それは、数年前のこと……。





カメラのファインダー越しにマニュアルフォーカスで、彼女が着ているブラウスにピントを合わせる。

緊張しているのか、体が小刻みに震えているのがわかる。

シャッターを切った瞬間、スタジオ内のモノブロックストロボが一斉に点灯した。

うーん、体のラインが固いな。

「はい、ポーズ変えて」

声を掛けると、小声ではい、と答えながらぎこちなく少しだけ体を捻る彼女。

「あ、ちょっと待ってください」

アシスタントが近寄って、ブラウスの裾のしわを整え始める。

まいったな。

この子はおそらく、モデルは今日が初めてなんだろう。
後からクライアントに、ダメ出しされなきゃいいが。

スタイルは勿論いい。背が高くて手足も長い。
だが、そんなのはこの業界では当たり前だ。

カメラマンの俺にとっては、いくら美人だろうがスタイルが良かろうが、撮られるのに慣れている子の方が有り難い。
なにせ、1日あたりのアパレル撮影商品数のノルマは決まっているのだ。
グズグズされると、その分無給の残業時間が増える。

おそらく大学生のバイトだろうが、軽い気持ちで応募されてもなあ。

ここは、埼玉のはずれにあるアパレルメーカーの倉庫。
その片隅に併設されたスタジオで、俺はネットショップに掲載するアパレル商品の撮影業務を請け負っていた。

所謂、雇われカメラマンってやつだ。

日給は2万円ほど。
だけど毎日撮影があるわけじゃないから、月給にすると悲惨なものだ。
実績のない、駆け出しのカメラマンは辛い。

モデルは大抵が学生バイト。
いろんな服を着れて、給料もそこそこいいから人気らしい。
憧れの職業を疑似体験できるというのも、魅力なんだろう。

しかし、画像をネットに掲載する際には、顎より上は切られてしまう。
あくまで商品としての服がメインであるのと、顔が写っていると、ネットユーザーに余計なイメージを与えてしまうからだそうだ。

