はくしょんっ!

思いっきりクシャミをして、鼻をすすりながらふと思い出した。

俺は猫アレルギーだ。

猫に近づくと、くしゃみが止まらなくなる。
美咲は大の猫好きだが、俺は苦手。いや、猫は嫌いじゃないんだが、体が受け付けない。
しかし、どうでも良いことは思い出す。もっと肝心な記憶を掘り起こす方法はないものか。

はあくしょんっ!

おかしい。なぜかクシャミが止まらない。
もしかすると、後ろで俺にしがみついている猫娘のせいかもしれない。

東京と横浜を結ぶ、第三京浜道路。
ハヤブサに乗り、時速200キロでかっとばしていた。
まだまだアクセルには余裕がある。なにせこのバイクの最高速度は300キロだ。

速度差がありすぎて、まるで止まっているように見える車を、左右に車体を倒しながらかわしていく。
後ろから、カナの悲鳴のような、笑い声のような叫び声がするが、風にかき消されてよく聞き取れない。

既に殺し屋に、二度襲われた。

たまたま美咲のスマホを持っていたせいで、俺が間違われて襲われたんだろうが、いつまでも「誤配」が続くとも思えない。
次の殺し屋は、美咲のところへ行くかもしれない。
運良く俺は2人の殺し屋を躱(かわ)せたが、か弱い美咲だったら、ひとたまりもないだろう。
しかも本人は、殺し屋に狙われていることすら知らないのだ。

心が焦る。

それは、俺のせいで美咲が殺されることに対する罪悪感なのか、それとも、美咲への愛情なのか。

今はまだ、どちらなのか、自分の気持ちがわからない。





「キャハハハハハハハ……」

バイクから降りたカナが、狂ったように笑い続けている。
三鷹と江ノ島の、ほぼ中間地点である保土ヶ谷インターチェンジのサービスエリア。

カナがトイレに行きたいと、後ろで暴れ始めたのでやむを得ずバイクを停めたとたん、これだ。

「いつまで笑ってんだ。早くトイレ行ってこいよ」

「……だって……速い、速すぎるよ、その乗り物……」

カナはお腹をかかえたまま、地べたに座り込んで笑い続けている。

人は想像を絶する体験をすると、恐怖を通り越して、笑いが止まらなくなるらしい。

子供連れの家族が、不審そうに目をやりながら通り過ぎていく。
その目は、カナのそばにいる俺(保護者)にも注がれる。

やれやれ、ここでも不審者扱いかよ。

俺はカナを放置して、スマホを取り出した。
幸い、次の殺し屋発送メールはまだ来ていない。

写真アプリを起動して、猫の写真をもう一度、眺める。
江ノ島は周囲4キロと小さな島ではあるが、江島神社の社殿が3箇所にあり、展望台や洞窟もある。
島に入ると以外と広く、観光スポットも多い。
当ても無く美咲を探している時間はない。

美咲がいるとすれば、猫がいる場所だ。
猫はそれぞれ縄張りを持っているから、生息している場所も各所に分かれている。

俺は猫写真の背景に目を凝らして、場所を確認しようと試みる。
だが、どれも猫のアップで、後ろの景色が殆ど見えない。
次々と写真をスワイプしているうちに、あの男のにやけた写真で手が止まる。

「誰、それ?」

いつの間にか素に戻ったカナが、スマホを覗き込んでいた。

「葉山浩介っていう、美咲の旦那。なんか、俺に似ていて気味が悪いが」

「ふうん。でも、なんか変な写真だね」

「え? どこが」

「この写真だけブレてる。他の猫の写真は綺麗なのに。それに……」

「それに、何だ」

カナは大きい目をくりくりさせながら、何事か考えている。

「いや、ちょっと気になっただけ」

「おまえな……」

「さあ、早く行こうぜ。海が待ってるぜ!」

またもや、いきなり豹変したカナは、低い声で俺の肩を叩く。

「……その前に、ホットドック食べていい?」

また食うのかよ……。





砂浜には海の家が立ち並び、色とりどりの水着を身につけた多くの海水浴客で溢れかえっていた。

遠くの海に目をやると、反射した太陽の光が水面(みなも)に無数の輝く星を造り出し、まるで女神の衣が海に漂っているような、そんな神々しさすら感じる。

海岸通りの渋滞した道を、少しスピードを落として車をすり抜けながら慎重に進んで行った。

カナは後ろのシートで、ひとり興奮して暴れまくっている。

「海だあ!!」

そりゃ、見ればわかるって。

「泳ぎたいなら、ここで降ろしてやるぞ」

降りるという返事を期待して聞いたのだが。

「いや、私カナヅチだし!」

そうですか。

稲村ケ崎を越えた先で、それは唐突に姿を現した。
陸続きの小さな島、江ノ島。

「ひゃっほう! 江ノ島来るの初めて!」

まあ、夏休みだというのに、学校の補修サボってアイス食ってるような地味な日々を送る女子高生にとって、これは非現実な光景なんだろうな。

なんとなくだが、カナを連れて来てやって良かったと思い始めている。
警察に尋問されたら「未成年者略取」とやらで言い訳立たないが。きっと。

何の因果か、こんなところまで連れて来てしまったが、つい数時間前に会ったばかりの奇妙な女の子だ。

俺は全然カナのことを知らない。

おそらくあのマンションの近所に住んでいて、数学が苦手で、食欲旺盛で。
知っているのは、その程度。
だが、そんなカナをどこか可愛いと感じている自分もいる。勿論、恋心とかそういう意味ではなく。

どこか、不思議な魅力を持った猫娘だ、こいつは。

「ねえっ!!」

いきなりヘルメット越しに、カナのがなり声が脳天を貫き、俺は飛び上がった。
弾みで車体がふらふらと蛇行し、あわててハンドルを握り直す。

「なんだよ、急に大声出すなよ。心臓停まるだろ。殺し屋か、おまえは」

「さっきから、話しかけてるのに反応がないからだよ。何、ぼうっとしてるのさ」

「それは……美咲の事が心配だからだ」

「殺されたらオジサンのせいだもんねー」

その言葉でふと、現実に引き戻される。

俺はなんで美咲を殺そうと思ったのだろう。

葉山浩介なる男に、美咲を奪われたから?
美咲が、もう自分の元に戻らないと知って、殺す気になった?
しかし愛する女性を殺す為に、あんな怪しい殺し屋派遣ネットショップなるものを使うだろうか。

うーむ。

ストーカー心理は今の自分には良くわからないが、自分を愛してくれないなら、いっそ自分の手で、とか考えたりするものじゃないのだろうか。
そう、異常な独占欲や支配欲が度を超した時に、そういう事件が起きるって聞いた事がある。

「なんかさー、気になるんだけど」

カナが俺の思考に割り込んで来る。

「なにが?」

「いや、なんで美咲さん、ひとりで江ノ島に行ったんだろうなって」

「そりゃ、夫婦だっていつも一緒に行動する訳じゃないだろうし」

「でもさあ、ストーカーに狙われていると知ってたら、もっと用心するもんじゃない? スマホのメール見るだけでも恐怖だよ。私だったらひとりで出歩きたくないなあ」

おまえなら、ひとりでも大丈夫だよ、きっと。

「なんか言ったあ?」

こいつは、人の心が読めるのか。

「……確かにな。出歩くにしても、あの葉山浩介って旦那が連れ添うはずだ。旦那にしても心配だろうしな」

いや、待てよ。
あのマンションでの葉山との会話が頭をよぎる。

「葉山は美咲がいなくなったことに慌ててた。行き先もわかってないみたいだったぞ」

「それ、変だね。なんで美咲さんは、自分がストーカーに狙われていると知りつつ、葉山に黙って家を出たんだろう?」

わからない。

美咲はおとなしいが、しっかりした性格だった。
どんなに仕事が忙しくて夜帰るのが遅くても、朝は必ず同じ時間に起きて、ちゃんとした朝メシを作っていたし。
多少体調が悪くても休まず会社に行って、しっかり仕事をこなしていた。
愚痴ひとつ言わずに。

『生きるってね、目の前のモノをしっかりと片付けていくことなの。無造作に積み上がった段ボール箱を、崩さないようにひとつずつ丁寧に降ろすみたいにね。そうしてるうちに、片付けた隙間からきっと素晴らしい何かが現れるの』

たまには会社なんてサボってのんびりしろよ、って俺が言った時の美咲のセリフだ。
今でも、はっきり覚えてる。
美咲は、いいかげんに生きている俺とは、たぶん違うセカイを見つめていた。

あれ、俺いろいろ思い出しているぞ。

やっぱり、俺は美咲と暮らしていたんだ。
そして、俺はそんな美咲が大好きだった。

「ねえ、美咲さんは葉山とうまくいってたのかな?」

「ん、なんでだ」

「うーん、なんとなくだけど」

どうにも解せない。
そんなしっかり者の美咲が、葉山と何があったにせよ、鍵も開けっ放しで家からいなくなるなんて。

気がつくと、江ノ島大橋の交差点まで来ていた。
左に曲がった先に、真っすぐ伸びた2車線の道路が江ノ島へと続いている。
横断歩道を、高校生くらいの水着姿のカップルが、楽しそうにじゃれあいながら渡って行った。
焼けた肌には水滴が煌めき、持て余す若い力を青い海にすっかり解き放っている。

カナは黙っているが、そんな同年代の彼らに対する羨望の想いを、背中からひしひしと感じた。

なんだか愛おしい奴だ。

信号が変わると同時に、俺はアクセルをいつもより多く捻り、目の前に見える江ノ島に向けて飛び出した。





立ち止まったまま、腕時計に目をやる。
13時過ぎだ。時間は容赦なく過ぎて行く。

しかし、人の列は一向に前へと進まない。

江島神社に向かう緩やかな登りの参道は、老若男女はたまた白人黒人東洋人関西人に至るまで、多くの観光客でごったがえしていた。
先を急ごうにも人の列は遅々として進まないが、江ノ島を巡るには、島の入り口から続くこの参道を抜ける必要がある。

「くんくん」

横を歩くカナの声がしたので、目を向けるといつのまにか消えている。

あたりを見渡すと、カナは土産物屋の店先に設置されたガラスケースに貼り付いていた。

しらすクレープ。

おまえ、本当にそれを食べたいのか?

江ノ島の名産と言えば生しらすだが、しらすは土産用として様々な姿に形を変えていた。
観光地名物特有のありがちな商法だ。

しらすせんべい ←まあ、わかる。
しらすクッキー ←わからない。
しらすクレープ ←!?

「ねえ……」

こいつ、オンナの眼をしてやがる。

そこから動きそうもないので、やむを得ずポケットから1万円札を取り出した。

「観光に来たんじゃないんだからな」

目をくりくりさせながら、しらすクレープを頬張るカナを睨む。

「わかってるって。戦(いくさ)の前には腹ごしらえじゃ」

別に戦をする気はないのだが……。

ふと、目の前を歩いていた女の子が、持っていたカメラを振り上げたので、俺は思わず身構えた。

が、どうやら自撮りだったらしい。
カメラのモニタを見ながら、友達らとはしゃいでいる。

「なに、びくついてるのさ」

呆れた顔をするカナに、俺は黙ってスマホの画面を見せた。

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件名:【殺し屋】再再発送のお知らせ

本文:

毎度ありがとうございます、【殺し屋】派遣ネットショップです。

【ストーカー】様よりご注文頂きました【殺し屋】を発送しましたが、またもや受け取り拒否されましたね?
繰り返しお伝えしますが、商品の性質上、受け取り拒否は断固としてお断りしております。

【殺し屋】を再再発送しましたので、お知らせします。

お届け予定時間:30分以内

お届け先:あなた

お届けする【殺し屋】:カメラ女子

返品、交換、および受け取り拒否は一切受け付けられませんのでご了承ください ←ここ重要!
ご不明な点につきましては、【ストーカー】様にお問い合わせください。

またのご利用をお待ちしております。

※このメールアドレスは配信専用です。このメッセージに返信されても回答しかねます。
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「カメラ女子?」

「そうだ、今はやりのカメラ女子だ。まわりを見てみろ」

プロが使うような高級一眼カメラを、首からストラップでぶら下げた女性がそこらじゅうにいる。
あまりに多すぎて、どれが殺し屋なのかわからないのだ。

「カメラ女子って、大した相手じゃなさそうだね。武器はカメラ? それで殴るの?」

カナが小バカにしたように鼻を鳴らす。

「いや、甘く見ない方がいいぞ。最近の一眼カメラはマグネシウム合金っていう、軽くて頑丈な金属で出来ている。充分破壊力は高いはずだ」

屈んで猫を撫でている無防備な美咲の背後にカメラ女子が忍び寄り、一眼カメラを振りかざすイメージが頭に浮かぶ。

ガッ!!

倒れた美咲の頭から流れ出た真っ赤な血が、地面に小さな溜まりを作り、それは次第に大きな広がりを形成していく……。
猫はミルクのように、その血をぴちゃぴちゃと舐めるのだろうか。
口元を真っ赤に染めながら。

ああ、なんて恐ろしい……。

「どうした!」

カナの恫喝で、はっと現実に引き戻される。

「ぼうっとしてる暇あったら、美咲さん見つけなよ」

「ずっと探してるが、こう人が多いとな」

俺は困惑しながら、あたりを見渡す。

「なんか美咲さんの特徴ないの? 髪を腰まで伸ばしてるとか、身長が2m近くあるとかさ」

「そんな極端な特徴はない、はずだ」

美咲のイメージを、断片的な記憶の欠片から繋ぎ合わせてみる。

「髪は肩までのセミロング。身長は165cmくらい。体型はスリムですらっとしている。均整の取れた顔立ちで、笑うとえくぼができて」

「ああ、そうですか!」

カナは何故かムスっとしている。

「とりあえず、痩せていて美人、オトナの女を探せばいいんだね?」

「そうだ。見つけてくれ」

「いた」

カナが指差す先には、中年のオッサンに腕をからます、いかにもケバそうなキャバ嬢らしき女の姿。

「違う。オトナの女ってそういう意味じゃない」

「まだ高校生の私に、オトナの女の定義とやらは難しいんですけど!」

なんだか機嫌が悪い。

「もういい。美咲は俺が探す。おまえはカメラ女子が襲ってこないか見張れ」

参道を抜け、漸く辺津宮神社の門口に立する、大きな赤の鳥居に辿り着いた。
江ノ島には、この他にも中津宮、奥津宮と、合計3箇所に神社が点在している。

さっそく、池の脇で寝ころんでいる数匹の猫を見つけたが、近くに美咲の姿はない。
猫の周りには、シャッターを切りまくるカメラ女子がずらりと並ぶ。

「猫いるね」

「ああ、カメラ女子もな」

「これじゃ美咲さんは、呉越同舟、とやらだね」

「学校で覚えたのか知らんが、言葉の使い方が間違ってるぞ」

時計に目をやる。
【殺し屋】再再発送メールが着信してから、15分が経っている。
お届け予定時間は30分以内。
残りあと15分で美咲を探し出さねば。

気が焦る。

「とりあえず、頂上にある展望台を目指そう。途中に何箇所か猫スポットがあったはずだ」





目の前の塀の上で、黒と白のぶち猫が俺を睨んでいる。
てめえ見てんじゃねえよ。うんざりなんだよ、観光客の相手するのは。
コイツはおそらく、そう思ってる。

俺はスマホを取り出し、改めて写真を眺めた。
最後から2枚目の写真が、この猫だ。

スワイプして最後の写真を開くと、展望台をバックにした葉山の気持ち悪いにやけ顔。

スマホから目を上げて振り返ると、そこには展望台がそびえ建っている。

美咲は、この目付きの悪い猫に会った後、ここで最後に、おそらく同行していたであろう葉山の写真を撮った。
そう、この場所で猫の見回りを終えたのだ。

俺は深くため息をつく。

あやふやな記憶を頼りに、なんとか猫スポットを巡り、写真アプリに入っていた猫は全て確認した。
だが、美咲はどこにもいなかった。

殺し屋の配達予定時間は過ぎようとしている。

美咲はもう、どこかで……。

目付きの悪いぶち猫の額を何気なく撫でながら、最悪の結果を想像して気分が落ち込む。

はくしょん!

