スキルド・ディバード。
 彼は私が知る限り、一番優しい人だったと思う。
 そんな彼を、私は裏切り、沢山傷つけた。
 とても、許してくれと言える義理ではない。
 でもそんな私さえも、彼なら許してしまいそうな、そんな人だ。
 スキルドとの出会いは、私が14歳、彼が16歳の頃だった。



 あの時私は、2ヶ月以上も帰ってこない兄を待っていた。
 兄は出かける前から、元々長く戻らないつもりだったのか、私は食料をいつもより多めに渡されていたのだが、流石にそれも尽き、水だけを飲む日々が続いていた。
 兄からは部屋からは絶対出るなと言われ、大量の水袋を渡されていたが、それだけで2ヶ月も持つわけがない。私は町の井戸に水を汲みに、何度も外出した。
 外出が兄にバレれば、また殴られるに違いない。だが干からびるよりはマシだと、自分に言い聞かせた。
 18歳になったはずの兄の私への態度は、何も変化を見せていなかった。
 私たち兄妹の関係は、5年前から時が止まっていたようだった。
 そして、兄以外と全くかかわりを持ってこなかった私自身も、子供のまま時が止まっていた。



 その日、水汲みのために町へ出た私は、フラフラとした足取りで井戸へと向かった。
 苦しい、何でもいい、何か口にしたい。
 井戸水を飲み込んでも、もう水だけでは足りないと体が訴えていた。
 井戸のすぐ傍には市場があり、食料が並べられていた。
 もう我慢の限界だった。
 ふらつきながら市場の方へ歩いた私は、露店に並べられている果物を無造作に盗り、かじった。
 店員の怒鳴り声で我に返るが、もう遅い。
 果物を持ったまま、慌てて宿の方へと駆け出した。
 元々、私は足が速い方とは言えない。今の体調ならなおさらであった。
 あっさりと捕まり組み伏せられた。
 お金を持っていない私は、このままどうなってしまうのだろう。
 不安はあったはずなのに、この時の私はうつ伏せの姿勢のまま、空いた手で果物をかじっていた。
 そんな私を見て、店員は怒鳴りながら、無慈悲に手の果物を払いのけた。
 周りの人々は、何事かと、こちらを見ていた。
 そして、どこまでも間の悪いことに、その場所にちょうど兄が姿を現した。



 兄は店員と話をつけ、私の盗ったものの代金を支払ったようだった。

「兄さん……あの……、ごめんなさい」

 解放された私は、少しでも兄の機嫌を取ろうと、消え入りそうな声で謝った。
 たとえそれが、ほとんど無駄だとわかっていても。
 兄は私の前に立つと、周囲の目などお構いなしに、いつものように私を殴りつけた。
 地面に転がる私に追い打ちをかけるため、兄が胸ぐらを掴もうとしたところで、

「おい、なにやってるんだよ!? やめろ!」

 初めて聞く声がした。
 ゆっくりと助け起こされ、そちらを振り返ると、

「大丈夫かい?」

 初めて見る、茶色の髪の青年がいた。
 それが、彼との出会いだった。
 私は彼に支えられながら、宿に戻った。
 彼は、怯える私と怒る兄を引き離し、話を聞いてくれた。
 兄以外の人と口を利くのは、本当に久しぶりだった。

「俺はスキルド。君の兄さん、ヴィレントに助けてもらったんだ」

 スキルドは、あの場に偶然居合わせたわけではなかった。兄に付いて、この街にやってきたのだという。
 私から事情を聴き終えた彼は、

「そうか……、君も大変だったな」

 気の毒そうに、そう言った。

「わかった、俺からヴィレントに話すよ。君が酷い目に合わないように」

 優しい顔で言う彼に、そんなことができるわけがないと、私は言った。

「大丈夫、あいつは俺の命の恩人なんだ。話せばちゃんとわかってくれるさ。俺に任せてくれないか?」

 そんなはずはない。兄が話の通じる人間なら、私が何年にも渡って辛い目に遭い続けるわけがない。
 きっとスキルドも兄に逆らえば、殴られ、蹴られ、出て行ってしまうに違いない。
 私はそう思っていた。
 だが、不思議なことにそうはならなかった。
 この日を境に、私は兄から殴られることはなくなったのだ。すべて、スキルドのおかげだった。
 しかし、私と兄の仲が改善したかと言われると、完全にそうとは言えなかった。
 兄と一緒にいる時は、必ず彼が間に入ってくれるようになった。
 私は彼の背中に隠れ、いつも兄と目を合わせないようにしていた。
 兄もまた、そんな私をほとんど無視するようになった。
 殴られることこそなくなったが、以前よりさらに、私達の間には距離ができた気がした。
 それでも、兄の暴力から逃れることができた私は、彼のおかげで間違いなく救われていたはずだった。
 他にも生活に変化はあった。
 兄が稼ぎに出て数日帰らないことは相変わらずだったが、スキルドは頻繁に私の様子を見に戻ってきてくれた。
 長い時でも、彼が2日以上私を1人にすることはなかった。
 これまでは、たとえパンが尽きなくとも、1人で帰りを待つのは心細かった。

