8
境内を囲っている木々は、夏の強い日差しで短く濃い影を作っていた。
時折油蝉の鳴く音が響くと、耳障りさに気温まで上昇していくようだ。
辺りの掃除は行き届いて小奇麗だが、神殿は立派なものではなく古ぼけている。
夜になれば肝試しができそうなくらい、不気味な雰囲気がする寂れたものだった。
ユキは何かを探すように階段を上り、吸い込まれるように神殿の中に入ろうとしていた。
その動きは夢遊病者のようだった。
「ちょっとあんた、人間はその中に入れないことになってるんだけど」
その言葉にはっとして、ユキが振り返ると、竹箒を持った巫女がそこに居た。キイトだった。
「あっ、なんで私、ここに入ろうとしたんだろう。あの、どうもすみません」
ユキが慌てて降りようとすると、最後の一段で足を滑らせバランスを崩して尻餅をついてしまった。
石をよけた時と全然違ったどんくささにキイトは首を傾げる。
「あんたさ……」
何かを言い掛けたが、その後を続けなかった。
ユキはとても恥ずかしく、なんとか誤魔化そうと、立ち上がって何度も自分のスカートについた砂を払いながら微笑みかける。
「ここの関係者の方ですか?」
「当たり前じゃない、神の使いなんだから」
「そ、そうですよね。巫女さんですもんね」
質問すれば答えてくれるが、どこかつっけんどんでありピリピリとしたものを感じる。
ユキは長居は無用とばかりに、その場を去ろうとしたが、その動きはぎこちなく蟹が横歩きしているようだった。
しかし、キイトは逃がしてはなるものかと強く睨みきった視線で釘をさす。
「あんた、一体何者なの? どこの一族?」
「えっ、一族?」
どのように応えていいものかとユキは思案したが、無難に「春日ユキ」と自分の名前を名乗った。
「春日ユキ? 名前は普通っぽいわね。だけど一体あなたの目的はなんなの」
「えっ? 目的? 別に何も」
自分が神社の建物に近づきすぎて泥棒とでも間違われているのだろうかと、ユキは不安を感じて急に汗が引いていく。
「あの、私は怪しいものではないです。その建物の中に入ろうとしたことは謝りますけど、なんだか自分でも頭がぼーっとしてしまって、何をやっているのかわからなかったんです。ごめんなさい」
深く頭も一緒に下げた。
キイトは騙されるものかと目を細めて注意深くユキを眺める。
ユキには居心地悪く、一刻もここを去りたい。
とにかく愛想笑いだけでも無理やり作り、そして走って逃げようとしたとき、キイトは滑るようにユキの前に立ちはだかって凄みを利かせた。
「ニシナ様をどこにやったの?」
「えっ? ニシナ様? 一体それはなんですか?」
「何、とぼけてるのよ。あんたが赤石を奪おうとしてニシナ様をどこかへ連れ去ったんでしょ」
「ちょ、ちょっと待って下さい。赤石もニシナ様というのも何のことかわかりません」
「じゃあ、なんであんた大きな黒猫の幻影を体に潜めてるのよ」
逃げ腰だったユキの体は硬直した。
今度はユキが質問する番だった。
9
「あなた、あの時の人なの? 学校の裏の林で私に声を掛けたけど、姿を見せなかった人」
「ええ、そうよ。馬鹿みたいに大きな声で泣くんだもの、煩くて仕方がなかった」
キイトは呆れた顔を向けた。
「なぜ、私から大きな黒い猫が見えるの?」
「目で見えるわけではない。あんたが持つイメージがそのまま頭に伝わってきたわけ。同じ種族なら独特の感覚でお互いの認識をするのよ」
「だったらあなたもある動物に姿を変える事ができるってことなの?」
ユキの気持ちが高ぶった。心臓がドキドキと早くなっている。
「そういうことを知ってるところを見ると、あんた普通の人間じゃないね。やはりこの山をめちゃくちゃにしようと企んでいる悪い妖術使いなんでしょ」
「違うわ、私はただトイラのことを知りたいだけ。私から黒猫のイメージを感じられるのなら、あなたにはトイラが見えるんじゃないの。お願い教えて、一体私から何が見えるの?」
藁にでもすがりたい気持ちで、ユキは巫女に助けを求めてしまう。
「ちょっと、待ってよ。あんた、なんか狂ってる。トイラって一体何よ」
「お願い、答えて、私の中にはトイラがいるの?」
ユキは巫女の肩を掴んで大きく揺さぶった。
「ちょっと、痛いって、あんた私を誰だと思ってるのよ」
「誰でもいいの。トイラに会わせてくれるのならなんだってする」
ふたりは境内で取っ組み合いの喧嘩をしているようだった。
「おい、ユキ、一体そこで何をしてるんだ。やめるんだ」
鳥居を潜って仁が走ってきた。
すかさず、食い込むようにキイトの肩を掴んでいたユキの手をとり、ふたりを引き離した。
キイトはこの上ない恐怖心を味わったように放心状態となり、鋭くとり憑かれたユキの目から視線が離せなかった。
「す、すみません。ちょっとこの人、最近疲れているようで、つい興奮して。本当にごめんなさい」
仁がユキの代わりに必死に頭を下げて謝った。
「仁、どうしてここに?」
ユキは落ち着きを取り戻したが、仁が居る事が納得できないでいる。
「何、言ってんだ、ユキが電話してきたんだろ。ここに来いって」
「えっ、私が電話した? いつ?」
ユキには全く身に覚えがなかった。
