【プロローグ】
またここへ戻ってきてしまった。
深い森の中、私は迷わずあの場所へと足を急がす。
見慣れた光景が目の前に現れたとき、私は息を飲み込んだ。
ぐっと力をこめてそこに近づき、そしてしっかりと見つめる。
何千年とそこに構えていた、あの大きな木。
変わらない姿で再び私を迎えてくれた。
私と大切な人との思い出が刻まれた特別な場所。
私は懐かしさと慈しむ気持ちで胸いっぱいになり、暫く動けないでただ突っ立っていた。
すると、強い一陣の風が私に向かって吹き込んだ。
風は木々の枝を思う存分揺らし、葉っぱが激しく揺れ動く。
まるで私からの挨拶を催促しているようだ。
不思議とまたあのメロディーが耳の奥で微かに蘇り、私はそっとその木に触れた。
木漏れ日が葉と葉の間から溢れ出る。
きらきらとしてまぶしい。
大地には幾重にも重なった幻想的な影が揺れていた。
その光と影はその木が表した私への歓迎の言葉に違いない。
「ただいま」
だから、私は手を広げてその木に抱きついた。
はっきりとした言葉など何も聞こえてこない。
だけど労いの声を掛けられた気がした。
その木が何を言いたいのか理解した。
だから私はしっかりと答える。
「ええ、とっても幸せです。だってトイラは……」
言いかけたとき、後ろで私の名前を呼ぶ声がした。
振り向けばあの人が走ってくる。
そこに大切なものを一緒に抱えて──。
1
高校生活最後の夏。
体育館で一通りの終業式を終えた後、春日ユキが教室に戻ろうと沢山の生徒の中に混じって歩いているときだった。
「春日先輩!」
後ろから自分の名前を呼ぶ声がする。
ユキが振り返れば、見知らぬ下級生の女の子が挑むような目を向けていた。
小柄で目がパッチリとしたかわいい女の子なのに殺気立った睨み。ユキはたじろいだ。
大勢の生徒が大移動してる廊下でふたりが立ち止まったままでいると、周りは邪魔だと言わんばかりに冷たい視線を向けて流れていく。
ここに突っ立ったままでいたら迷惑だ。
「あ、あの、何か御用?」
ユキがその女の子に近づく。
さっきよりも彼女の目つきが鋭くなったような気がした。
ユキと面と向かって対峙すれば、怒りを抑え込むのが我慢できない感情で彼女の体が震えている。
「話があります。今日、全てが終わったら校舎の裏の林に来て下さい。私そこで待ってますので」
今にも爆発しそうな怒りを抑え、それでいて精一杯の強気を備えて一気に話した。
まるで喧嘩の果たし状だ。
あっけに取られたユキを放っておいて、その女の子は言いたいことを言うと大勢の人の流れに加わり、流されていくようにさっさと去っていく。
一体自分はあの子に何をしたのだろうか。
首を傾げたあと、教室に戻るために人の流れに加わった。
クラスに戻れば、担任が来るまで騒がしく、皆この夏休みをどうするか好き勝手に話している。
高校三年の夏休みといえば殆どが受験勉強で忙しくなる時期だ。
旅行に行くような話よりも夏期講習や塾の強化合宿のようなプランに参加する話しが聞こえてくる。
ユキは進路のことについて迷っているために、どこか聞きたくないような話に思えてならなかった。
「ユキ、何ぼーっとしてるの? 明日から夏休みだよ。今からボケてどうするの」
高校二年からまた同じクラスになった矢鍋マリが、喝を入れるように側に寄って来た。
最初は嫌われていたけど、前年トイラとキースがこの学校へやってきて一騒動があってからをきっかけに打ち解けた。
その一騒動だが、この学校で起こったことなのにユキと新田仁を除いて誰もその事件を覚えていない。
あんなに派手にトイラが黒豹、キースが狼になって暴れても、何も起こらなかったことになってしまった。
あの忘れられない、そしてユキにとってとても大切な出来事なのに、ユキもまた皆と合わしてそれを思い出さないように日々を過ごしてきた。
そんなときにマリと心を許す仲になれたことは、残りの高校生活を過ごすのにとても救われた。
あれ以来お互い一番の親友として二人は仲がいい。
マリは見かけはきついかもしれないが、いい風に言えば姉御肌でリーダーシップにすぐれていた。
ずけずけと何でも言うところもあるが、それは信念を持った裏表のない真っ直ぐな性格。元々心はとても澄んでさっぱりとした人だった。
