「吸い込まれた事がないからどう考えてもわからない」
「森の守り主になるために全てを犠牲にして、森を守るためだけの主となる。そのためには過去の記憶はいらない。だから太陽の玉はトイラの人の部分を吸い上げようとした。でもさ、そうしたら、歴代の森の守り主も同じ事をしてきたってことだろ」
 仁は可能性として筋道立ててみた。
「まあ、そういうことになるな」
「あんな小さな玉の中に、それを蓄えておけるものなんだろうか。それともあの中は四次元空間にでもなっていて宇宙のような広さがあるんだろうか?」
「一体何がいいたいんだ?」
 ユキの顔でトイラは不思議に思う目を向けた。
「カジビは意識を鏡に閉じ込めて、それを割ることで取り込んだものを抹消するらしいんだ。鏡は一回につき一個しか意識を閉じ込められない。だけど、太陽の 玉は歴代の分を吸い込み、その玉は壊れることなく受け継がれる。それって、あの太陽の玉の中には永遠に意識が存在していることにならないか?」
「はぁ?」
 仁の意味する事がトイラにはわからない。
「だから、トイラの意識は消える運命じゃないってことなんじゃないかな」
「太陽の玉の中で溶けて消滅してるかもしれないじゃないか。または太陽の玉の栄養分になってるのかもしれない」
「なんでそこだけそうネガティブなんだよ。僕がいいたいのは、トイラは消える運命じゃなかったってことなんだ。人間になっても世界は変わらないし、トイラはユキと結ばれる運命だったってことさ」
 仁はトイラとユキの関係を強調する。
「おい、お前自分でも何を言ってるのかわかってるのか? 一応言っとくけど、俺はお前の恋敵だぞ」
「もういいんだ。僕はユキが幸せになってくれさえしたらそれでいい。この状況から解放させてあげられるのなら、なんだって喜んでするよ」
 仁は薄く笑う。
「仁、なんか投げやりになってないか?」
「僕は僕なりに一生懸命考えたんだ。そんな風に言うなよ」
 仁はテーブルの上に頭を持たせかけた。ゴツンとテーブルの表面が響く。トイラはそれを黙ってみていた。
 仁の迷いを感じ、そこに含まれた意味をトイラは思案する。
「トイラはユキと一緒になる運命なんだ。僕は二人が幸せになるのならどんなことでもするよ。どんなことでも」
 仁の優しさとヤケクソさが一緒になった声だった。
 トイラには答えようがなかった。
 静けさが暫く続き、仁が顔を上げたとき、目の前に動揺しているユキの顔があった。
 それがトイラとしてなのか、ユキとしてなのか、仁は判断しかねた。
 
 その時、呼び鈴がなりユキが立ち上がった。
 仁もその後をついていくと、藍色の作務衣を着た傷だらけの年老いた男がキイトと並んで立っていた。
「なんかの役に立つかと思って、長老のセキ爺を連れてきたんだけど、迷惑じゃないか?」
 キイトが遠慮がちに紹介した。
「どうぞおあがり下さい」
 ユキが喜んで招き入れると、二人は言われるままに家に上がる。
「ほぉ、立派なお宅じゃのう」
 老成された貫禄を持つセキ爺は、礼儀正しく振舞う。
「ちょうどよかった。クッキー焼いたの。キイトが来てくれて嬉しい」
 それはユキの意識だった。
 トイラはいつの間に引っ込んだのだろうと、仁はユキを見つめていた。

 訪問者を家に上げ、居間のソファーに案内した後、ユキはキイトの前に入れ物に入った沢山のクッキーを差し出した。
「私のために作ってくれたの?」
 キイトの問いにユキがはにかんで頷く。
 キイトはユキの好意に笑顔を見せ、セキ爺にとても美味しいお菓子だと説明した。
 ソファに座り、二人は早速ほお張っていた。
「ほんとじゃ、この甘みが美味しいのう」
「お口に合って嬉しいです。今お茶お入れしますね」
 ユキが台所に戻ると、今度は仁が相手をし出した。
「セキ爺……さん?」
「セキ爺でかまわんよ。本名は長いのでそう呼ばれている。君は仁だね。キイトから色々と聞かせてもらった。ニシナ様を探すのを手伝ってくれる、事情を理解した人間だとか」
 仁はなんだか緊張した。緩和するためにヘラヘラととりあえず笑顔で応対する。
「それじゃセキ爺、その傷なんですけど、一体どうされたんですか?」
 セキ爺のあちこちに傷があった。
「これか、これはニシナ様が連れ去られた後、襲われたんじゃ。ワシはニシナ様に一番近くでお仕えする年老いた猪でのう、年が年なだけにお守りできなくて」
「誰に襲われたんですか?」
「それがはっきりと分かっていたらいいんだが、あっと言う間のできごとでな、不意をつかれて後ろから何者かが飛び掛ってきて、あちこちを引っかかれ噛まれたんじゃ。 中は薄暗いし、足場は悪いし、咄嗟のことでバランスを崩して倒れこんでしまった。猪になって応戦しようとしたんじゃが、すばしこいやつで後ろから襲われると老人には勝ち目はなかった」
「それは大変お気の毒です」
「わしなんかよりも、消えたニシナ様がどうされたのが気になって」
「犯人に全く心当たりはないんでしょうか。何か気がついたこととかありませんか?」
 セキ爺は目を閉じて少し考え込んだ。
 その時、ユキがお茶を運んできて、セキ爺とキイトの前に置いた。
 キイトはすぐさまそれを手に取り、息をふうふうかけて飲み始めた。
 その横でセキ爺は考えて、やっと声にだした。