つい撫でていたが、俺、猫アレルギーだった。

「かわいい猫ちゃんですね」

声がして目を上げると、いつの間にか、隣で見知らぬ女の子がにこにこしながら猫を眺めていた。
アースカラーのふわふわしたワンピースを着たハタチくらいの女の子。癒し系で、なかなかキュートな顔をしている。

「ああ……良かったらどうぞ。俺はもう撫で飽きたので」

「猫、お好きなんですか」

「いや、まあ、それほどでも」

「かわいいですよね! 猫ちゃん」

女の子はたすき掛けにした大きなバッグから、猫用のドライフードを取り出した。
ぶち猫の鼻先に差し出すが、奴はぷいっと横を向く。

「食わないですよ。ここら辺の野良猫は近所の食堂からたっぷり餌もらってるんで」

「そうなんですか……」

女の子は寂しそうに餌をバッグにしまうと、ポケットから小さな飴の袋を取り出した。

「飴でもいかがです?」

「ああ、どうも」

袋を破って出て来たのは、赤い猫の形をした飴玉。

よっぽどの猫マニアなんだろう。
姿見は異なれど、美咲と雰囲気が似ているな、とぼんやり思う。

「江ノ島にたくさんの猫がいるって聞いて、会いに来てみたんですよ」

「そうですか。猫が好きなんですね」

「ええ、とっても! でも、家が賃貸アパートだから猫飼えなくて……」

女の子は、寂しそうな笑顔を見せる。

なんだか、気分が落ち着く。
美咲と話しているような、どこか懐かしい感覚を覚える。

何気なく、もらった飴を口に放り込もうとしながら隣を見やると。

女の子は鞄から取り出したカメラを猫に向けていた。

……ん? カメラ?

「それ、食べちゃダメ!!」

振り返ると、みたらし団子を手にしたカナが叫んでいた。

はっと我に返って、口に入れかかった飴を投げ捨てる。

それを見た女の子は、みるみるうちに狂気を孕んだ殺し屋の顔に豹変すると、低い声で「ちっ」と呟いた。

「テトロドキシン。つまりフグの毒。経口摂取で青酸カリの850倍の毒性を持ち、少量でも体内に吸収されれば神経伝達を遮断し麻痺を起こして死に至る……はずだった」

感情の無い声を発すると、カメラを俺に向けてシャッターを連射する。

「せめて写真に撮られて、魂を抜かれるがよい!」

いつの時代の迷信だよ。
それにしてもカメラをバッグに隠し持った、カメラ女子。
それ、反則だろ……。

「じゃ、俺、先急ぐんで」

狂ったようにシャッターを切りまくるカメラ女子を無視して、カナに向き直る。

「おまえ、どこ行ってたんだよ。あやうく殺されるとこだったぞ」

「オジサンこそ、若い女殺し屋に鼻の下伸ばして。面倒見切れんわ」

みたらし団子の長男を口に入れながら、呆れた顔をするカナ。
俺もおまえの食い意地っぷりには、面倒見切れんよ。

「だが、アレが発送された殺し屋なら、美咲はまだ無事ってことだ」

「これから、どうするのさ」

「疲れた。取り敢えず、そこらの茶店で作戦会議だ」

ひゃっほーい、と歓声を上げるカナ。

そのとき、ふと何者かの強い視線を感じたような気がした。

だが、辺りを見渡しても、それらしき人影は見当たらない。
うん……気のせいか?





「白玉あんみつ!」

あちこち表面のニスが剥げ落ちた古い木製のテーブルにつくなり、カナが叫ぶ。

「わかったわかった。もう何も言わない。好きなモン、食えばいいさ」

展望台の近くにある、見るからに古い家屋の甘味処。
店内は予想に反してガラガラだった。
俺たちの他には、おそらく強い陽に当たりすぎたせいで、精も根も尽き果てて無口となった二人連れの婆さんしかいない。
普通の観光客は近隣に山ほど立ち並ぶ、しらす丼屋に集中しているのだろう。

「いらっしゃーい。暑いねー」

ダイエットなんて言葉に背を向けた、小太り体型の店のおばさんがせかせかと寄って来て、テーブルの上に水の入ったコップを並べる。

「えっと、注文は……」

「白玉あんみつ!!」

「……と、アイスコーヒー下さい」

「はいはい。あれっ?」

おばさんは首に掛けたタオルで顔の汗を拭いながら、目をまるくして俺の顔を見つめる。

「お客さん、また来てくれたんだねえ」

「えっ?」

「いつも女のひとと一緒だから、気づかなかった」

「あの、私も一応、女なんですけど」

カナが、ぶすっとした顔でおばさんを睨む。

「あれあれごめんねえ。この子は妹さんかな? いやね、いつもはすらっとした綺麗な人と一緒だから」

おそらく全く悪気は無いであろうおばさんのさり気ない発言が、カナの怒りを加速的に増幅させているに違いないが、今はそれどころではない。

「待ってください。私はよくここへ来てるんですか? その女性と」

「なによう、とぼけちゃって。おしどり夫婦のくせに」

おばさんが俺の肩を思いっきり叩く。痛い。
俺が美咲と一緒に、何度もこの甘味処に来ている?

いや、待てよ。

「それは俺じゃなく、こんな目をした俺に良く似た男じゃないですか?」

俺は目を精一杯目を細めて、葉山の顔模写を試みる。
おばさんも目を細めて、俺の作り顔をたっぷりと時間をかけて見つめた後、頭を傾げた。

「いんや、わからん。わたしゃド近眼だし」

肩をすくめて、すたすたと店の奥へ戻るおばさん。
その後ろ姿を睨み続けるカナ。

「何さ、感じ悪い」

「とにかく、美咲がここに良く来てたのは確かなようだ。おそらく葉山とな」

「でも、今日は来てないみたいだね。これだけ探しても見つからないし、やっぱり江ノ島には来なかったんじゃ」

「うーん」

俺は頭を抱える。
無駄足だったのか……。

「だが、殺し屋はここにも現れたぞ。美咲を狙っているなら、江ノ島に美咲が来ている可能性も否定できないだろ」

「ん……ちょっと、美咲さんのスマホ見せてよ」

スマホを渡すと、カナは猛烈な勢いで何やらタップし始めた。

「……ふむふむ。『スマホを探す』設定がされていて、位置情報提供機能もオンになっている。なるほどなるほど」

「なんだ、どういう事だ」

「このスマホは、今どこにあるかがわかるようになっているのさ。つまりだね、殺し屋はこのスマホの位置情報を追っている可能性が高いってこと」

「じゃあ、俺がこのスマホを持ってる限り、美咲は狙われないのか?」

「オジサンは狙われるけどね」

「コレを捨てちまったら?」

「殺し屋は追跡方法を切り替えて、別の方法でターゲットを追いかけるだろうね」

俺は頭を抱えた。
スマホを俺が持ってさえいれば、美咲は無事。
それは、ひとまず安心だ。
だが、俺のところにはこれからもずっと殺し屋が配達されるだろう。そう、俺が死ぬまで。

どうすりゃいいんだ……。

「はい、お待ちー」

店のおばさんが、テーブルの上に白玉あんみつとアイスコーヒーを並べた。
カナは満面の笑みを浮かべて、待ちきれんばかりに両手をふるふると動かしている。

ふと、おばさんの腰にぶらさがる、巫女のような格好をした猫が描かれたお守りに目がいった。
はっと気づいてポケットから、赤いお守りを取り出す。
俺のは和尚の猫が描かれているが、良く似ている。

「おばさん、コレは!?」

「ああ、これ? うちで売ってるお守りだよ。夫婦猫(めおとねこ)って言うのよ」

「夫婦猫?」

「江ノ島に3箇所ある江島神社。これは三女神といって、つまりは神話に出て来る天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)の子供、三姉妹の女神様を祀ってるのさ。それにあやかって、アマテラス猫とスサノオ猫、ふたつセットで売ってるのよ。ほら、そこに並んでるでしょ」

おばさんは店の壁側にある、土産物コーナーを指差す。

「うちのオリジナルグッズ。結構人気なんだよ。これをカップルで持ってると絆が深まるってね」

「……神話では、スサノオが暴れたせいで、アマテラスは岩戸に逃げたんじゃなかったっけ?」

「細かい事は、私ゃ知らん」

いいかげんだな。

和尚と思っていたが、これはスサノオだったのか。
しかし、なぜ俺が、ここでしか売っていないお守りを持っているんだ。
美咲と葉山の後をつけて江ノ島までやって来て、自分でお守りを買ったのだろうか。

何のために?

気がつくと、カナが土産物コーナーにしゃがみこんで、なにやら物色している。
白玉あんみつの皿は、いつの間にやら空っぽだ。

相変わらず、食うのが早い。

呆れながら席を立って近寄ってみると、カナは安っぽいビニール袋に入ったアマテラス猫とスサノオ猫のお守りセットを手に取って、じっと見つめていた。

「欲しいなら、買ってやるぞ」

「ホントに!?」

カナは俺を見上げて、目をくりくりさせる。

コイツは食い気だけかと思っていたが、やっぱり普通の女の子なんだな。



店の外へ出ると、とたんに真夏の強烈な陽光が降り注ぎ、軽く目眩を覚える。
観光客の姿はさっきより増えて、路上は多くの人でごったがえしていた。
容赦なく耳に飛び込んでくる雑多な話し声と人いきれで、暑苦しさが倍増する。

カナが小さな手で、俺のジャケットの裾を握りしめた。
はぐれたら、おそらく二度と会う事はないだろう。

ただ、こんな真夏に長袖のライダーズジャケットを着た男と制服姿の女子高生の二人連れは、観光地には似合わないようで、通りすがりの人々の奇異な目に晒されている、ような気がする。

「さて、どうするのさ」

周囲の雑音に負けないように、カナが大声を出す。

「そうだな、もう一度美咲のマンションへ戻ってみるか。何か思い出すかもし……」

言い終わらぬうちに、激しく誰かとぶつかってよろけた。
相手は若い女性だ。謝りもせず、そのまま通り過ぎる。
酷いな、こっちは人ごみを避けて歩いてるのに。

……ん?

ぶつかった時に感じた、微かな香水の香り。

この香りは覚えている。なんだか、ふわっとした懐かしい香り。

美咲だ。

今、感じたのは美咲だ。

あわてて後ろを振り返る。

しかしその姿は、既に人海の彼方に消えていた。

「どうした?」

「今、美咲がいた……」

俺は伸び上がって、懸命に美咲の姿を探す。
だが、それらしき人影は見当たらない。

「気のせいじゃないの?」

「いや、あれは確かに美咲だった」

間違いない。美咲の感触が、記憶としてふっと蘇ったのだ。

美咲はやはり、江ノ島に来ていた。

無意識にポケットに手を突っ込むと、スマホがない事に気がついた。

「カナ、スマホがない」

「私、持ってないよ。店出る時にオジサン、ポケットに入れてるの見たし」

すられた?
もしや、今ぶつかってきた美咲に?

「ぶつかったのが本当に美咲さんだとすれば、わざとだね。どこかでオジサンの姿を見掛けて、スマホを取り返す機会を狙ってたのかもしれん」

美咲は俺たちが江ノ島に来た事に気づいた。
おそらく、たまたま姿を見掛けたんだろう。
ストーカーが自分の後をつけて来たと思って、逆に俺たちを見張っていた。

そして、俺たちがさっきまでいた茶店を影から覗き見し、スマホを俺に盗まれた事を知って、取り返した。

「まずいぞカナ。殺し屋はあのスマホの持ち主を狙ってるんだろ」

「そうね。今度こそ、本来のターゲットである美咲さんが殺される」

逡巡してる場合ではない。なんとかしないと。

「おそらく美咲は、すぐに家に帰るはずだ。俺から逃げるために。……カナ、おまえのスマホで、次の小田急ロマンスカーの出発時刻を調べてくれ」

カナはスマホを取り出し、猛烈な勢いでタップする。

「次の片瀬江ノ島発新宿行きは……15時31分だね」

時計を見ると、15時をまわったところだ。
急いで、人ごみを掻き分けながら来た道を戻り始める。

「あと、悪いお知らせがあるよ、オジサン」

歩きながら、カナはスマホの画面を俺に差し出した。

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件名:【殺し屋】再再再発送のお知らせ

本文:

毎度ありがとうございます、【殺し屋】派遣ネットショップです。
【ストーカー】様よりご注文頂きました【殺し屋】を、なぜ受け取り拒否なさるのですか?
これ以上受け取り拒否を続けられる場合は、弊社としましても断固とした対応を取らざるを得ません。
いいかげんにしてください!

