おじさんは予防線にはなりません

「俺には、妻がいる。
あんな女でも愛して……」

言葉が途切れたのを不審に思い、顔を上げる。
池松さんはなぜか、虚ろに宙を見ていた。

「池松さん?」

「ああ、いや。
なんでもない。
とにかく俺には妻がいるから、羽坂の気持ちには応えられない」

誤魔化すように池松さんは僅かに笑ったけれど、いまのいったい、なんだったんだろう?

「わかってます。
片想いでかまわないんです。
だから――私の気持ちを、否定しないでください」

池松さんから返事はない。
わかっている、こんなこと簡単に答えられないって。

「こんな私が一緒の職場にいるのが迷惑なら言ってください。
辞めますので」

「いや、仕事にプライベートを持ち出す気はない」

きっと居心地が悪くなるのに、きっぱりとそう言い切るのは池松さんらしい。

「……羽坂はそれで、……本当にいいのか」

レンズの奥の瞳は複雑な色をしていた。

「はい。
私はもう、自分に嘘をつかないと決めたので」

「……なら、いい」

池松さんはカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。



家に帰り、化粧品の入った引き出しを開ける。
中を漁ると奥の方から、ずっと前に買ったピアッサーが出てきた。

「私は私を変える」

自分の浅はかな考えが、大河を深く傷つけた。
もう自分に嘘はつかない。
真っ直ぐにただ、好きな人を想い続ける自分になる。

ピアッサーで耳を挟み、ボタンに指を添える。
一度、大きく深呼吸して思いっきり押した。

――バチン!

大きな音がした瞬間は痛くなかった。

「ほんとにこれでいいのかな……?」

鏡の私の耳には、しっかりピアスがついている。
もう片方もそのままの勢いであけた。

「いまごろ痛くなってきた……」

先にあけた右耳がじんじんと痛みだし、遅れて左耳も痛みだす。

でもこれは、私が傷つけた大河の痛みだ。
だから甘んじて受けなければならない。

「大河、ごめん。
いっぱい傷つけてごめんなさい。
自分勝手な私を、好きになってくれてありがとう」

泣く資格なんてないのに、涙は出てくる。
今日はいっぱい泣いて明日から、大河とただの会社の人に戻れたらいいな……。



「おはよう、ございます……」