「とにかく、家に帰ろう。少し涼しいところで休んだ方がいい」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
口を挟んだのはキイトだった。
「あのさ、こっちこそ説明して欲しいんだけど、一体この子何者なの? 大きな黒い猫って言っただけで興奮するし、それにあんたもこの子の仲間なの? さっ きからトイラが見えるんじゃないのかとか、訳の分からないことまくし立ててくれるけど、こっちだってニシナ様を探してるんだ。そのトイラっていう奴が誘拐 したんじゃないのか?」
「一体何を仰ってるのかさっぱりわからないんですけど、あの、あなたは一体……」
仁が問いかけると、ゴロゴロと空が音を立てだし、黒い雲が流れ込んでいた。
夕立が来そうなほどに辺りが暗くなってくる。
「一雨来そうだ。ユキ濡れないうちに家に帰ろう。それじゃ大変失礼しました」
その場を去ろうと、半ば、強制的に仁はユキを引っ張って走っていってしまった。
鳥居の外で倒れていた自転車を立て直し、慌てるようにユキの家へと向かった。
キイトは雷と夕立に邪魔をされ、後をつけることを断念した。
「仕方がない今度会ったとき、とっちめてやるから」
キイトも雨を凌ぐ場所を求めて去っていった。
10
あともう少しで家につきそうだと言うときに、ぽつぽつと降り出したかと思うと、あっという間に大粒の雨となって地面を叩きつけた。
家の軒下に滑り込んだときは髪と肩がすでに濡れて、ユキのブラウスはブラジャーが薄っすら透けて見えていた。
「入って」
離れた方がいいと話し合ったそのすぐ後だが、この雨では追い返すわけにも行かず、ユキは仁を招き入れようとした。
その力ない声に仁は遠慮する。
「ここでいいよ。雨が止んだらすぐに帰るから」
「でも、折角来てくれたんだから」
ユキはそれ以上言わず、玄関の戸を開けたまま奥へとさっさと進んでいった。
仁はそれならばと、家の中へ入っていく。
「適当に座ってて、着替えてくるから」
エアコンがつけっ放しの居間はひんやりとしすぎて、少し濡れた服では鳥肌が立つ。
エアコンのリモコンを見つけようとその辺りを探すと、センターテーブルの上にメモ用紙があるのに気がついた。
それには『ジン』とカタカナで名前が記され、さらに『ハナシガシタイ』とそれもカタカナで書かれていた。
「これって僕へのメッセージなのか?」
そのメモ用紙を手に取り、仁は暫くそれを眺めていた。
「待たせてごめん。なんか飲む?」
Tシャツにジーンズとラフな格好でユキが現れた。
「別に何も入らない。ちょっと寒いからエアコン消してくれない?」
ユキはすぐにリモコンを見つけボタンを押すと電子音が静かな部屋で響いた。
「あのさ、僕に何か話したい事ある?」
手に持っていたメモを見せたつもりだったが、ユキはそれに見向きもしなかった。
というより、そのメモに気がついてない様子で安楽椅子にどさっと腰を下ろした。
「そうね、話したい事って言えば、あの葉っぱに触れてから、なんか変なんだ。急に無意識に行動を起こしてしまうの」
仁もソファに座り自分の意見を口にする。
「もしかしたら、自分で暗示をかけているのかも。トイラのことを思い出してしまったばかりに、それがストレスを起こす引き金となって、一時的にどこかで意識が混乱するんじゃないのかな。強いストレスは体を壊す原因になりやすいから」
「でも、何かに引っ張られるというのか、特にトイラを思う気持ちが一段と強くなって自分で制御できないの。仁にだってきついこと平気で言っちゃうし、歯止めがきかないの」
「だからそれも、押さえ込んでいた思いが爆発しただけだろ。ユキは前を向こうと努力しすぎて結局は過去のことを無理やり閉じ込めていたのかもしれない」
ユキはこの一年頑張ってきた事を仁はいつも見ていた。
「仮に仁の言う通りだったとしても、あの巫女はどういう説明がつくの? あの人はっきりと私の中で大きな黒い猫を感じたって言ったの。それにあの巫女もなんか様子が変で……」
「巫女って言ったら神社で神に仕える身分だろ。そんな人たちってなんか霊感に強そうだし、そういう類でユキから何かを感じるものがあったんだよ。霊能者っ て言葉もよく聞くからね。でも漠然的に大きな黒い猫って言っただけで、トイラのことは知らなさそうだったし。それよりもニシナ様が誘拐されたとか、あの人 も変なこと言ってたけど、ちょっと頭おかしい感じだったね。本当に誘拐されてたら、警察に行ってると思うんだけど」
仁は腕を組んで考え込んだ。
「だけどあの人よ、校舎の裏の林で姿を見せずに私に声を掛けた人は。あの葉っぱもあの人が用意したのかもしれない」
「いや、それにしてはユキのことあまり知らなさそうだったし、たまたま巫女だっただけに、ユキが無理やりこじつけたいだけじゃないのかな」
仁はとことんユキを否定する。ただ、仁は安易に決め付けるのがいやだっただけに過ぎない。
しかし、ユキは納得いかなかった。トイラに会えるチャンスがあるのなら、例え悪魔に魂を売ってでもその力を借りたい。
窓の外を見れば雨はすっかり止んでいた。
青い空が広がって白い入道雲が浮きあがり、木々の緑の葉っぱの雨のしずくが玉となりきらりと光って清々しかった。
