しばらくして、私は気が付いた。

「あ……うう……」

 気を失っていたようだ。
 まだ、私は魔王山にいる。
 霧が少し薄くなっているところを見ると、中腹よりだいぶ下ってきた場所のようだ。
 山の上を見上げる。
 殆ど崖のような坂があった。
 こんな崖を落ちてきたのかと思うと、ゾッとした。
 生きているのが不思議なくらいである。
 しかし、こんな崖だからこそ、あの獣も追ってこれなかったのだろう。

「痛い……っ……」

 体を動かすと、あちこちが痛い。
 だが、なんとか立って歩ける。骨も折れてはいないようだ。
 この時点で奇跡と言っていいだろう。
 すぐ横も、下りの崖となっていた。
 人が1人通れるくらいの場所に、たまたま、引っかかって止まってくれただけのようだ。
 さらに落ちていたら、命がどうなっていたかはわからない。
 隣に、ショートソードが転がっていた。
 これも幸運と言えるだろうか?
 地図とコンパスは無くしてしまった。
 日が傾いてきていた。
 道は全く分からないが、ここで夜になるのはまずい。

「あの山の中で夜になれば、霧で全く身動きが取れなくなる」

 ネモに言われたことだ。
 日が暮れる前に必ず麓まで戻るように、とは、特にしつこく言われたことだった。
 私は、よろよろと歩き始めた。



 道ともいえない場所を手探りで歩く。
 方角が全く分からないため、ひたすら下り道を探りながら歩いた。
 緩やかな道を見つけ、助かったと思えば、その先は、崖があるだけの行き止まりとなっていた。
 仕方なく引き返す。
 振り返っても、自分が辿ってきた道がわからない。
 ただ我武者羅に、歩ける場所を探して進んだ。
 日暮れが近づき、焦りが大きくなる。
 もう死ぬまでここから出られないのでは、とさえ思えてくる。
 狼の遠吠えが聞こえた。
 びくり、と体が震える。
 辺りを見渡すが、霧の中では、遠くは見えない。
 落ち着いて……
 自分に言い聞かせる。
 普通の狼に似た遠吠えだ。
 さっきの大きな獣の咆哮ではない。
 動きを止めて、しばらくじっとしていると、遠吠えは聞こえなくなった。
 大きな溜め息を吐いて、また歩き出す。
 たとえ、相手がヘルハウンドでなくとも、今の消耗した状態で獣の相手をするのは辛い。
 そして、またあれに遭遇するかもしれない可能性を考えると、再び恐怖が込み上げてきた。
 それでも、立ち止まってはいられない。
 私は、必死に道を探し続けた。



 気付けば、すっかり日が傾いていた。
 私は、道を下り、行き止まりを見つけては、また登る、ひたすらそれを繰り返していた。
 今はまだ、辛うじて近くは見えるが、転落の危険を考えると、動くのはリスクが高い。
 念のためにと、持たされていた松明は、あの転落の際に失ってしまっていた。
 今、私の手元にあるのは、一振りのショートソードだけ。
 ここで夜明けを待つ?
 いや、いつ獣に襲われるかもしれない、こんな場所で、朝まで過ごす勇気は、私には、とてもなかった。
 足元に注意しながら、今までより慎重に、しかし、今までよりさらに必死に、道を探す。
 辺りは、闇と霧で、目の前段差が、下りられるのか、崖なのかすらわからない、かなり絶望的な状況になりつつあった。
 あれは……?
 その時、遠くに、かすかに何かが見えた気がした。
 目を凝らす。
 あれは、明かりだ。
 この霧の中でも、闇が明かりを目立たせてくれていた。
 人がいる!?
 私は、思わず駆けだした。
 今いる位置から、遠く、少し低い場所に見える、明かりらしきもの。
 その場所まで、一直線に道が通じている保障などないのに、そんな危険も忘れていた。
 人がいるということは、道があるということだ。
 これが麓に戻れる最後のチャンスかもしれない。
 そう思うと、走るのを止められなかった。
 幸運にも、その明かりの場所までの道を阻むものはなかった。
 とはいえ、歩きやすいようなまともな道ではなく、私は、あちこちに出っ張る石に、何度もよろけながらも、その場所を目指し、坂を下った。
 近づくにつれて少しずつ、明かりが鮮明になっていく。