これを業界用語で「顔切りモデル」という。
なんだかホラーな名前だが。

つまりスタイルさえ良ければ、顔はちょっとばかしアレでも、「顔切りモデル」に採用される可能性は高いのだ。

彼女が改めてポーズを取り直したところで、ふたたびシャッターを切る。

アシスタントが次に撮影する別のブラウスを持って、彼女のそばに寄り、服を脱ぐのを待つ。
彼女はあせりながらボタンを外し、ブラウスを脱いでいく。

と言っても、裸になるわけじゃない。
下には、大抵の服には合わせやすい、白いチューブトップを着ている。

着替えている間、俺は何気なくファインダーを覗きながらレンズを上に持ち上げた。

彼女の顔にピントを合わす。

焦点が定まった瞬間、全身に鳥肌が立った。

緊張した面持ちで、俯いてブラウスのボタンを留めている彼女。

その顔に、なぜか突然ときめいて……。

ふと、彼女が顔を上げ、ファインダー越しに目が合った。

俺は、あわててファインダーから目を外す。
まるで覗き見していたのを気づかれたようで、バツが悪い。

いやいや、俺、カメラマンだし。

だが、俺は彼女のさりげない目力に、すっかりやられてしまっていた。


その日の撮影が終わって、帰り支度をしている彼女に、俺は思い切って声を掛けた。

「西内さん……だよね。あ、あのさ、良かったら今度、ポートレートモデルやってくれないかな?」

格安ショップで作った、薄っぺらい名刺を差し出す。

『カメラマン 葉山浩介 電話:080-○○○○-○○○○』

それしか書いてない。
実績のないカメラマンなので、それ以上、書きようがないのだ。

彼女は、白く小さい手で、少し戸惑ったようにそれを受け取る。

なんだろう、どきどきするぞ。
初恋の人に告白する高校生の気分だ。

「……バイト代は、あまり出せないんだけど」

「いいですよ。私、美咲って言います。西内美咲」

彼女は顔を上げて相好を崩し、柔らかい眼差しで俺を見つめた。

これが美咲との、はじめての出会いだった。





そして、話は今に戻る……。

日曜の朝。

少し肌寒さを感じながらも、雲ひとつない抜けるような10月の青空に感謝して。
ヘルメットを掴んで、心弾ませながらマンションのバイク駐車場へ行くと。

「……また、おまえか」

カナがハヤブサのリアシートにちょこんと乗っかって、足をぶらぶらさせていた。

ボブカットの茶髪は、そのままで。
相変わらずの制服姿だが、季節がら紺のカーディガンを羽織っている。

「よ、久しぶり!」

「先週もここにいただろうが。無理矢理俺を喫茶店に拉致して、パフェ5杯奢らせただろうが!」

「その時は世話になった」

「頼むから俺をツーリングに行かせてくれ。これが楽しみで仕事してるようなモンなんだから」

「また転んで記憶を失わないように、妨害してあげてる優しさが理解できないかなあ」

「そんな優しさはいらん。とにかくそこをどけ」

カナの腕を掴んで引きずり降ろそうとすると、やつはシャーっと奇声を上げて手を振りほどく。

「おまえは猫か。もう猫は勘弁してくれ。美咲が先週また野良猫を拾って来た。これで3匹目だ」

おかげで猫アレルギーの俺は、鼻炎薬が手放せない。

急にカナが真顔になる。

「今日は他でもない。オジサンに折り入って相談があって来たのだ」

「なんだ、相談て」

ふと背後に人の気配を感じて振り向くと、カナと同じ制服を着た女の子が立っていた。

小柄で、身長はカナと同じくらいか。黒髪で眼鏡を掛けており、地味で真面目そうな子だ。

というか、ちょっとオタクっぽい感じがする。
目の上まで降ろした髪のせいか、表情が良く見えない。
俯き加減で、なんだか暗いオーラを放っている。ふてぶてしいカナとは真逆の雰囲気だ。

「だれ?」

「あずさ。私の友達じゃ」

カナはぴょんとハヤブサから飛び降りると、あずさと呼んだ女の子の横に並ぶ。

不良娘とオタク娘。

なんだかアンバランスだ。

「この子がどうした」

「ストーカーの悩みを抱えて困っている。助けてくれ」

口にはできないが、とてもストーカーに付け回されるようなタイプとは思えない。

「……信じてないね?」

「てか、本当にそうなら先生に言えよ。俺は役には立てん」

「元ストーカーとしての助言をくれ」

「俺はストーカーじゃなかっただろうが!」

「ほうほう」

カナはにやりと顔を歪めた。

「本当に、そう言い切れるのかね、オジサン」

こいつめ。
やはり先週、美咲との馴れ初めを話したのは失敗だった。

「……あの話は、忘れろ」

「忘れるには、賄賂が必要じゃないかなあ?」


そして、結局いつもの渋い喫茶店。

相変わらず店の奥には「かあっ」爺さんがいて、新聞紙を手に広げたまま仮死状態を続けている。

席につくなり、カナは当たり前のようにパフェを3つ注文した。

「あずさは?」

オタク少女は俯き加減でカナの耳元で何事かささやき、カナが頷く。

「マスター、レモンティーもね」

未だ、この子の声を聞いた事が無い。

「で、なんなんだ」

何が悲しくて、秋晴れの日曜の朝から、女子高生の悩み相談をしているのか。

「あずさが男につきまとわれている」

「いいじゃないか。そのまま付き合ってしまえ。青春を謳歌しろよ」

カナが冷たい目で俺を睨む。

「適当なこと言わないで。あずさ、本気で悩んでるんだから」

カーディガンのポケットからスマホを取り出すと、1枚の写真を開き、机の上に置いた。

教室で撮ったスナップだろうか。
数人の男子高校生が、机に腰掛けたり伸び上がったりしながら、この年頃特有のバカ面下げて写っている。

「この中に犯人がいる」

「俺に探せと」

「いや、犯人はわかっている」

なんだよ。じゃあ、直接そいつに言えよ。

写真の右側に、半分見切れている、いかにも影の薄い男子がいた。
背が低く丸顔で顔のパーツが小さい、黒ぶちの大きな眼鏡を掛けた少年。
見るからに、ザ・オタク。
俺はそいつを指差す。

「こいつだろ。間違いない」

「違う。トシオじゃない。確かにトシオはそれっぽい雰囲気だけど」

カナは写真の中央に写っている、手をポケットに突っ込んで机に腰掛けた長身の男の子を指差した。
髪はウェーブがかったミドルで、きりっとした目。シャープな顔の輪郭に整ったパーツ、誰が見ても超イケメンだ。
クールなイメージだが、少し吊り上げた片側の口元に、少年のようなやんちゃさも持ち合わせている。