だがユキの心はまだ夕立のような雨が降り続いている。
「雨も止んだし、僕、そろそろ帰るよ」
立ち上がろうとしたとき、ユキがとっさに止めた。
「ダメだ、もう少しここにいろ」
それはあまりにもぶっきらぼうでユキらしくなく、仁は目を大きく見開いて驚いていた。
1
ユキが安楽椅子から突然身を起こしたとき、仁はソファーに深く腰掛け天井を仰いでいた。
その顔色は青く、何かについて思い悩んでいる。
夏は日暮れが遅いと思っていたが、窓の外はすでに真っ黒になっており、時計は疾うに9時を過ぎていた。
「ごめん、もしかして私寝てた?」
ユキは自分の失態に驚き、仁が帰るに帰れなかったことを申し訳なく思う。
「いや、いいよ。ごめん。僕の方こそ、長居してしまって。起こそうと思えば起こせたのにね。僕の方がそうしなかったんだ」
「ほんとに今日は失礼なことばっかりしてしまって、ごめん」
「それはもういいよ。ユキは何も悪くないから。ねぇ、ユキ……」
仁は真剣な眼差しで何かを言おうとしたが、どうしてもその先が言えなかった。
顔を歪め、その表情は言いたくても言えず、葛藤しているのが透けて見えるほど心乱れている。
「どうしたの、仁?」
「僕はどうしたらいいんだろう。やっぱりそんなことできないよ。僕ならできるだなんて」
その支離滅裂な仁の問いかけは誰に向けられているのかはっきり分からない。
ユキは困惑しながら仁を見つめていた。
「もしかして、それってこれから離れた方がいいってこと?」
「違う、違うんだ。いや、なんでもない。とにかく僕帰る」
仁は立ち上がり、つい逃げ腰になり玄関へと走っていった。
「仁、一体どうしたの?」
黙って座り込んで靴を履いている仁の背中が震えていた。
一度は冷静になるために黙って帰ろうとしたが、どうしても怒りが湧き起こって我慢できなくなってくる。
このまま黙って帰れば相手の思う壺に思えてしまい、仁はとうとう爆発して自棄を起こしてしまった。
「僕を甘く見るな。僕なら喜んで手伝うだろうなんて思われてたらあまりにも侮辱過ぎる」
「仁? どういうこと? 私また無意識でなんかしちゃったの?」
突然怒りを露にした仁にユキはおろおろしてしまった。
「トイラ、聞いているんだろ。さっき僕に言ったことユキにも教えてやれよ。ユキが納得しなければ僕は黙ってそんな卑怯なことしたくない!」
「今、なんて言ったの?」
ユキの体が震えだした。答えを知りたいと慈悲を乞うように仁にすがった。
仁は奥歯をかみ締めユキの目を見つめる。声が出たときは泣きそうになってしまった。
「ユキ、君の中でトイラは生きてる。しっかりと意志をもって、あのトイラのままの意識が君の中にあるんだ」
ユキは痺れるように体が麻痺していく。
「嘘、嘘よ。それならなぜトイラは私の前に現れないの? ねぇ、私をからかってるの?」
「こんなこと、からかえる訳がないだろ。とにかく僕は帰る。今は一人にして欲しいんだ」
「待って、お願い、帰らないで。ちゃんと説明して」
「僕だって、どうしようもない。このままでは正常に話し合えない。今は自分のことしか考えられないんだ。ごめん、落ち着いたらまた来るよ」
仁は玄関のドアを開けると、闇に吸い込まれるように出て行った。
外ではカチャカチャと自転車の音が聞こえたが、その音もすーっと闇に飲み込まれていった。
仁が帰ってしまったあと、ユキは暫く呆然と立っていたが、玄関の鍵をかけて戸締りを確認すると、再び居間へと戻っていった。
誰も居ない静かな空間で、大きく一呼吸する。
「トイラ、本当に私の中であなたは生きてるの?」
舞台の上で一人芝居の独白をしているような気分だった。
だから自分の声で「そうだ」と言ったときは自分でも驚いた。
それは自分の意志で言った言葉ではないのは充分理解していた。
だが、自分ではない部分の声を発するときは意識を保つのが苦しい。
本来の自分が引っ込んで、そのまま眠りについていくようだった。
「トイラ、もしかしたら、トイラが話したいとき、私の意識は隠れてしまうのね。でもトイラは私の意識があっても、いなくなることはないのね」
「ああ、その通りだ」
自分の意識が遠のきそうになりながら、トイラの意識による自分が発した声を必死に聞く。
だがそれは長時間もちそうになかった。
この時、自分が無意識に行動していた理由がやっと理解できた。
トイラの意識が表に出て、ユキの変わりに動いていた。
「トイラ、これでは会話が成り立ちそうにもないわ。どうにかして話をすることはできないの?」
ユキの体はまた勝手に動き、ノートパソコンを持ち出して、ダイニングテーブルにそれを置いて席についた。
そして、キーボードを打ちまくった。
再びユキの意識が戻ったとき、目の前に言葉が羅列されていたのを見て驚く。
「いつの間にこんなにタイピングしたの?」
それがトイラからのメッセージだと認識すると、涙があふれ出て中々読む事ができなかった。
2
大好きなユキ
こんな形で再び俺が君の前に登場するなんて思わなかった。
一体何から話せばいいのか俺自身混乱している。
まずはこんなことになってしまったところから話そう。
ユキの命を救ったあの後、俺の意識は消えずに君の中に留まってしまった。