「あっ……」

 坂道に足を取られて転ぶ。
 なんとか、踏ん張り、転げ落ちることだけは、回避した。
 ゆっくりと立ち上がると、まだ、明かりが立ち去っていないことに、ほっとした。
 今度は、慎重に、ゆっくり歩みを進めていくと、その明かりが2つあることがわかった。
 さらに近づくと、松明を持った2人が、向き合って、離れて立ってる姿が見えた。
 私のいる場所から、2人の場所までは、建物の2階ほどの高さになっていた。
 あれは……ネモ?
 片方は、ネモだった。
 私を探しに来てくれたのだろうか?
 それは、ただの義務感によるものなのかもしれないが、それでも私にはうれしかった。
 すぐにでも、近くまで行って声を掛けようと思ったことろで、もう1人の話す声が聞こえてきた。

「ようネモ、こんなところで会うとは、奇遇だな」

 声の主は、あのルンフェスだった。

「お前がなぜ、こんなところにいる?」
「ただの訓練だ。今から戻るところでな」

 そういうルンフェスは、随分と疲れた様子だった。
 この山は、いるだけで体力を奪われる。
 訓練のために、長くここにいたというなら、頷ける話だったが、

「わざわざ、獣を連れて訓練か? ここは獣と散歩に来るところではあるまい」

 獣……?
 ネモの言葉にはっとして、ルンフェスの後方を見た。
 ひっ……!?
 私は、思わず、悲鳴を上げそうになって、自分の口を塞いだ。
 ルンフェスの後ろにいたのは、暗闇に2つの目を光らせた、大きな獣だった。
 忘れるわけがない。
 山の中腹で、私を襲った獣──あのヘルハウンドに間違いなかった。
 なんで、あの人があの獣を連れているの……?
 あの時、私に襲い掛かったヘルハウンドは、今はネモをじっと睨んでいた。

「あ? そんなん、俺の勝手だろうが? こいつは俺が手塩にかけて育てた奴だぜ。女1人、手懐けられないお前とは違うんだよ」

 言って、ルンフェスは、獣の頭を撫でる。

「……チェントに何をした?」

 ネモは、静かな声で言った。

「何のことかな? と言いたいところだが、面倒臭え。教えてやるよ」

 あっさりと、ルンフェスは白状した。

「あの女は、死んだ。こいつの爪にかかってな」
「なんだと!」

 ネモの表情が変わる。
 ルンフェスはそれを笑った。

「くくく、傑作だぜ、その顔。そんなにあの女が大事か? 今のは冗談だ、安心しな。俺はあの女の最後は見届けていない」

 今のところはな、とルンフェスは続けた。

「あの女は、崖から落ちたんだよ。こいつから逃げようとしてな。ドジな女だぜ。探し回ってたら、こんな時間になっちまったわけだ」

 手間をかけさせやがって、と毒づく。

「なるほど、お前1人では勝てないと見て、ヘルハウンドまで持ち出したわけか」
「はあ? 何言ってんだ? こいつを使ったのは、単に人の手で殺られた形跡を残さないためだ」

 ネモの発言に、ルンフェスは怒るでもなく、心底不思議そうにそう言った。
 聞いていた私も、そんな無意味な挑発をして、何になるのかと思うだけだった。

「今のチェントは、もうお前や俺より確実に強い。あいつ自身は気付いていないようだがな」

 何を言っているのだろう? ネモは。
 私はネモとの剣の稽古で、一度も勝ったことがないというのに。

「あいつは原石だよ。今まで教えてきたどんな奴とも次元が違う。まだまだ強くなる。いずれは、魔王様とも渡り合えるかもしれない」

 私はその発言を、ただ茫然と聞いていた。
 この人は、私を恨んでいたのではないのか? 憎んでいたのではないのか?
 直接、私を褒めてくれたことなど、一度だってなかったのに。
 何故そんな、少し嬉しそうに、私のことを話すのだろう?