「ユータ。こいつが、あずさのストーカー」

いやいやいや。
それは、勘違いってやつじゃないのか。

「テニス部の主将で、成績もトップクラス。明るくて優しくてクラスの人気者」

やれやれ。

「そんなパーフェクト男が、裏ではこの子をストーカーしてると」

ちっちゃい小動物二匹が、同時に深く頷く。

「ほうほう。ちなみに、このユータって奴は見るからにモテそうだが?」

「うん。それはもう、凄まじいモテっぷり。付き合った彼女は数知れず。でも、なぜか長続きはしないみたい」

「そんな奴が、なぜこの子をストーキングする必要がある?」

二匹は同時に顔を見合わせる。

「モテて彼女に困らない男が、そんなことするわけないだろ。そもそも、あずさちゃんとやらは、ユータと付き合った事があるのか?」

あずさは俯いたまま、ぽっと顔を赤くする。
えっ、あるのかよ。

「……ないです」

初めて彼女の口から出た言葉に、思わず椅子から転げ落ちそうになる。

「でも、彼に突然……告白されたんです。2週間前に」

えっ?

口数少ないあずさを見て、カナがもどかしそうにフォローを始めた。

あずさはその日、下校時間まで図書室で本を読んでいて、鞄を取りに誰もいない教室に戻り、帰り支度をしていた。
そこへいきなりユータが現れ、真面目な表情で、付き合ってくれと告白したそうだ。

「……あまりに突然だったんで、あずさ、頭の中が真っ白になっちゃって、何も言わずに教室から逃げ出してしまったの」

「それは夢だったんじゃないのか」

「夢ではない。現実なのだ」

こんな見るからに地味人生一直線な子に、モテ男が突然告白するなんてことがあるのだろうか。

「それから始まったの、ユータのストーキング。何度も無言電話を掛けてきたり、夜中、家の前でずっと2階のあずさの部屋を見上げていたり」

「本当か?」

あずさは自分のカバンからスマホを取り出すと、電話の着信履歴を俺に見せた。
確かに、ユータの名前が並んでいる。時間は夜の22時以降、深夜に及んでいた。

ん、なんか妙だな。
理由はわからんが、どこか引っかかる。

「普段、学校で会ってる時はどうなんだ。妙なそぶりはあるのか?」

「それがね」

急にカナは声を潜める。

「ユータ、あずさにフラれてから、学校に来なくなっちゃったの」

ぷるるるるる。

あずさが手にしていたスマホが、ふいに鳴り出した。

びくっとして、恐る恐る画面を見るあずさ。

「ユータか?」

「違う。トシオ」

あずさはそう答えると、俯いてスマホを耳に当て、小声で話し始める。

なんだ、トシオと仲いいんじゃないか。オタクどうし。

「心配してるんだよ、トシオ。ユータのストーキングが始まってから、よくあずさに電話かけてくる」

ふーん。

「というわけでオジサン。今晩、付き合え」

「なにをだ」

「あずさの家の前に張り込んで、ユータをとっ捕まえるのだ」

ちょっと待て、と言おうとした、その時。

からんころん。

喫茶店のドアが開いて、現れたのはあの、日傘おばさん。

「まあまあ、やっと涼しくなったわねえ」

凶器である白い日傘を手に持ちながら、さり気なく店内を見渡す。
俺は緊張して、日傘おばさんの手の動きを注視する。
あれから「殺し屋発送メール」は、来てないはずだが。

