「そんな事ないわよ。あんな成績でも、頑張れば出来るんだって、励みになるでしょ?」
「そういう見方もあるか。でも、どうして教師になろうと思った?」
素朴な疑問をぶつけると、堤は淡く微笑んで俺を見つめた。
「最初はすごく不純な動機。先生の側にいられるには、どうしたらいいか考えたの。そして生徒でダメなら先生になればいいんじゃないかって思って。それに先生、いつもガッカリしてたって言うから、化学の苦手な子が化学の教師になるまで登りつめたら、最高に喜ばせる事が出来るんじゃないかって、単純な思いつきなの」
改めて言われてみると、俺は随分心ない事を堤に言っていたようだ。
「酷い事言ったんだな、俺。悪かったよ」
「いいの。感謝してるから。だって先生の言った通りだったもの。分かってみると化学っておもしろいから。――って、私と同じような子に知ってもらいたいの。今はそれが理由」
一途なひたむきさは、あの頃と変わらない。堤ならきっと、俺なんかより立派な教師になれるだろう。
突然堤がイタズラっぽい笑みを浮かべて、俺を上目遣いに見つめた。この表情は俺にとって、不測の事態を意味する。少し身構えると、堤が口を開いた。
「どうせなら、本来の目的も達成したいんだけど。先生の側、まだ空いてる?」
なんだ、そんな事かとホッとした途端、あの頃の想いが蘇る。蘇った想いは止めどなく溢れ出し、嬉しくて思わず頬が緩んだ。
「おまえのために、空けておいた」
おまえのせいで空きっぱなしだった、とは口が裂けても言ってやらない。
堤は一瞬、驚いたように目を見開いた。そしてすぐに、再びイタズラっぽく笑うと、
「私の本気、やっと分かってくれたのね」
そう言って、片目を閉じた。
かつての教え子のイタズラなウインクは、確実に俺の胸を撃ち抜いた。
(完)
最後まで読んで頂いてありがとうございます。
※化学反応式は、通常「=」ではなく「→」で表記します。ですが、作中会話文の中では便宜上「=」で表記しました。