マリはマリなりにユキが気になり、結局はおせっかいにも心配していた。
ユキと心を通わせようと彼女も歩みより、ユキはそれに気がついて堅い殻を破って自ら飛び込んだ。
一度打ち解ければ、お互い理解し合える仲になるのには時間がかからなかった。
「ボケてるわけじゃないけど、なんだかぼーっとしちゃって」
「ユキは時々そうなるよね。以前から抱え込むような暗いところはあったけど、一度あんたを理解したらそこは繊細なユキのかわいいところなんだって思うようにしてる」
「何よそれ、まるで子供扱いね」
「あら、何言ってるの、まだまだ子供の癖に。それとも新田君とはあれから進展したの? もしかしていくとこまで行ったとか?」
ユキははっきりと言うマリの言葉に赤面してしまう。
「ちょ、ちょっとなんでそんな話になるのよ。マリには関係ないでしょ」
「あー、ムキになるところが怪しい」
わざとらしく目を細くしてマリはユキをからかう。
もちろん冗談だと分かっているが、公の場でこういう話をするのは恥ずかしい。周りを見渡せば聞いてないようで好奇心丸出しに耳をすませている輩が何人かいた。
「マリ、勘弁してよ。私達はそんなんじゃないの」
「だけどさ、新田君はユキにぞっこんでしょ。ユキがそんなんじゃ蛇の生殺しじゃん。新田君の気持ち知ってて、ただ仲良くするなんてそっちの方がありえない。そろそろはっきりしてあげたら?」
ユキはお説教をされてるようで気が重くなっていった。
マリははっきり言わないと気がすまない性格上、まだ色々と言ってくる。
「あれじゃ見ててかわいそうだよ。新田君って結構かわいいから目を付けてる女の子一杯いるんだよ。ユキがはっきりしないからそういう女の子達はすごくヤキ モキしてるだろうし、ユキだってそういう子たちから色々言われるの嫌でしょ。言われるだけならまだしも、嫌がらせに発展ってことにもなりかねないよ」
「でも、私達は、その……」
その時通知表を抱えて担任が入って来た。
マリはさっさと自分の席に戻っていって、クラスは急に静かになった。
2
ユキは暫く考え込む。
マリに仁との関係のことを説明したところで、肝心な部分が言えないだけに理解してもらえないことは充分にわかっていた。
前年の初夏の頃、トイラはユキを助けるために自分の命を犠牲にした。
あの時の出来事はユキの心の傷となるようにいつまでも刻み込まれている。
だが、なんとか頑張ろうと踏ん張って前を向いて歩いてきた。
そうする事ができたのも、前向きになったとき、ふとトイラを側に感じられることがあったからだった。
トイラの命と想い出が自分の中にある。
そう思えば、一生懸命前を向いてトイラと共に歩くしかない。
暫くはそれで乗り越えてきたけども、それは最初の頃だけで、あれから一年が過ぎた今は、どんなに前向きになってポジティブ思考で行動してもトイラを側に感じることはなくなった。
次第に寂しさが募り、それでも負けずと前を向こうと一応は努力する。
だけど、トイラの写真もトイラが居たという存在を証明する記念の物も何一つなく、ただ心の中にトイラへの想いがひしめき合うだけとなってしまった。
それは浸れるような甘いものではなく、会いたくて恋しくて寂しさが募るやるせない色に包まれた思い出。
ふと力を抜けば、トイラと過ごした記憶がどこかへ抜け落ちていくんじゃないかという恐れに囚われてしまう。
そんな不安定なときに限って、夢だったと自分で追い込んでしまえば、狂ってしまいそうで怖くなる。
それでもトイラが本当にいたんだと、その想い出が嘘ではないんだと思うためにも仁の存在が欠かせなかった。
唯一、仁だけはユキを理解していつも労わってくれる。
仁の存在がユキを正常にしていると言っても過言でないくらい、ユキは仁が居なければ真っ直ぐと前を歩く事ができなかったかもしれない。
失ってしまった大切なもの。
それが心の中にあるだけでは満足いかない。
誰かがそれを肯定して、そうだったと言ってくれたとき、ユキはかろうじて安らぎを得ていた。
だからユキは誰よりも仁の側にいる。
そんな二人が頻繁に行動を共にすればとても仲がいい恋人同士に見えるが、ユキはまだ仁のことをそこまで認めていないのがずるいところだった。