「ついに目まで腐っちまったか。哀れだな、ネモ」

 ルンフェスは、冷ややかにそう言うと、やれ、とヘルハウンドをけしかけた。
 ヘルハウンドは一瞬で間合いを詰めると、ネモに跳びかかった。
 ネモは横に避けながら、抜いた剣で、辛うじてその攻撃を弾いた。
 すれ違って距離を取るも、ヘルハウンドはすぐさま追撃をかけてくる。
 ネモは左手に持っていた松明を捨てて、両手で応戦した。
 それでも、劣勢なのは変わらない。
 ネモは、相手の爪と牙を防ぐだけで手一杯のようだった。

「あの女も、こいつにまったく刃が立たなかったんだぜ? 魔王様と渡り合えるとか、寝言もいいとこだ」

 ルンフェスが嘲笑う。
 助けに入らなければ、ネモがやられてしまう。
 そう思っても、足がすくんで動かなかった。
 あの獣に襲われた時の恐怖は、まだ抜けていない。

「こんな獣など、すぐに相手にならなくなるさ。あいつの才能は、それほどだ」

 必死に攻撃を防ぎながらも、ネモはそう答えた。
 遂にヘルハウンドの爪が、ネモの左肩を捉えた。

「ぐっ……!?」

 呻き声を漏らすネモに、ヘルハウンドは容赦なく跳びかかった。

「!?」
 仰向けに組み伏せられたネモは、眼前に迫った牙を、右手の剣でギリギリで止めていた。
 駄目だ。このままでは、本当にネモが殺されてしまう。

「ネモよお。俺には、お前があの女に、そこまで入れ込む理由がわかんねえんだけどよ?」

 ルンフェスは余裕の笑みを浮かべて、ネモに歩み寄った。

「お前まさか、あの女に惚れたとか言うんじゃねえよなあ?」
「……だったら、どうだというんだっ!!」

 聞き間違いだろうか?
 今、あるはずのないことが、聞こえるはずのない言葉が、聞こえた気がした。
 だが、それは幻聴ではなかった。
 確かに、私の耳には、私の頭には、私の心には、その言葉が届いていた。

「……おいおい、からかっただけなのによ。マジかよ。こいつは、本当に傑作だぜ! そうか、女に誘惑されて、目が曇っちまったわけか! 本当に哀れな奴だよ、お前は!」

 ルンフェスの言葉など、もう私の耳には入っていなかった。

「安心しろよ。あの女とは、ちゃんとあの世で会わせてやるからな」

 次の瞬間、私は跳んでいた。
 段差の高さなど気にも留めず、体の痛みもすべて忘れて。ただあの人を助けるために。
 両手で剣を突き出しながら、全力で跳んだ。
 ぐさり、と、鈍い音を立てて、私の剣は、確かに、ヘルハウンドの硬い肌に突き刺さった。
 そのまま、ヘルハウンドの背中に着地する。
 激しい落下の衝撃。だが、手は放さない。獣の背中がクッションになり、いくらか衝撃が和らいだ。

「チェント!?」
「てめえ!」

 2人が驚きの声を上げた。
 そして、背中を貫かれたヘルハウンドが、ネモを放して暴れだした。
 だが、意地でも手は放さない。首を狙ったはずが、わずかに狙いが外れたせいで、一撃では仕留められなかった。
 それでも、傷は浅くはないはずだ。
 私は刺さった剣を、さらに深く押し込んだ。
 咆哮が轟く。さらに激しく暴れ始める。
 まだ、力尽きないのか。
 そのしぶとさに驚嘆する。
 そこに拘束を解かれたネモが立ち上がり、突っ込んできた。

