私の叔父義観(ぎかん)は彼の母親(ヲタケ)泣かせのヤンチャが過ぎた青年だった。更に私の亡き母親はギャンブル狂の祖父利徳(りとく)と義観の弟の精神を病んでしまい、義観の入院させるという計らいが有るまで、私の実家でかくまってた、今は亡き叔父英雄(ひでお)の為に「おしん」みたいに苦労をした(例えば、ツケだらけの食費や、友人の苺ジャムのコッペパンがどうしても欲しかった事や、毎日ヘッツイさんで一人で米をご飯に炊き、通学してた事など)ので、私には危ない体験やお金や愛情の心配をさせたく無いと、よく学生時代に話してくれたモノだ。

ヤンチャ後の義観は、真言宗総本山高野山高野高校を卒業後、修業を寺で行ったのだが、風来坊の様に高野山から逃げて、何故だか加賀五百万石(石川県)の老舗ホテルで仕事ぶりだけで副支配人まで登りつめた男だ。
そんな彼はミサエという障害者と職場老舗ホテルで出会い、めでたく祝言をあげるのだが息子の義応(よしお)が若い内に病の悪化の為、他界する。(そしてその義応は父義観のコネで全く同じ職(ホテルマンと寺こそ無いが真言宗の僧侶)に就く事になる)

そんな彼は定年退職後、数年顧問を続け後に、七尾の真言宗の住職の居ない廃寺になりかけの住職に就任し、過疎化の進んだ檀家の皆様から大切にされてる。

ミサエやヲタケの死後は葬儀に紫の袈裟を着て、戒名に「大姉」の名を与えるぐらいの供養をして、青春時代に迷惑をかけた事を恥いて反省したのだろう。
ミサエの式(ヲタケの式は我が家で)の時私は五人家族四人乗り車後部座席真ん中でシートベルトもせず、椅子につかまる事数時間、生涯モノのイボ痔になった。そんな姪である私のリクエストに応じて独鈷杵の使い方を葬儀という名の儀式で披露してくれた。その時御詠歌にも出会った。
脳が異常に焼かれる私で、放鳥時の事故で、初めての親友の亡き桜文鳥(りっぴー)に人間として「涙を流す権利を剥奪」して「他者による事故の為の命の償い」もあるし、エンターテイメントの為私に「ライトな作品を創作するというコルダ」の為、幼い頃から生涯独身と決めてた、寂しがり屋の私に、同情するなと言う、高校受験の塾仲間(南さん)に暴力で出すことが出来ない肉体された。なのに泣きわめいた記憶がある。だから私は仏教が苦手なのだ。まだ信仰こそしてないが、讃美歌で魂にノックする聖公会の方がマシだ。何故なら芸術と割り切れ素直に美しいと思えるだけだからだ(笑)