マリが示唆するように、それは仁の気持ちを弄んでいると思われても仕方がない。
それでも仁もまた自分があの時言った言葉を忘れていないのである。
『僕、待つよ。ずっと待つよ。ユキがトイラのことを思い出しても苦しくなくなるまで。ずっと待つ』
仁の気持ちは嬉しくとも、ユキはまだ自分のことを考えるだけで精一杯だった。
夏の湿気を伴った暑さが教室内で漂い、どこかで蝉の鳴く声が聞こえてくる中、担任が通知簿を配り、名前を呼ばれた生徒が次々に取りに行く。
そしてユキの名前も呼ばれた、ユキははっとして立ち上がり、慌てて通知簿を取りに行った。
担任の挨拶も終わり、これで一学期が全て終了して皆帰る準備を始めた頃、マリがまたユキの側に寄って来た。
「ねぇ、成績どうだった? ユキのことだから英語は問題ないでしょうね。私はちょっとやばかったかも。でもなんとか志望校ギリギリの点数かな」
「私はまあまあってとこかな」
ユキはそっけなく答えた。
「あんたさ、もしかして大学はやっぱり向こうに行くつもり? 成績よりも、なんだっけ、あれ? ほら英語のテスト」
「SATとTOEFL」
「どっちでもいいけど、それで点数をある程度取ればアメリカの大学にいけるんでしょ」
「そうみたいだけど」
ユキも実際よくわかってない。
「そうみたいってどういうことよ。もしかしてまだ進路決めてないの?」
「うん、迷ってるかな」
「ユキなら日本でも英語に強い大学どこでも目指せると思うけど、アメリカの大学の選択もあるとやっぱり迷うんだね。だけどはっきり決めた方がいいよ。とにかくまずは日本かアメリカのどっちかくらいは選んでないと」
マリのおせっかいがまた始まった。
「わかってるんだけど」
いますぐにここでユキがはっきりいえたものじゃなかった。
「それと、新田君のこともこの夏はっきりとしてあげようよ。彼だって残りの高校生活無駄にしたくないだろうし。ユキは傍から見てるとほんとにじれったい」
「何よ、さっきはそこがかわいいって言ってくれたじゃない」
ユキも少し反撃してみた。
「それは私が理解して大目に見てるからに決まってるでしょ。でも大概にしないと、この私でも最後は愛想つきちゃうよ」
「マリはいいな。いつもはっきりしてて」
「そう思うんだったら、ユキもそうすればいいだけじゃない」
マリの言葉はユキの心をびくっとさせた。
簡単な事のように思えて、でもそうできないどこか恐れる気持ち。
顔に暗く陰りが出ると、マリはユキの背中をひっぱたいた。
「ほらほら、また思い悩んできてるぞ。とにかくさ折角夏休み始まったんだから、今からぱーっとどっか遊びに行こうか」
明るいマリの笑顔に吸い込まれそうになって思わず「うん」と首を縦に振りそうになったが、ふと声を掛けられた下級生のことを思い出した。
「あっ、そうだ。私、この後、約束があったんだ。ごめん。また電話する」
がたっと机を震わせて席を立ち、腕時計をチラリと見ながらユキは焦って鞄を掴むや否や、教室の出口めがけて走り出した。
「ちょっと、いきなり慌ててどうしたのよ」
マリが呼び止める。
「ごめん。とにかくまた今度ね」
ユキは慌てて去っていく。
マリは仕方がないと、邪険にされても怒る気にはなれなかった。
ユキが去った後、マリも身支度をして帰ろうとしたその時、まだ教室に残っていた生徒が突然悲鳴を上げた。
何が起こったのかその騒ぎがある方向を見れば、開いている窓枠に大きなカラスが一羽止まっていた。
真っ黒な体と対照的に艶やかな緑色が嘴からぶら下がっている。
カラスは中を見渡してから羽を広げて教室へ入り込んできた。
誰もが度肝を抜かれてその光景を見ている中、カラスは机の上に降り立って、嘴にぶら下がっていた緑色のものをそこに置いた。
そして用が済んだと言わんばかりにまた外へと飛んで行った。
「あれは一体なんだったんだ?」
次々に言葉が飛び交う。
マリは物怖じせず、カラスが置いていったものを見にその机へと近寄り、それをつまみ上げた。
「葉っぱ? なんでこんなものカラスがここに置いていくのよ」
そこはユキの机だった。
マリはその葉っぱを手にしてじろじろと眺めていた。
3
慌てて待ち合わせの場所へ向かっていたユキだったが、昇降口で自分の靴を手にしてふと動きが止まった。
