7年前──。
 私達3人は、夜明け前の森の中を走っていた。
 私と兄、そしてその背中を押すように、母が後ろを走っていた。
 この時、私は8歳、兄は12歳だった。
 走りなさい、と母が急かす。
 幼い私には状況がよく呑み込めていなかった。
 しばらく走ったところで、隣を歩く兄が立ち止まった。つられて私の立ち止まる。
 後ろを振り向くと、母も立ち止まっていた。
 その向こうには、空が赤く光り、遠くに火の手が見える。そこは、かつての私達の家があった場所だった。

「あなた達は、先に行きなさい」

 母が言った。私と兄を向きなおらせ、背中を押そうとする。

「母さんは?」

 兄がとても不安そうな顔で尋ねた。

「私はスーディを……父さんを助けにいってくる。あなた達は、森を抜けたところで待っていなさい」

 さあ急いで、と私達を送り出そうとする。

「駄目だよ、母さん! 死んじゃうよ! 一緒に逃げよう!」

 兄は必死に、母を説得しようとしたが、

「大丈夫。必ず父さんと一緒に戻るから、心配しないで」

 その時の私は、母がそう言うのなら、きっと父を連れてちゃんと戻ってくるのだろう、とまったく疑うことなくそう思っていた。
 母は笑顔で私達の頭を撫でると、強引に背中を押して走らせた。
 兄は泣きそうな顔で、それでも出口に向かって走り出した。私もその後を追うように続く。
 母はそれを見送ると、森の奥へと消えていった。
 私達2人はひたすら走った。森の出口はなかなか見えてこない。
 さらに走ったところで、再び兄が立ち止まった。私も止まる。
 兄は後ろを振り返り、赤く光る空の方をじっと見つめて立っていた。

「……兄さん?」

 私はその姿をぼうっと眺めながら、問いかけた。
 兄はそれには答えず、空を眺めていた。やがて、何かを決意したように表情に変わる。

「チェント、お前は先に行ってろ」

 兄は母を追おうとしている。幼い私にもそれくらいはわかった。

「やだよぉ、兄さん。1人は怖いよ」
「いいから森の出口まで走れ! 俺は母さんを助けて戻ってくる!」
「待って兄さん! あっ……」

 兄の袖をつかんで止めようとしたが、兄は強引にそれを振り解き、森の奥へと走って行ってしまった。
 私は振り解かれた拍子に転んで、泣きそうになった。
 そんな私に構わず、兄の姿は森の奥へと消えていく。静寂が訪れた。
 1人で森の出口を目指すのは怖い。赤い空のある家の方に向かうのも怖い。
 私はなんとか立ち上がり、迷った挙句に出口に向かってゆっくりと歩きだした。
 泣きべそをかきながら歩き、出口にたどり着く。
 私はそこで座り込み、母達の到着を待った。
 父さん……怖いよう。母さん……兄さん……寂しいよう。
 その時間はとても長かった。やがて夜が明ける。
 森の奥から人影が近づいてきた。
 私はそれに気づいて立ち上がる。
 人影は1つきり。それは兄の姿だった。
 兄は肩を落とし、真っ赤に泣きはらした目をしながら、俯いたままこちらにゆっくりと歩いてきた。

「兄さん!」

 心細かった私は、駆けよってすぐに尋ねた。

「父さんと母さんは……?」

 兄はすぐには答えず、しばらく沈黙していた。
 涙を流しながら、やがてゆっくりと口を開く。

「……父さんと母さんは、死んだ」

 その言葉の意味は理解できても、それはまるで現実感がなく、すぐに涙は出なかった。
 兄は森の外に向かって歩き出す。

「兄さん、どこにいくの? 家には……」
「あの家にはもう戻れない」

 兄は俯いたまま、はっきりとそう告げた。
 じゃあ、どこに行くの? と私が尋ねると、

「まだ魔王の追手が俺達を探しているかもしれない。それに家はもうない。全部焼けてしまった」

 まだ事実を受け止められないでいる私に、兄は残酷な現実を突きつけた。
 私はそれを確かめようと、家の方に向かって駆け出した。たが、兄はすぐに私の手を捕まえて引っ張った。

