血が止まらないよ……
 痛い、痛いよ。
 私は、鼻を手で抑えながら泣き喚いた。
 顔を殴りつけた兄は、どこかに行ってしまった。
 指の隙間から、ダラダラと血が溢れてくる。自分でも、初めて見るような出血の量だ。
 このまま死んでしまうのではないかと思えた。
 まだ、死にたくない。死にたくないよ……、父さん、母さん!
 床に仰向けに寝転がっても、鼻の奥から血が溢れてくる。
 ……うっ
 血が喉の奥までまわり、息が詰まって跳び起きる。
 激しくむせ返ると、溢れる血が飛び散り、床を汚した。
 どうしてこんなことになったの?
 助けて、誰か助けて!
 どれだけ泣き叫んでも、その言葉は、誰にも届くことはない。
 それでも、私は叫び続けた。



 目を覚ますと、石の天井があった。
 砦の休憩室。
 立ち並ぶベッドに、多くの負傷兵が包帯を巻かれて寝ており、苦悶の表情と呻き声が、部屋中に充満していた。
 こんな場所で寝たから、あんな夢を見たのだろうか?
 子供の頃の夢。
 兄に毎日のように殴られ、蹴られ、血を流したあの日々。
 ネモと過ごす毎日が、あまりにも甘美で、忘れつつあった、苦しみの日々。
 最近は、殆ど見ることがなくなっていたはずなのに。
 周りを見る。
 寝る前より、負傷兵が増えている気がする。
 戦況は……よくないのだろうか?
 私は、立ち上がり、部屋を出た。



「もう起きたのか?」

 砦の廊下にネモがいた。

「あんまり、眠れなかったの」

 ここが城の自室なら、彼の胸に飛び込んで、怖い夢を見たの、と甘えていたと思う。
 流石に砦の中では、人目につくので、我慢する。
 あの魔の谷の戦いから、数日が経過していた。
 激戦を終えたばかりの私達は、前線の戦いへは参加せず、砦での待機を命じられた。
 人数で勝るこちらは、野戦を挑み続け、一進一退の攻防が続いていると聞いている。
 窓から見える砦の外の景色は、夜明けが近づいていた。

「ネモは戦況を聞いたの?」
「いや、直接は聞いていないな」

 私達は、ここでは正式な所属を持たない兵士だった。
 本来は、魔王直属の部下ということになっている私達は、今回、王の後押しで、魔の谷を攻める部隊に、無理矢理、組み込まれたに過ぎない。
 周囲からは露骨に疎まれ、これ以上出しゃばるなという空気が、伝わってくるようだった。

「戦況を聞いてはいないが、大体、想像は付くな」

 ネモの言葉に私も頷く。
 数日、大勢の兵士達が出陣しては、夜更けが近づくと砦まで退却してくる。
 日に日に負傷兵は増え、兵士達の顔色も暗い。
 その様子は、相手を追い詰めているというようには、とても見えなかった。
 その時、足音が聞こえ、廊下の向こうから、1人の兵士が私達に駆け寄ってくるのが見えた。

「何の用だ?」

 ネモが応対する。

「はっ。次の作戦会議に、お2人にも出席をお願いしたいと、大隊長からの要請です」

 私達は顔を見合わせる。
 戦況の僅かな情報すら伝え渋っていた彼らが、今更、私達に何の用なのだろう?
 ここで考えていても仕方ないことではあった。
 私達は、頷きあってから、

「わかった、行こう。案内してくれ」

 兵士の後ろを付いて、作戦会議室へと向かった。



「おおっ、来てくれたか!」

 ドアを開けると、数人の小隊長達が、テーブルを囲んで、向かい合っていた。
 歓迎するように声を上げたのは、魔の谷で、私達と共に戦った、あの時の部隊長だった。
 他の男達の私を見る目は、依然として険しく、なんでこんな奴らを呼んだんだ? と今にも言いたそうだった。