よく考えれば、全然知らない下級生。しかもあの睨んだ目顔から自分に敵意を持っている。
一方的に約束を押し付けられ、何も律儀にその通りに行かなければならないのだろうか。
一体自分に何の用があるというのだろう。
このまま無視することもできるが、そうすればまた絡んでくることだろう。
だったら早く済ませた方がいい。
幾分か冷静になったユキは靴を履き替え、自分も挑む気持ちで再び約束の場所へと向かった。
指定された校舎の裏の雑木林。
いつも通りに田舎に相応しい自然に溢れた場所だ。
今は夏。蝉の声が所々で聞こえていた。
少し裏手を奥に進めばそこは誰も足を滅多に踏み入れない。気温も少しばかり落ち着いて、風が吹けば汗ばんだ肌に涼しく感じた。
まだこの辺りはやや斜面ではあるが、そのまま進めば勾配が急になってハイキングコースとでも言うべき山の頂上へと誘う。
ユキは汗ばんだ額を軽く拭った。
考えまいとしても、目に映る景色に心がざわついてきた。
ここは、ジークに罠を張られて瀕死の思いをした場所だからだ。
その時のことは事件の解決によって、ユキは忘れたつもりでいた。
いや、考えないようにしていたのだ。
ここにはあれ以来足を踏み入れたことはなかったが、記憶は体のどこかに隠れていただけだと思い知らされた。
トイラが必死で助けてくれたことが蘇り、胸がちくりと痛くなる。
あの時に感じた胸の痛みもすごかったけれど、今だって充分苦しい。
「トイラ……」
ユキはつい名前を小さく呟いた。
目の前の木々の葉っぱの緑が、エメラルドの輝きをもったトイラの目を想起させる。
とても美しい輝きを持った瞳。
そこに映っていた自分の姿。
もう一度自分を見つめて欲しい。
トイラの姿を追い求め、ユキは周りが見えないほど空想の中に入り込んでいた。
そこにあの女の子がいたというのに、そのまま通り過ごしていく。
「あの……春日先輩?」
名前を呼ばれて振り向けば後方にあの女の子が首を傾げて立っていた。
「えっ? いつの間にそんなところにいたの?」
「春日先輩、いきなり私を無視して山に登っていったんじゃないですか。こっちがびっくりしました」
その子に呆れられ、ユキは恥ずかしくなった。
それを誤魔化すように、姿勢を正して話しかける。
「とにかく、一体私に何の用? それにあなた誰なの?」
ユキの言葉で女の子に緊張が走った。
「私は一年生の八十鳩瞳(やそばとひとみ)と申します。はっきりいいます。春日先輩は新田先輩とどういうご関係なんですか?」
「えっ? 私と仁のこと?」
ユキはまだ状況がつかめなかった。
「そうです。私、新田先輩が好きなんです。ずっとその気持ちを伝えているのに、新田先輩は全然相手にしてくれてなくて、これでも私、顔は悪くないと思うん です。年下だし甘え上手なところもあって、絶対新田先輩に気に入られるはずなんです。それなのに、新田先輩はいつも春日先輩とばかり一緒に居るし、それで も二人は付き合ってないって噂を聞くし、一体どっちなんですか。はっきりして下さい」
瞳と名乗ったその女の子はその名前に代表されるように、こぼれるような大きな瞳を潤わせていた。
下級生でありながら、堂々と自信に溢れている。
ユキよりもしっかりとして、物事をはっきりしようとしている。
強く睨んでいるが、それは必死で踏ん張ろうとして自分を奮い起こしている姿だった。
ユキはそれに負けそうだ。
マリに言われた事が、この時目の前で起こってしまった。自分がはっきりしない態度なために周りに迷惑かけている。
それでもユキは何をどういう風に言っていいのかわからない。
圧倒されて言葉に詰まっていると、その態度が瞳を逆なでする。
「どこまでもはっきりしない人なんですね。帰国子女だからもっとハキハキした人だと思ったから、はっきり言って話し合いたかったのに」
年下の女の子から痛いことを言われてユキは少しカチッときた。
「あのね、あなたにそんなこと言われる筋合いはないんですけど、仁があなたを相手にしないのは興味がないからじゃないの? それは直接仁に言えばいいじゃない」