「これは断定できないんじゃが、もしかしたらカジビが戻ってきたんじゃないかと思えてのう」
 その言葉にキイトの動きが止まった。じっとセキ爺の言葉に耳を傾ける。
「カジビは以前も赤石を奪おうとしたこともあったし、その後失敗して姿をくらましたけど、チャンスを窺っていたのかもしれない」
「セキ爺、ほんとにそれはカジビの仕業だと思う?」
 キイトが小さな声で問いかける。
「これはわしがそう思うだけで、そうとは決まったわけじゃない。それともキイトは他に誰か疑わしき者がいると思うのか?」
「はっきりとしないのなら、この山にいる皆、怪しくなってしまう」
 キイトの声が少し震えていた。
「そりゃそうじゃが、カジビには前科があるだけに、このことを知ればカジビだと思うのは多いはずじゃ」
「私ははっきりするまでカジビの仕業だと決め付けたらいけないと思う……」
 ぼそっと言ったキイトの声にセキ爺は飲もうとしていた紅茶のカップを口元で止めた。
「キイトが庇いたい気持ちもわからんではない。お前はカジビとは仲がよかったからのう。それにカジビが赤石を狙ったとき、お前は離れた山で休養していたから何も知らんだけに無理もない。だがもしカジビが犯人でないのなら、堂々と姿を現してもいいと思うのじゃが」
「いや、疑われると思ってるから、ただ名乗れないのじゃないか」
 ユキが腕を組んで壁にもたれていた。
 それはトイラの意識だった。

「あんたがトイラかい? 話はキイトから聞いている」
 セキ爺は用心深く、トイラの意識が支配したユキの表情を眺めていた。
「全てを聞いているなら話は早い。はっきり言って俺はあんたらの問題に巻き込まれてしまった。俺の眠りを邪魔をした奴がいる。そいつが言うにはカジビを探せと言ってきた。そうすれば俺を助けてやるだとさ」
 ユキの体を借りて見かけはユキであっても、それはトイラらしくあたかも面倒臭いと言わんばかりにセキ爺に食って掛かっていた。
「おい、トイラ。もう少し礼儀正しくしろよ。ユキの体だってこと忘れるなよ」
「ああ、分かってるよ、仁。だが、この爺さんがしっかりとニシナ様とやらを守れなかったせいで、俺はなんだかとばっちりを受けた気になってしまう」
「それは申し訳ないのう。しかし、こちらも言い分がある。去年の騒ぎを黙って見逃していたことを忘れないで欲しい。あんなことをされては山のものは危機を 感じてあんたたちと戦を挑んでいたかも知れぬ。それを押さえ込まれたのはニシナ様じゃ。あの方の理解があったからこそ、あんたらは命拾いした」
 それを言われるとトイラは言葉に詰まってしまった。
 確かにあの時、好きに使えと提供されていることをトイラは嗅ぎ取っていた。
 それが山の神、ニシナ様の意向だった。
「それはすまなかった。こっちも自分達のことで頭が一杯だった。あの時の無礼は謝る」
「まあ、それはもういい。お互いここは持ちつ持たれつで行くのが一番じゃないだろうか」
 セキ爺は年の功らしく穏やかに問うた。
 トイラは納得し、痛いところも突かれたところで一度大きく息を吐いていた。
「しかし、あんたも大変じゃのう。人間の中に居ては不便だろう。あんたの意識が前に出てはお嬢さんは出てこれないし、話をしたくともできないじゃろう」
 この大変さは今に始まったことではないと、トイラは苦笑いになっていた。
「応急処置的なことしかできんが、今すぐあんたらの意識を分けてやろうか」
 セキ爺の言葉にトイラも仁も息が止まるほど驚いた。
「そんな事が可能なのか?」
 トイラが言った。
「あまり期待されても困るんじゃが、ほんとに応急処置なんじゃ。せめて少しでも力になれたらというくらいのものじゃ」
 トイラの目、それはユキの目だが、虹彩が明るく輝いている。
 よほどの期待をされて、セキ爺は少し余計なことをしてしまったような後悔の念が少し湧き始めていた。

 説明するよりもすぐに実行して欲しいと、仁とトイラの高ぶった感情を読み取り、セキ爺は近くの神社へと一同引き連れて行った。
 地元のものは滅多に足を踏み入れる神社ではなかったので、昼間でも誰も人がいない。
 だが念のためにと、セキ爺は鳥居のある入り口に薄いカーテンをかけたように結界を張り、誰も入り込めないようにする。
 次にキイトに色々と指示をして準備をさせた。
 その間、トイラと仁は二人のやることを傍でじっと見ていた。
「この時期は日差しが強くてこれをするにはもってこいかもしれん」
 セキ爺は太陽の光を眩しそうに眺め、日当たりいい場所に立った。
「セキ爺、こんな石でいいか?」
 キイトは両手でやっと持てるような大きな石をゴロンと地面に置いた。
 上の部分が少しくぼんでいて、そこに手水舎から柄杓で汲んだ水を注ぐ。
 一体何が始まるのかとトイラと仁はひたすら黙って見ていた。
 セキ爺は作務衣の懐から虫眼鏡のような分厚いレンズを取り出し、それを太陽に掲げた。
「トイラ、その石の側に立つんじゃ」
 トイラは言われたまま、石を前にして立つ。それはユキと石が一緒に並んでいる姿だった。
 そしてセキ爺が手にしていたレンズを向けられると、太陽から集まった光がレンズを通してユキの額を照らした。
 熱さは特に感じられず、暫くずっとそのまま光を当てられていた。