「戻っちゃダメだ、チェント! まだ母さんたちを殺した奴らが森の中にいるかもしれないんだ!」
「嫌だよぉ……お家に帰りたいよぉ……」

 私は愚図って手を振り回したが、兄はしっかりと腕を掴み、振りほどかせなかった。

「チェント、もう母さんたちはいないんだよ……」

 涙声でその事実を噛み締めるように、兄は言った。
 遂に私もつられるようにして、泣き出した。

「泣くな、チェント」

 自身も泣くのを必死に堪えながら、兄は私の頭に手を置いた。

「母さんたちはもういないけど、もういないから……。これからは俺が──」

 その時に続けた兄の言葉を、私はよく覚えていない。
 兄は、何と言ったのだったか……。
 大事なことだったような気がする。しかし、私はそれをどうしても私は思い出せないでいた。



 血に濡れたベスフル軍の本陣の前で、私とスキルドは再会した。
 スキルド……。
 私は呆然と、彼を見つめいてた。
 どういう顔をすればいいかわからなかった。
 お互いしばらく立ち尽くしていたが、彼は、

「……チェントだよな? こんなところにいたのか!?」

 無くしたものをようやく見つけた、とばかりに駆け寄ってきた。

「来ないで!!」

 私は思わず叫んでいた。
 彼の足が止まる。私の言葉に戸惑っているようだった。

「……チェント?」

 彼は右手を前に伸ばしたまま、固まっている。

「兄さんから聞いていないの? 私、魔王軍にいるんだよ? 敵なんだよ?」

 私は目を伏せたまま、彼に告げた。
 淡々と言ったつもりだったが、僅かな声の震えを隠しきれていなかった。
 かつて私を気にかけてくれた彼に敵対することを、私は恐れているのだろうか?

「いや……聞いてはいたさ。でも、俺には……何かの間違いだとしか思えなくて……」

 彼は首を横に振り、答えた。

「間違いじゃないよ。私は兄さんと戦った」
「!?」

 あっさり言った私の言葉に、彼は絶句した。

「う、嘘だろ……? どうして、そんなことに!?」

 スキルドの驚く理由が、私にはよくわからなかった。
 彼は私が兄に何をされてきたか、知っているはずだったのに。

「何が不思議なの? あなたは私が兄さんを憎む理由を、よく知っているはずじゃない?」

 察しの悪いスキルドに受け答えしていると、最初にあった声の震えは収まっていた。
 彼はこんなに物分かりの悪い人だったのか? 少し落胆する。

「お前がヴィレントを恨んでいるのはよく知ってるよ。けど、まさかそんな……。戦場でお前達が斬り合うことになるなんて、俺は……」

 彼の顔には、信じられないという表情が浮かんでいた。それが嘘であってほしいと、願うように。
 私はそれを、冷ややかな目で眺めた。

「やめよう、チェント! 兄妹が争うなんて馬鹿げている。今からでも遅くない! 戻ってこい!」

 彼は両手を広げ、必死に訴えてきた。
 あまりにも現実が見えていない。その言葉に、大きなため息が漏れた。

「スキルド。私はもうベスフルには戻れないんだよ。見て」

 そう告げながら、すぐ後ろで血だまりに倒れている見張りの兵士達を振り返った。
 今まで気づかなかったわけがないのに、まるで彼はそれに初めて気づいたかのように表情を凍り付かせた。