これも君が人間であり、俺が森の守り主として選ばれた存在だったからなのかもしれない。
誰もが予測できなかった事態が、偶然に起こってしまったのだろう。
だが俺はそのことを君に伝えることはできなかった。
君はあの後悲しみ、途方に暮れていた。
そんなときに、俺が君の中で生きているなんて知ったら、君は世界を見ようともせず、ずっと引きこもってしまうと思ったんだ。
だからいつかは立ち直ってくれると信じて、俺はひっそりと君の中で隠れていた。
そして、少しだけ君が前を向き出したのが感じられた。
でもそれはまだ弱すぎたために、俺はその時だけ自分の意識を少し表に出してみた。
俺の意識のイメージを君に植え付けたんだ。
側に俺を感じることで、君はそれを見えると思った。
そうすることで、君は益々前向きになり、俺も明るくなっていく君を見るのが嬉しかった。
だけど、いつしか君は俺に会うためだけに無理に前に進もうとしていた。
それでは最初に俺が恐れていたことと変わらなくなってくる。
表向きは前を歩いているようでも、結局は自分の中だけで生きているのと同じことに思えたからだ。
だから徐々に俺はまた隠れたんだ。
そしてこのまま眠りにつこうと思っていた。
だけど、その眠りをあの葉っぱが邪魔をした。
君があれに触れることによって、弱まっていた俺の力が目覚め、更にパワーアップしてしまった。
それと同時に君も俺への愛情を確認させられることとなってしまった。
力と共にその時、俺宛のメッセージも一緒に送り込まれた。
一体それは誰が企んだことなのか。
誰とまでははっきりとわからなかったが、俺と同じような奴に違いない。
ユキ、黙って勝手に君の中に隠れていたことをどうか許して欲しい。
そうする事が、ユキにも俺にも一番いい方法だと思ったんだ。
でもそれももうできそうもない。
ユキに黙って自分で処理をしようと、仁の力を借りたかったのに、仁はあっさりと俺を裏切ってくれたよ。
あんなに簡単にばらされるなんて思いもしなかったくらいだ。
くそ、仁のヤツ。
今度アイツが目の前に現れたら殴ってるけど、言っとくけど、それは決してユキの意志ではないからな。
仁に一体何を頼んだんだろうと、今不思議に思ってるだろうけど、実は君に内緒で君の体から出て行こうとしたんだ。
その方法が一つ見つかった。
その手伝いを仁にさせようとしていたんだ。
もちろんそれは君の命には問題はなく、俺の意識だけが出て行く事ができるんだ。
そうすれば、君は俺から解放されるしね。
ここまで読むと、ユキは首を横に強く振っていた。
「嫌よ、あなたが出て行くなんて。私はトイラとずっとこのままでいたい」
これを読んだ君が考えていることとてもよくわかるよ。
君がこのことを知れば絶対俺の意見に賛成するわけがない。
でもユキ、聞いてくれ。
君が解放されるだけじゃなく、俺も君から解放されるということを忘れないでくれ。
俺がどんな気持ちで君の中で隠れていたか、そしてこの先君に知られてどんな風に君の中で過ごしていけばいいのか、俺の気持ちも考えて欲しいんだ。
「お互いこのままじゃだめなの? 私はずっとこの先もトイラのことを考えて生きていきたい。トイラが私の中にいるのならずっとこれから一緒にいられるってことじゃない。トイラが出て行くなんていやよ」
ユキ、いい子だ。
俺の願いを聞いて欲しい。
ありったけの愛を込めて
トイラ
3
トイラの手紙を読んだ後、その中にあるトイラを逃がしたくはないとユキは両腕を交差して自分を思いっきり抱きしめた。
「これが私の答えよ。トイラ、どこにも行かないで。私の側にずっといて。お願い」
また気がついたとき、パソコンの画面には言葉が残っていた。
『ユキ、君は間違ってる』
「間違ってなんかいない。これは私が望むこと。もうトイラから離れたくない」
ユキは暫くパソコンの前に居たが、それからトイラはメッセージを書き込むことはなかった。
それがトイラを怒らせてしまったのではと、ユキには感じてならなかった。
それでもユキは自分の気持ちを変えることはなかった。
次の朝、ユキは目覚めがよかった。
自分の中にトイラが生きていることを知っただけで、一人ではない力強さが感じられる。
前夜は意見の不一致でトイラの機嫌を損ねてしまったが、いつかは理解し合えるとユキはそれこそここでポジティブになり、明るく振舞う。
悩んでいた頃と打って変わって、ユキの心は晴れやかだった。
自分がこれだけ幸せな気分ということでトイラもきっと喜んでくれると信じてやまなかった。
「トイラがいる。そう思うだけで嬉しくて仕方がないわ」
そしてはっと気がついたとき、ユキはパソコンの前に座っていた。
『君は、間違っている。俺はただ悲しい』
「トイラ、どうしてそんなことをいうの? 私はこれでいいって言ってるのに」
ユキは分かってもらおうと、益々明るく振舞う努力を怠らないようになっていった。
そして一週間が経った頃、仁がユキの家を訪ねてきた。
呼び鈴を押しても出てこないので、引きドアに手をかけると鍵が開いてることに気がつき、仁は勝手に家の中に入って、そこで見たユキの姿に驚いて叫んでしまった。
「ユキ!」