【殺し屋】を再再再発送しましたので、お知らせします。

お届け予定時間:1時間以内

お届け先:あなた

お届けする【殺し屋】:ジェイソン

返品、交換、および受け取り拒否は一切受け付けられませんのでご了承ください。
いいですか? 「一切」ですよ!!
ご不明な点につきましては、【ストーカー】様にお問い合わせください。

またのご利用をお待ちしております。

※このメールアドレスは配信専用です。このメッセージに返信されても回答しかねます。

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「カナ、なぜおまえのスマホにこのメールが来てる?」

「さっきスマホを借りたとき、こっそりメールの転送設定をしたの。だってさあ、伝説の殺し屋派遣ネットショップからのメールだよ。友達に自慢できるじゃん」

こいつは……。

「まあいい、許す。ある意味でかした。しかし、ジェイソンって何モノだ」

今までは、名前通りのわかりやすい殺し屋だった。
そのため、ある程度予測する事ができた。

しかし、今度の殺し屋は「ジェイソン」。さっぱり見当がつかない。
殺し屋派遣ネットショップの連中も、このままでは埒があかないと、情報提供の方針を変えたのかもしれない。

スマホをタップして検索していたカナが答える。

「ジェイソン。スプラッタームービー『13日の金曜日』に出て来る殺人鬼。アイスホッケーのマスクを被った巨体の男。不死の怪物」

「なんだと」

「倒しがいがありそうだねえ」

カナがポキポキと指を鳴らす。

冗談じゃない。
今や俺じゃなくて、美咲が狙われている。
そんな化け物に襲われたら、ひとたまりもないだろう。

「ちょっとすみません、通して下さい!!」

俺は大声を張り上げて人を避けながら、先を急いだ。





片瀬江ノ島駅に辿り着いたのは、ロマンスカーの発車時刻ちょうどだった。
発車のベルが鳴り響いている。

俺は迷わず改札ゲートを飛び越えた。
カナも小柄とは思えない驚くべき跳躍力で、軽々とゲートを通過する。

「ちょっと! お客さんっ!」

駅員が叫んでいるが、構わず停車しているロマンスカーに駆け寄った。

が、無情にも目の前でドアが閉まる。

間に合わなかったか……。

俺はホームを走りながら、車窓から車内を覗き込んで美咲を探す。
ロマンスカーは隣駅の藤沢でスイッチバックするため、片瀬江ノ島駅には後ろ向きで停車する。
そのため、縦に並んだクロスシートの乗客はこちら側を向いており、その顔をつぶさに確認することができた。
血相変えて車内を覗き込む俺を、皆怪訝な目で見ている。

電車がゆっくりと動き出した。

そのとき、ふと、見覚えのある顔と目が合った。

美咲。

美咲は固い表情のまま、冷たい目で俺の顔を見つめていた。
そこには、何の感情も読み取れない。

あえて表現するなら、敵意。

俺は思わず、その場に固まってしまった。

そのまま電車は動き出し、遠ざかって行く。

俺は肩で息をしながら両膝に手をついて、去り行く電車を上目で追った。

「オジサン、いい顔してるねえ。まさにそれは、ストーカーの目つきだよ」

追いついたカナが、俺の顔を覗き込んで、心から感心したように頷く。

確かに俺は、獲物を逃したオオカミのような鋭く暗い視線を、遠く去りゆく電車に向けて浴びせ続けていた。

美咲のあの表情。

驚きや、恐れや、怒りですらなく。
もちろん、愛情のかけらもなく。

俺はやはり、美咲に完全に拒絶されたストーカーだったのだ。

走ったせいで体は熱いのに、背中にだけ、ひんやりとした冷たさを感じる。

気がつくと、憤懣(ふんまん)に満ちた駅員たちに取り囲まれていた。
おとなしく連行されて、改札の外へと放り出される。

「カナ……今の電車、何時に新宿駅に着く?」

ちょっと待て、と言いながらスマホを叩くカナ。

「新宿着16時39分だね。どうする気さ?」

美咲が新宿駅に到着するまで……残り65分。
不可能に近いが、やってみるしかない。

「バイクで追いかけるぞ」

「……ほう」

「ここからだと外環道路通って八王子から中央道に乗るのが近いが、この時間は酷く混んでいるだろう。とすれば、遠回りだが横浜横須賀道路から湾岸道路、大井ジャンクションから首都高速C2山手トンネルで都心を突っ切るルートしかない」

「よくわからんが、バイクで電車に追いつく気?」

俺は駅前に停めたハヤブサに跨がり、ヘルメットを手にする。

「距離にしておよそ80キロくらいか。高速に乗れば早いが、乗るまでの渋滞を考えるとギリ間に合うかどうかだ」

おそらくこれから、ハヤブサの性能を最大限まで引き出す事になるだろう。
俺はポケットから千円札を取り出して、カナに差し出す。

「かなり危険だからおまえは乗せられない。これで帰れ」

「イヤだ。殺し屋発送メールが届くスマホは、私が持っているんだよ?」

うっ、そう来たか。
おそるおそる、今度は5千円札を出してみる。

「コレでスマホを借してくれないか?」

「お金には釣られないよ。ここまで来たんだから、最後まで見届けるんだ」

「……」

「ほら、3分経過。あと62分しかないよ!」

「……乗れ」





横浜を過ぎて、湾岸道路に入る。
メーターは300キロを優に振り切っていた。
タコメーターもレッドゾーンから動かない。

道路を走行している全ての車は止まって見えて、まるで次元の異なる世界に迷い込んだようだ。
俺の腰をぎゅっと握りしめたカナの手から、必死さが伝わってくる。

予想通り、江ノ島から最寄りの逗子インターチェンジまでは道路が酷く混んでおり、無駄な時間を食ってしまった。
ロマンスカーが新宿駅に到着するまで、あと20分ほどしかない。
だが、間に合わせる。必ず。

俺は美咲を、何故必死に追っているのだろう。

これこそ、まさにストーカーの行動そのものじゃないか。

勿論、正当な理由はある。
俺が注文したであろう殺し屋から、美咲を守るためだ。
それは、自分が殺人教唆罪に問われたくないから?

いや、違う。

美咲に死んで欲しくない。
俺は美咲を愛しているから。

自分勝手なストーカー愛だ、と言われようが構わない。
警察に捕まろうが、殺し屋に殺られようが、今となってはどうでもいい。

俺は全力で、美咲を守ってみせる。

あっという間に大井ジャンクションを通過し、山手トンネルに入った。
全長18キロメートルの都心の地下を横断するトンネルで、その長さは日本最長だ。
片側2車線の道路だが、地上に乱立する建物の地下基礎部分を避けるため、タイトなカーブが連続している。
走行車両もそこそこ多いため、少しスピードを落とさざるを得なかった。

とは言え、スピードメーターは軽く200キロを指している。
後ろのカナを振り落とさないように細心の注意を払いながら、左右に素早くハヤブサを傾けて次々と車をパスしていく。

ふと気がつくと、横に一台の車が並走していた。

黒塗りのBMW。
ハイスペックな高級車だ。

この速度で並んでいる?

と、BMWはこちらに向きを変え、幅寄せをしてきた。
衝突する、と思った瞬間、また少し離れる。

俺はスピードを上げた。
だが、BMWはぴったりと横につけて追走する。

ドライバーに目をやると、白人だ。
スーツ姿に細いネクタイ。頭は禿げ上がっていて……。

これって、ハリウッドアクション俳優の、ジェイソン・ステイサムか?
あの、高級車を使ったプロの運び屋役の映画で有名な。

俺を見て、口角を歪めクールにニヤリと笑う。

ジェイソンって……おい。
そっくりさんかよ。

ジェイソンは再びハンドルを切って、フェンダーをハヤブサにぶつけてきた。
衝突によってハヤブサは反対側にはじき飛ばされ、トンネルの壁にミラーが接触し、細かい火花が散る。

必死にハンドルをコントロールし、なんとか車体を立て直した。

やつは、本気だ。

俺はギアを一段落とすと、スロットルを全開にした。
ひょいと一瞬ハヤブサのフロントが浮き上がり、爆発的な加速でBMWを引き離す。

だが、コーナーに入るとBMWは瞬く間に追いつき、俺の後ろにぴたりと付ける。
相当、手を入れて改造された車のようだ。

狭いトンネルで逃げ場が無い。

後方から衝撃を感じる。
フロントをハヤブサのリアに、ぶつけてきているのだ。
この速度で転倒したら、俺もカナも命は無いだろう。

このままじゃ、圧倒的に分が悪い。
考えろ、俺。

前方に大型トレーラーが見えてきた。

これは……。
イチかバチか、やってみるしかない。

スピードを一旦100キロまで落とし、後ろのジェイソンを挑発するように蛇行する。
ミラー越しに見える奴の顔に、一瞬当惑の表情が浮かんだ。

今だ!

いきなりフルスロットルで加速し、トレーラーを追い越すと、その前に出る。

不意を突かれ遅れを取ったBMWも、続いてトレーラーを追い越しにかかる。

頼む!

俺は、心の中で必死に神に祈りを捧げながら、思いっきりブレーキを握りしめた。
ちょっとでもタイミングがずれて、このままトレーラーに追突されたら、一巻の終わりだ。

だが祈りが通じたのか、衝突する寸前にトレーラーは急ブレーキをかけ、その反動で車体はつんざくようなスキール音とともに、大きく横へとスライドした。
貨物部分が、横に並んでいたジェイソンのBMWに激突する。

トンネルの壁面とトレーラーに挟まれ、ひしゃげたBMWはまるでダンスをするように上へと跳ね上がり、そして爆発した。

バックミラーに映る派手な爆炎は、すぐに小さく遠ざかっていった。


16時39分。

ロマンスカーの到着時間ちょうどに、新宿駅西口に辿り着いた。

ハヤブサをロータリーに停めてヘルメットを脱いだ瞬間、エンジンから焼けた鉄の匂いが、激しく立ち昇っていることに気づいた。

よく、ここまで持ってくれたよ。
労うように、ハヤブサのタンクをそっと叩く。

カナはシートからずり落ちるよう降りると、そのままぺたんと路上に座り込んだ。
見ると目がぐるぐる回っている。

「おい、大丈夫か?」

「……ダメじゃ。早く行って。まだ間に合う」

「だけど、おまえ……」

「何の為にここまで来たのさ。わたしゃちょっと酔っただけだよ。すぐ追いかけるから先に行け」

「わかった。ここで休んでろ」

後ろ髪を引かれつつも、俺は小田急線の改札へ向けて駆け出した。
巨大な新宿駅は人で溢れ帰っている。
全く、江ノ島もここも、どこへ行っても人だらけだ。

人ごみを掻き分け、ぶつかりながらも、ひたすら全力で走った。
小田急線の改札までは、あと少しだ。ほんの数百メートル。

いや、待て。

ふと心の中の、もうひとりの自分が俺を呼び止める。

美咲に会って、どうしたいんだ?

俺は、ある重大な事実に気がついていた。
ずっと勘違いをしていたのだ。
もっと早く気づいてしかるべきだった。

会って、何を話せばいいと言うのか。
美咲の前に、のこのこ顔を出す資格もない。

俺はストーカーなんだ。

殺し屋に狙われていたのも俺。
ジェイソンが美咲を狙わず、俺のところに姿を現してやっと理解した。

殺し屋は、スマホの持ち主である美咲を狙っていた訳ではなかった。
最初から配達先は、「俺」だったのだ。
ストーカーの俺を抹殺するために、おそらく葉山が殺し屋を注文したに違いない。

足が止まった。

その場に立ちすくむ。
顔から汗が滝のように滴り落ちる。

俺はその場から、動けなくなっていた。
顔を上げて、目を瞑る。
もはや、どうすればいいのか自分でもわからない。

だが。

やはり美咲に会うべきではない。

それは、明確かつ断定的な、自分自身への結論だった。

戻ろう、カナのもとへ。そして、これからのことをゆっくり考えよう。

意を決した瞬間、人の気配を感じた。

はっとして目を開けると、そこには美咲が立っていた。





すぐ目の前に美咲がいる。

何かしらの感情を伴った表情はなく、ただ少し頭を傾げて俺を見つめている。

「美咲……」

と、いきなり美咲は俺に抱きついて来た。

予期せぬ美咲の行動に怯みながらも、ふわっとした懐かしく甘い香りが鼻孔をくすぐり、思わず体が固まってしまう。
柔らかい体の感触。ずっと待ち望んでいた感覚。

俺の耳元で、掠れた声がした。

「会いたかったよ」

俺は、はっとして思わず美咲の体をはねのけた。

「なに? どうしたの?」

「おまえ、美咲じゃないな」

「何言ってるの? 美咲だよ」

「声が違う。いやとても良く似せているが、俺にはわかる。わずかにトーンが違うんだ」

美咲は俺の目を見ながら、寂しそうに微笑んだ。
次の瞬間、何かを隠し持っていた右の後ろ手が、俺に向かって突き出される。
それが腹部に当たった瞬間、切り裂くような激しい痛みを感じて、俺はその場に崩れ落ちた。

彼女の手には、大型のスタンガンが握られていた。
バチバチと不快な音と瞬く光、そして激しい衝撃を継続的に与え続けるそれは、倒れた俺の腹部を容赦なく抉っていく。

手足の自由が利かない。ただ、倒れたままのけぞるだけだ。
心臓が悲鳴を上げているのがわかる。これは違法に電圧を上げて改造した殺人スタンガンに違いない。

「あ、大丈夫です。この人痴漢なんで、少し懲らしめているんです」

にせものの美咲が、足を止めて俺たちの様子を伺う周囲の人々に、少し困ったような作り顔で説明しているのが微かに見える。

俺はこのまま死ぬのか。

遠ざかる意識の片隅で、遠くから様々な記憶の塊が、次々と自分の体内に飛び込んでくるのを感じた。

そうか。
そうだったのか。

俺はやっと理解した。
自分が何者なのかを。

目の前がだんだん暗くなりはじめた。
冷たい永遠の暗黒が、すぐそこまで迫っていた。
もう、何もかもが消え始める……。

薄れゆく視界の片隅で、何かが素早く動くのが見えた。
小柄なそれは、信じられないスピードで、にせものの美咲の首に右腕を叩き込む。

見事なラリアート。

にせものの美咲は、のけぞって地面に激しく頭を叩き付ける。
手から離れた殺人スタンガンが、カラカラと音を立てながら転がっていった。

ゆっくりと、視界が戻って来る。

そう、ハヤブサで転倒したあの時のように。

目の前には心配そうに顔を歪めたカナがいた。

「大丈夫? オジサン」

俺は激しく痛む腹を押さえながら、ゆっくりと起き上がった。
にせものの美咲が、白目を開けて万歳の体勢で路上にのびている。

「ああ、俺は平気だ。もう少しであの世行きだったが。なぜ美咲がニセモノだと気がついた?」

「これ。さっき届いた」

カナはスマホを取り出すと、画面を俺に向けた。

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件名:【殺し屋】再再再再発送のお知らせ

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毎度ありがとうございます、【殺し屋】派遣ネットショップです。
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弊社が自信を持ってお送りする、あなたにとっての最終兵器となります。
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「殺し屋のターゲットは美咲さんじゃない。これまでの殺し屋発送メールは美咲さん宛てじゃなかったんだ」

「ああ、最初っから俺宛てだったんだな」

「知ってたの?」

「ああ、わかっていたさ。俺がなかなか殺されないものだから、にせものの美咲を使ってスマホを奪い取った。殺し屋の情報を与えないためにな。だが、ジェイソンも失敗に終わったもんだから、にせものの美咲を改めて殺し屋として派遣したんだろう。最終兵器としてだ。さすがに俺も、うっかり気を抜いてしまった」