「とっくにそんな事言いました。だけど新田先輩は春日先輩の側を離れる訳にはいかないんだって言ってました。だからいいように利用されていてもそんな事が 言えるんですかって聞いたら、例えそうであっても春日先輩が頼る限り側に居てやりたいって言ってました。だから私は知りたいんです。春日先輩は新田先輩の ことどう思っているのか」
「どう思っているのかって、そんなこと聞かれても」
ユキにとって仁も大切な人であり、決して邪険に扱ってるわけではない。
かといって、年下の女の子から急に決断を今すぐしろと言われても言葉が出てこない。
ユキが黙っていると、瞳は歯を食いしばるように怒りを込めて睨んだ。
「春日先輩って最低! はっきり自分の気持ちを言い表せないくせに、新田先輩に甘えるなんて。春日先輩って本気で人を好きになったことなんてないんでしょうね」
その言葉に目覚めるようにユキは突然ボロボロと涙をこぼし始めた。
悲しくて悲しくて、深い池の底に沈みこむように絶望が心を支配する。どうしようもない悲しみが心にいきわたると、突然力が抜けて、崩れるように膝が地面についた。
またあの名前を心で呼んでしまう。
トイラ……
泣くまいとずっと我慢していた気持ちが、この時溢れ返り防御不能になってしまった。
大きな声を上げ、まるで悲しみの雄たけびのような声で叫ぶ。
「ちょ、ちょっと、春日先輩。それは大げさじゃないの? 私だって泣きたいくらいなんですから」
突然のユキの態度に瞳は恐ろしくなり、おどおどしてしまう。
ユキはそれでも泣くのを止めない。もう自分でもわからないくらい、トイラを思う気持ちがここぞとばかりに爆発してしまった。
瞳は強気になろうとしても、ユキの悲鳴と流れる涙の粒の大きさにどうしても敵わなかった。
「泣いたからって解決するわけじゃないんですからね」
矜持を見せるつもりで発言したが、瞳は逃げるように去っていった。
ユキは一人取り残されても、自分の心の思うままに泣き続けていた。
暫くそれが続いてしまい、ユキも悲しみを止める術がわからない。
すでに息が苦しく、体の奥深くに入り込んでひっくひっくと痙攣していた。
「ちょっとあんた、いつまで泣いているつもり? うるさいわね」
ユキの鳴き声に見かねたように少し甲高い声で誰かが注意する。
突然の声に、ユキは泣きながらも顔を上げた。
だが目の前には誰も居ない。それでもまだ声がする。
「あー、あんた、もしかして猫? しかもとても大きな真っ黒い猫?」
突然猫と言われて、ユキは泣きやんだ。
大きい真っ黒い猫。
それはまさにトイラのもう一つの姿のことだ。
ユキの心がかき乱される。声の主は誰なのか。
立ち上がって辺りをキョロキョロするが、どうしても人の姿が見えない。
「あっ、やっと泣き止んだ」
「一体誰? 誰なの? どうして私のこと大きな真っ黒い猫だなんて言ったの?」
その真相が知りたい。ユキは必死になって周りを見回した。
「あれ? どういうこと? あなた私がどこにいるかまだわからないの? なんだ仲間じゃないの? だけどどうして黒い猫の幻影をもってるのよ。ややこしい人ね」
「お願い、姿を見せて。あなたは一体誰なの?」
ユキはどうしてもその声の主が知りたい。
「あなたこそ一体誰なのよ。少しここを離れていたから久し振りに戻ってきて、あんたみたいな人がいてびっくりよ。とにかくニシナ様に報告しなくっちゃ」
突風が突然舞うように黒い影がすばやく過ぎ去っていった。
「ま、待って!」
ユキが引きとめようとしたときにはすでに辺りは静かになっていた。
ユキはその影を追いかけようと木と木の間を走るが、すでに周りには何の気配もしなかった。
「一体何だったの? もしかしてトイラと同じ仲間なの?」
ユキは答えを待つように自分の胸に手を当てていた。
4
「今のは一体……」
訳が分からず、放心状態のユキは暫くその場で佇んでいた。
静かな場所で場違いな音が流れてくる。だが聞きなれたメロディ。
ユキが自分の携帯の着信音だと気がついたとき、我に返って携帯を手にした。
それは仁からだった。
通話ボタンを押せば、ユキの返事も待たずに「ユキ!」と慌てて叫んだ声が聞こえてきた。
「どうしたの、仁」
鼻声を帯びて洟がずるっと音を立てる。
「ユキ、なんか声が変だけど、もしかして泣いてるのか?」
「そんなことあるわけないでしょ。そ、そっちこそ慌てて様子が変だけど何かあったの?」
