彼を初めて見かけたのは、春の光が暖かく差し込む大学の図書館。
 窓際にある6人がけの机に座っていた。
 私はあの時の白く輝くようなときめきを、生涯忘れることはないと思う。

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 図書館のいつもの場所へ。
 本棚の影からチラリと覗き込むと、大学ノートと参考書を広げる彼の姿。

 やっぱり私の彼氏は世界一カッコいい!

 ニヤけちゃう顔をぎゅーっと覆って、顔を引き締める。

 何気なさを装(よそお)って本棚の影から出ると、そっと彼の座る6人がけの机のお向かいに腰を下ろす。
 顔を上げ、眩(まぶ)しそうに私のことを見た彼に、小さく微笑んであげる。

 いいよ。
 終わるまで待ってる。

 彼は再び視線をノートに移した。

 こういうの、何気ない幸せっていうんだよね。
 再びニヤけそうになる顔を、借りてきた本を立てて隠す。
 彼の顔をジィッと見ていてもバレないように借りてきた一冊。

 だって、いっっっぱい見つめたいけど、バレたらやっぱり恥ずかしいじゃない?


 そんな理由で、全く読む気のなかった本を元の位置に返した。

 えっと。
 本棚の間から顔を出し、待ってくれている彼の姿を探し辺りを見回す。

 いた。

 入り口の近く、スマホの画面を覗く彼に向かって小走りに近づこうとして
「あっ。
 ごめんなさい。」

 入ってきた数人の女の子のうちの1人が彼にぶつかり、その手からスマホが落ちた。

 むっ。

 肩にかかるほどの髪に柔らかなパーマをかけた、今時女子。
 私からしたら、お化粧がキツすぎるわ。

 彼女はすぐに腰を落とすと、彼のスマホを拾い上げてその手に返す。

「あぁ、ありがとう。」
 スマホを落とされた被害者なのに!
 ちょっと照れたように笑って、彼は会釈をして図書館へと入っていく彼女を目で追っていった。

 その視界に私の姿が入ったはず。

 彼はゆっくりと身体を外に向けて、図書館から出て行こうとする。

 ああっ。逃げたな。
 他の女の子に鼻の下伸ばしてたところ、しっかり見ちゃったんだからねっ。

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 今日は暑いなぁ。

 キャンパス内を1号館の建物に向かって歩く。
 夏も後半だというのに、真っ青な空から注ぐ日差しはアスファルトに照り返り、容赦なく私たち学生の肌を焼こうとする。

 1号館の1階は学食。
 校内で1番大きなこの学食も、この時間は人で溢れかえっている。

 えっと。

 冷房の効いた室内は、外から入ってきた熱い身体に心地いい。
 キョロキョロと見回す私の目が、彼の姿を捉えた。
 やっぱり1番カッコいい彼を、この私が見逃すはずがないんです。

 数人の男友達と談笑する姿にちょっと考える。

 んー。
 楽しそうに話しているのに、邪魔するのは良くないかな?
 彼にも彼の時間が必要だろうし。

 ふと見ると、彼の真後ろから2つ離れた席が1つだけ空いている。

 ラッキー。
 こっそり座って、タイミングを見て声かけよう。


「そう言えばさ、あの件まだ継続中?」
 席に着こうとする私の背後で、彼の友達が身を乗り出す。

「ああ、あれな。
 まだ継続中。」
 げんなりとした口調で彼が呟いた。

 あの件?

「彼女には話したのかよ?」
 え? 何、聞いてない。

「まだ。心配かけたくないし……。」

 ええっ。
 内緒話?
 なんか、盗み聞きみたいになってるし。

 焦る気持ちに、冷房対策に持っていた薄手のパーカーを頭から被ると机に伏せて寝たふりをする。

「あれ?
 まだご飯中?」
 女の子の声が割り込んできた。

「次の講義5号館でしょ?」
「ヤベェ。」

 バタバタと身支度を整える音、食器類を重ねる音がせわしなく響く。

 完全にタイミング逃しちゃった。

 立ち去る物音にチラリと視線を上げると、男の子5人と、女の子2人の後ろ姿。
 1人は、長いストレート。
 1人は、肩にかかるほどの髪に柔らかいパーマ。

 私に言ってないことって、なんなんだろう……。

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 んー。

 最近は夏の暑さもひと段落。
 白い雲が筋を描く、秋を感じる高い空を見上げてぐーっと伸びをする。

 土手沿いを歩きながら午後の優しい空気をいっぱい吸い込んで、目指すは彼のアパート。

 カバンの中には愛情たっぷりのお弁当。
 今日はバイトで遅くなるから、お夕飯に食べてもらうんだ。


 じゃん。
 彼の部屋の前でカバンの中から鍵を取り出す。
 犬のマスコットが付いた合鍵。

 彼女を実感する幸せ瞬間だよね。

 ちょっとドキドキしながら鍵を回して、お邪魔します。

 なんだぁ。
 お弁当置くついでに、ちょっとお掃除してあげようと思ってたのに。そこそこ綺麗にしてるじゃない。

 ドアの鍵をかけて室内に上がる。
 お弁当は冷蔵庫。
 テーブルの上にメモを残す。

『バイトお疲れ様。
 冷蔵庫にお弁当入れておいたよ。』
 んー。

 ちょっと迷ってもう一言。
『大好き。』

 メールで送ってもいいんだけど、サプライズ的な感じがいいよね。

 彼のビックリした顔を想像して、私の顔もにやけちゃう。

 スッキリとした、っていうか物の少ない部屋。
 彼の部屋の空気を胸いっぱいに吸い込む。

 あはは。私ちょっと変な人?