「ほうほう。奴らもいろいろ策を練っていたわけだね」

「それに、今の電気ショックで色々思い出した。まだぼんやりしているところもあるが、大方理解した。俺はストーカーなんかじゃない」

「えっ? どういうことさ?」

「……なぜなら、俺が葉山浩介だからだ」





傾いた陽の光に、黄金色に眩しく照らされた青梅街道を、三鷹に向けてバイクをゆっくり走らせる。

壊れかけたラジエーターから立ち上る白煙が、辺りを蜃気楼のようにゆらゆらと揺らす。
まるで、長かった灼熱の「今日」というろくでもない日の残影のように。

やがて、18時。

殺人スタンガンの影響で、しばらくその場から動く事ができなかった。
痛みを堪えながらジャケットを脱いでみると、腹部に酷い火傷ができていたのだ。
カナにコンビニで氷を買って来てもらい、ひたすら冷やして、なんとかハヤブサに跨げるくらいまでには復活した。
歩くのはしんどいが、バイクに乗ってしまえば運転はできる。
バイク乗りは、どんなに弱っていてもシートに座ればしゃんとするものだ。

ハヤブサも俺も、既にポンコツ。

だが、まだやるべき事は残されている。

行方不明の美咲を探し出すこと。
そして、俺の名を語っていた、あいつとの対決。

カナが後ろから、ヘルメットをゴツンとぶつけて来る。

「なんだ」

「ハラが減って死にそうだ」

「もうすぐ着く。おまえも家に帰してやるからそれまで我慢しろ」

「今、何か食わせろ。すぐにだ。この誘拐犯め」

「誘拐って。おまえが勝手に付いて来たんだろうが」

誘拐犯か。
客観的に見て、俺はいったい今日一日で、いくつの犯罪を犯したんだろう。

・窃盗      ←美咲のスマホ
・暴行      ←ゆるキャラ
・未成年者略取  ←カナ連れ去り
・道路交通法違反 ←200キロ超オーバー
・殺人?     ←ジェイソンを車ごと爆破。生死は不明だが


罪状のオンパレード。まさに極悪人だ。
思わず、声を上げて笑ってしまう。

「何、笑ってるのさ。気持ち悪い」

「いや、俺って我ながらすげえなと思ったんだ」

「うん、オジサンはすごいよ」

何もわかってないな、コイツは。

「なにせ、凄腕の殺し屋たちを倒してきたんだから」

「それは、カナに助けられたからだ」

「そうね。少しは助けた」

「いや、おまえがいなかったら、とうに死んでたよ」

「感謝するが良い。カナ様に」

「ああ、そうだな」

「そして全てが終わったら、私にパフェを奢るのじゃ」

「ああ、10杯でも100杯でも奢ってやる」

「ホントに!?」

……コイツに冗談は通じなかったんだ。





俺はハヤブサを止めてヘルメットのバイザーを開けると、夕焼けに赤く染まるマンションを見上げた。

やはり、ここが俺の家だ。

なぜ、あいつが俺と美咲の部屋に現れたのかはわからないが、全てのカギはあいつが握っている。
おそらく美咲の居場所も知っているハズだ。

初めて対面した時の、あいつの第一声。

『あんたは、いったい何故……!?』

この時に、気づくべきだった。
自分の家に、知らない人間がいたらこんな話し方はしない。

『あんたは誰だ!』

こう、言うだろう。

『いったい、何故』。
そう、俺を知っていたからこそ、『何故』ここにいるんだ、という反応をしたのだ。

ヘルメットを脱いでタンクの上に置くと、ジャケットのポケットから、にせものの美咲から奪い返した本物の美咲のスマホ(ああ、ややこしい)を取り出す。

着信履歴からあいつの電話番号を選ぶと、通話ボタンを押した。
だが、いくら待ってもあいつは電話に出ない。

「カナ、おまえは帰れ」

「ヤダ。ここまで付き合ったんだから、最後まで見届ける」

「ダメだ。これはあいつと俺の問題だ」

「でも……」

「ダメ」

きっぱりと言うと、カナはしばらくもぞもぞしていたが、やがてストンとシートから飛び降りた。
少し寂しげな目で俺を見る。

「……ありがとな、ここまで付き合ってくれて」

「オジサンも、がんばれ。達者でな」

ぼそっと言い残すとカナは、名残惜しそうに何度も振り返りながら、やがて住宅街の中へと姿を消していった。
なんだか、急に寂しさが込み上がる。

もう、二度と会う事はないであろう不思議な女子高生。
捉えどころがなかったが、奇妙な魅力に満ち溢れていた。

ありがとう、カナ、本当に。

もう一度心の中で呟いて、俺は痛む腹部を押さえながら、ゆっくりとマンションへと足を向けた。





がこん、と音がしてエレベーターが4階で止まる。
ドアが開くと同時に、一日の最後を締めくくるがごとく、ありったけの力を絞り絞って鳴く蝉の声が耳に飛び込んで来た。

ゆっくりと外廊下へ出て、一番奥の部屋の前に立て掛けられた、SPECIALIZEDの自転車を見やる。
あれは、確かに俺の自転車だ。
そして、あの部屋は俺と美咲のものだ。

俺は、まるで誰も住んでいないかのような静けさに包まれた廊下を歩いて、「自分の部屋」の前に立った。

あいつは、まだ中にいるのだろうか。
それならそれで、対決だ。

一度大きく深呼吸をすると、わざと音を立ててドアノブを回し、中へと入る。

陽が落ちていくと共にゆっくりと這い上がる薄闇が、部屋の中を包み始めていた。
人の気配は感じられない。

俺は美咲のスマホを手にして、再び、あいつの携帯にかけた。
発信音はするが、部屋のどこからも着信音は聞こえてこない。
ここにはいないのか。

ダイニングは、朝ここへ来た時のままだった。
ただ、フライパンの中にあったスクランブルエッグは、綺麗に無くなっている。

美咲の部屋に入ると、横引き窓から差し込む西日が、静かに家具を照らしていた。

美咲、いったいどこへ行ったんだ。

俺は床に敷かれたラグの上に、倒れ込むように寝ころんだ。
腹の痛みのせいもあるが、全身の力が抜けたようだった。

手枕をして、ぼんやりと天井を見つめる。

どうして良いのかわからなかった。
時が止まったままのこの部屋で、だたひたすら、美咲が帰って来るのを待つしかないのか。
今や、それは奇跡と呼ぶに等しかった。

ふと、たくさんの服が掛けられたハンガーラックを見やる。
シンプルだが、色彩豊かな美咲好みの服が並んでいる。

手前にあるカーキ色のチュニック。

あれは美咲にせがまれて、俺が買ってやったやつだ。
彼女のお気に入りで、休日二人で出掛ける時は、いつも着ていたな。

ぼんやり服を眺めていると、襟元から何かが垂れ下がっているのに気がついた。

ん? なんだ?

目を凝らすと、それが値札のタグであることに気がついた。

あいつ、タグ外すの忘れたまま着てたのか?

可笑しくなって笑いかけた瞬間、突如ある事に気付き、背筋に寒気を覚えた。

服を買ってやったのは去年だ。
タグを付けたままなんて、ありえない。

俺は飛び起きると、ハンガーラックの服を片っ端から調べた。

全ての服に、値札タグが付いている。

……どういうことだ。

改めて、部屋の中を見渡す。
確かに、美咲の持ち物が並んではいるが、猛烈な違和感を感じる。

生活感が無い……。

全てのモノに、使われた形跡が見当たらないのだ。

まさか俺は、大きな勘違いをしていた?

急いで引き窓を開けて、ベランダから外を見下ろす。

マンションの裏には小さな公園があって、いくつかの遊具が置かれている。

タコの形をした滑り台の奥側には、ブランコが見えて……。

なんてことだ。

全てを理解した俺は、激しい恐怖感に襲われて、美咲の部屋の中へと後ずさりした。

心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。
呼吸がうまくできない。

「……全く、しぶとい奴だな」

突然発せられたしわがれ声に、はっとして振り返ると、そこには包丁を手にしたあいつが無表情に立ちつくしていた。





俺はあいつを、正面から睨みつける。

「いったい、ここは何なんだ!」

「何って、美咲ちゃんと俺の部屋だよ。あんたの部屋に何度も忍び込んで、全てを念入りに調べ上げて忠実に再現したんだ。美咲ちゃんをここへ連れて来ても、違和感無く生活を続ける事ができるようにね」

「ストーカーは、おまえだったんだな」

「ストーカーという言葉は正しくない」

あいつは顔を歪めると、違うというように包丁を左右に振った。

「あんたは美咲ちゃんにふさわしくないのさ。俺こそが美咲ちゃんの『正しい葉山浩介』になるべき男なんだ。だから、顔も整形している。あとは目を直すだけだ」

まず、その陰湿な目から直せよ。

「あんたはいずれ、殺し屋の手でこの世から消える。そうすれば俺はあんたと入れ替わり、ここで美咲ちゃんと一緒になることができる。もともと、そうするべきだったんだよ」

「狂っている。おまえはいかれたストーカーだ」

「だから、その言い方をやめろ!」

あいつは大声で叫ぶと、包丁を振りかざした。
俺は構わず声を張り上げる。

「俺が記憶を失ったと聞いて、とっさに俺をストーカーにでっち上げた。美咲から引き離すためにな。そして、殺し屋派遣ネットショップを使って、密かに俺を抹殺しようとした」

包丁を振り上げたまま目をきょろきょろと激しく動かしている、あいつ。

「だが誤算だったのは、俺が、狙われているのは美咲だと思い込んだことだ。一日じゅう殺し屋を躱しながら、美咲を助ける為に探し続けた。そして、やっとわかったんだよ。おまえの奸知がな」

「高い金を払ったのに、全く使えないネットショップだ。だがもういい、俺があんたを処分してやるさ」

あいつは長い舌を出して包丁をぺろりと舐めると、狂気に満ちた目でそれをゆっくり俺に向ける。

ぴろろん。

手に持っていた美咲のスマホが鳴る。
意識をあいつに集中させつつ、ちらりと画面に目をやった。

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「ぐっ!?」

あいつに目を向けると、背後から何者かの腕が首に絡まり、のけぞっていた。

いや、それが何者なのかは、すぐに理解した。

「カナ、何でおまえが……」

カナは腕に力を込め、ギリギリと音を立ててあいつの首を締め上げる。
あいつは舌をだらんと出しながら、床に倒れ込んだ。
手からぽとりと包丁が落ちる。

だがカナは力を緩めない。

「葉山浩介を殺すよう、『指示』を受けた。あなたが『葉山浩介』なのよね。自分でそう言っていた。そうでしょ?」

あいつは白目を剥きながら、ただ言葉にならない声を発するだけだ。

「カナ! やめろ!」

「邪魔しないで、オジサン。これは私の『仕事』なの」

カナは今まで見た事も無いような厳しい目で、俺を睨みつける。

そんな。カナが。どうして。

「全てわかってて今日、俺にくっついてたのか? 俺を殺すために」

「違う! 『指示』が来ない事をずっと願ってた。オジサンに出会ったのは偶然。こんなことになるとは知らなかったよ。わたしはただ、オジサンを助けたかっただけ!」

今思うと、カナは誰も知らないはずの殺し屋派遣ネットショップについて、注文キャンセルの方法や再配達のシステムなど色々詳しく、妙だとは感じていた。

まさか、殺し屋の一味だったなんて。

しかし、他の殺し屋たちから俺を守ってくれたのも事実だ。
なぜなんだ。
頭が混乱して、うまく考えが纏まらない。

だが今は……兎に角こんなことをカナにさせるわけにはいかない。

「頼むからやめてくれ、カナ! そんなおまえを見たくない!」

「無理。『指示』は絶対なの」

「……そうだ。注文をキャンセルすればいい。おいおまえ、今すぐキャンセルしろ!」

意識が殆どなくなったあいつに、必死に呼びかけるが返事は無い。
俺は祈る気持ちで、あいつの首を絞め続けるカナの肩にそっと手を置く。

「カナ。俺はおまえが好きだ。だから、もうやめようこんなこと。な。全て忘れて、これから例の喫茶店へ行って一緒にパフェを食いまくろう。ありったけ全部のパフェを、食い尽くそうぜ」

だが、カナは表情ひとつ変えずに俺を睨んだまま、金切り声を上げた。

「出て行って! 今すぐに! オジサンに見せたくないの!」

これは、俺が知っているカナじゃない。
カナにはカナの裏の事情があるのだろう。それは、深い闇に包まれた不条理な何か。

俺が入り込めない世界。

どうすることもできないのか……。

俺は最後に、カナの目をじっと見つめた。

無垢で澄んだ、大きな目。

その奥にあるのは、悲しみか、怒りか。
今や、カナは俺を完全に拒絶していた。

……わかったよ、カナ。

俺は立ち上がると、まっすぐ早足で部屋を出た。
振り返ること無く。

外は既に陽が沈み、残りかすのような淡い夕焼けに包まれていた。
強い風がびゅっと廊下を吹き抜けて行く。

ここは、4階。
あのとき、エレベーターで4階のボタンを押したのがそもそもの間違いだった。

部屋のベランダから、裏の公園を見て確信した。
俺の部屋からは、タコの形をした滑り台の裏側に、ブランコ全体が見える。
だが、この部屋からはブランコの上の支柱しか見えなかった。

つまり、階が違ったんだ。

俺はエレベーターに乗って、5階のボタンを押す。

がこんとエレベーターが止まり、出て廊下の奥を見ると、そこには同じように自転車が立て掛けられていた。
黒いSPECIALIZEDの自転車。

疲れた。本当に。

ドアノブを回して家に入る。
懐かしい匂いがする。そう、この匂いを忘れていた。

ダイニングテーブルの上には、俺の財布とスマホが置いてある。

こいつを持って行くのを忘れたせいで。

ため息をつきながら、美咲の部屋のドアを開けた。

ラグの上で、美咲が体を丸めて寝り込んでいる。

ごく自然にリラックスした様子で。

「美咲……」

美咲は、うーんと言いながら体を動かし、薄目を開ける。

「もしかして、今日ずっとここにいたのか?」

「どこまで行ってたの? 待ちくたびれて寝ちゃったよ」

屈託の無い顔で微笑む。形の良いえくぼが浮かんでいる。
ずっと会いたかった美咲が、そこにいた。

「ねえ、変なの。コースケのために作ったはずのスクランブルエッグが、なくなったの」

あいつは、朝俺が出かけた後、ここへ忍び込んで、スクランブルエッグと美咲のスマホを盗んだ。
それは言わない方がいいだろう。

「……寝ぼけて自分で食べたんじゃないか?」

この階下では今頃……。
意識を向けると、心が重く沈んでいく。

ぴろろん。

ポケットのスマホが鳴った。

「それ、私のスマホの着信音じゃない?」

「いや、違うよ」

とぼけてそう答えて。
俺はダイニングに戻ると、スマホを取り出し、メールボタンをタップした。

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件名:【殺し屋】発送キャンセルのお知らせ

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毎度ありがとうございます、【殺し屋】派遣ネットショップです。