「もうこれくらいでいいじゃろ。トイラ、石の上の水に触れるんじゃ」
 トイラはしゃがみこんで言われた通りに指先で水の表面に触れた。
 それと同時に隣で仁は声を漏らして突然目を見開いた。
 ユキの意識も水に触れたと同時に戻り、ユキは困惑しながらしゃがんだ状態で目の前を見上げた。
 その後は痺れるほど目の前の光景に心震わせた。
 そこにはトイラが立っていた。
「トイラ! 一体これはどういうこと?」
 ユキはおもむろに立ち上がり、一体何が起こっているのかわからないまま、ただ呆然と前を見つめる。
 だがずっと会いたかったトイラが目の前に居ることで心跳ね上がり、痛いほど激しく胸が高鳴っていた。
 落ち着こうにも落ち着けず、体の震えが止まらない。
 トイラもあの緑の輝いた目でユキを愛しく見つめている。
「ユキ」
 トイラから名前を呼ばれ、その声がしっかりと耳に届く。
 ユキはトイラに触れたいがために震える手を伸ばしだが、それはあっさりとトイラの体を素通りしていく。
「だから応急処置なんじゃ。それはお嬢さんの体の中にいるトイラの姿を一時的に映しているだけなんじゃ。太陽と水の力がなければできないし、一定の時間がくればまた消えてしまう」
 申し訳ないような顔でセキ爺は言った。
 それでもユキは目に涙を一杯溜めながら、これでも充分でたまらないというように感謝していた。
「あ、あの、暫く二人だけにしてあげることはできますか?」
 仁が問いかけると、セキ爺は分かったとキイトを連れて離れていく。
 仁も幾度後ろを振り返りながらもその二人の後をついていった。

 二度と会えることはないと思っていた人。
 自分の中に意識が残っていたとわかっても、いざ本人が目の前にはっきりと現れるとユキは胸がいっぱいで言葉など忘れてしまっていた。
 その気持ちを汲むように、トイラは透き通るほどのまばゆい光を帯びた緑の目で優しく見ている。
 お互い触れたくても触れ合えないもどかしさは、はかないこの一瞬に全てをぶつけて燃え尽きたいと激しく願ってしまう。
 その情熱で燃え滾った空気は陽炎のようにたゆたっているようだった。
 その思いつめた状態を誤魔化そうと、トイラは突然鼻で笑うように声を出した。
「ユキ、久し振りだな」
 トイラの粋がった微笑みが、再びユキに向けられた。
「トイラ……」
 ユキはボロボロと涙をこぼし、目の前がぼやけてしまった。
 それを拭ってやりたいとトイラの手が微かに動いていた。
「何を泣いている。久しぶりに会えたんだ、俺のために笑ってくれ」
 ユキは文句の一つでもいいたい感情が湧くが、涙を拭えばただ抱きしめたい、触れたい気持ちが勝って胸がいっぱいになって何も話せない。
 二人の空間は言葉にできない思いだけが存在する。
 トイラはこの限られた時間の中にいるにも係わらず、飾らず素のままに言葉を掛けた。
「そうだな、悠長なこと言える立場じゃなかった。でもこんな姿でも再び会えてやっぱり嬉しいよ。ずっと君の中で隠れて過ごしていたから罪悪感いっぱいだった」
「黙っているなんて酷過ぎる。あの時、命の玉を私に吹き込んで姿を消したときから、私がどれほどトイラに会いたかったか分かってて隠れてたんでしょ」
「結果的にはそうなるけど、俺だってこうなるなんて予想もしなかったことだ。ただユキに普通の暮らしをして欲しかっただけだ」
「私はずっと辛かったのよ。トイラが生きてるのならもっと早く知らせて欲しかった」
 複雑すぎてユキはトイラを責めてしまう。
 トイラは少し考えてから再び優しく笑みを浮かべた。
「俺は意識の残像が残ってるだけで、これは生きてるとは言わない。ユキの中に存在しているだけだ。即ち、ユキの中の妄想に近いものさ」
「そんなことない。こうやって目の前に存在して話をしているじゃない」
「でも俺に手を触れられないだろ」
 ユキは黙ってしまった。
「ユキ、これは気休めにしかならない。ユキは俺に囚われているだけだ。これも君を支配しようと俺の力が働いている。だから俺を君の中から追い出すんだ」
「違うわ。これは私があなたを思う気持ちそのもの。あなたを追い出すなんて嫌よ。もう二度とトイラと離れたくない」
 ユキの欲望が膨れ上がる。
「ユキ、俺も君と同じようにずっと辛い思いだったこと考えてくれ。俺のことを思うのなら、俺を自由にしてくれないか」
「どうして、どうしてそんなことを言うの? トイラは私のこと嫌になったの?」
「なぜそうなるんだ。でももう一度よく考えて欲しい。ユキはこれからどうすればいいのか。俺が本当に望んでることは何か。君なら分かるはずだ」
「わからない。そんなのわからないわ。私はずっとトイラと一緒にいたいだけ。それとも、私から出たとき、あなたは人間の姿になれるとでもいうの?」
「いや、それは無理だ。それに俺が望んでない」
 人間になる方法があると仁から聞かされても、トイラはそのことをユキにいいたくない。
「じゃあ、だったら私はこのままでいい」
「このままでいいはずがないだろ。いずれ俺はユキを吸収してしまうんだぞ。そしてユキこそ俺に支配されて意識を失う。本来の命の玉をとる行為が逆転してしまうんだ」
「それで本望だわ」
「いい加減にしろ。俺がユキに成りすましてしまうんだぞ」