「私が1人でやったんだよ。他の戦場でもベスフルの兵士をたくさん斬った。だから、もう戻れないんだよ」

 優しい声で、彼に教えてやった。
 彼は両手で頭を抱えて首を振ると、今度は泣きそうな顔をして俯いた。

「……すまない」

 彼は謝った。なぜここで彼が謝るのだろう? 彼がどういうつもりなのか、よくわからなかった。

「すまない、チェント。俺が……俺があの時、お前を助けられていれば……俺があの時もっと強ければ、こんなことにはならなかったのに……!」

 ああそうか。ようやく合点がいった。
 彼はベスフルで私がさらわれた時のことを、ずっと気に病んでいたのだろう。
 そういえば彼は、私を助けようとした時に浅くはない怪我まで負っていたはずだったが、今の今まで私はすっかり忘れていた。
 もしスキルドがあの時、私を助けられるほど強かったら。あの時、さらわれて魔王領まで連れてこられることがなかったら。
 ネモとの出会いもなく、私はずっと兄に怯えて暮らし続けていたかもしれない。
 スキルドが弱かったから、おかげでネモに出会えた。
 そういう意味では、彼に感謝してもいいのかもしれない。
 そんな私の気持ちなど知りもせず、彼は謝り続けていた。

「もう気にしないで、スキルド」

 私はできるだけ優しく穏やかに、彼に告げた。

「だって、魔王領に連れてこられたおかげで、こんなに強くなれたんだよ? 私」

 兄さんとだって戦えるんだから、と笑いかけた。

「そんな、どうして……どうしてそうなっちまったんだ!」

 彼は肩と腕を震わせて、心底無念そうに呟いた。

「チェント。ヴィレントはな、あいつはあいつで……気の毒なやつなんだよ」

 スキルドは意外なことを言った。
 兄が気の毒? よくわからないことを言う。
 あなたは何を知っているの?

「あいつはお前を殴ってしまったその日から、ずっと母親の影に責められ続けているんだ」

 母さんの……影?

「ヴィレントから聞いたんだ。あいつは母親の死に際にチェント、お前を必ず守るように頼まれたと言っていた」

 母さんが私を守るように……?

「でも、あいつはそれを守れなくて、自分で妹を傷つけてしまって。それ以来あいつは、お前を見るたびに母親の幻影が重なるようになってしまったんだ」

 兄さんがそんな話を……。
 父さんと母さんが殺されたあの日、森の中から1人戻ってきた兄。
 おそらく、あの時に兄は母の最期を看取ってきたのだろう。泣き腫らした顔で戻ってきた兄。死の直前に母と話せたのはその時しかない。
 両親が生きていた頃、兄は母にいつも甘えていた。

「母さん、母さん!」
「もう、ヴィレントはいつまでも甘えん坊なんだから」

 べったりしがみ付いた兄の頭を撫でる母の姿。母もそんな兄を溺愛していた。
 そんな最愛の母の遺した最期の言葉は、兄にとって何より重いものだったのだろう。
 だからあの時、森から戻った兄はあれを言ったのだ。
 兄が私に言った言葉──

「母さんたちはもういないけど、もういないから……。これからは……」

──これからは俺がお前を守ってやる。必ず守ってやるから! だから、泣くなチェント──

 思い出した。
 確かに兄は、あの時私を守ると言ったのだ。
 母の遺言が、兄のその誓いを引き出した。あの後、しばらくは私も兄を慕う気持ちがあったはずだった。
 だがそれから1年が経ち、兄は自らその誓いを破ってしまった。守ると誓った私を自らで傷つけてしまった。
 それ以来、母の言葉が兄を責め続けているというのだろうか?
 なるほど、兄がどれだけ私を疎ましく思っても、放り出しきれなかった理由がなんとなくわかった。
 しかし、その話を聞いても、兄に同情する気にはなれなかった。要するに兄が勝手に私を殴って、勝手に苦しんでいるだけだ。
 殴られ続けた私の方が、ずっと苦しかったはずだ。

「スキルド。そんな話で私が納得できるわけないじゃない。そんな話で……兄さんを許せるわけないじゃない!」
「わかってる!」

 私の反論をスキルドは否定しなかった。

「どちらが悪いとかじゃないんだよ。あんなに強いヴィレントさえ、その誓いを守れなかった。俺はあいつを責められない。でも、お前の苦しみだって、もっともなんだとわかる」