「こんな小娘共に、この状況を打破できると、本当に、思っているのか? ロイオンよ」

 会議の中心に居た大隊長が、あの部隊長──ロイオンに向かって尋ねた。
 大隊長が呼んでいると聞いてきた私達だったが、実際は、彼、ロイオンの進言によって連れてこられたようだった。

「ああ。以前も説明したが、我々の部隊は、この2人がいなければ、あの谷の戦いで全滅していただろう。今、我々が戦っている敵の主力部隊を、あの時、単独で撤退に追い込んだのだ。現状、この砦にいる人材の中では、間違いなく最強の兵士だ」

 ロイオンは、興奮気味にまくしたてる。

「そうまで言うか? こんなよそ者の小娘に……」

 その場にいる殆どが、私達に疑いの目を向けてきていた。

「戦いに加えて頂けるというのであれば、我々にも、戦況を聞かせてください」

 そんな中でも、ネモは平然と彼らに尋ねた。
 その態度は、多くの小隊長の癇に障ったようだが、ネモは気にも留めていないようだった。

「ふん……、貴様等が、どれほどの役に立つか分かったものではないが……まあ、いいだろう」

 大隊長は、戦況を説明し始めた。



 大隊長が話した戦況からわかったことは、魔王軍が日々じりじりと、ベスフル軍に押され始めているということだった。
 最初は数で圧倒していたはずの魔王軍も、大隊長の口ぶりから、今となっては戦力差で勝っているか怪しいように思えた。

「あの男、ヴィレント・クローティスを止めない限り、我々に勝利は難しい」

 それが、彼らが苦い表情で出した結論だった。
 こちらの主力と敵の主力が戦っているところで、側面、あるいは背後から、兄が率いる少数部隊が奇襲をかけてくるというのが、ベスフル軍の戦い方だという。
 兄は魔の谷の時と同じような、少数の部隊を率いて攻めることを得意としているようだった。
 魔王軍は、初戦で辛酸をなめることにはなったが、その時は、特に大きな焦りはなかったのだという。
 わかっていれば、どうとでもなる。
 兄ヴィレントの予想外の強さに驚きこそしたものの、所詮1人の人間。
 率いているのも、100人に満たない小数部隊だ。
 そう思い、余裕を持って迎えた、2度目、3度目の戦い。
 彼らは初戦以上の苦汁を、味わうことになった。
 2度目、兄の部隊の出現を的確に読み、その3倍近い部隊を差し向けて取り囲んだ。
 倒せずともよい、主力同士の戦いの間、奴らを足止めできるだけでも充分だと睨んでいた。
 だが、3倍の兵力を持つその部隊は、あっさりと突破を許してしまった。
 敵にしてみれば、別に向かってくる相手全てを倒す必要はない。
 突破できる場所を見つけて駆け抜け、こちらの主力の隊列をかき乱すことができれば、兄の役目は果たされている、ということのようだった。
 そして、3度目、こちらの軍は重装兵部隊を差し向けた。
 倒すことは考えなくてもよい。
 重い甲冑を着込んで大盾を構えたその部隊は、簡単に倒れることはなく、歩兵主体の兄の部隊を確実に足止めするはずだった。
 しかし、兄は重装兵部隊を確認すると、それを無視し、あっさりと迂回して主力に襲い掛かったのだという。
 機動力で劣る鈍重な重装兵達は、それを食い止められなかった。
 数で勝る敵を蹴散らす突破力と少人数の軽装歩兵による機動力を併せ持つ、それが兄の率いる部隊だった。

「あれを殲滅するには、大部隊で包囲して一斉に叩くしかない」

 大隊長は言った。
 だがそれをすれば、今度は敵主力部隊への対応ができなくなる。
 初戦の前ならあるいは、全部隊を二分すればそれも可能だったはずなのだが、数を減らされた今の状況で部隊を半分に分ければ、敵主力を食い止められない。
 八方ふさがりの状況だった。
 そこで、兄の部隊をわずかな手勢で食い止められる方法があると進言したのが、小隊長の1人、ロイオンだったそうだ。
 その時上がったのが、私達2人の名前だったらしい。
 彼は魔の谷での私達の戦いぶりから、兄を止められる可能性があると判断したのだという。