「うおぉぉーっ!!」

 ネモは雄叫びを上げて、ヘルハウンドの額目掛けて、剣を突き出す。
 その一撃を受けた獣は、遂に沈黙した。

「お、お前ら、よくも、俺のヘルハウンドを……」

 ルンフェスが震える声で短剣を構え、こちらを睨んでいた。
 ヘルハウンドの強さに慢心して、ロクな武器を持ってきていないのだろう。
 私達は2人は、剣を構え、彼を睨み返した。
 ヘルハウンドが仕留められる直前に横槍を入れれば、まだ勝負はわからなかったはずだ。
 だが、彼は機を逃した。

「くそっ、覚えていろよ!」

 捨て台詞を残して、彼は逃げていった。
 彼はこの日より、魔王領に戻れなくなり、行方をくらますことになった。
 ルンフェスが去り、静寂が訪れ、緊張が解ける。
 私は、ネモの胸に飛び込んでいた。
 そして、戸惑うネモに構わず、子供のように泣きじゃくった。
 一瞬戸惑った様子を見せた彼は、だがゆっくりと右手で、私の頭を撫でた。

「すまん、チェント。俺のせいで、とんでもない苦労を掛けた」

 ルンフェスの狙いは俺だったのに、お前を巻き込んでしまった、と彼は言った。

「違う! 違うの、ネモ!」

 そんなことはどうでもよかった。
 首を振り、泣きながら、私は言った。

「私、嬉しかったの。あなたに認めてもらえて、あなたが私を褒めてくれて、あなたが……」

 ──私を好きだと言ってくれて──
 それ以上は言葉にならなった。
 私は、彼の胸に顔をうずめて、声を上げて泣き続けた。

「……聞いていたのか?」

 彼は困ったような、照れたような、そんな顔をしていた。

「……嘘じゃ、ないよね?」

 私は彼に確かめた。
 彼は、しばらくの沈黙の後、

「ああ……」

 強く頷いて、確かにそう言ったのだ。

「私もあなたが好き!」

 はっきりとした声で、私は言った。
 彼の心に、しっかり届くように。

「私、頑張るから、あなたの期待に応えられるよう頑張るから、見捨てないでね」
「お前なら、大丈夫だ。俺が保証する」

 彼の手が、私を優しく包む。
 彼の胸に抱かれながら、私は思ったのだ。
 ようやく、私の居場所を見つけた。



 最初に出会ったとき、私のことをどう思っていたのか?
 のちに彼に聞いたことがある。

「出会う前は、親父のこともあり、憎く思った時もあったよ」

 彼はそう切り出した。

「だが実際にあった時には、弱々しい、かわいそうな娘という印象しかなかったな」

 レバス城の牢屋で会った時のことだろう。
 もう、ずいぶん昔のことのように感じた。
 だからそれ以降、お前を恨んだことは一度もない、と彼は言った。

「魔王様にお前の教育を言い渡された時は正直戸惑ったが、めきめき成長していくお前を見ていたら、そんなことはどうでもよくなった」

 魔王様は、最初からお前の素質を見抜いていたのかもしれん、と彼は言う。
 私は、最初から彼を誤解していた。
 この時、分かったことだった。
 彼は、厳しく、真面目で、不器用で、そして誠実な人なのだ。
 もし彼が私を本当に恨んでいたとしても、私怨で訓練を厳しくするような、陰湿な真似は、絶対しないであろう。



 あの翌日以降も、いつものように訓練の日々は過ぎていった。
 あんなことがあっても、彼の訓練の厳しさはまるで変わらなかった。
 それが、彼の性格を表しているようだった。
 一方、私の方のやる気は、それまでとまるで違った。
 彼の期待に応えたい。
 ただそれだけで、いくらでも頑張れた。
 訓練を続ける私達のところに、数週間後、1つの知らせが届いた。
 ベスフル軍の手によって、レバスの城が陥落したという知らせだった。