ユキが安楽椅子から突然身を起こしたとき、仁はソファーに深く腰掛け天井を仰いでいた。
 その顔色は青く、何かについて思い悩んでいる。
 夏は日暮れが遅いと思っていたが、窓の外はすでに真っ黒になっており、時計は疾うに9時を過ぎていた。
「ごめん、もしかして私寝てた?」
 ユキは自分の失態に驚き、仁が帰るに帰れなかったことを申し訳なく思う。
「いや、いいよ。ごめん。僕の方こそ、長居してしまって。起こそうと思えば起こせたのにね。僕の方がそうしなかったんだ」
「ほんとに今日は失礼なことばっかりしてしまって、ごめん」
「それはもういいよ。ユキは何も悪くないから。ねぇ、ユキ……」
 仁は真剣な眼差しで何かを言おうとしたが、どうしてもその先が言えなかった。
 顔を歪め、その表情は言いたくても言えず、葛藤しているのが透けて見えるほど心乱れている。
「どうしたの、仁?」
「僕はどうしたらいいんだろう。やっぱりそんなことできないよ。僕ならできるだなんて」
 その支離滅裂な仁の問いかけは誰に向けられているのかはっきり分からない。
 ユキは困惑しながら仁を見つめていた。
「もしかして、それってこれから離れた方がいいってこと?」
「違う、違うんだ。いや、なんでもない。とにかく僕帰る」
 仁は立ち上がり、つい逃げ腰になり玄関へと走っていった。
「仁、一体どうしたの?」
 黙って座り込んで靴を履いている仁の背中が震えていた。
 一度は冷静になるために黙って帰ろうとしたが、どうしても怒りが湧き起こって我慢できなくなってくる。
 このまま黙って帰れば相手の思う壺に思えてしまい、仁はとうとう爆発して自棄を起こしてしまった。
「僕を甘く見るな。僕なら喜んで手伝うだろうなんて思われてたらあまりにも侮辱過ぎる」
「仁? どういうこと? 私また無意識でなんかしちゃったの?」
 突然怒りを露にした仁にユキはおろおろしてしまった。
「トイラ、聞いているんだろ。さっき僕に言ったことユキにも教えてやれよ。ユキが納得しなければ僕は黙ってそんな卑怯なことしたくない!」
「今、なんて言ったの?」
 ユキの体が震えだした。答えを知りたいと慈悲を乞うように仁にすがった。
 仁は奥歯をかみ締めユキの目を見つめる。声が出たときは泣きそうになってしまった。
「ユキ、君の中でトイラは生きてる。しっかりと意志をもって、あのトイラのままの意識が君の中にあるんだ」
 ユキは痺れるように体が麻痺していく。
「嘘、嘘よ。それならなぜトイラは私の前に現れないの? ねぇ、私をからかってるの?」
「こんなこと、からかえる訳がないだろ。とにかく僕は帰る。今は一人にして欲しいんだ」
「待って、お願い、帰らないで。ちゃんと説明して」
「僕だって、どうしようもない。このままでは正常に話し合えない。今は自分のことしか考えられないんだ。ごめん、落ち着いたらまた来るよ」
 仁は玄関のドアを開けると、闇に吸い込まれるように出て行った。
 外ではカチャカチャと自転車の音が聞こえたが、その音もすーっと闇に飲み込まれていった。
 仁が帰ってしまったあと、ユキは暫く呆然と立っていたが、玄関の鍵をかけて戸締りを確認すると、再び居間へと戻っていった。
 誰も居ない静かな空間で、大きく一呼吸する。
「トイラ、本当に私の中であなたは生きてるの?」
 舞台の上で一人芝居の独白をしているような気分だった。
 だから自分の声で「そうだ」と言ったときは自分でも驚いた。
 それは自分の意志で言った言葉ではないのは充分理解していた。
 だが、自分ではない部分の声を発するときは意識を保つのが苦しい。
 本来の自分が引っ込んで、そのまま眠りについていくようだった。
「トイラ、もしかしたら、トイラが話したいとき、私の意識は隠れてしまうのね。でもトイラは私の意識があっても、いなくなることはないのね」
「ああ、その通りだ」
 自分の意識が遠のきそうになりながら、トイラの意識による自分が発した声を必死に聞く。
 だがそれは長時間もちそうになかった。
 この時、自分が無意識に行動していた理由がやっと理解できた。
 トイラの意識が表に出て、ユキの変わりに動いていた。
「トイラ、これでは会話が成り立ちそうにもないわ。どうにかして話をすることはできないの?」
 ユキの体はまた勝手に動き、ノートパソコンを持ち出して、ダイニングテーブルにそれを置いて席についた。
 そして、キーボードを打ちまくった。
 再びユキの意識が戻ったとき、目の前に言葉が羅列されていたのを見て驚く。
「いつの間にこんなにタイピングしたの?」
 それがトイラからのメッセージだと認識すると、涙があふれ出て中々読む事ができなかった。