「トイラに会えないのなら自分はいなくなってもいい! あのときのような気持ちは二度と嫌だわ」
「ユキ!」
 静かな神社で二人の声が響き渡った。
 遠くで仁たちが何事かと気になってみては、心配する眼差しを向けていた。
「トイラ、ずっとずっと一緒にいましょ。それが嫌なら私は今ここで死んだっていい」
「バカなことを言うな。今まで俺がやってきた事が無駄になるだろうが。それに、ユキには父親も仁も友達もいるじゃないか。その人たちを悲しませるな」
「でも私はトイラ一人いればそれでいい。後のことなんて何も考えたくないわ」
 トイラは悲しみを帯びた目でユキをみつめていたが、耐えられないと視線をそらした。
 口元を震わしながら、悲痛な思いでかすれた声を出した。
「ユキ、君がそんな奴だったなんて、とてもがっかりだ。俺は、そんなユキは……嫌いだ」
「トイラ……」
 トイラの姿がおぼろげになってきた。
「俺は君とはもう何も話したくない。俺は俺で自分で勝手にするさ」
「いや、トイラ待って。折角、折角会えたのに、どうして喧嘩なんかしないといけないの。こんなのって」
 トイラの姿が次第に薄くなって消えていく。
 ユキは触れられないと分かっていても体が勝手に動いてそれを抱きしめようとした。だが、むなしく空振りとなり、そしてもう目の前のトイラは完全に姿を消していた。
 先ほどとは違う涙が沢山頬を伝っていく。
 そして大声で泣き叫んでしまった。

「おい、ユキ、一体どうしたんだ」
 仁が走って側に寄ると、ユキはすがるような目を向けて助けを求めた。
「仁、助けて、お願い。トイラは私から出て行こうとしてるの。私がやめてって言ったら、喧嘩になって、そしてトイラは怒ってしまった。どうして、どうしてこうなるの」
「ユキ、どうして喧嘩になるんだよ。トイラはユキから出て行けば、人間になれる方法があるんだぞ」
「えっ? それはどういうこと? トイラはそんなこと言ってなかった。知らなかったってことなの?」
「ううん、僕はちゃんとトイラに伝えたよ。トイラは知ってるはずだ。なぜ、その方法があるのに、トイラは拒むんだ」
「仁はその方法を知ってるの?」
「ああ、知ってる。カジビを探せば、それは可能なんだ。キイトが教えてくれた。それに僕だってトイラが人間になるためにできる限り協力するつもりだ」
 言葉ではきっぱりと言えても、仁の心は複雑だった。
「じゃあ、どうしてトイラは人間になるのを嫌がるの。やっぱり私のことほんとに嫌いになってたんだ。だから自由にしてほしいとか、解放して欲しいとか言うんだ」
「トイラがユキを嫌いになるはずがないだろ。いつだってユキのこと考えて、ユキのためを思っているのに。トイラはどこか恐れてるだけだ」
「恐れてる? 一体何を?」
「だから、自分が自然界のルールを変えてしまうことさ。本来ならトイラは森の守り主になって、人の部分は消えていたから、それが残ってさらに人間になってしまうと、何かが狂うんじゃないかって心配してるだけさ」
「そんな…… でも、ほんとにそれだけが理由なの? ねぇ、トイラ本当のこと話して。今すぐ出てきて、私に話せなかったら仁に本当のこと話してよ」
 ユキは自分の中にいるトイラに呼びかけてみた。
 だが、いつまでもトイラの意識は出てこなかった。
「あ、あの、取り込み中すまんが、何か不都合なことでもあったかのう?」
 セキ爺が不安げな表情で恐々と声を掛けてきた。
「いえ、なんでもないんです。セキ爺、トイラに会わせて下さってありがとうございました」
 ユキは急いで涙を拭きながら、セキ爺に頭を下げた。
「いや、それは別にどうってことないが、遠くから見てたら、なんかいがみ合ってたようじゃったから、何かあったのかと思ってのう。込み入った話中だったなら、もう一度トイラを映し出してあげようか」
 ユキは一瞬躊躇った。トイラが人間になれると知っているのに、嘘をつかれた状態ではどうしても冷静に話し合うことができないのを感じていた。
 仁もユキの逡巡する様子をみて、どうしたらいいのかわからない。
「セキ爺も、傷がまだ治ってないしあまり無理をしない方がいい。また今度でいいんじゃない? その道具を使えばある程度の体力も消耗してしまうでしょ」
 キイトの言葉でユキははっとした。
「あの、お言葉は嬉しいですが、これで充分です。またこの次お願いします」
 ユキもこの時は少し冷静になる時間が必要だと気がついた。
「遠慮しなくていいんじゃぞ。わしはまだこれぐらいでへこたれんって」
「セキ爺、いいからいいから。それにいつまでも結界張っておくわけにもいかないでしょ。ここ誰も入ってこれないよ」
「ああ、そうじゃった」
 セキ爺はゆっくりと鳥居に向かっていった。
「仁、悪いけど、この石どっか片付けてきて。こんなところに置いてたら不自然で、誰かが蹴躓くかもしれない」
「ああ、わかった」
 仁は石を持ち上げようとしたが、意外に重くてよろめいた。かっこ悪いところを見せられないと、かろうじて力を込めて、持ち上げ、よたよたと邪魔にならないところへとのっそりと運んでいった。
「さてと、ユキ。さっきの様子だと、トイラと意見が合わなかったみたいだね。トイラも何を意固地になってんのやら。あんた達まずは早く仲直りしないと。折角会えたんだろ。もっとそのときを大切にしないと」