ユキはげっそりとしてソファに倒れこんでいた。
明るく振舞ってもあれ以来トイラがユキになんのメッセージも残さなかったことから、ユキは反抗するように食事をしなくなった。
トイラが意識を支配して食べ物を口にしても、ユキが目覚めたときはむりやりそれをトイレで吐いてしまっていた。
仁がユキを訪ねてきたのは、トイラの意識に支配されたユキから電話で助けを求められたからだった。
「ユキ、一体何をしているんだよ」
「全部、お前がぶち壊したんだ。俺はこうなる事が分かっていたというのに」
「えっ? 今はトイラなのか?」
げっそりとしているユキの顔を見つめるが、目は苛ついて仁を見据えていた。
ユキなのにユキではない雰囲気が漂う。
「ああ、俺だ。トイラだよ」
体を起こし、ソファーに深く座るが、ユキ自身の調子が悪いため辛そうにしていた。
だが、目は精一杯に凄みをつけて睨み、持っていきようのない怒りを仁にぶつけていた。
仁はたじろぐが、仁の方も我慢できない気持ちをぶつけだした。
「僕だってトイラからそんな話をされて、どうしていいかわからなかった。いきなり現れてそんな事言われて、冷静になれる方がおかしい。僕だって感情という ものがある。僕がそんなことユキに内緒でできるわけがないじゃないか。それこそ一生罪を背負って生きていけってことになる。それに僕なら何のためらいもな くトイラをユキから抹消させられるなんて思われたのも悔しかったよ」
「バカ野郎! そんな風に俺が思うわけがないだろう。仁しか頼める奴がいないし、仁を信頼してるからこそお前にうちあけたんだ」
トイラも言い返す。だが、見かけはユキなので仁は戸惑っていた。
「だけど、そんなの酷だよ。ユキはずっとトイラのこと思っていたんだよ。折角通じ合えるチャンスがあるのに、それを与えない方が間違ってる」
「いや、間違ってるのは仁の方だ。目の前のユキをよく見てみろ。ユキはおかしくなってしまった。本来なら命の玉を奪われた方が支配されるべきなのに、ユキは人間だから俺の命の玉を与えても俺の力が強かったってことだ」
トイラは必死に訴えた。
「でもこれは、ユキがトイラと離れたくないから反抗してるんじゃないのか」
「仁にはそう見えるかもしれないが、これは違う。徐々に俺の意識の方が強くなってきているんだ。俺が知らずとユキの心を支配して思いを強く募らせてしまったんだ。早い話が俺に体を与えようとしている。このままではいつか逆転してしまうかもしれない」
「それって、ユキの意識が隠れて頻繁にトイラが表に出てきてしまうってことなのか?」
「そうじゃない。俺がユキを完全に支配して、ユキは二度と表に出て来れなくなるってことだ」
見かけはユキだが、その話し方はやっぱりトイラだった。
ユキなのにトイラ。それがずっとそうなるかもしれないことに仁は事の真相にやっと気がついた。
「意識が出て来れないってそれじゃ、ユキが死んじゃうってこと?」
「そういうことだ。やっと分かったか」
「そんな。なんでまたそんなややこしいことに。トイラは自分の力でコントロールできないのか?」
仁はおろおろとしてしまう。
「この間まではできていたよ。だがお前が持ってきた葉っぱがいけなかった。あれに触れてしまったばかりに、俺の本来の力が目覚めてしまった。この力は太陽の玉が割れたときに吸い取られるべきだったんだ。だがあの時はユキを助けるために使ってしまった」
「でもそれは仕方がなかったというか、そうしないとあの時ユキは死んでいた」
仁はあの時の事を思い出していた。
「分かってる。それは俺も望んだことだし、それしかユキを助ける方法はなかった。だが、またこうやって新たな問題にでくわしてしまった。だからこういうことになる前に、黙ってユキから出て行きたかったんだ」
「それじゃまた僕のせいなのか。僕がいつもユキを苦しめてしまう」
首をうなだれる仁。
「仁を責めているんじゃない。それに矛盾してるけど、ユキと心通わせたことは実は俺にとっても嬉しかったんだ。俺だってこんなことになってしまってかなりこんがらがってる。とにかく早くなんとかしなくては」
「僕は一体何をしたらいいんだ。今聞いたことを正直に話してもユキのことだ、きっと支配されてもいいっていうに決まってる」
「まずはユキを病院につれていけ。それとカジビっていう奴を捜すのを手伝ってくれ」
急に聞きなれない名前がでてきたので仁は不思議に思った。
「カジビ? 一体誰だい?」
「俺も誰だか知らない。だけど葉っぱに触れたとき、カジビを捜して欲しいというメッセージがあったんだ」
「その葉っぱだけど、僕が持ってきたとはいえ、余計なことしてくれたって感じだよ」
もっと気をつけるべきだったと仁は後悔してやまなかった。
「俺には意味のあることのように思えてならない。俺がユキから離れられることを知ったのもその葉っぱのお陰だから」
「一体何の目的でトイラに渡したんだ?」
「それは俺に助けて欲しかったからだろ。その代わりにそいつは俺を助けてやるっていいやがった」
「だからそれは一体誰なんだ」
仁はその正体が知りたくてたまらない。
「今は分からなくともそのうちわかるさ。とにかくユキを、いや俺を早く病院につれていけ」