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※このメールアドレスは配信専用です。このメッセージに返信されても回答しかねます。

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カナ、あいつ……。

気づくと、いつの間にか目から涙がこぼれ落ちていた。
ほっとしたのか、嬉しいのか。
泣くなんて、いつ以来だろう。

酷くろくでもない一日が、やっと終わったのだ。

そして俺は、これまでのメールを全て消去した。
最後に、江ノ島の展望台をバックに写っている、あいつの薄気味悪い写真を開く。

美咲は、あいつにストーカーされていることを黙っていた。
俺に心配をかけないように。

江ノ島までつけて来たあいつを、とっさに撮影したのだろう。証拠を残す為に。
だから、こんなにブレて傾いて写っている。

俺は消去ボタンを押すと、あいつに別れを告げた。

もう、来ないだろう。
もし再び姿を見せたら、今度こそ俺の手で抹殺してやる。

ジャケットを脱ごうとして、ふとポケットを探ると例のスサノオ猫のお守りが出て来た。

しかも何故か、2個。
1個増えている。

カナめ。

思わず、熱いものが込み上げて来て、胸がいっぱいになる。

俺は、まだ部屋でまどろんでいる美咲に向かって声を掛けた。

「なあ」

「ん?」

「……猫、飼おうか」



それは、数年前のこと……。





カメラのファインダー越しにマニュアルフォーカスで、彼女が着ているブラウスにピントを合わせる。

緊張しているのか、体が小刻みに震えているのがわかる。

シャッターを切った瞬間、スタジオ内のモノブロックストロボが一斉に点灯した。

うーん、体のラインが固いな。

「はい、ポーズ変えて」

声を掛けると、小声ではい、と答えながらぎこちなく少しだけ体を捻る彼女。

「あ、ちょっと待ってください」

アシスタントが近寄って、ブラウスの裾のしわを整え始める。

まいったな。

この子はおそらく、モデルは今日が初めてなんだろう。
後からクライアントに、ダメ出しされなきゃいいが。

スタイルは勿論いい。背が高くて手足も長い。
だが、そんなのはこの業界では当たり前だ。

カメラマンの俺にとっては、いくら美人だろうがスタイルが良かろうが、撮られるのに慣れている子の方が有り難い。
なにせ、1日あたりのアパレル撮影商品数のノルマは決まっているのだ。
グズグズされると、その分無給の残業時間が増える。

おそらく大学生のバイトだろうが、軽い気持ちで応募されてもなあ。

ここは、埼玉のはずれにあるアパレルメーカーの倉庫。
その片隅に併設されたスタジオで、俺はネットショップに掲載するアパレル商品の撮影業務を請け負っていた。

所謂、雇われカメラマンってやつだ。

日給は2万円ほど。
だけど毎日撮影があるわけじゃないから、月給にすると悲惨なものだ。
実績のない、駆け出しのカメラマンは辛い。

モデルは大抵が学生バイト。
いろんな服を着れて、給料もそこそこいいから人気らしい。
憧れの職業を疑似体験できるというのも、魅力なんだろう。

しかし、画像をネットに掲載する際には、顎より上は切られてしまう。
あくまで商品としての服がメインであるのと、顔が写っていると、ネットユーザーに余計なイメージを与えてしまうからだそうだ。

これを業界用語で「顔切りモデル」という。
なんだかホラーな名前だが。

つまりスタイルさえ良ければ、顔はちょっとばかしアレでも、「顔切りモデル」に採用される可能性は高いのだ。

彼女が改めてポーズを取り直したところで、ふたたびシャッターを切る。

アシスタントが次に撮影する別のブラウスを持って、彼女のそばに寄り、服を脱ぐのを待つ。
彼女はあせりながらボタンを外し、ブラウスを脱いでいく。

と言っても、裸になるわけじゃない。
下には、大抵の服には合わせやすい、白いチューブトップを着ている。

着替えている間、俺は何気なくファインダーを覗きながらレンズを上に持ち上げた。

彼女の顔にピントを合わす。

焦点が定まった瞬間、全身に鳥肌が立った。

緊張した面持ちで、俯いてブラウスのボタンを留めている彼女。

その顔に、なぜか突然ときめいて……。

ふと、彼女が顔を上げ、ファインダー越しに目が合った。

俺は、あわててファインダーから目を外す。
まるで覗き見していたのを気づかれたようで、バツが悪い。

いやいや、俺、カメラマンだし。

だが、俺は彼女のさりげない目力に、すっかりやられてしまっていた。


その日の撮影が終わって、帰り支度をしている彼女に、俺は思い切って声を掛けた。

「西内さん……だよね。あ、あのさ、良かったら今度、ポートレートモデルやってくれないかな?」

格安ショップで作った、薄っぺらい名刺を差し出す。

『カメラマン 葉山浩介 電話:080-○○○○-○○○○』

それしか書いてない。
実績のないカメラマンなので、それ以上、書きようがないのだ。

彼女は、白く小さい手で、少し戸惑ったようにそれを受け取る。

なんだろう、どきどきするぞ。
初恋の人に告白する高校生の気分だ。

「……バイト代は、あまり出せないんだけど」

「いいですよ。私、美咲って言います。西内美咲」

彼女は顔を上げて相好を崩し、柔らかい眼差しで俺を見つめた。

これが美咲との、はじめての出会いだった。





そして、話は今に戻る……。

日曜の朝。

少し肌寒さを感じながらも、雲ひとつない抜けるような10月の青空に感謝して。
ヘルメットを掴んで、心弾ませながらマンションのバイク駐車場へ行くと。

「……また、おまえか」

カナがハヤブサのリアシートにちょこんと乗っかって、足をぶらぶらさせていた。

ボブカットの茶髪は、そのままで。
相変わらずの制服姿だが、季節がら紺のカーディガンを羽織っている。

「よ、久しぶり!」

「先週もここにいただろうが。無理矢理俺を喫茶店に拉致して、パフェ5杯奢らせただろうが!」

「その時は世話になった」

「頼むから俺をツーリングに行かせてくれ。これが楽しみで仕事してるようなモンなんだから」

「また転んで記憶を失わないように、妨害してあげてる優しさが理解できないかなあ」

「そんな優しさはいらん。とにかくそこをどけ」

カナの腕を掴んで引きずり降ろそうとすると、やつはシャーっと奇声を上げて手を振りほどく。

「おまえは猫か。もう猫は勘弁してくれ。美咲が先週また野良猫を拾って来た。これで3匹目だ」

おかげで猫アレルギーの俺は、鼻炎薬が手放せない。

急にカナが真顔になる。

「今日は他でもない。オジサンに折り入って相談があって来たのだ」

「なんだ、相談て」

ふと背後に人の気配を感じて振り向くと、カナと同じ制服を着た女の子が立っていた。

小柄で、身長はカナと同じくらいか。黒髪で眼鏡を掛けており、地味で真面目そうな子だ。

というか、ちょっとオタクっぽい感じがする。
目の上まで降ろした髪のせいか、表情が良く見えない。
俯き加減で、なんだか暗いオーラを放っている。ふてぶてしいカナとは真逆の雰囲気だ。

「だれ?」

「あずさ。私の友達じゃ」

カナはぴょんとハヤブサから飛び降りると、あずさと呼んだ女の子の横に並ぶ。

不良娘とオタク娘。

なんだかアンバランスだ。

「この子がどうした」

「ストーカーの悩みを抱えて困っている。助けてくれ」

口にはできないが、とてもストーカーに付け回されるようなタイプとは思えない。

「……信じてないね?」

「てか、本当にそうなら先生に言えよ。俺は役には立てん」

「元ストーカーとしての助言をくれ」

「俺はストーカーじゃなかっただろうが!」

「ほうほう」

カナはにやりと顔を歪めた。

「本当に、そう言い切れるのかね、オジサン」

こいつめ。
やはり先週、美咲との馴れ初めを話したのは失敗だった。

「……あの話は、忘れろ」

「忘れるには、賄賂が必要じゃないかなあ?」


そして、結局いつもの渋い喫茶店。

相変わらず店の奥には「かあっ」爺さんがいて、新聞紙を手に広げたまま仮死状態を続けている。

席につくなり、カナは当たり前のようにパフェを3つ注文した。

「あずさは?」

オタク少女は俯き加減でカナの耳元で何事かささやき、カナが頷く。

「マスター、レモンティーもね」

未だ、この子の声を聞いた事が無い。

「で、なんなんだ」

何が悲しくて、秋晴れの日曜の朝から、女子高生の悩み相談をしているのか。

「あずさが男につきまとわれている」

「いいじゃないか。そのまま付き合ってしまえ。青春を謳歌しろよ」

カナが冷たい目で俺を睨む。

「適当なこと言わないで。あずさ、本気で悩んでるんだから」

カーディガンのポケットからスマホを取り出すと、1枚の写真を開き、机の上に置いた。

教室で撮ったスナップだろうか。
数人の男子高校生が、机に腰掛けたり伸び上がったりしながら、この年頃特有のバカ面下げて写っている。

「この中に犯人がいる」

「俺に探せと」

「いや、犯人はわかっている」

なんだよ。じゃあ、直接そいつに言えよ。

写真の右側に、半分見切れている、いかにも影の薄い男子がいた。
背が低く丸顔で顔のパーツが小さい、黒ぶちの大きな眼鏡を掛けた少年。
見るからに、ザ・オタク。
俺はそいつを指差す。

「こいつだろ。間違いない」

「違う。トシオじゃない。確かにトシオはそれっぽい雰囲気だけど」

カナは写真の中央に写っている、手をポケットに突っ込んで机に腰掛けた長身の男の子を指差した。
髪はウェーブがかったミドルで、きりっとした目。シャープな顔の輪郭に整ったパーツ、誰が見ても超イケメンだ。
クールなイメージだが、少し吊り上げた片側の口元に、少年のようなやんちゃさも持ち合わせている。

「ユータ。こいつが、あずさのストーカー」

いやいやいや。
それは、勘違いってやつじゃないのか。

「テニス部の主将で、成績もトップクラス。明るくて優しくてクラスの人気者」

やれやれ。

「そんなパーフェクト男が、裏ではこの子をストーカーしてると」

ちっちゃい小動物二匹が、同時に深く頷く。

「ほうほう。ちなみに、このユータって奴は見るからにモテそうだが?」

「うん。それはもう、凄まじいモテっぷり。付き合った彼女は数知れず。でも、なぜか長続きはしないみたい」

「そんな奴が、なぜこの子をストーキングする必要がある?」

二匹は同時に顔を見合わせる。

「モテて彼女に困らない男が、そんなことするわけないだろ。そもそも、あずさちゃんとやらは、ユータと付き合った事があるのか?」

あずさは俯いたまま、ぽっと顔を赤くする。
えっ、あるのかよ。

「……ないです」

初めて彼女の口から出た言葉に、思わず椅子から転げ落ちそうになる。

「でも、彼に突然……告白されたんです。2週間前に」

えっ?

口数少ないあずさを見て、カナがもどかしそうにフォローを始めた。

あずさはその日、下校時間まで図書室で本を読んでいて、鞄を取りに誰もいない教室に戻り、帰り支度をしていた。
そこへいきなりユータが現れ、真面目な表情で、付き合ってくれと告白したそうだ。

「……あまりに突然だったんで、あずさ、頭の中が真っ白になっちゃって、何も言わずに教室から逃げ出してしまったの」

「それは夢だったんじゃないのか」

「夢ではない。現実なのだ」

こんな見るからに地味人生一直線な子に、モテ男が突然告白するなんてことがあるのだろうか。

「それから始まったの、ユータのストーキング。何度も無言電話を掛けてきたり、夜中、家の前でずっと2階のあずさの部屋を見上げていたり」

「本当か?」

あずさは自分のカバンからスマホを取り出すと、電話の着信履歴を俺に見せた。
確かに、ユータの名前が並んでいる。時間は夜の22時以降、深夜に及んでいた。

ん、なんか妙だな。
理由はわからんが、どこか引っかかる。

「普段、学校で会ってる時はどうなんだ。妙なそぶりはあるのか?」

「それがね」

急にカナは声を潜める。

「ユータ、あずさにフラれてから、学校に来なくなっちゃったの」

ぷるるるるる。

あずさが手にしていたスマホが、ふいに鳴り出した。

びくっとして、恐る恐る画面を見るあずさ。

「ユータか?」

「違う。トシオ」

あずさはそう答えると、俯いてスマホを耳に当て、小声で話し始める。

なんだ、トシオと仲いいんじゃないか。オタクどうし。

「心配してるんだよ、トシオ。ユータのストーキングが始まってから、よくあずさに電話かけてくる」

ふーん。

「というわけでオジサン。今晩、付き合え」

「なにをだ」

「あずさの家の前に張り込んで、ユータをとっ捕まえるのだ」

ちょっと待て、と言おうとした、その時。

からんころん。

喫茶店のドアが開いて、現れたのはあの、日傘おばさん。

「まあまあ、やっと涼しくなったわねえ」

凶器である白い日傘を手に持ちながら、さり気なく店内を見渡す。
俺は緊張して、日傘おばさんの手の動きを注視する。
あれから「殺し屋発送メール」は、来てないはずだが。

おばさんは、ゆっくりと俺たちのテーブルの脇を通り過ぎていく……。

と、その瞬間。おばさんの手元が素早く動き、日傘の先端がカナの胸元に向かって突き出された。

だがカナは攻撃を予期していたかのごとく、余裕で日傘を片手で掴むと、そのまま上に捻り上げる。

おばさんが握りしめた日傘の柄が跳ね上がって自らの顎を直撃し、アッパーカットを食らったボクサーの如く体をのけぞらせると、椅子をなぎ倒しながらその場に崩れ落ちた。

白目を剥いて、床にのびている日傘おばさん。

一瞬の攻防を、口を開けたまま唖然と眺める俺。

カナは日傘を放り投げると、平然とした顔で両手を払う。

「『仕事』を抜けるのも、いろいろ大変なのさ」

「どういうことだ?」

「殺し屋を勝手に辞めたせいで、同業の殺し屋たちに命を狙われてるのだ」

奥の席で、爺さんが不快そうに「かあっ」を連発している。

「さて、オジサン。か弱き女子高生を、ひとりで夜中に張り込みさせるってことはないよね?」

か弱きって。

ふとあずさを見やると、何事もなかったように電話を続けていた。

これが今時の高校生の日常かよ。





夜の住宅地。

道路沿いには戸建てが立ち並び、窓から家庭の明かりがぽつぽつと放たれている。
俺も美咲がいる暖かな部屋に帰りたい。

10月ともなると、夜はさすがに冷える。
薄手のシャツ姿で来てしまった事を後悔した。

あずさの家から2軒離れた路地角から、俺とカナは辺りを窺っていた。
ユータらしき男は、毎晩きっかり20時に現れるらしいが。
それが本当だとすると、ストーカーにしては、なんだか几帳面すぎて妙な気もする。