「今、この砦にいる兵士で、ヴィレントに対抗しうるのは、この2人しかいない!」

 ロイオンは右手を広げ、私達の前でそう力説した。
 そして今、私達は戦場にいる。
 大部隊の最後尾。
 まだ戦いは始まっていない。
 斥候の兵士が兄の潜伏場所を探し出し、私達に伝えてくれる手筈だった。

「緊張しすぎだ。顔が強張っているぞ。もう少し肩の力を抜け」

 横からネモにそう声を掛けられて、はっとする。
 私は緊張していることを、自覚していなかった。
 大きく息を吐く。
 掌を目の前に広げると、震えているのがわかった。
 私、兄さんと遂に、直接戦うんだ……
 恐れ、避け続けたあの兄と、直接、真っ向から。
 魔の谷の作戦の時から、兄との直接対決をまったく予想しなかったわけではない。
 だがあの作戦も、元々は崖上からの援護だけと聞いていたし、今後も数万人がぶつかる広い戦場で、たった2人が偶然相見えることなどそうそうないと、心のどこかで逃げていたのかもしれない。
 あの谷でも、結果的に剣を振るう羽目になったのだ。
 少し間違えば、あの時兄と出会い、剣を交えていたかもしれない。
 あの初陣で兄と戦うことになっていたら、私は落ち着いていられただろうか?
 今、戦う前からこんなに震えていては、初陣での交戦はかなり厳しいものになっただろうと思う。
 そう考えると、今回の戦いに参加したこと自体、かなり危ういことだと思えた。

「ネモ。私は兄さんに勝てると思う?」

 作戦が始まる前に、もう何度も似たような質問をした気がする。
 だが、この場で自分を落ち着かせるためには、聞かずにはいられなかった。

「俺は、ヴィレント・クローティスの戦いぶりを、直接見たことはない。だから推測しか言えないぞ?」

 ネモは正直にそう答えた。
 構わないから聞かせて、と私は返した。
 ネモは頷いて、

「俺の見解では、今のお前に単独で勝てるのは、魔王領内でも魔王様ぐらいだと思っている」

 もちろん現状は、俺が盾の制御を行った場合に限りだが、と彼は付け加える。

「それでも、まだ不安がある」
「それは……、もし兄さんが、魔王より強かったら……?」

 彼は首を横に振った。

「俺が心配しているのは、そこじゃない」

 彼は続ける。

「ヴィレント・クローティスの活躍を聞いたとき、お前と瓜二つだと、俺は思ったよ。お前の初陣の活躍を喜んでいたら、敵陣にまでお前がもう1人現れたような気分だった」

 長い間、恐れてきた兄と瓜二つだと言われるのは、少し複雑な気持ちだった。

「お前達兄妹は、それぞれに比肩しうる才能を持っている。片方は実戦で長い時間をかけてじっくり腕を磨き、片方は訓練によって短期間で急激に成長した」

 ネモは、そう分析する。

「俺は、お前が実力でヴィレントより劣るとは思っていない。俺が心配しているのは、経験の差だ」

 経験……。
 確かに兄は、両親が死んだ以降から、長い間、戦い続けていたはずだった。

「お前は、次でまだ2度目の戦場だ。圧倒的に経験が足りていない。何か不測の事態が起きた時、お前はそれでも冷静でいられるか?」

 不測の事態、って何? と私は問い返す。

「例えば、俺が戦死した時だ。盾の制御はできなくなる。その時、お前は冷静に判断して、戦いを継続するか、撤退するか、選べるか?」

 予想外の質問に、私は面食らう。

「えっ、なにそれ? 嫌だよ、ネモ。そんなこと考えないで! 私、あなたがいないと生きていけない!」

 思わす彼の両肩を掴み、詰め寄って、泣きそうな顔で訴えた。
 そんな私に、彼は苦い顔をして言った。

「戦場では、それだって可能性の1つだ。いや、戦死までいかなくとも、俺が両腕を負傷すれば援護はできなくなる。全力を発揮できなくなった状況で、それでもお前が冷静でいられるかということだ」
「それは……」