「ねぇ、キイトは誰かを本気で好きになったことがある?」
「えっ、急になんだよ」
「キイトなら、私の立場になったらどう感じるか聞いてみたいの」
「あんたの立場にねぇ、そうだな。そりゃ好きな人とは一緒にいたいけど、でも好きな人がこうして欲しいって言ったら言うことを聞いてるかもしれない」
 ユキはてっきり賛同してくれると思ってたので、少し眉根を顰めた。
「だって、その好きな人も相手のために必死になってるんだろ。命を張ってくれたのなら私は無駄にはできない。その人の望を叶えてあげたいって思う。それが例え辛くても、心を鬼にして、私はその人をまず第一に尊重する」
 キイトの真剣な眼差しがユキの心臓を鷲づかみにした。
 次第にキイトの瞳は遠くを見つめるように何かを回顧していた。
 仁が戻ってきたことで、キイトは我に返り、取り繕うようににこっとユキに微笑んだが、ユキは笑えず視線をそらしてしまった。
 油蝉の鳴く声が急に耳についてしまい、心の中かざわざわとして落ち着かなかった。

 セキ爺が一仕事終えたとばかりに、ゆっくりと歩いてきた。
「さてとこれからどうする? なんにせよ、カジビを探し出さないことには前に進まんわ」
「でもどうやってカジビを見つければいいのですか?」
 仁が聞いた。
「カジビは人間界に上手く紛れ込んでるのかもしれぬ。あいつは尻尾が二股という特例なこともあり、普通のものと違って多才に色々な力をもってるんじゃ。七変化も得意でのう。男にも、女にも何にでも姿を変えられる」
「それじゃこの街に隠れているんですか?」
「多分そうじゃろ」
「カジビは危険な人物なんですか?」
 今度はユキが質問した。
「赤石を狙っているとなるなら、わしらにも脅威となる対象じゃ……」
 セキ爺はキイトを横目に気まずそうに言葉を濁し、大きなため息を一つ吐いた。
「カジビは赤石なんて狙ってないと思う」
 キイトが小さく呟く。
「庇いたい気持ちはあるじゃろうが、ニシナ様も行方不明になっとるし、カジビが姿を見せないとなると皆そう思うじゃろ」
「もしかしたら、誰かがカジビのせいにしようとしているのかもしれない」
「キイト、なぜそんなにカジビを庇う? 何かカジビについて知っているのか。そうなら、包み隠さずわしに話してくれ」
 セキ爺が問い質すとキイトは首を横に振った。
「ごめん、勝手にそう思っただけ。まだはっきりと証拠がないから……」
 ユキも仁もキイトに心配の眼差しを向けていた。
 セキ爺は仕方がないとゆっくり被りをふって顔を歪ませていた。
「わしは山の者にカジビについて心当たりはないか聞いて回ってくる。キイトはこの二人に手伝ってもらって人間界を探してくれ。他に誰か助っ人がいるのなら、力を貸してくれそうな者たちに頼んでみるが」
「まだ真相を誰にも話してないんでしょ。だったら助っ人はいい。セキ爺も気をつけて訊かないと、誰かが不審に思ってさらなる誤解をうむかもしれない」
「分かっておる。もし理由を聞かれたら、トイラの名前を出させてもらう。昨年ここで暴れたから、皆存在を知っているし、トイラがカジビの噂を聞いて会ってみたいと無理に頼まれたことにさせてもらうわい。それでいいじゃろ」
 セキ爺は念のためユキと仁に許可を取った。
 二人は問題ないとコクリと頷いていた。
 セキ爺は皺がくっきりと浮き上がった笑顔を見せて、そして山の方へと歩いていった。
「セキ爺、怪我してるし、年も取ってるけど、大丈夫かな」
 小さくなるセキ爺の後姿を見つめながら仁が呟いた。
「セキ爺は年はとってるけど、足腰はしっかりしてる。多少のことなら大丈夫だと思う」
 キイトはあまり元気なく答えていた。
「キイトは大丈夫なの? なんだかやけに疲れてるみたいだけど」
 ユキも心配した。
「私よりも疲れているような表情のユキに言われてもな。あんたの方がよっぽど心配だよ」
 キイトの指摘にユキはどう答えていいかわからなかった。
 三人は対策を練ろうとまずユキの家へと一旦戻ることにした。
 カジビが潜伏しそうなところを探そうと、街の地図と郷土資料を引っ張り出しているとき、仁が時計を見て慌てふためいた。
「あっ、そうだ。良子さんの病院にいる犬猫の餌やらないと。それと預かってる犬の散歩もあった。ごめん、また連絡する」
 仁は急いで家に帰っていった。
「仁は色々と色んな奴に世話焼いて忙しいみたいだな」
 キイトがくすっと笑いながら言った。
「うん、仁は頼まれたら嫌って言えないし、いつも一生懸命でまじめなんだ」
 ユキも軽く微笑んで答える。
「そこに、お人よしって言葉が抜けてるぞ」
「そうだね」
「仁はいい奴だ。私の目からみてもそう思う。私はトイラよりは真面目な仁の方が好みだ。トイラはどうも性格悪そうだ」
「そんなことない。トイラは癖はあるかもしれないけど、とても心優しくて男らしい人なの」
 トイラと仁を比べるキイトにユキはむっとした。
「おいおい、そうムキにならなくても。でも、だったらなぜ人間になろうとしないんだ。どうも話を聞いてたら、ユキから自由になりたいだなんて、恋人があまり口にすべき言葉じゃないよな。それって恋人が言えば別れっていう意味だから」
 ユキは不安定に心が揺れ動き、瞬く間に泣きそうな顔になっていた。