「20時まであと3分だ」

カナが塀の影から首を伸ばして、あずさの家を見上げる。
2階のあずさの部屋からは、閉め切られたカーテンを通して蛍光灯の淡い光が漏れている。

何をやってるのだ、俺は。

夜中に女子高生の部屋を覗いている。
まるで俺たちの方が、ストーカーか変質者だ。

ふと我に返り、むなしい気分に襲われた。

「……なあ、カナ」

「なんじゃ?」

「日を改めて直接ユータの家に行って、本人を問いつめた方がいいんじゃないか。夜中に張り込みとか、俺たち探偵じゃないんだから。だいたい……」

「ちょっと待って!」

カナが興奮したように、小声で俺を制する。

路地の向こう側の暗闇から、ふいに男が姿を現した。
黒色っぽいパーカーのフードですっぽり頭を覆い、ポケットに手を入れ俯き加減で、ゆっくりとこちらに歩いて来る。

「あいつがユータか?」

「わからん。体型はそれっぽいけど」

男はあずさの家の正面まで来ると、道路の反対側にある街灯の下に立って2階を見上げた。
だが、フードが街灯の光を遮り、顔は見えない。

俺は肩に掛けたメッセンジャーバッグから、商売道具である一眼カメラを取り出した。
ファインダーを覗き、レンズを望遠側にズームさせる。

ダメだ。
アップにしても、暗すぎて顔の表情は捉えきれない。

シャッタースピードを3秒に設定して、手ぶれを抑えるために塀の壁に腕を押し当てながらカメラを構え、慎重にシャッターを押す。
長時間露光だ。
シャッターを長く開ける事により、暗い部分を明るく撮影する。

撮った画像を、カメラの液晶画面でカナに見せた。

「ブレてて全然わからん。オジサンほんとにプロのカメラマンか」

あきれた表情でカナが肩をすくめる。

「どんなプロでも手持ちじゃこれが精一杯だ。それにここからじゃわからないが、あいつは落ち着かなく顔を動かしている。だからブレて見えるんだ」

落ち着かないというか、何故かオドオドしてるような気もする。

「もういい、こうなったら出たとこ勝負だ」

カナはひとつ大きく息を吐くと、男に向かって真っすぐ歩み寄っていった。

「ユータ! あんたユータなんでしょ!」

静かな住宅街を、カナの声が切り裂く。

男はびくっとしてカナを見るや否や、反対側に向かって駆け出した。

カナも後を追って走り出す。

やれやれ。

俺はカメラを小脇に抱えたまま、カナに続いた。

男は足音を大きく響かせながら、全速力で逃げて行く。
その先は、車通りの多い片側2車線の大通りだ。

カナは必死に追いかけるが、男の足も早くその差はなかなか縮まらない。

やがて男は大通りに達すると、角を左に曲がって姿を消した。
先を行くカナもその後に続く。

息を切らしながら遅れて漸く角を曲がると、カナがひとりで呆然と立ちつくしていた。
真っすぐ続く歩道には、人の気配がない。

「いきなり消えたよ。あいつ」



ファインダーから覗いた先に、西内美咲の笑顔が夏の光で輝いていた。
その表情は、スタジオでストロボを浴びている時と比べて全然自然で。
笑うとできる、形の良いえくぼにも初めて気がついた。

ロケ地に選んだ、横浜みなとみらいの海側からは心地よい潮風が吹き、彼女の長くふわりとした髪や、長身に似合ったワンピースを柔らかく棚引かせる。
動きのないマネキンのような顔切りモデルとは全く異なった、生命力溢れた感情が全身から解き放たれていた。

夢中でシャッターを切りながら、俺はすっかり美咲に心を奪われていた。

「今日は、ありがとう」

撮影が終了した後、海が見えるテラスカフェで、俺は何を話せば良いのか困惑する。

「ううん、楽しかったです。こんな体験、初めてだし。良い写真撮れたでしょうか」

「それはもう、ばっちりだよ。モデルが素晴らしいから」

「そんな、お世辞は辞めてください」

「いや、本当だよ。こんな素敵な写真撮れたの、俺初めてかもしれない」

写真専門学校を卒業して以来、ずっと暗い倉庫の片隅で、表情を切り取られたモデルしか撮影してこなかったのだ。
いや、モデルというより、モデルが着た服か。
何万回もシャッターを切ったが、その写真には一切血が通っていなかった。

高校生の頃は写真を撮るのが楽しくて楽しくて。
下手くそだったけど、いつもカメラを持ち歩いて、学校の同級生や、道端に咲く花、古い建物や真っ青に輝く空。
目に見えるあらゆるものに向けて、ひたすらシャッターを切りまくっていたのに。
あの頃のわくわくした思いを、すっかり忘れていた。

でも今日、久しぶりに心から撮影を楽しんだような気がする。
それは美咲に対して、特別な感情が生まれたせいかもしれない。

「またモデル、お願いできるかな」

「はい、ぜひ」

もっと話したいのに、大して会話も弾まないまま、その日は解散となってしまった。

家に帰り、撮影した美咲の画像を何度も眺めた。
写真の出来がどうこうではなく。

俺はすっかり、美咲の虜になっていたのだ。

仕事中も、休みの日も、彼女の事が頭から離れず。
まるまる1ヶ月間、ひとりで悶々と悩んで。

意を決して呼び出した彼女に、やっとこさ想いを伝えた。

だが。

「……ごめんなさい、今、付き合っている人いるんです」

わかってるさ。

今はちょっとのショックでも、堪え難き辛さが後からやってくることは。





ストーカー張り込みが失敗に終わった翌日。

コミック雑誌グラビア撮影、2連チャンのハードな仕事が待っていた。
スタジオからロケ地へと、場所を移動してひたすらシャッターを切りまくる一日。
さすがに疲れ果てて帰りはタクシーに乗り、窓からぼうっと夜の空を見上げているとスマホが鳴った。

カナからだ。

やれやれ、さすがに今日は付き合えないぞ。

しぶしぶスマホを耳に当てるが、荒い息づかいしか聞こえない。

「おい、からかってるのか」

小娘のイタ電なんぞに構っていられるほど、暇じゃない。
これから家に帰ってすぐ、写真のセレクト作業もしなくちゃならない。
そこそこ売れてるカメラマンなのだ、俺は。

「もう切るぞ。悶えてないで、スポーツで発散するか早く寝ろ」

「……やられた」

「え、なんだって?」

「奴らに不意打ちくらった……今、あずさの家の前にいる……」

「なんだ、どういう事だ!?」

電話は切れていた。

心臓の鼓動が、高なり始める。
やられたって、何があったんだ。
俺はあせりながら、運転手に行き先の変更を告げた。

俺のマンションから、あずさの家はさほど離れてはいない。
同じ町内の住宅街にあるのだ。
おそらくカナの家も近所のはずだが、未だに所在はわからない。

既にマンションの近くまで来ていたので、あずさの家には5分程で辿り着いた。

タクシーを降りて、辺りを見渡す。
あずさの家の前に、例の不審者の姿は見当たらなかった。
2階を見上げると、あずさの部屋の電気がついている。

路上に人の気配はない。

どこだ、どこにいる。

俺はポケットからスマホを出すと、カナに電話をかけて耳をすました。

かすかに『それいけ! アン○ンマン』のテーマソングが聞こえる。
カナのスマホの着メロだ。

鳴っているのは、昨日見張っていた路地角のあたりだ。

目を凝らすと、暗闇に倒れている人影が見えた。

「カナ!」

俺は思わず叫んで、走り寄った。

カナは制服姿で、冷たい路上に体を丸めるようにして倒れていた。
頭から血が流れており、素足には固いモノで殴られたような打撲の跡がある。
おそらく、全身を痛めつけられている。
目を瞑り、ぴくりとも動かない。

「どうした! 大丈夫か!」

カナの肩をゆすると、うっすらと目を開けた。

「……おお浩介さん、来てくれたか」

『オジサン』ではなく、俺の名前で呼ぶ。かつてなかったことだ。
いつものカナじゃない。
これは、マジでヤバい状況なのか。

カナはゆっくりと上体を起こすが、頭がぐらぐらとふらついている。
頭からの出血は、今はもう止まっているようだが、額をべっとりと濡らしていた。

「おい、頭打ってるんだから、動くな」

俺はカナを背後から抱きかかえた。

「ここで見張ってたら、後ろから襲われた。迂闊だった」

「いいからしゃべるな。今、救急車呼ぶから」

持っていたスマホで、119にコールする。

「……相手は5人いた。皆こん棒のようなモノを持ってた。奴らプロじゃった」

「知ってるやつか?」

「いいや、わからん。黒い服を着た見た事もないやつら」

「おまえの仲間の、殺し屋連中じゃないのか?」

「たぶん、違うと思う」

確かに、殺し屋派遣ネットショップ専属の殺し屋が襲ったとしても、最強であるカナが、奴らにそうやすやすと倒されるとは思えない。

背後からとは言え、ここまでカナにダメージを与える連中とは。

いったい何者なんだ?





救急病院の廊下で、俺は医者から説明を受けていた。

「全身に打撲の跡があります。ですがレントゲンの結果、骨折はありませんし脳にも特に異常は見られないのでおそらく大丈夫でしょう。2,3日入院して頂き、様子を見ます」

医者は、そう話すと興味深げに俺の顔を覗き込む。

「……で、あなたは、どういったご関係の方でしょうか?」

うっと詰まる。

見ず知らずの他人と言う訳にはいかず、友達、もなんか怪しく聞こえる。
なにせカナは、俺と10歳近く離れた未成年者なのだ。

「ス、ストーカー……」

「えっ!?」

「……を、二人で追っていたんです……」

医者の顔が曇る。
しまった。あせって余計な事を言ってしまった。

「というのは冗談です……妻の友達なんです」

とっさに口からでまかせを言う。
美咲、すまない。

医者は怪訝な顔をしていたが、俺は頭を下げるとカナの病室へと入って行った。

頭に包帯を巻き、ベットに沈み込んでいるカナが痛々しかった。

「……どうだ、具合は」

「ハラ減った」

「退院したら何でも奢ってやる。それまで病院食で我慢しろ」

露骨に顔をしかめるカナ。

「お母さんと連絡が取れないそうなんだが」

「……ママは夜、いないんだ」

「そうか」

考えてみれば、俺はカナの事、ましてや家族について何も知らない。
殺し屋だったことと言い、カナを取り巻く環境には何か複雑な事情があると、うすうす感じてはいたが、あえてこれまで聞かなかった。

こんな酷い目に遭ったのに、ひとりぼっちかよ。

「じゃあ、今晩は俺がここにいてやる」

「ホントに!?」

「ああ、後でこっそり肉まん買って来てやるからな」

カナは目をくりくりさせながら、無表情で内なる喜びを表現する。

「なんで、今日ひとりで行ったりしたんだ」

「だって、オジサン仕事で忙しいし、それに……」

「それに、なんだ」

「……あずさは、たったひとりの親友なのさ。どうしても守ってあげたかったんだ」

俺は胸が熱くなった。
と、同時に怒りがふつふつと沸き上がる。

カナをこんな目に遭わした奴は、絶対に許さない。
必ず探し出し、償わせてやる。





翌日の夜、22時少し前。

俺は大通りの歩道に立って、通り行く車を何気なく眺めていた。

カナはまだ病院だ。
だが、今日の朝には驚異的な回復を見せていた。
病院食のおかわりを頼んで断られ、じゃあ退院すると暴れたが、屈強な男の看護師3人掛かりでやっと取り押さえられた。

あれほどの怪我を負ったのに、どれだけ元気なんだ。

昨日の晩、カナの寝顔を見ながら、俺はいろいろ考えを巡らした。

カナが襲われたのは、俺たちがストーカーを追っている事に気づかれたからだろう。

ストーカーが、カナとあずさの同級生、ユータだとする。
彼が、誰かに頼んでカナを襲わせたのだろうか。

いやいや、カナを倒すなんて相当な手練れだ。
そこらの普通の高校生が、頼める相手じゃない。

じゃあ、襲ったのは何者で目的は何か。

何か、深い裏があるような気がする。

腕時計を見やると、22時を少し回っていた。

俺の予想が正しければ……。

来た。

あずさの家へと続く路地から、パーカーのフードを頭からすっぽり被った例の男が現れる。

俯き加減にポケットに手を入れたまま早足で歩くその男は、路地を曲がってすぐの道路脇に停車していた白いバンの後部座席に乗り込んだ。

やはりな。車を用意してたんだ。
だから、おととい、こつ然と消え失せたように見えたのだ。

俺は道路脇に停めておいたハヤブサに跨がると、エンジンをかける。

白いバンは男を乗せるや否や、急発進した。
俺もハヤブサのクラッチを繋ぐと、軽くアクセルを吹かして発車し、後を追う。

バンはかなりのスピードで走って行くが、少し距離を置いて気づかれぬよう後ろに付ける。

井の頭通りを、武蔵境方向に曲がった。

いったい、どこへ行くんだ。

白いバンの運転手が、ストーカーの協力者であることは間違いない。
カナを襲った奴らと、同じ仲間である可能性も高い。

高校生の単なるこじらせた片想い、と軽く考えていたがとんでもない。
何か組織的な作為を感じる。

前方の信号が赤に変わり、バンはスピードを緩めた。
と、次の瞬間、急加速して赤信号を突っ切る。
横断歩道を歩いていた人々が、蜘蛛の子を散らすように、あわてて逃げ惑う。

気づかれたか。

歩行者に頭をぺこぺこ下げながら、ゆっくり赤信号に進入して、交差点を抜けると同時に、アクセルを全開にしてバンの後を追う。

こっちは、驚異的な加速を誇るハヤブサだ。

あっという間に追いつくと、バンの後ろにぴったりと付けパッシング(ライトの点滅)をした。

どうせ、もうバレている。
こうなれば、何としても奴らをバンから引きずり出してその正体を暴いてやる。

俺はバンの右側に出ると、スピードを上げて横に並んだ。
運転席を覗き込むが、窓にスモークスクリーンが貼られていて、車内がよく見えない。

いきなり幅寄せしてきたので、すばやくハンドルを切って避ける。

黒い窓の向こう側にいる、見えない何者かを睨み付けた。
奴も、こちらを見ている気配が確かにある。

こいつだ。
こいつが、おそらく全ての鍵を握っている。
ヘルメットのバイザーを開けて、叫んだ。

「誰だ、おまえ! 顔を見せろ!」

ふたたびバンは急ハンドルを切って幅寄せしてくる。いや、これは体当たりだ。
殺意を持って車体をハヤブサにぶつけて来ている。

反対車線に大きく飛び出して攻撃を避けると、俺は思いっきりアクセルを捻ってバンの前に出た。

そのまま全開で、ひたすら直線の道路を突っ走る。

あたりに他の車の気配はない。
前方には開けた道路と、点々と並ぶ信号機の明かり。

俺は、数百メートルほど走ってバンを引き離したのを確認すると、スピードを落とす。
前ブレーキをコントロールしながら後輪を滑らせ、車体を180度スライドターンさせる。
ハヤブサは反対方向に向きを変えると、ストンと停止した。