 ネモは砦の会議でも、今の作戦に最後まで反対していた。

「チェントはまだ初陣をこなしたばかりです。そのような重大な役目を受けられる状態ではありません!」

 彼は、あの場で必死にそう訴えていた。

「何をそんなに恐れる必要がある? あの谷での戦いを思えば、ヴィレント・クローティス1人如きを相手にすることに、何の不安があるというのだ?」

 声を荒らげるネモに、ロイオンがそう言った。

「自信を持て。ここで武功を上げれば、ここにいる連中も認めざるを得ないだろうしな」

 その言葉を聞いても、ネモの渋い表情は崩れなかった。
 ロイオンの後押しと、最終的には私自身が、やります、と答えたことで、作戦決行が確定した。
 大隊長や他の小隊長達は、もし失敗して私達が欠けても大した戦力の損失ではない、という消極的な理由で、反対しなかったようだった。
 ネモはあの時から、経験不足な私の危うさを、ずっと心配していたのだろう。
 私達に対しての信頼が得られるなら、と私はあの時、安易に返事をしてしまっていた。
 ネモの気持ちも考えないで。
 俯いている私に、今度はネモの方が肩に手を置いた。

「作戦が決まった以上、敵前逃亡すれば魔王領にはいられなくなる。もう腹を括るしかないぞ、チェント」

 いつもの訓練の時と同じ、厳しい口調で、ネモが言った。
 今は優しい声で言われるより、気が引き締まる。
 私は大きく頷いた。
 彼のその一言で、気付けば手の震えも止まっていた。
 ネモは、今回の私の決断を攻めなかった。
 ならば私も、それに応えなければならない。
 私達に与えられた作戦は、ごく単純なものだ。
 斥候から兄の場所を伝え聞いたら、小部隊を率いて交戦、彼らを敗走させること、である。
 砦の前に広がっている戦場は、あちこち起伏が激しく、人が身を隠せる程度の高さの丘がいくつもあった。
 兄の部隊は、いつも夜の間に移動し、こちらの主力部隊の動きを待ってから姿を現すのだという。
 私達に付いてくるのは、魔の谷で共に戦った、ロイオンの部隊だった。
 ロイオン自身は、主力部隊の方に合流しており、部下達だけを借り受けた形になる。
 彼らとは、あの戦いで一定の信頼が築けていた。
 他の兵士達では、おとなしく私達に従ってくれない可能性があったため、ロイオンが気を利かせてくれたのである。

「俺の部下達をよろしく頼むぞ」

 彼からはそう頼まれ、部下達もそれを快く引き受けてくれた。
 私達2人だけでなく、彼らの命もあずかっていることになる。
 負けられない戦いだった。
 斥候の兵士が、こちらに駆けてくるのが見えた。
 彼は私達の前に跪くと、顔を上げて言った。

「報告します。ヴィレント・クローティスの部隊を発見しました!」

 遂に来た。
 それは、主力部隊の大隊長にも伝えられる。
 兄の部隊を迎え撃つのと、主力同士の戦いは、同時でなければ意味がない。
 私は立ち上がり、斥候の案内に続いた。

「いくぞ。全員、チェントの後に続け!」

 部隊に指示を出すのは、ネモの役目だ。
 私がどれだけ強かろうと、軍の指揮経験はないからだ。
 いよいよ、作戦が始まった。
 私は、覚悟を決めて進んだ。