「ああ、わかった」
仁はユキを抱き起こすが、それはトイラの意識であり、なんだか複雑だった。
4
ユキが目覚めたとき、病室のベッドに横たわり、手に針が刺さってチューブと繋がっていることを不思議がっていた。
側には仁がスツールに座って見守っている。
「ユキ?」
「あっ、仁…… なんで私、ここで寝ているの?」
「トイラからユキが倒れてるって教えてくれた。だから僕がここへ運んできたんだ」
「トイラと話をしたの!?」
急に興奮してユキは身を起こした。
「だめだよ、安静にしてなくっちゃ。体がかなり弱ってるんだから。なんでそんなにいつも無茶するんだよ」
「だって」
仁はユキをまたベッドに寝かし、口を尖らせて愚痴をこぼし始めた。
「だってもくそもないだろ。心配する僕の気持ちも考えてよ。ユキが暴走すれば、僕だって同じ道を辿るしかないんだから。それから、放っておいてなんて言葉、僕には言うなよ。無駄だから」
先手を打たれてユキは大人しくなった。
「……ごめん。それで、トイラと何を話したの?」
「色々なことさ。これからどうすればいいのかってことも」
誤魔化してもユキには通用しないと思ったので、仁はトイラから聞いたことを全て話した。
「そう、いずれ私はトイラと入れ替わっちゃうのか」
「今、それでもいいって思っただろ」
仁が指摘するとユキは黙り込んだ。
「今すべき一番の事柄は、ユキが体調を整えて元気になるってこと。それとこんなこと二度とするな。トイラと話したければ、僕が手伝ってやる」
仁がとてもしっかりして急に大人びた表情に見えた。
「わかった」
ユキはしぶしぶ承諾する。
「それで、カジビという人物を探さないといけないんだけど、なんか聞いたことない?」
ユキは首を横に振ったが、突然目を大きくして閃いた。
「もしかしたらあの巫女さんに聞けば何かわかるかも。あの人何か不思議な力もってそうよ。私の中にトイラがいるってことも見えたし」
「そっか、あの巫女さんか。よし、後で僕がまたあの神社に行って探してくる」
「私も行く。どうせこの点滴が終われば家に帰れるんでしょ」
「ああ、そうだけど、ユキは少し休んだ方がいい。この暑さじゃ、また倒れてしまいそうだ」
散々、仁に迷惑を掛けているので、ここは従うしかユキには選択がなかった。
「それじゃその人、見つけたら家に連れてきて。彼女とじっくりと話がしたいの」
仁は口元を上げ、頷いて約束する。
自然と笑みがこぼれたのもユキが比較的落ち着いていることに安心し、自分と距離を取ろうと思わなくなったことに少しほっとしたからだった。
あのとき頑なに自分を拒否してきたのも、少なくともあの葉っぱの力に左右されたことだと気がつく。
トイラを思う気持ちが力を増した支配力であり、それに知らずと従っていたのだろう。
ユキが全てを知ることで、自分の意識を支配されないように少し抵抗力ができたのかもしれない。
それとも、他に何か気がついた事があるのだろうか。
ユキは眩しそうに窓の外に目をやり、木の枝に止まる鳥を眺めていた。
ユキはタクシーに乗って先に帰っていく。
仁は口を酸っぱくするほど何か食べて安静にしておけと言い聞かせたので、ユキは大人しく家で待つと約束した。
その間、仁は自転車であの神社へと向かう。
神社に着いたときは汗だくになっており、手水舎につかさず駆け寄り、柄杓を手にした時は、水をすくって思いっきり頭から被っていた。
「ちょっとあんた、それ使い方間違ってる。そこはお参りするときに手を清めるところ。頭清めてどうすんのよ」
「ああっ!」
あっさりとキイトを見つける事ができて、仁は叫ばすにはいられなかった。
「ちょっと、突然大きな声を出さないでよ。ここは神聖な場所なんだから」
「あの、ここの神社の巫女さんなんですか?」
「だったらどうなのよ」
キイトは妖しい目つきを仁に向けた。
「いえ、その、ここですぐに会えたからそのびっくりして」
「もしかして、あんた私を探してたの?」
「はい。ちょっと聞きたい事があって」
仁はこわごわとキイトを見つめる。
「聞きたい事って何よ」
「ここではなんだから、ちょっと来てもらえますか」
「そこには、あの女もいるのね」
仁の頷きに、キイトは迷うことなく後をついていく。
そして再び話が始まったとき、ユキと仁に囲まれ涼しい部屋でお菓子とお茶を目の前にソファーで座っていた。
5
チョコレートチップクッキーを珍しそうに手に取り、それを一口食べてキイトの目は見開いた。
「こ、これはなんというせんべいじゃ」
「それはせんべいじゃなくてクッキーというものなんだけど」
ユキが言った。
「クッキー? なんと甘くて美味い。甘いものといえば、おはぎや団子くらいしか食べたことないけど、こんなものがあったとはびっくりじゃ」
キイトは遠慮なくさくさくと食べていた。
その食べっぷりがよく、ユキも仁も暫く黙ってみていた。
飲み物を飲んだところでキイトはやっと話し出した。
「ところで、私になんの話があるんだ? こっちはあの時の侮辱が許せなくて、あんたに謝罪を要求しようと思ってたとこなんだけど」
指にについたチョコレートを舐めながらギロリとユキを睨んだ。