遠くに、こちらに向かって猛然と接近してくる二つの丸目ライトが見える。

ふと、路上で血を流しながら、力なく横たわるカナの無残な姿が脳裏に浮かんだ。

許せない。

俺の怒りは最高潮に達していた。
そしてそれは、無意識にアクセルをふかして生まれる図太いエンジンの咆哮へとリンクする。

行くぜ、ハヤブサ。

左手のクラッチを離すと、前輪が浮いた。
そのまま、猛然と加速する。

バンも真っ直ぐこっちへ突っ込んでくる。

みるみるうちに、急接近した。

我慢比べ。ハンドルを切った方が負けだ。

全身に緊張が走り、汗が噴き出す。

と、その時。不思議な感覚が俺を包み込んだ。

ハヤブサの両側から、大きな白い羽が横へと広がっていく。
まるで獲物を威嚇し、攻撃するかのごとく。

顔の見えない運転手が、大きく口を開けて悲鳴を吐き出している様子が手に取るように感じとれる。

バンと正面衝突する、ほんのゼロコンマ数秒前。

甲高いタイヤのスリップ音。

急ハンドルを切ったバンは、道路脇の街路柵を兼ねた植え込みに突っ込むと、そのまま数十メートル木の葉を散らし続け。
そしてフロントを酷くひしゃげて、いくつかのタイヤをパンクさせ、車体を斜めに傾けた状態で、漸く停止した。

俺はハヤブサを止めてヘルメットを脱ぐと、大きく息を吐いた。

体の震えが止まらない。

いや怖かった。マジで。
もう、二度とゴメンだ。

だけど、やったぞ、俺は。
命を賭けたバトルに勝利したのだ。

暫く、呼吸を整えたのち。
ハヤブサを降りて、破壊されたバンに歩み寄る。

運転席のドアが開いていた。あわてて中を覗き込むが、姿が見当たらない。
辺りを見渡しても、運転手は暗い闇の彼方へと消え去った後だった。

くそっ、逃げられた。
ついつい、勝利の余韻に浸ってしまっていた。

自分に腹を立てながら、後部のスライドドアを思いっきり開ける。

そこには、青白い顔をしたイケメン少年がひとり、怯えた表情でシートにへたり込んでいた。





いつもの喫茶店。
深夜にも拘わらず、相変わらず奥の席で「かあっ」爺さんがスポーツ新聞を開いたまま固まっている。

あの爺さんは、実はこの店の置物なんじゃないか。
生きてるのか、本当に。

店には「かあっ」爺さんの他には、昭和のマスターだけ。
いつも通りだが、唯一違うのは俺の前に座っているのがカナではなく、おどおどした男子高校生であることだ。

「おまえ、ユータだな」

大きな体を小さく折り曲げたまま、こくりと頷く。

「どう言うことか、説明してもらおうか」

「……てか、オジサン何者スか?」

小刻みに体を震わせながら、ちらりと上目遣いで俺を見る。

どいつもこいつも俺をオジサンって言いやがって! 俺はまだ25才だあ!!

……という心の叫びを呑み込んで。

「カナに頼まれて、あずさのストーカー、つまりおまえを追っていた。カナがどうなったか知ってるよな?」

「……はい」

「おまえは誰かに指示されて、あずさをストーキングしてたんだろ?」

ユータは、はっとして俺の顔を見る。

「毎日、きっかり20時から22時まであずさの家の前に立ち、22時からは無言電話の繰り返し。それも命令されてやったことなんだな?」

「わ、わかってたんスか!?」

「わかりやすいんだよ、パターンが。ストーカーって、そんな淡泊なもんじゃないだろうが!」

「オジサンも、ストーカーなんスか!?」

やれやれ。

「そんなことはどうでもいいんだよ。なぜこんなことをする? 命令してるのは誰なんだ!」

ユータは俯いて目をきょろきょろと激しく動かし、額に汗を滲ませる。

「……話したら、オレ、殺されます」

「俺に捕まった時点で、おまえの立場は相当マズい状況だ。話そうが話すまいが、おまえを操っていた奴は容赦しないぞ」

ユータは顔面蒼白となり、怯えた表情で俺の顔を見つめる。

「助かりたいなら、洗いざらい残らず話せ」

--------------------------------

午後の始業のチャイムが鳴る。

だが、沙也加(さやか)はオレの服を掴んで離さない。
誰もいない音楽室、目の前には逆壁ドン状態の沙也加。

「ねえ、今ここではっきりさせて。私と葵(あおい)とどっちを選ぶか」

「……いや、そう言われても。オレ、玲奈(れな)と付き合ってるの知ってるだろ」

「ふん、あんなブス」

いや、玲奈は文化祭のミスコンで優勝したんだけど。

「性格もブスなんだよ、あいつは」

ミスコン準優勝の沙也加が、長い髪をかき上げながらオレを鋭い目で見つめる。

「知ってるんだからね、玲奈に隠れて葵と遊んでるの」

「葵とはもう遊んでない。優美(ゆみ)となら、たまにカラオケとか行くけど」

「優美だって!」

沙也加は大きく目を見開いて、大きな声で笑う。

「読者モデルだかなんだか知らないけど、あんなヤンデレ。どこがいいのさ」

オレのスマホが鳴る。
ポケットから取り出したとたん、沙也加に奪われた。

LIMEを開くと、オレの目の前にかざす。

『どこ行ったのー(^o^) 授業始まったよー(*^_^*) いないとさみしーよー(>_<) 美音(みおん)より』

--------------------------------

「……ちょっと、待て」

俺はユータの話をストップさせた。

「いったい何の話をしてる?」

「いや、洗いざらい話せって言うから……」

「いきなり登場人物が多いんだが、全て覚えないとダメなのか?」

「彼女たちは、今回のことに関係ないです。たぶん」

じゃあ、端折れよ!
おまえのモテ話なんて、今はどうでもいいんだよ!

「……なんか、怒ってます?」

ユータは悲しそうな目で俺を見つめる。

ああこれか。
イケメンの裏に、それとなく見え隠れする子供っぽさ。
これが、女性の母性本能ってやつをくすぐるんだな。

「とにかく、疲れちゃったんです」

肩を落としてため息をつくモテ男。

「確かにオレの周りには、いつも美人の女の子がいました。最初は楽しかったけど、そのうち面倒になってきて」

「それは、自慢か」

「いえ、本当に疲れ果てたんです。付き合ってみると、嫉妬深かくて1時間おきにメールをチェックされたり、友達同士だとばかり思っていた子の悪口を延々と聞かされたり、道端にぺっと唾を吐いたり」

失恋ばかり経験してきた俺には、イケメン君の悩みなど知るよしもない。

「ある日、情報の授業があって、ふたり一組でパソコンを使うことになったんですけど、ペアになったのが同じクラスでも今まで一度も話したことのない子で。見た目は暗い感じなんすけど、パソコンの使い方を優しく教えてくれて。オレがわからないと思ったことを、先回りして分かりやすく教えてくれるし」

「さりげなく、気が利くってことか」

「そう、それっス。よく見ると昔飼っていたハムスターに似てて、なんか可愛いなと思って。オレが知ってる他の女の子とは全然逆のタイプで、とっても心が安らぐと言うか」

「それが、あずさだったんだな」

「他の女に見つかるとうるさいんで、誰もいない放課後の教室で待ち伏せて告ったんスけど、逃げられました」

苦笑するユータ。

「初めてでした、振られたの。ショックでした……」

「それで、ストーカーになったのか?」

「違います、違います!」

ユータはスマホを取り出すと、画面にメールを表示させて俺に見せる。

「翌日、家で朝飯を食べてたら、こんなメールが来て……」

メールを見るなり、俺の心臓はどくんと跳ね上がった。

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「これ、来たのか」

「ええ、てっきり誰かのイタズラだと思って、気にも留めずに家を出たとたん、目の前に大きなペンギンが現れて」

「魚で襲われたんだな」

「何で知ってるんスか! オジサン何者なんですか!」

「そんなことより、どうやってその場を逃れたんだ」

「ペンギンがオレを押さえ込んで、魚を振り上げたとたん、またメールが来たんです」

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「その瞬間、ペンギンは舌打ちしてどこかに消えてしまいました。直後に電話がかかってきたんです。ボイスチェンジャーかなんかで変えられた声でこう言われました」

ーー

『いいか、よく聞け。今のは脅しだ。いつだってオマエを殺せるんだ』

『だ、誰だ?』

『これから私が言うふたつの命令に従ってもらう。心配するな、ごく簡単なことだ。だが、もし命令に従わない場合は、わかるな?』

ーー

「なるほど、わかったぞ。命令というのは、ひとつは学校へは行くな。もうひとつは、指示された時間にあずさにストーカー行為をしろ。そのふたつだったんだな」

ユータが激しく首を縦に振る。

「毎日、20時から22時まではあずさの家の前に立てと。誰かに追われた場合を想定して、逃走用の車も用意されていた」

「ええ、22時からは車の中で監視されながら、ひたすら無言電話を掛け続けました」

周到な奴らだ。
いったい、何者なんだ。

「ところで、殺し屋の注文をした『ISA』って奴に心当たりはあるのか」

「ないです」

「車を運転してた男は?」

「……わからないです。ただ……」

ただ、なんだ?

「いつも大きなマスクをしてたので顔は良くわからなかったんですが、さっき車がぶつかった瞬間マスクが外れて。オレ、見ちゃったんです。その男の顔」

「どんな奴だ?」

「それが……」

ユータはいったん言葉を飲み込むと、怯えた表情で俺の顔を見つめた。

「なぜか、オジサンにそっくりだったんです。その男」


『美咲さん、あした、空いてる?』

『明日? ちょっと待ってね、スケジュール見るから。……あっ、奇跡的に空いてるよ』

『じゃあ、メシでも行かない? 日本に1件しかないブータン料理の店、見つけたんだよ。どんな味か全く想像できないけど』

『なにそれ興味ある! 行く行く!』

フラれたとはいえ、俺はちょくちょく、美咲と会っていた。
美咲は時間が空いているときは、意外にも殆ど俺の誘いを断らなかった。
会うたびに、俺の心はときめいた。

もちろん、彼氏がいることは重々承知の上でだが。

「……別れちゃった」

「えっ!?」

ブータン料理特有の大量の唐辛子を摂取した帰り道、舌に残り続けるひりひり感に耐えていた俺に突然の告白。
心臓が早鐘を打ち始める。

「なんで? 喧嘩でもした?」

「違う。嫌いになったわけじゃないの」

「じゃあ、どうして」

「他に好きな人ができたから」

どくん。

美咲に聞こえてしまうんじゃないかと心配になるほど高まる、心臓の鼓動。
それって……俺?

「友達として会ってるうちに、なんとなく惹かれてしまって……」

「うんうん」

「いつしか、その人のことで頭がいっぱいになっちゃって……」

「うんうん!」

「それでね。ちゃんと彼氏と別れた後に、付き合い始めたの、その人と」

すごくいい人、と言って美咲は微笑む。

「こんなこと話せるの、葉山さんだけかも」

天国から地獄とはこういうことか。
ひりひりとした痛みは、舌から心へと落ちてゆく。

なぜ、その相手が俺じゃないんだ。
こんなに、いつも会っているのに。

「……でも暇なときは、また遊ぼうよ」

電話してね、と言い残して美咲は軽く手を振りながら駅へと立ち去っていく。

その後ろ姿を、見えなくなるまで目で追い続ける、俺。


徐々に美咲とは、連絡が取れなくなっていった。

それでも俺は毎週、美咲に電話をかける。
LIMEにメッセージを送り続ける。

『今週末、あいてる?』

LIMEの画面には、俺の言葉だけが埋まっていく。

美咲が住む街の駅前で、雨降る中、傘もささずにぼんやり何時間も立ち続けたこともあった。

ばったり会うという『ありえない奇跡』、を待ちながら。
仮に会えたとして、その先に何があるのだろう。
虚しさしか、ないはずなのに。
そんなことすら、気付く余裕もなく。

俺の心は、いつまでも美咲でいっぱいだった。
冷たい雨は、体だけではなく俺の心もすっかり冷やし続けていった。

ふと、我に返る。

これじゃまるで……ストーカーじゃないか。





「どうだ、具合は」

俺はバッグの中から大量のあんぱんの入った袋を取り出すと、カナの布団の中にコッソリ差し入れる。

「最悪だ。早くここを出たい」

バッグのチャックを締めてカナに目線を戻すと、既にその口からはあんぱんが半分はみ出ていた。

早っ。

「体温、計りますよー」

おばさんの看護師が入ってきたので、俺は慌ててはみだしたあんぱんをカナの口の中に押し込む。

「むぐぐ」

「あら、顔が赤い。熱が出てきたのかな」

看護師が心配そうに、カナの額に手を当てる。

「いや、こいつ俺に惚れてるんですよ。嬉しくて顔が赤いんです」

「あら、良かったわね、カナちゃん」

「むぐぐ」

看護師が病室を出て行ったのを見届け、俺はあきれてカナに忠告する。

「おまえ、少しは自重しろよ。退院できなくなるぞ」

「ハラが減りすぎて、だんだん調子が悪くなってきた。わたしゃ、もうすぐ死ぬ」

「はいはい。じゃあ、友達に別れの挨拶でもしろ」

振り返って手招きすると、ドアの影からこちらの様子を伺っていたあずさが、俯いたまま病室へと入ってくる。
あずさとカナはお互いに目を合わせ、両者、無言でコクンと首を縦に振った。

そのまま会話をするでもなく、ふたりともフリーズしたままだ。

……それだけかよ。

折角、連れてきてやったのに。
それとも、テレパシーかなんかで会話してるのか。
このふたりの関係性は、未だに良くわからない。

「ところで、ユータを捕まえたぞ。全て吐かせた」

「そうか、でかした」

目を輝かして半身を起こす、カナ。

「ストーキングしてたのは確かにユータだったが、何者かに命令されて仕方なくやってたみたいだ。ISAって奴、聞いたことがあるか?」

「わからん。クラスの中にも『いさ』が付く名前の生徒はいないはず」

「そいつが黒幕らしい。殺し屋派遣ネットショップを使ってユータを脅したり、監禁したりしていた」

カナが目をくりくりさせながら、何やら考えを巡らせている。

「おそらく、おまえを襲ったのもそいつの仲間だろう」

「誰が、何のためにそんなことをするのさ」

「そこなんだよ」

俺は頭を掻きながら、あずさを見やった。

「目的がわからん。ユータはどうやら本気で君に告白したらしいし、たったそれだけの事でどうしてストーカー役を強要させられるのか、全く想像がつかない」

「たったそれだけのこと、だって?」

カナが俺を睨む。

ふと気づくと、俯いたあずさの目から涙がこぼれ落ちていた。

な、なんだ、どうした?