「ちょっとそんな顔、するんじゃない。私がまるで虐めてるみたいじゃないか。そうじゃなくて、トイラがそんなことを言うのにはよほどの理由があるんじゃな いかってことさ。トイラが命を張ってユキを助けたことは変わらないだろ。だから今回も何か意図があって言ってるんじゃないかって思ってね。なあ、トイラ、 ちゃんと聞いてるんだろ」
 キイトはトイラに問いかけてみたが、トイラの意識は出てこなかった。
 きょとんとしているユキをみてキイトは苦笑いしていた。
「なんだかまだ拗ねてるみたいだな。もう少しあんた達話し合った方がいいんじゃないのか」
「でも、セキ爺に負担は掛けられないし、時間制限があるとどうしても焦って冷静になれない」
「何言ってんだい。他にも方法があるんだ。今度は私が手伝ってやる。但し、これはユキの中で起こることだ。少しユキに負担がかかってしまうんだ。多少の危険を冒すけど、それでも構わないというのなら手伝ってやる」
 キイトが挑戦を挑むような厳しい眼差しを向けてユキの覚悟を確かめた。
「どんな危険があっても受けて立つわ」
 例え死が招いたとしてもユキは恐れなかった。
「それなら話は早い。それじゃここに寝転びな」
 キイトは座っていたソファーから立ち上がり、ユキに場所を譲る。
 ユキは詳しい説明などいらぬという意気込みで言われた通りに寝転んだ。
 側にキイトが寄り、ユキの両手を取って胸で組み合わせると、何かの儀式が始まりそうだった。
「準備はいいかい。ユキはこれから眠りについてもらう。でも体は眠っていても、意識は目覚めているんだ。トイラと意識同士で会うんだ。そこでなら思う存分トイラと話せる。また意識の中では触れ合った感触も味わえるはずだ」
「わかったわ。だけど、何が一体危険なの?」
「それは、意識の中では全てを現実に感じてしまう。少しイメージすれば、そのまま目の前に何でも想像したものが現れてしまう。好きな場所にいけて、好きな ものを登場させる事ができる。夢を見ているときを考えて欲しい。その中では全てが現実のことのように思うだろ。起きて初めて夢だったと気がつく。もし意識 を通い合わせているときにそれを現実だと思い込んでしまったら、トイラの力に左右されることなくユキはこちら側に戻ってこれなくなるってこと。だから常に 意識同士で会ってることを忘れてはいけないんだ。その区別がユキにはできる?」
 キイトの目が尖ったように鋭くなった。

「ええ、大丈夫……」
 ユキは力を込めてそう答えようとしたが、いい終わらないうちにすぐに違う言葉で吼えた。
「バカ野郎! 大丈夫なわけがないだろ」
 ユキが引っ込んでしまうと同時に、トイラの意識が表に出て、がばっとソファーから身を起こした。
「あっ、もしかしてトイラ?」
「キイト、いい加減なことをユキにするんじゃない。今のユキは絶対に我を忘れて、ずっとこちら側に戻ってこれなくなるのが目に見えている」
「でも、ユキは大丈夫だって」
「ユキにとったらチャンスがあれば、命を賭けてもなんでもやろうとするに決まってるだろ。本人が大丈夫といっても信用できない」
 ユキの姿でトイラは呆れてキイトを睨んでいた。
「トイラはユキを信じてないの?」
「今のユキでは信じられない。ユキは自分のことしか考えてないのがはっきりとわかる。だから頼むからこんなことしないでくれ。お願いだ」
 さっきまではユキは意識を通い合わせることに同意してたが、いくらトイラの意思とはいえ、見かけがユキの姿で拒まれると、キイトはなんだか困惑してきた。
「あんた達、一つの体で二人いるとややこしすぎる」
「仕方がねぇだろ。そんじゃどうすればいいんだよ。俺の時はマスクでも被れって言うのかよ」
「ああ、そうしてくれると助かるね」
 トイラとキイトはどうしてもぶつかりあってしまっていた。
「とにかくだ、ユキに意識同士を会わすことはしないと約束してくれ」
 切羽詰った目で懇願されると、キイトは「わかった」と不承不承に答えざるを得なかった。
「だけど、トイラ、どうして人間になりたいと思わないのだ?」
「俺は恐れてるんだよ」
「だから一体何を恐れるんだ? ユキと一緒にいられるんだぞ。そのためには何だってしたいと思わないのか?」
 トイラは少し答えるのを躊躇った。
「……俺だって、命張ってユキのこと守ってきた。それくらいの覚悟は容易い。だが、それは何か違うような気がしてならない。キイトだって、ユキと同じ立場なら俺の気持ちを尊重したいとか言ったんじゃなかったのか?」
「なんだ、やっぱりあの時の話も聞いてたのか。まあね、相手のことを思えばそうなってしまうと思うんだ。でもその場合は私に選択権など疾うにないってことだ」
「どういう意味だ?」
「さあね。さあてと、私は帰った方がいいみたいだな。このままユキが現れたら、情が移ってさっきのこと実行させられてしまいそうだ」
 キイトは姿勢を正し、きりっとした巫女らしい態度で去ろうとした。
「キイト、ちょっと待ってくれ。一つ聞きたいんだが、もしかしてカジビの居場所に心当たりがあるんじゃないのか?」
 キイトの動きが止まり、ゆっくりとトイラに振り向いた。
「なんでそう思うんだい?」
「いや、俺の勘だ」