「あの時は大変失礼しました。ちょっと興奮して。でもあれはすっかり解決しました」
ユキは殊勝な態度を見せた。
「解決したって、大きな黒猫の問題のことか?」
「はい」
「ふーん、そっか。それで話というのはやっぱりニシナ様のことなんでしょ。その黒猫が誘拐したから、謝ろうという筋書きね」
「いえ、違うんです。私達はニシナ様というのがどなたか存じません。私が聞きたいのはカジビという人のことで……」
「ちょっと、今なんていったの? なんでその名前を知ってるのよ」
キイトはびっくりして跳ね上がった。
「やっぱり、その人のこと知ってるんですね」
今度は仁が聞いた。あっさりと解決の糸口にたどり着いて一陣の光が差し込んだ気持ちになった。
しかし、それは予期せぬ事態へと変わる。
「やっぱりあんた達、赤石を狙ってるんだ」
突然ソファーの上に立ち上がり腰を屈め、瞳孔が小さく点のようになり目つきが厳しくなると、今にも襲い掛かりそうに爪をむき出しにした指を見せ付ける。
「ち、違います」
ユキは誤解を解こうとどうにかして話し合いたかったが、その前にキイトが飛び上がって襲い掛かった。
咄嗟のことで仁は助けにいけず、ただ「危ない」と声を上げることしかできなかった。
だが、ユキはキイトに負けないくらいのすばしこさで、機敏にジャンプして移動していた。
「とうとう正体を現したわね」
恐ろしい剣幕のキイトに対し、ユキは口元を片方あげて余裕の笑みをこぼした。
「いいから、人の話を聞けっていうんだよ。血の気が多い女狐だな、それとも他の何かか?」
女狐と言われて、キイトは驚いた。
「私はキイトって名前がちゃんとあるんだ。女狐って呼ぶな。お前は一体何者だ。女だと思ったら今度は男の気を出しやがって」
キイトは少し取り乱し、慎重になっていた。
「分かったから、とにかくそこに腰掛けてくれないか。クッキーが好物ならもっとやるよ。とにかく話を聞いて欲しい」
ユキのときとは違い、トイラは背筋をピンと伸ばして貫禄を出していた。
キイトは渋々とソファーに座り、ヤケクソまじりで残っていたクッキーをほおばった。
「仁、あの棚の中にもっとお菓子が入ってるから、それを全部もってきてくれ」
「わかった」
トイラに指図されるままに仁は動いた。
扉を開け、その中にあるだけのお菓子を持ち出して全てキイトの前に置いた。
「私を買収しようったってそうはいかないんだからね」
と言いつつも、手当たり次第に味見をしていた。
「キイトって言ったな。俺はトイラだ。だがこの体はユキのものだ。俺は訳あって意識を人間と共有している。元はお前と同じ種族だ」
「ということは、大きな黒い猫ってことか。あんた昨年ここで暴れていたよそ者なんだろ?」
「なんだ知ってるのか」
「まあね、噂程度だけど、何があったくらいかは分かってるつもりさ。でも一からあんたの口から聞いた方がよさそうだね。お菓子も一杯あることだし、食べてる間聞いてあげるよ」
それからトイラはユキとの出会いから、全てのことを話すのだった。
6
「ふーん、なんともドラマチックな展開で。その森の守り主というのは、私達の山神様と同じようなもんだね。ニシナ様というのがこの山の神様になるんだ。世界が違えどよく似たことをやってるもんなんだ」
最後の一口を食べ終えて、キイトはふーっと息を吐いた。
「じゃあ、ニシナ様が誘拐されたっていうのは、どういうことなんだい?」
仁が質問する。
「私達の山を治める神。それは人間も山の神として認識しているはずだ。山の神は動物と人間、そして自然との調和を見守っている。人間は祈るだけだが、私達 はその声を聞いて山の神にお伝えすることもある。神社やお寺がその役目を果たす一つの手段になっている。山神は力をもつものとして崇められてるから、それ を利用しようとする輩がたまに出てくるんだ。それでその山神のニシナ様の祠が壊されて、ニシナ様も行方不明になられたんだ。これは誘拐しかありえない」
「それが俺たちの仕業だと思ったのか?」
トイラは安楽椅子に深く腰掛け、腕を組んで目を閉じたが足が思いっきり開いていた。
「トイラ、一応ユキの体なんだから、あまり男っぽくしないでくれ」
仁に指摘されて、トイラは思わず足を閉じかわいこぶった。
「なんか調子狂う」
複雑さを隠し切れずに仁は顔を歪ませていた。
「あんた達は本当にニシナ様を誘拐してないのか?」
キイトは半信半疑になっていた。
「してる訳ないだろ。そんなに力持ってる神様なら、今すぐに会って願いを叶えてほしいくらいだ、なあトイラ」
仁が突っ込むが、トイラは黙って何も言わなかった。
「だけどなぜカジビを探しているんだ? あいつは縁起が悪いと言われ、皆の嫌われ者だ」
キイトが厳しい目を向けて訊く。
「カジビと言うのはどういう動物だ?」
トイラが訊いた。
「アイツはイタチだ。しかも尻尾が二つでこの山では嫌味嫌われる対象だ。二又はこの山では邪悪を意味する」
「なるほど、そういうことか」
トイラは何か納得していた。
「もしかしたら、そのカジビがニシナ様を誘拐したんじゃないの? ここいらでみかえしてやろうとか。ほら、コウモリのジークみたいにさ。なんとなくトイラの辿ってきたものとオーバーラップするんだけど」