おばさんは、ゆっくりと俺たちのテーブルの脇を通り過ぎていく……。

と、その瞬間。おばさんの手元が素早く動き、日傘の先端がカナの胸元に向かって突き出された。

だがカナは攻撃を予期していたかのごとく、余裕で日傘を片手で掴むと、そのまま上に捻り上げる。

おばさんが握りしめた日傘の柄が跳ね上がって自らの顎を直撃し、アッパーカットを食らったボクサーの如く体をのけぞらせると、椅子をなぎ倒しながらその場に崩れ落ちた。

白目を剥いて、床にのびている日傘おばさん。

一瞬の攻防を、口を開けたまま唖然と眺める俺。

カナは日傘を放り投げると、平然とした顔で両手を払う。

「『仕事』を抜けるのも、いろいろ大変なのさ」

「どういうことだ?」

「殺し屋を勝手に辞めたせいで、同業の殺し屋たちに命を狙われてるのだ」

奥の席で、爺さんが不快そうに「かあっ」を連発している。

「さて、オジサン。か弱き女子高生を、ひとりで夜中に張り込みさせるってことはないよね?」

か弱きって。

ふとあずさを見やると、何事もなかったように電話を続けていた。

これが今時の高校生の日常かよ。





夜の住宅地。

道路沿いには戸建てが立ち並び、窓から家庭の明かりがぽつぽつと放たれている。
俺も美咲がいる暖かな部屋に帰りたい。

10月ともなると、夜はさすがに冷える。
薄手のシャツ姿で来てしまった事を後悔した。

あずさの家から2軒離れた路地角から、俺とカナは辺りを窺っていた。
ユータらしき男は、毎晩きっかり20時に現れるらしいが。
それが本当だとすると、ストーカーにしては、なんだか几帳面すぎて妙な気もする。

「20時まであと3分だ」

カナが塀の影から首を伸ばして、あずさの家を見上げる。
2階のあずさの部屋からは、閉め切られたカーテンを通して蛍光灯の淡い光が漏れている。

何をやってるのだ、俺は。

夜中に女子高生の部屋を覗いている。
まるで俺たちの方が、ストーカーか変質者だ。

ふと我に返り、むなしい気分に襲われた。

「……なあ、カナ」

「なんじゃ?」

「日を改めて直接ユータの家に行って、本人を問いつめた方がいいんじゃないか。夜中に張り込みとか、俺たち探偵じゃないんだから。だいたい……」

「ちょっと待って!」

カナが興奮したように、小声で俺を制する。

路地の向こう側の暗闇から、ふいに男が姿を現した。
黒色っぽいパーカーのフードですっぽり頭を覆い、ポケットに手を入れ俯き加減で、ゆっくりとこちらに歩いて来る。

「あいつがユータか?」

「わからん。体型はそれっぽいけど」

男はあずさの家の正面まで来ると、道路の反対側にある街灯の下に立って2階を見上げた。
だが、フードが街灯の光を遮り、顔は見えない。

俺は肩に掛けたメッセンジャーバッグから、商売道具である一眼カメラを取り出した。
ファインダーを覗き、レンズを望遠側にズームさせる。

ダメだ。
アップにしても、暗すぎて顔の表情は捉えきれない。

シャッタースピードを3秒に設定して、手ぶれを抑えるために塀の壁に腕を押し当てながらカメラを構え、慎重にシャッターを押す。
長時間露光だ。
シャッターを長く開ける事により、暗い部分を明るく撮影する。

撮った画像を、カメラの液晶画面でカナに見せた。

「ブレてて全然わからん。オジサンほんとにプロのカメラマンか」

あきれた表情でカナが肩をすくめる。

「どんなプロでも手持ちじゃこれが精一杯だ。それにここからじゃわからないが、あいつは落ち着かなく顔を動かしている。だからブレて見えるんだ」

落ち着かないというか、何故かオドオドしてるような気もする。

「もういい、こうなったら出たとこ勝負だ」

カナはひとつ大きく息を吐くと、男に向かって真っすぐ歩み寄っていった。

「ユータ! あんたユータなんでしょ!」

静かな住宅街を、カナの声が切り裂く。

男はびくっとしてカナを見るや否や、反対側に向かって駆け出した。

カナも後を追って走り出す。

やれやれ。

俺はカメラを小脇に抱えたまま、カナに続いた。

男は足音を大きく響かせながら、全速力で逃げて行く。
その先は、車通りの多い片側2車線の大通りだ。

カナは必死に追いかけるが、男の足も早くその差はなかなか縮まらない。

やがて男は大通りに達すると、角を左に曲がって姿を消した。
先を行くカナもその後に続く。

息を切らしながら遅れて漸く角を曲がると、カナがひとりで呆然と立ちつくしていた。
真っすぐ続く歩道には、人の気配がない。

「いきなり消えたよ。あいつ」