「ただいま、チェント」

 だから、彼が帰ってくると、私も笑顔で迎えた。

「おかえりなさい、スキルド」

 彼のおかげで、飢えたまま放置されることもなくなった。感謝してもしきれない。
 あの時の私はもう、彼なしでは、生きられなくなっていた。



 シルフィ・ディバード。
 私が彼女に抱く感情は、今でも複雑である。
 彼女はスキルドの双子の妹。彼女もまた、スキルドとともに兄に助けられたという話だった。
 容姿も性格も、スキルドとはあまり似ていないと、私は思った。
 私より大人びていて、綺麗な人だったと思う。
 そして、優しいスキルドと違い、思ったことはすぐに口に出す、きつい印象の人だった。
 彼女と2人きりになった時に、言われたことがある。

「あなたさあ、なんで自分では働かないの?」

 彼女もまた、兄達とともに働きに出ていた。
 やっている仕事は兄達とは違うのだろうが、それでも彼女は、自分自身の食べる分は、自分で稼いでいた。

「1人で外に出るのが心細いなら、私に付いてくれば? 色々、教えてあげてもいいし」

 それは、彼女なりの善意だったのだろう。
 だが私は、他人と関わるのが怖かった。
 幼いころから人見知りだった私は、そのまま大きくなってしまった。
 両親が死んだあの日から、私の時間は一歩も進んでいない、子供のままだった。
 うつむくだけで、何も答えようとしない私に、

「ふぅん、あなたはそうやって何もしないで、ずっと守られて生きてきたのね」

 彼女は冷ややかに言った。
 守られていた? そんなはずはない。私はいつも兄の暴力に怯えていた。兄が私を傷つけたことはあっても、守ってくれたことなど一度だってない。
 兄さえいなければ、私はもっと幸せだったはずだ。
 もし本当に兄がいなければ、自分がとっくに餓死していたことなど、その時の私は考えもしなかった。

「これじゃ、ヴィレントがあなたに腹を立てる気持ちもわかるわ。あなたは自分に原因があるなんて、考えもしないんでしょうけど」
「他人のあなたに、何がわかるの!!」

 思わず怒鳴り返していた。
 なぜ、この人にここまで言われなければならないのだろう。この人に私の苦労の何がわかるのだろう。

「威勢がいいじゃない。ヴィレントにも同じように言い返してみたら?」

 冷たく言い放つ彼女。
 悔しくて、涙が流れた。
 私の苦しみなんて、何も知らないくせに。
 直後にスキルドが帰ってきたため、話はそこで終わりになった。
 涙を流す私を見たスキルドが何事かと心配してきたが、なんでもないの、と涙を拭いてごまかした。
 この時、スキルドに泣きつかなかったのは、私なりの精一杯の意地だった。
 シルフィは、私への態度とは対照的に、兄とは仲が良かったようだ。
 皆でいる時、いつも兄の横にべったりとくっついていたし、兄の方もそれを嫌がることなく受け入れていた。
 兄とシルフィが2人で話しているところを遠目に見たことがある。
 兄はあの時、シルフィの隣で、確かに笑っていた。
 兄の笑顔など、両親が死んでからは一度も見たことはなかったのに。
 笑いあう2人を見た私の気持ちは、とても複雑だったことを覚えている。
 兄が私に手を上げなくなったのは、スキルドのおかげなのはもちろんだが、シルフィのおかげもあったのだろう。今はそう思う。
 シルフィの存在が、兄の心を穏やかにしていたのだ。それは、私には、今も昔も、決してできなかったことだった。



 2人と出会ったことで、私の生活は一変した。
 暴力に怯える必要のない、穏やかな日々が帰って来たのだ。
 そのはずなのに、私の心には、大きなしこりが残ったままだった。
 兄と2人で過ごした日々。私にとって兄は、絵本の中で見た、災いを呼ぶ悪魔のような存在だった。
 私は、悪魔に取り憑かれたかわいそうな女の子。
 果てしなく続く、苦しみの日々。
 でも、いつか王子様が現れて、悪魔を打ち倒し、私を救い出してくれる、そんなことを考えていた。
 2人は確かに、私を苦しみから救ってくれた。
 だけど、悪魔を打ち倒してはくれなかった。
 それどころか、兄は悪魔なんかじゃないと、私に訴え続ける。
 スキルドでさえも、私の前で嬉しそうに、兄を称賛した。
 彼は言った。ヴィレントは、恩人であり、憧れだと。
 私は耳を塞ぎたくなった。
 やめて。その人は悪魔なの。2人は騙されているのよ。
 兄が悪魔でないのなら、私の5年間も続いた苦しみは何だったのか。
 あなたたちが褒め称えるその人に、苦しめられ続けた私はいったい何なのか。
 なぜ兄は、私以外を苦しめることがないのか。
 それでは、まるで私の方が悪魔のようじゃないか。
 兄が悪魔として裁かれなければ、私の世界は、私の価値観は、壊れてしまう。
 だから、2人の言葉を絶対に認めるわけにはいかなかった。
 それでも、兄もスキルドもいない場所で、私は生きられない。
 心にしこりを残したままでも、この生活を続けるしかなかった。
 いつか本当の救いが訪れると信じて。それが、どれほど身勝手な思考か自覚することはなく、私は祈り続けていた。