見られているわけではないが、ユキは涙を指で必死に拭う。
「あのさ、矢鍋さんとさっき会ってさ、それが、カラスがユキの机の上に緑の葉っぱを運んできて」
「えっ? 一体何の話?」
「だから、今どこにいるんだよ。とにかくすぐ会おう」
待ち合わせの場所だけ決め、電話を切るとユキは仁に会うために走った。
何かが動き出している。
そんな胸騒ぎがしていた。
ユキが瞳と話し合ってる頃、廊下を歩いていた仁は後ろから追いかけてきたマリに声を掛けられていた。
何事かと思えば、カラスが教室に入って来たことを聞かされた。
仁はその話にハッとして、心乱された。カラスといえば、何かとあの事件でも関わった動物だった。
何も知らないマリは面白そうにカラスが運んできた葉っぱを仁に見せた。
「この葉っぱなのよ。折角だから新田君からユキに渡しておいて」
マリにしてみれば、話のネタとしてユキをからかうつもりでいたが、仁はそれが偶然の出来事に思えない。
葉っぱを手に取り、真剣な目でそれを見つめた。
「どうしたの、新田君。その葉っぱなんかあるの?」
「えっ、別になんでもない。だけど不思議なことがあるもんだね」
仁はごまかす。
「そうなのよ。でもね、よく考えたらユキって動物に好かれるって言うのか、なんか猫や犬がいつも近くに寄って来ていたわ。新田君は気が付かなかった?」
「えっ、そ、そうだったかな? でも犬猫だったらいつでもどこでも見かけるし偶然なんじゃないの」
「そうかもしれないけど、ユキの場合いつもじーっとその動物から見られてる気がしたのよ」
マリの言葉には大げさに冗談も混じっているのだろうが、仁の思いは複雑だった。
「だけどユキは猫が特に好きだから、見かければ自分の方から寄って行くからじゃないの」
何でもないことのように仁はやり過ごしたかった。
「でもね、ユキと一緒にいるとスズメですら足元に下りてきたりするから不思議だったの。そのカラスもなぜそんなものをユキの机の上に置いて行ったんだろう。なんか不思議でさ。動物に好かれる特別な力でも持ってるんじゃないかって思えちゃう」
無邪気に笑うマリに仁もお愛想で無理に微笑む。しかし思い当たる原因を知っているだけに内心悠長に笑っていられなかった。
暫くマリと世間話をしつつ、マリと離れると落ち着ける場所を探してすぐにユキに電話を掛けたのだった。
校庭の隅にある木の下で仁が待っていると、ユキが運動場を横切って走ってきた。
「仁、一体何があったの?」
ユキは少し息を切らしながらハンカチで汗ばむ額を拭くが、先ほどのこともあり、少し動揺して落ち着きがない。そんなユキの様子に仁は気がかりになっていた。
「ユキ、本当に大丈夫か? 今までどこにいたんだよ? それになんか目が赤いけどもしかして何かあったのか」
嘘をついても仕方がないと、八十鳩瞳と会って仁のことを聞かれたことは隠しつつも、林の中で見えないものに声を掛けられたことは説明する。
「だけどなんでそんなところに一人で出向いたんだよ。もしかして誰かに呼ばれたのか?」
「えっ、その、それは」
するどい仁の突っ込みにユキはたじろぐが、仁がすぐに葉っぱを見せたことで瞳と会ったことは話さなくて済んだ。
仁はカラスが持ってきたという出来事に関連しているのではと、過去にコウモリのジークに散々罠を仕掛けられたことを持ち出しながら不安を隠しきれないでいた。
「また、ユキを狙ってあの時の悪夢が始まるんじゃないかって心配でさ」
「でも、私はもう月の玉は持ってないし、狙われることなんて何もないけど。それにジークだって最後は森の守り主の忠実な家来となったんじゃなかったの? 今更私を狙っても意味がないと思うんだけど」
「別にジークがまた襲って来るとか言うんじゃなくて、何かそれに関係したものが絡んでいるんじゃないかって思わずにはいられないんだ。この葉っぱはその前兆じゃないかと思えて」
ユキは恐る恐るその葉っぱを手に取った。それと同時に微かにびりっと電流が指から流れ、ユキの目の前が突然真っ白になる。
光が溢れたその先に、人をかたちどったシルエットが浮かび上がった。
眩しく目を細め必死にユキが前を向けば、次第にそのシルエットがはっきりと見え出した。
そこにはトイラが立っていた。