 キイトが何かとカジビについて擁護する態度はトイラの鼻についていた。
 キイトは暫く黙っていたが、トイラの目、この場合はユキの目を通してになるが、それを見てるとふーっと鼻から息が漏れて意味ありげに笑った。
「カジビはタイミングを見てるんだ。必ずあんた達の前に現れるよ。それがわかってるだけさ」
「それは敵としてなのか、味方としてなのかどっちだ?」
「さあ、どっちでもないんじゃないかな。カジビにとったら、あんた達なんて全く関係のない存在だから」
「それじゃカジビは何を企んでいるというんだ? カジビの目的は何だ?」
「そんなこと私に聞かれても答えようがない。それはそのうちわかるんじゃないの? だが、これだけは言いたい。カジビは赤石なんか狙っていない。寧ろ守ろうとしている。例え周りから悪者にされても、やり方が汚いと言われても、カジビはカジビなりに考えて行動してるのさ」
「やはりキイトは何か知ってるみたいだな」
 キイトは薄笑いを浮かべて曖昧にはぐらかす。
「あんたは自分とそしてユキのことを第一に考えていればいいだけさ」
「なあ、差し支えなければ、過去にカジビが何をしたか教えてくれないか。それとカジビとキイトの関係も」
「それを知ってどうするんだ?」
「なぜ俺がこの件に巻き込まれたのか知るためさ。これにはどうも裏があるようにしか思えない。それを突き止めるには些細なことでも色々と知りたいんだよ」
 キイトは逡巡して暫く黙っていたが、テーブルの上を見てにやっとした。
「いいだろう。私が知ってる範囲で話してやる。その前にその残りのクッキー食べていいか?」
「ああ」
 キイトはクッキーが入った入れ物を抱えて、安楽椅子にどかっと座り込んだ。
 ある程度食べたところで、キイトは話し出した。

 春は竹の子や山菜が豊富に採れ、夏は滝つぼや川で魚を獲り、秋はキノコや木の実が沢山採れ、冬の食料が少ないときは山に祭られた祠に人間達が捧げるお供え物で食べることにはあまり困らないこの山は、ニシナ様が秩序を守ってるからだと言われている。
 自然が豊富で人間からも崇められ、平和を絵に描いた場所だといっていい。
 人の姿にもなれる、神の使いとしての動物達は山を守るために力を授けられ、そして山神のために働く。
 カジビとキイトも神の使いとしてこの山で生まれた。
 カジビはイタチ、キイトは狐だが、生まれた時期が近かったため、子供の頃はいつも一緒に遊び、二人は兄妹のように育った。
 だが、カジビは尻尾が二つに分かれており、異例を毛嫌うものには不吉とされたり、心無い者からいつもからかわれていた。
 キイトはその度にカジビを守ろうとするが、体が弱いせいもあり、しっかりと守りきれない自分に歯がゆい思いを抱く。
「カジビは頭がいいし、誰にも真似できない力を沢山持っている。その力は尻尾が二つあるからだと私は思う。だからカジビは選ばれし存在なんだよ」
「キイト、慰めはいらぬ。尻尾が二つに分かれていても気になどせぬ。俺はいつかもっと力をつけて皆を見返してやるつもりさ」
「それって赤石を手に入れて、山神さまになるってこと?」
「まさか、それは言い過ぎ。赤石は山神さまだけのものだ。そんなもの手にいれたところで何の役にも立ちやしない。俺は誰もが俺を頼ろうとしてくれるよう な、認められる存在を目指してるんだ。俺は鏡を使って邪悪なものや不安な感情を閉じ込めたりできる。もしかしたら修行によっては病も閉じ込められるかも しれない。そうすれば医者と同じだ。そうなったらキイトも健康にしてやれるし、皆から有難い存在にもなれる。例えこんな尻尾を持っててもな」
「すごい。そうだよね、カジビならきっとそうなれる」
 カジビは恥ずかしそうに笑いながらも、目は希望に満ちて輝いていた。
 キイトもカジビの目を誇らしげに見つめ、二人はこの先の未来が明るいものと信じて止まなかった。
 カジビが不屈の精神でいられたのもキイトが側で理解を示し応援してくれたからでもある。
 だが、それも限度があった。
 カジビは自分の力を試そうと人間界に忍び込み、人々から色々な感情を鏡に映し出しては閉じ込めると言うことをしていたときだった。
 それを見ていた他の者たちは、カジビが将来この山の者の意を操るために練習しているのではと、驚異的なものを感じてしまった。
 カジビの力は強力で使い方を間違えれば命取りになるからだった。そう思ってしまうのも、不吉の象徴とされるあの二又の尻尾がかなり影響している。
 そんな恐れを抱いていると、普段、尻尾のことをからかわれ、嫌われていてもヘラヘラと笑っているカジビの態度から、将来復讐を企んでいるように見えてしまい、却って人々の不安を掻き立てた。
 一人がそんなことを話し出すと、それは尾ひれをつけて一人歩きしてしまい、カジビが将来山神の座を狙っているのではないかと疑心暗鬼になるものまで現れた。
 人々はカジビを山から追い出したいと願うのだが、他のものよりも位の高い、山神の使いの巫女であるキイトが庇うために、なかなかできかねないでいた。
 キイトは山の者が誤解をしているだけだと説得し、カジビはこの山には欠かせない存在になると強く主張する。
 実際は噂だけが先走りして、実質被害があったという話はない。
 それもあり、山の者達はキイトを信用しようとしていた。