仁はトイラをちらっと見た。
「そうかもしれねぇな」
トイラは適当に答えていた。
「それで、赤石っていうのはどういう役目があるの?」
太陽の玉や月の玉にも通じるものがあるだけに、それが仁にはひっかかる。
「赤石は、深みを帯びた赤色で光り輝くものだ。それを持つと山神様という資格を与えられる証だ。私達にはただのお守りという認識しかない。だが、よそ者には 何か魔力を持つものだと思われているらしいんだ。実際、赤石に何かの力があるのかと聞かれても私にはわからない。それははニシナ様だけが知ってることだ」
その話を聞いた後、暫く沈黙が続いたが、「ピジョンブラッド」とトイラが突然独り言のように呟いた。
「ピジョンブラッドとはなんだ?」
キイトが反応した。
「直訳すれば鳩の血だが、それは濃い真紅のような輝きをもつルビーの色を称える敬称だ。ルビーの中でも希少価値で、最高級なものだ。即ちそれがここで言う赤石のことだろう」
「トイラ、それって赤石がルビーだっていいたいのか?」
仁が聞くと、トイラは頷いた。
「ルビー? 赤石は西洋にもあるのか?」
聞きなれない言葉にキイトは首を傾げる。
「何言ってんだよ、ルビーは宝石だよ。人間、特に女性が欲しがる価値ある石だ。一体赤石ってどれぐらいの大きさなんだ?」
キイトは仁の前で手を使って石の大きさを表した。
キイトが表現した大きさは、ジャガイモ一つ分ありそうだった。
「大きいじゃないか。それなら何も君たち種族だけでなく人間も欲しがるよ」
「えっ、人間も欲しがる?」
キイトは目を丸くする。
「だからすごいお金になるってことさ。ニシナ様がその赤石を持っていたならば、人間が連れ去ったって事も考えられるかも」
「人間が、連れ去った? そんな……私達でも恐れるという洞窟に入り、祠を人間が壊すなんて考えられない。人間は神を恐れるものだ。そんなことしたら罰が当たると当たり前に思われてるはず。だから人間が赤石に触ることなどできないはずだ。人間が赤石に触れれば……」
「死ぬとでも言うのか? それにしてもお前は人間をかなり信頼してるみたいだな」
横からトイラが口を出す。
「お前の種族は人間を嫌っているのか? ここの人間は色んなものに神様が宿ってると信じている。私たち種族を神やその使いだと崇めてくれる。人間がそんなことをするとは思えないだけだ」
「そうだな、俺たちとはそこの考え方が違うようだ。俺たちは完全に人間を排除して生活してきた。きっとこの先もそれは変わらないだろう。だがそんなに人間と接点を多くしたら、人間に恋をするものもいるんじゃないのか」
トイラは自分の行いを自虐し、つい皮肉ってしまう。
「ああ、もちろんいる。そして結婚してるものもいるぞ」
「えっ?」
あっさりと言われて、トイラも仁もびっくりした。
「なんだ、お前だって人間の女に恋をしたじゃないか。何がそんなに不思議なんだ」
「どうやって結婚して生活を共にするというんだ。お前達の種族は寿命が人間と同じなのか?」
あまりにも容易い答えに、トイラは驚きが隠せない。
「いや、寿命の長さは私達の方が長い。だけど、人間と結婚するときはその種族を捨てて人間になるんだ。それができるんだ。あんたのところはできないのか?」
トイラは驚きすぎて言葉を完全に失っていた。
もっと早くこの世界のものと出会っていたら、こんな道を辿らずにユキと一緒になれてたかもしれないと思うと、やるせなくなってしまう。
「なんだか、急に暗くなってしまったけど、大丈夫か? だけどあんたはこれからどうするんだ? その女の中に入ったままでは結婚することもできないだろうに」
一番痛いところを突かれたたようにトイラは首をうな垂れた。
「キイト、こういうトイラのケースの場合、なんとかトイラを外に出して人間にすることはできないんだろうか」
仁が幸運を祈るような思いで問いかけた。
キイトは仁の目を見つめた後、うな垂れているトイラをチラリと横目で見た。
「あんたはトイラとこの女がくっつくことを願ってるの? もし私ができるって言えば、あんたはそれでいいの?」
キイトは首を傾げる。
キイトの目から見ても仁はユキの事が好きなのは一目瞭然だった。
「仁、もういい。今はそんなこと議論している場合じゃない。俺たちが今しなければいけないのはユキを助けることだ。カジビを探せば、その手掛かりがつかめるかもしれないし、そうすればニシナ様のこともわかるかもしれない。ここはキイトと組んでカジビを探そう」
「ちょっと、私、いつあんたたちと手を組むって言ったのよ」
キイトは反発する。
「でもきっとニシナ様に繋がる何かが見つかるはずだ。ここは協力した方がお互いのためかもしれない」
トイラの言葉でキイトは考え込んだ。
「分かったわ。だけど完全にあんた達を信用したわけじゃないからね」
「キイトってなんかツンデレだね」
思わず仁が突っ込んだ。
「ツンデレってなによ」
つっけんどんに返すが、キイトは疾うにこの二人と一緒にいることに慣れてしまっていた。
つい雰囲気に飲まれて笑いが口元から漏れる。
そして、突然「キャー」という声が聞こえたとき、ユキがキイトに襲われたままで時間が止まった状態から目覚めた事がわかった。