「トイラ!」
ユキは悲痛に叫んでいた。
「おい、ユキ、しっかりしろ。どうしたんだよ。ユキ!」
気が付けば、ユキは仁の腕に抱えられて倒れ込んでいた。
「わ、私、一体、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもあるか、急に気を失って倒れたんだよ。大丈夫か?」
ユキは自分の手元を見て葉っぱを持ってないことに気が付き、慌ててその葉っぱを探し出した。
「あの葉っぱはどこ?」
葉っぱはユキの足元に落ちていたが、鮮やかだった緑の色が枯葉のように茶色くカラカラになっている。
ユキがそれを拾うと、崩れるように灰となり、風に吹かれて宙に舞った。
「どうして?」
ユキはもう一度その葉っぱが欲しいと玩具を取り上げられた子供のように発狂してしまう。
「あの葉っぱはどうすればもっと手に入るの? お願い仁、一緒に探して、お願い」
「おい、ユキ、落ち着くんだ。一体何があったのか説明してくれ」
「あの葉っぱに触れたらトイラがはっきりと見えたの。あの葉っぱがあれば、またトイラに会える」
尋常じゃないユキの取り乱しは仁を不安にさせた。
「ちょっと待てよ。それはおかしいじゃないか。カラスがそんな葉っぱを運んできたということはやっぱり何かの罠なんだ」
「罠でもいい、トイラにまた会えるのなら、私なんだってする」
「ユキ……」
暫く言葉に詰まったが、仁は必死に笑顔をユキに向けた。
「分かった、一緒に探そう」
仁のやるせない笑顔が却って取り乱していたユキを冷静にさせる。
「仁…… ごめん。私……」
ユキはいたたまれなくなって仁から視線を逸らした。
「あ、あのさ、なんだか喉が渇いちゃった。それにお腹もすいたし、どこか行こうか」
少し遠慮がちにユキは仁を誘ってみる。
「そうだね。こう暑いと涼しいところに行きたいね」
仁もまた何事もなかったように精一杯にそれに応える。
暑い日差しの中、二人は熱されたアスファルトの地面から浮かび上がる逃げ水を見つめ無言になって歩く。
陽炎の虚しさが心にも映りこんでくるようだった。
5
山の奥深く、夏の暑さが嘘のように、ひんやりとした暗い洞窟に、巫女が一人足を踏み入れた。限られたものだけが入ることのできる空間。その巫女はまさにそういう権限を与えられていた。
そこは山を司る神が居るべき場所。人も動物も祟りを恐れ滅多にやってこない。
神秘に満ちた神聖な世界。
だが、巫女は不穏を感じとる。何かがおかしい。
「ニシナ様? ニシナ様はいらっしゃいますか?」
甲高い声が静かな洞窟でこだまする。
「ニシナ様!」
巫女が叫んでも誰も応えない。洞窟の奥にたどり着いたとき、そこで見たものに巫女は目を見張った。
「一体何があったというの?」
神聖な場所だというのに、ごつごつの岩が土砂崩れを起こしたように散らかっている。
それは明らかに誰かの手によって荒らされていた。
祀ってあった祠は岩をぶつけられてぐしゃりと押し潰されていた。
その後ろから呻き声が微かに聞こえる。
「そこに誰かいるの? ニシナ様なの?」
ごつごつとした岩の上を軽々と飛び越えて、巫女は祠の後方を除く。
「あっ、セキ爺じゃないの」
そこには体中傷だらけの体の大きな猪が横たわっていた。
弱々しい声をしぼりだすようにその猪は巫女の名前を呼んだ。
「……キイト、キイトなのか。いつ戻ってきたんじゃ。もう体の具合はいいのか?」
「はい、すっかり元気になって、今日こっちに着いたところよ」
「そっか、それはよかった。病が治ったらなんだか見違えるようじゃ」
「心配かけてごめんなさい。だけど、一体私が居ない間に何があったというの。ニシナ様は一体どこに?」
キイトは辺りを見回した。
「ニシナ様は何者かに連れ去られてしまった」
セキ爺は申し訳ない顔をしていた。
「一体誰が、何の目的でそんなことを。このままじゃ山の秩序が保たれなくなる」
キイトは考え込み、イライラとしていた。
「そんなに心配するな。ニシナ様が居なくなったことはまだこのわし以外誰も知らんはずじゃ。わしがなんとかする。これもわしの責任じゃ」
セキ爺が体を起こすが傷口が酷く思うように立ち上がれない。
「セキ爺、なんとか人の姿になれそう? それなら私の肩に寄りかかればここから運び出せるかも」