 そんな時、キイトの持病が悪化してしまい、病を治すために山を離れなくてはならなくなってしまった。
 キイトは不安を抱えながらも、カジビが大丈夫だからと念を押し、それを信じて山を離れた。
 キイトはここまではカジビと過ごした昔を懐かしむように語ったが、その後は人づてからしか聞いてないと淡々と語る。

「私がいなくなってしまったから、カジビは守ってくれるものがなくなり立場が弱くなってしまった。だからあんなことに」
 キイトが側にいない事がチャンスとばかりに、一部の心無い山の者はカジビを追い出そうと企んだ。
 カジビをけしかけ、鏡をわざと使わせることで人々に危険な存在と知らしめようとした。
 カジビを怒らせるきっかけとなったのが、キイトの悪口だった。
「こんな二又の嫌味嫌われる存在を庇うなんて、キイトも元々体が弱いだけに頭も弱くていかれてたんだよ。そうじゃなければこんな縁起の悪い奴なんかと一緒にいられるわけがねぇ」
「そうだな、キイトの頭がおかしかったんだな」
 カジビは自分のことだけを言われるのならどんなことでも我慢できた。だがキイトのことまで馬鹿にされると、怒りが爆発してしまい感情が抑えきれなくなった。
「キイトの悪口をいうな」
 血が逆流するような激しい憎しみを抱き、カジビは目の前の山の者の魂を鏡に吸収してしまい、そのものは地面にたおれてしまった。
 周りに居た他の者はカジビの力の強さに驚き、慌てふためいて逃げていく。
 カジビは鏡を掌の中に収めながら、暫く突っ立っていたが、落ち着きを取り戻したとき、目の前に倒れた者がぱっと視界に入り怖くなってしまった。
 慌てて魂を元に戻し、その者の蘇生を試みた。
 倒れていた者は息を吹き返すと、ほっとしたものの、それは取り返しのつかない状況を生み出し、カジビはそれから山の者達から正真正銘の邪悪の対象となってしまった。
「こうなっては、カジビは殺されても仕方がないと思い、突然箍(タガ)がはずれたようにカジビは狂い、赤石に手を出すことを決意してしまったのさ。だが、それは失敗に終わり、その後カジビがどうなったのかは誰も知る由がないって訳」
 キイトが最後に大きくため息をついたことで、これでこの話が終わりということを示した。
「ふーんなるほどな。よくある状況だといえばそうだが、どこか違和感ある話だな」
 トイラが腕を組んでソファーの背もたれにもたれた。
「何が違和感なんだ」
「キイトはさっき、カジビは赤石を守ろうとしてるっていっただろ。でも今聞いた話からはそんなこと感じられないからさ。キイトがそう思う根拠がわからねぇんだ」
「それは……私が人伝に聞いた話を信じてないからだ。その話が私の耳に入ったとき、すでに色々と脚色されていたと思ったんだ。カジビは感情を抑えられず に、誤って間違いを起こしてしまったかもしれないが、その後狂って赤石を手に入れようとするなんて、私には考えられない。その後カジビが姿を消して結末が うやむやになってるのも信憑性が薄れる。これは何かの間違いだと信じてるのさ」
「その後のことだが、キイトはカジビの事件を知って、一度も山に戻らなかったのか?」
 トイラは疑問の目を向けた。
「ああ、静養中だったし、病状が悪くて動けなかった」
「今はすっかり元気になったんだな」
「お蔭さんでな。人間界で言う、医学の進歩ってところか」
 キイトは元気をアピールしようと、腕を曲げて力瘤を作る真似をした。
 トイラはまだすっきりしない顔をしている。
 だが、キイトはもう話すことはないと言いたげに立ち上がった。
「今度こそ帰るとしよう。ユキにクッキーうまかったと伝えておいてくれ、といっても今のお前じゃ無理そうだな」
「なあ、キイト、どうして俺はカジビ探しの手伝いを頼まれたんだと思う?」
「まだそんなことを言ってるのか。それはまさに猫の手も駆りたくて、黒猫のトイラなら協力してくれると思ったんじゃないのか?」
「だったら、それは誰なんだ? もしかしてニシナ様なのか?」
 キイトは眉根をしかめて考え込んだ。
「可能性はないこともないな。だがニシナ様がカジビを探したいのなら、この失踪騒ぎの辻褄が合わないではないか。セキ爺はカジビがニシナ様をさらったと思っている」
「ニシナ様がカジビを探せと言ったことで自分の居場所がわかると言いたいのだろうか」
 トイラも不思議がった。
「それなら、何もそんな回りくどいことをせずに、どこにいるかくらいすぐ伝えられるだろう」
「俺も言いたいところはそこなんだ。だからこれには何か裏があると思えてならない。なぜこの俺がこの山の問題に組み込まれるのか、何か必ず意図がある」
「それがあるから、ユキの体から出してもらって人間になる事に抵抗があるのか?」
「まあ、それもあるけど、理由はそれだけじゃない。俺が人間になるなんてそう容易いことじゃないぜ。俺は自分のことだけを一番に考えられないだけだ」
 キイトはトイラが何を言いたいのか気がついたが、それに触れずに玄関へと歩き出した。
「それじゃまたな。ユキには手紙を残すなり、ちゃんと説明しておくんだな」
「ちぇっ、面倒くさいな」
「それと、仲直りも忘れるな」
 キイトはさっさと去っていく。
 返事をする代わりにトイラは思いっきりため息を吐いていた。