おじさんは予防線にはなりません

タクシーの中でずっと無言だった。
池松さんも黙って窓の外を見ている。
だから私もずっと黙っていた。

「羽坂」

あの日、泊まったマンションの寝室で、池松さんは私をベッドに押し倒した。

「本当にいいんだな」

まだ、レンズの向こうの瞳は揺れている。
自分から腕を伸ばし、その薄い唇に自分の唇を重ねた。

「……はい」

瞬間、池松さんの唇が重なる。
呼吸さえも奪ってしまうような口付けは、それだけ彼が追い詰められているのだと感じさせた。

私の上で、池松さんが腰を振る。
絶頂を迎える瞬間、小さく「世理」とだけ漏らした。



目を開けると、隣で池松さんが眠っていた。

……結局、言ってくれなかった。

嘘でいいから好きだと言ってほしかった。
たとえそれが、世理さんに向けた言葉でもかまわない。

けれど池松さんは私を抱いている間、一度も言ってくれなかった。

……池松さんは私を――。

きっと、好きになってくれない。
たとえ、奥さんと別れても。

池松さんに抱かれて、はっきりした。
彼の中にはいまでも世理さんがいる。
たぶん、これからもずっと。

だからいくら私が想っても無駄、無駄なんだ……。

「うっ、ふぇっ」

自分の意思とは関係なく、涙が溢れてくる。
鋭い錐をぎりぎりとねじ込まれているかのように胸が痛い。
なんで私は、こんな人をこんなに好きになってしまったんだろう。

「羽坂……?」

私が泣いているのに気づいたのか、池松さんが目を覚ました。

「君、本当は無理していたんじゃ……」

よく見えないのか、池松さんはわざわざ眼鏡をかけ、苦しそうに眉を寄せた。
違うと、ぶんぶん首を横に振る。

愛している池松さんに抱かれて、嬉しかったのだ。

でもそこにない彼の心が私を悲しくさせる。

「違うんです。
ただ、……そう、酷く、悲しい夢をみて。
だから」

「夢なら忘れてしまえ」

躊躇いがちに伸びてきた手が、私をぎゅっと抱きしめる。
腕の中は酷く温かくて、……いまだけ。
いまだけ、この優しさに縋らせてください。



朝、世理さんが置いていった服を借りて着替え、やっぱり置いていった化粧品を借りてメイクした。

「朝メシ、食うだろ」