セキ爺は軽く頷き、猪から人の姿へと変わる。背はキイトと呼ばれた巫女とさほど変わりなく、老人らしく少し老いぼれた体つきをしていた。
キイトはセキ爺の片腕を自分の肩に回して洞窟から運び出していた。
「キイト、このことは他のものには暫く黙っていてくれ」
「だけど、ニシナ様がいなければ暴れるものが出てくるし、この山の水も食料もバランスを崩してしまう」
セキ爺が意外と重く、キイトは運ぶのに苦労しながら、顔を歪まして答えていた。
「まだそこまで心配することはない。山の神が入れ替わるときもそうじゃが、山神が不在でもその力は暫く持続する。万が一のときは次の神を探せばいいことじゃ」
「探すって、一体誰が次の神になるというの。あれは赤石を操れる力を持つものでないと。それに赤石は今一体どこにあるというの」
キイトの目がきつくなっている。腹立たしくてイライラしている様子だ。
「まずは赤石を見つけなければならん。ニシナ様がどこに隠したかキイトは心当たりないか?」
セキ爺はちらっとキイトに視線を向けた。
「この山の秘密とでも言うべきことをなんで私が知ってると思うのよ。知ってたら今頃こんなに心乱れてないわ」
「そうじゃのう。全てはわしの責任じゃ。ニシナ様がわしに赤石のことを仄めかしたばかりに、それを側で聞いていた曲者がニシナ様を連れ去っていきおったのかもしれん。 もしその赤石を奪おうと企んでいるのなら脅威だ。あれはよそ者には幻術の石とされ、とてつもない力を与えると思われておる。あれを手にすれば欲望を全て叶えるものだと信じておるのじゃろう」
セキ爺はため息をついていた。
「赤石には実際そんな力があるものなの? 私はこの山を守るために必要なものだって教えられたけど」
「もし誰かが力のことを知れば奪い合いということにもならないように、我々にはただのお守りと思わされている。それでこの山の秩序が保たれているのだろう。実際、赤石は山神以外は手に負えないものだと聞かされておるからのう」
「この山のものじゃないとすれば、よそ者が来たの?」
「キイトはここを離れていたが、実はな、昨年のことなんじゃが、一度危機を感じた事があってのう、この山とどこか遠い世界の森が重なり合った事がある」
感慨深くセキ爺は答えた。
「重なり合うってどういうこと?」
「我々が手にしたことない巨大な力を持つ、我々と同じような種族のものが遠い世界に居たということじゃ。そうしてここの山が一時的にその世界に組み込まれてしまい、見知らぬ輩が入り込むことになってしまった」
「その時、みんなはどうしたの?」
「暫く様子を見て息を潜めておった。ニシナ様は危機を感じるほどのことではないと判断されて、暫く眠りにつかれ、その間我々も死んだフリをするように、事 が収まるのを待っていたんじゃ。多少の動物達は心乱されて遠い世界から来た輩に支配されてしまったが、その騒ぎもすぐに終結した。結局はこの山に不利益に なることは起こらずじまいで、遠い世界の森は姿を消した」
セキ爺の話にキイトははっと閃く。
「待って、それってもしかして大きな黒い猫が来たんじゃないの?」
「さあ、どうだったかのう。我々とはまた違う風貌だったらしいが、ニシナ様はそういえばそんなことを言っていたかもしれない」
「私なんとなく話が見えてきたような気がする。ニシナ様はあいつに誘拐されたんだ」
急に怒りを露にしたキイトにセキ爺は訳がわからないと顔を覗き込んだ。
「セキ爺、私ニシナ様を助け出してくる」
キイトは洞窟から出るや、セキ爺を木の幹に座らせ、口笛を一吹きして近くにいる鳥たちを集めた。
「セキ爺に薬草と食料を運んでくるのよ」
キイトの命令で鳥達は一斉に四方八方へと飛び立っていく。
そしてキイトもいてもたってもいられないと走り出した。
「キイト、どこへ行くんじゃ」
「セキ爺の傷の手当ては鳥達が世話をしてくれるわ。セキ爺はしばらくここで休むといい。あとは私に任せて」
「キイト!」
声を張り上げるだけで傷口がうずき、セキ爺は顔を歪ませたが、原因はそれだけでなくキイトが何かをしようとしていることに不安を隠せなかった。
セキ爺は、山をすばしっこく駆け抜けていく一匹の狐の姿を、見えなくなるまで見つめていた。