 急に感じた恥ずかしさに、玄関に向かう。
 サンダルを履こうと、手を伸ばした時。

 ガチャ。

 鍵の刺さる音に顔を上げる。

 え……。

 彼はバイトのはず。
 誰?

 直感的に感じた恐怖に、サンダルを掴んですぐ近くの洗面所に逃げ込んだ。

 その瞬間。

 鍵の開いたドアから人の気配が入って来る。

 何々?
 怖いっ!
 助けて。

 全身がガタガタと音を立てそうなくらい震えた。
 扉側の壁に張り付いて、自分の口を塞(ふさ)ぎ、気配が消えるようにジッと耐える。

 洗面所の扉の前を、人の気配が通り過ぎた。
 洗面台の鏡に映る、肩にかかるほどの柔らかいパーマをかけた髪。
 その後ろ姿。

 あの、子。

 図書館の入り口。
 1号館の食堂。

 彼の周りにいつのまにか、いる。

 パタパタと歩く足音が止まり、洗面台の鏡に目をやると何かをジッと見つめる後ろ姿。
 意を決して廊下に顔を出す。

 クシャ。

 私のメモ。

 握りつぶしたその手が、メモをゴミ箱に叩きつけた。
 その姿がキッチンのある奥へと向かう。

 お弁当!
 とは言え、立ち向かう勇気はない。
 しかも逃げ出すには絶好のチャンス。

 ごめん。

 音を立てないように、それでも大急ぎで玄関に向かい、裸足のまま外に出た。
 ドアを閉める小さな音が、あの子がゴミ箱にお弁当を投げ込んだらしい音に重なった。

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「黙ってて悪かった。
 実は、夏前頃からストーカーにつけられてて……。
 お前を巻き込みたくなかったんだ。
 頼むから、危ないことはしないでくれ。」

 講義室の一角。
 ズラリと並んだ席に座る私の真後ろで、彼は苦しそうに告白してくれた。

 前に聞いちゃった『私に言ってないこと』って、これだったんだね。

 なんだか悲しくて、悔しくて、彼の顔がまともに見られない。
 あの時、スマホで写真の1枚、動画の1つでも撮っておけば、色々追い詰められかもしれないのに。

 徐々に学生が増えてきて、教室のざわめきが増していく。
 顔を上げた私の目に、窓の外の防犯カメラが映った。

 あ……。
 そうだ、防犯カメラ。

 学生や単身者用の安アパートに防犯カメラは期待できない。
 なら、設置しちゃいばいいんだ。
 彼の部屋に。

 前方の扉から講師の先生が入ってきたにもかかわらず、私は講義室を飛び出した。

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 ホームセンターで買い込んだ監視カメラと延長コード。
 取り付け方もお店のお兄さんにしっかりと教えてもらったし。

 ホームセンターのロゴが入った白いビニール袋の中を覗き込む。
 小さく喉(のど)がなる。
 私はビニール袋の中のカバー付きの果物ナイフを取り出すと、ポケットの中に押し込んだ。

 形だけ。
 あくまでも、相手のストーカーを怯(ひる)ませるだけの道具よ。

 犬のマスコットがついた合鍵を差し込んで、彼の部屋に入る。

 玄関に靴はない。

 私は室内から鍵をかけ、内鍵もしっかりとかけた。
 相手はどういうわけか合鍵を持っている。
 これで最悪開けられても室内には入ってこられない。

 ふぅ。
 小さく深呼吸。
 ゆっくりと室内に振り返る……。

「やっぱり。
 あんただったのね。」

 目の前に立っていたのは、肩までの髪に柔らかなパーマをかけたあの子。

 びっくりして後ろに下がった拍子に、私の身体がドアにぶつかった。

 彼を付け回すストーカー。

 一歩前に出たあの子が私の肩を掴み、怒鳴りつけてきた。
「いい加減にしなさいよっ!
 このストーカー!」




 え。




 その瞬間。
 頭の中にフラッシュバックする。

 初めて彼を見かけた、図書館。
 あの席はいつも柔らかな光が差し込んでいた。
 眩しそうな彼の顔。
 向かいに座る私の顔は、きっと逆光で真っ黒だったはず。

 図書館の入り口で私に背を向けた彼は、私がつけてきたのに気づいていたのかも。

 学食の内緒話。
 私は彼女側じゃない。
 あの件。側。

 犬のマスコットがついた合鍵。
 彼がバイト前に立ち寄るファーストフード店で、席を立った隙に私がカバンから抜き取った。

 さっきの講義室。
 背中を向けた私に話していたんじゃない。
 彼の手に握られたスマホは、あの子と通話中だった。


「あはは。
 あはははははは。」
 笑いが止まらない。

 鮮やかな輝きに満ちていた私の全てが、今はっきりとくすんで汚らしいドブのように見えた。
 酷い悪臭を放ち、醜く淀んで、取り込んだもの全てをヘドロの底深くに引きずり込む。

 ポケットの中に入れた手が、硬く冷たい柄を握る。

 きっと次は私の番。
 彼は私の愛の深さを分かってくれる。
 あの子がいなくなれば、きっと次は私の番。


【終わり】