 彼は続ける。

「お前達が和解するのは、もう無理かもしれない。でも、それはどちらかが悪いんじゃないんだ! お前達は不幸に見舞われる中で、ただ必死に生きてきただけじゃないか。お前達が殺し合う必要なんてないんだよ!」

 彼は声を荒らげて、必死に訴えた。

「チェント、俺と2人で逃げよう! ベスフル軍も魔王軍もヴィレントも、誰の手も届かないところへ! まだやり直せるはずだ!」

 スキルドが右手を差し出していた。
 だが、その言葉を聞いて、私はまた大きなため息を吐く。
 彼はきっと本気で言っているのだろう。彼の中ではきっと、私は昔と変わらない、1人では何も決められない気弱な少女のままなのだ。
 あなたがいないと何もできなかった頃の私は、もういない。
 私がその手を取ることはないのだ。
 それに、奥のテントで動かなくなっているシルフィの姿を、彼はまだ知らない。
 妹のあの無残な姿を見ても、まだこのセリフが言えるだろうか?

「ねえ、スキルド。私、もう戻らなきゃいけないから、道をあけてくれないかな?」

 スキルドの言葉を無視して、私は無慈悲にそう告げた。
 彼は激しいショックを受けたようだった。

「駄目だ! 行くな、チェント! 行かないでくれ!」

 彼は首を振り、両手を広げて、必死に道を塞ごうとしていた。

「あなたがどうしても通してくれないなら、無理矢理通るだけだけど?」

 私は赤い剣をちらつかせて言った。それを見た彼は後ずさる。

「そんなに私を止めたいなら、力尽くで止めてみる? スキルド」

 私に言われて、びくりと震えた彼は自分の腰の剣を見た。
 彼は、私と剣を何度も見比べている。すぐに覚悟が決まらないようだった。
 私がその気なら、この間に彼はもう斬られている。
 散々迷った挙句、彼は唾を飲み込み、震えた右手をゆっくりと腰の剣に伸ばし始めた。
 止められるつもりでいるの? スキルド。
 私も2本の剣を構える。
 そういえば今の彼は、以前の記憶の中と比べて随分逞しい体つきになったように見える。
 生真面目な彼は、きっとシルフィとは違い、真剣に兄から訓練を受け続けたのだろう。
 それでも、今の私に及ぶ実力とは到底思えなかった。
 彼は震えたままの手で、ゆっくりと鞘から剣を抜き始める。そんな手つきではまともに戦えるとは、とても思えなかった。
 私は、あえてこちらから仕掛けることをしなかった。
 いつでも、かかってくればいい。
 斬りかかった瞬間、倒れているのはあなたの方。
 だが、結局彼は、途中まで抜きかかった剣を鞘へと戻した。
 私は拍子抜けして、剣をしまう。
 彼はその場に膝と両手をついた。肩が震えている。

「駄目だ。できない。できるわけがないだろう! 俺は……お前を助けるためにヴィレントから剣を教わってきたんだ! お前を斬るためじゃない!」

 彼は涙を流して叫んだ。
 彼はどこまでも優しい人。私の知っている彼と、何も変わっていなかった。
 だが、彼の悲痛の叫びは私の心には届かない。
 彼の必死の努力は私のためだった。私を救うためだった。
 でも、それは思い上がり、余計なお世話。もう私は、彼を必要としていない。
 それでも、かつて彼に世話になっていたのは確かなので、私はすれ違いざまに伝えた。

「今までありがとう、スキルド」

 それが、彼スキルド・ディバードと私が交わした最後の言葉だった。
 ベスフルの本陣を去っていく私。
 後ろを振り返ると、彼は膝をついたまま、ずっと同じ姿勢で佇んでいた。
 それ以上振り返ることはせず、私はベスフル本陣を後にした。
 さようなら、スキルド。