狼狽える俺。
呆れた表情のカナ。

「全く、オジサンは女心がわかってないなあ」

えっ!
えっ、えっ!?

まさかの、相思相愛だったのかよ。

女心ってやつは、本当に理解できない。
だからこれまで、さんざん苦労してきたのだが。

「ごめん、悪かったよ。ユータが君を好きなのは確かだ。だからちゃんと返事してやってくれ」

好きになった理由が、飼ってたハムスターに似てたから、ってのは言わない方がいいんだろうな。
モテ男の、ちょっとした気の迷いでなければ良いのだが。

「それからカナ、ひとつだけわかった事がある。この件にどうやらあいつが絡んでいるらしい」

「あいつって?」

「美咲のストーカーだ。あいつが、また現れやがった」

「ほうほう」

カナが興味深げに、眉をピクリと動かす。

「あれから俺と美咲の前に現れたことはなかった。なぜ今回、高校生の色恋沙汰に、あいつが絡んでいるのか謎だ」

「なんだか、面白くなってきたねえ」

両腕を前に伸ばして、絡めた指をポキポキと鳴らすカナ。
なんだか、さっきより顔色が良くなったように見える。

「し、し、し、しつつつれいします!!」

突然、病室に医療用マスクを付けた小柄の医者が入ってきた。

いや違う。どう見ても医者ではない。
薄汚れた白衣は着ているものの、頭はボサボサ。どこを見ているかわからないぎょろりとした目は、ひっきりなしにその視線をあちこち移動させている。
その異様な姿は、まるでマッドサイエンティスト。

「し、し、し、しんんんさつのじかんです!!」

「おまえは誰だ」

「い、い、い、いしゃしゃしゃですとも、もちろん!!」

「いや、明らかに違うだろ」

「カナカナカナカナさんの、し、し、しんんんさつです!!」

カナはひぐらしか。

よく見ると、右手にメスを握りしめている。
わかりやすいったらない。

「あんた『ニセ医者』だよね。前に、『【殺し屋】慰労会』で見かけたよ。酔っ払って絡んだ日傘おばさんに、何度も尻を刺されるの見た」

カナが冷静に言うと、男は発作が起きたかのごとく、全身をびくっと跳ね上げる。

「なに? 命令を受けて、私を殺しに来たわけ?」

「いえいえ、め、め、め、めっそそそうもない。いや、ち、ちがう。わたしは、いしゃだ!! か、か、か、かんんんちがいするな!!」

大声で怒鳴ったかと思うと、ふいに男はメスを振りかざしてベッドに寝ているカナに襲いかかる……。

が、次の瞬間、股間を押さえてその場にうずくまった。

布団から突きだしたカナの右足が、あれにクリーンヒットしたのだ。

「あ、あ、あ、あああああっ!!」

手からぽとりとメスが落ち、自らの太ももに突き刺さる。

「ぎゃああああああっ!!」

気の毒なほど、殺し屋に向いていない。そして、なにより騒がしい。

男は股間を押さえ、太ももにメスを突き刺したまま病室を飛び出していった。

明らかに、カナを倒した奴らとはレベルが違いすぎる。

「『仕事』から抜けるのもホントに大変なんだな。いったいいつまで続くんだ、こんなこと」

カナは無表情なまま、肩をすくめた。





病院を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
ハヤブサの後ろにあずさを乗せて、彼女の家へと向かう。

「さっきは、すまなかった。ユータと上手くいけばいいな」

「……はい」

「誰が仕組んだか知らないが、こんな茶番はとっとと終わらせよう」

青梅街道を、荻窪から三鷹に向けてゆっくりと走る。
後ろに乗っているのがカナでないことに、なぜか違和感を感じた。
そう、今年の夏。壊れかけたハヤブサで、カナを後ろに乗せてこの道を走ったんだっけ。

あのイメージが、つい昨日のように蘇る。

いかんいかん。

最近、どうもカナに取り憑かれている。
家にいる沢山の猫どもすら、カナに見えてしまう。

しっかりしろ、俺。

と、一台の黒い大型バイクが、するりと追い抜いて行った。
カワサキZZR1400。通称、ニンジャ。
ハヤブサのライバルとも言える最速マシンだ。

そして、ニンジャはハヤブサの前にぴたりと付けると、速度を落とす。

なんだよ、邪魔だな。

抜こうとして、左右に目線を向けると、両側にも黒いニンジャ。
いつの間にか、3台のバイクに取り囲まれていた。

両側に張り付いたニンジャは二人乗りで、全員黒のフルフェイスヘルメット、黒いジャケットに黒パンツ姿。
まさに黒ずくめで、皆、屈強そうな体躯をしている。

いやな予感がした。

「しっかり捕まってろよ!」

振り返ってあずさに声を掛けたその時、視界の片隅に殺気を感じた。
右側のニンジャ。
タンデム(リア)シートの男が、隠し持っていた棍棒を、やおら俺に向かって振りかざす。

俺はとっさにフルブレーキを掛けて、集団の後方へと逃れた。
振り下ろされた棍棒は、ターゲットを失い、目の前で空を切る。

そういうことか……。

黒い服、棍棒を持った集団。
カナを襲った奴らに違いない。

敵は3台。
バトルするにも、後ろにあずさを乗せているから無茶はできない。
この場は、兎に角逃げるしかない。

くやしいが、やむを得ない。

ハヤブサを大きく横に傾けて路肩側に寄せると、アクセルを開けて集団を追い越した。
そのまま、加速させる。

夜20時。
この時間帯はまだまだ交通量が多く、素早く左右に車体を振りながら、車間をすり抜ける。
前方に光る数多のテールランプが、目の前をかすめていく。
重量級のハヤブサには不利な状況だが、それは奴らにとっても同じだろう。

だが、バックミラーを覗くと、奴らは俺の後ろにぴったり張り付いていた。
時速100キロでの、すり抜けチェイス。
奴らも相当なテクニックを持っているようだ。

このままでは、逃げ切れない。

仕方ない、やるしかないか。

俺はわざと速度を落とした。
たちまち、右横に一台のニンジャが並ぶ。
タンデムシートの男が、再び棍棒を振り上げる。

今だ。

ハンドルを素早く、小さく切ってニンジャに寄せると、右足で思いっきり車体を蹴り飛ばした。

不意の攻撃でバランスを崩した敵は、振り子のように左右に大きく車体を揺らしながら、やがて激しいクラッシュ音とともに路面に沈み込んだ。

バックミラーに、路上を転げ回る男たちの姿が映る。

あと、2台。

ふいに衝撃を感じて、あわててハンドルを握り直す。
後方からハヤブサの左側に回り込んだ1台が、体当たりを仕掛けてきていた。

体勢を整えて、俺もぶつけ返す。
ハヤブサとニンジャは、車体をぴったりと密着させたまま、速度を徐々に上げていった。

前方を走る大型トラックが、みるみるうちに接近する。
積載するトレーラーは巨大な壁となり、目の前に立ちはだかる。

あと、数メートル。
赤いテールランプの光が、眩しく眼を射抜く。
このままでは、突っ込んでしまう。

いや、ピンチはチャンスだ。

右足のブレーキペダルを思いっきり踏み込んだ。
タイヤのスキール音と共にスライドする車体をコントロールしつつ。

敵の後ろ側に回り込んだ俺は、再度アクセルを捻ると、そのままニンジャのテールに突っ込んだ。

激しい衝撃。

思わず体がつんのめり、後ろでしがみつくあずさの体重が背中にのし掛かる。

後ろから押され、加速がついたニンジャは、そのままトレーラーの壁に吸い込まれていった。

カウルが粉々になって飛び散る。
フレームが大きく捻れた瞬間、ニンジャのテールランプがふっと消えた。

二人の男の体がバンザイをしたまま大きく上に跳ね上がって、まるでスローモーションのように、粉々になったニンジャの部品が散乱する路面へとその体を叩きつけた。

俺はするりとトレーラーを追い越すと、バックミラーに目をやる。

残った1台が追って来る気配はなかった。

背中にぶるぶると震える、あずさの体の感触。

スピードを落とすと、路肩にハヤブサを停めた。

「大丈夫か?」

体に必死にしがみついたまま硬直している、あずさの手をゆっくりと解いて、ハヤブサから降ろす。

あずさの顔は蒼白で、震えが止まらない。
そのまま、腰が抜けたように路面に座り込む。

奴らは俺ばかりか、あずさまで巻き込んで襲撃してきた。
いったい何が目的なんだ。

ぷるるるる。

あずさのスマホが鳴っている。
放心状態のあずさは、びくっと体を動かすとポケットからスマホを取り出し、耳に当てた。

「……はい。……うん、うん……大丈夫だから……」

はっと、気がついた。

襲われた直後に電話してくるなんて、あまりにもタイミングが良すぎる。

俺はあずさからスマホを取り上げると、相手に向かって怒鳴りつけた。

「おまえなんだな、ストーカーは!」

返事はなく、電話はぷつりと切れた。





空はどんよりと曇り、今にも雨が落ちてきそうな塩梅だ。
しかもこの時期にしては、冷たい風が強く吹いている。
俺は、まるでユータのように、着ていたパーカーのフードを頭に深く被り、ポケットに手を突っ込んだ。

目の前には、高校の校門。
16時をまわった頃合い。

帰宅部の高校生たちが、わらわらと学校から解放されていく様子を、じっと眺めていた。
女子高生が、ちらりと怪訝な目で俺を見る。

はたから見れば、まごう事なき不審者、なんだろうな。

だが、もう不審者扱いには慣れている。
カナと初めて会った時も、最初の言葉は「オジサンは不審者」だった。
俺には、そう見られやすい資質があるのかもしれん。

だが今更、どう見られようが構わない。

奴を取っ捕まえるには、ここで見張るしかないのだ。

ストーカーをストーキングする、俺。
なんだかもう、わけがわからない。

30分程待って、そいつは漸く校門から姿を現した。
ひとりきりなのは、好都合だ。

すでに、ぽつぽつと小雨が降り始めている中、背を屈めながら、ケースに入れたテニスラケットを傘代わりに頭にかざしている。

「おい、ちょっと待て」

真正面から睨みつけながら近づくと、奴はびくっと体を震わせた。

「な、何ですか? あなたは誰ですか?」

「昨日、電話で話しただろうが」

「えっ!?」

「テニスラケットなんて抱えて、テニス部のユータに成りきるつもりか? 次はどうせ整形でもするんだろ」

みるみる表情が青ざめ、顔の面積の割には小さい目をひっきりなしに泳がす。

「おっと、逃げるなよ。トシオ君。おまえには、いろいろ聞きたい事があるんだ」

小柄で小太りなトシオの、むっちりとした腕を掴む。

「な、何するんですか。やめてください! 警察呼びますよ!」

「ああ呼べよ、警察。おまえがカナやあずさを襲わせた事も話そうか」

道行く学生が、興味深げに俺たちの方を眺めている。
これ以上目立つのは、あまりよろしくない。

腕を掴んだまま、校門から離れた人気のない大きな街路樹の下へと引きずり込んだ。
雨は次第に強くなり、秋が深まるに連れ力なく頭(こうべ)を垂れた葉っぱの隙間から、ぽつぽつと雨粒がしたたり落ちて来る。

ぽつん、という音とともに、トシオの大きな眼鏡のガラスにも水玉がこびり付いた。
気づくと、その目には狂気が宿り始めている。
トシオは態度を豹変させ、低い声で囁いた。

「……邪魔するのはやめてもらえますか? 命の保証ができませんよ?」

「何の邪魔だ。説明してもらおうか」

「僕とあずさの関係です。僕たちは上手くいってるんです」

「ユータをストーカーに仕立て上げて、おまえが相談に乗る振りをしてあずさをかっさらう。そんな筋書きか」

「元々、あずさは僕と付き合う運命なんだ。ユータなんて女好きで軽薄な奴に、あずさはふさわしくない!」

そう言うおまえは、ふさわしいのかよ。

「あの日、忘れ物を取りに教室に戻ったら、なぜかあずさとユータが二人きりでいて。ユータの野郎、他の女どもだけじゃ飽き足らず、あずさにまでちょっかい出そうとしているのを、この目で見たんだ。許せない! 僕のあずさに手を出す奴は、それなりの代償を払ってもらうしかないんだ!」

「それでユータを脅して、あずさのストーカーに仕立て上げ、嫌われるように仕組んだのか」

「まあ、そんなとこだね」

ん?

どこか、変だ。
なぜトシオは、こんなに悠然と構えてられるんだ?

ポケットに突っ込んだトシオの手が、妙な動きをしている事に気がついた。

「何をしている。ポケットの中のモノを出せ」

トシオはニヤニヤと笑いながら、ポケットからスマホを出して、俺の前にかざす。

「今、『組織』に連絡したよ、オジサン。もうじき、彼らがここにやって来る」

乾いた声で笑い始めるトシオ。

「オジサンも、もうお仕舞いだよ。カナと同じ目に遭わせてあげる」

「そうか、『ISA』というのは、『組織』の名前だったんだな」

「International Stoker Association. 日本名称、国際ストーカー協会。巨大な組織さ。ストーカーは悪じゃないって教えてくれた。ひとりじゃ弱いからストーカー扱いされるんだ。ストーカー同志、大勢でお互いにサポートし合えば、愛情を相手に理解させるよう仕向けることなんて簡単にできる。この世にストーカーなんていなくなるんだ。どう、素晴らしい理念でしょ」

「愛情を理解させるよう仕向ける、だと? ふざけるな」

「ふざけてないよ。実際あずさだって今やすっかり僕の愛情に答えてくれている」

「おまえは、そのあずさを襲わせて、殺そうとしたんだぞ!」

「それは邪魔なオジサンを狙っただけだよ。もしあずさが怪我でもすれば、勿論僕が看病するさ。僕たちの愛は更に深まるんだ!」

狂っている。こいつも、その組織も。
もうひとつ、確認すべき事がある。

「おまえをサポートしてるのは誰だ」

「葉山って人だよ。顔はオジサンに似てるけど、中身は大違い。ISA東京地区の支部長で、とっても面倒見のいい人なんだ」

葉山。

やはりあいつか。まだ、俺の名前を語っているのか。

巨大ストーカー組織の幹部だったとは。

「教えてくれたんだよ。まずは相手が好きな人に成りきる事からはじめろって」

恐らく一度もケースから出した事すらないであろう新品同様のテニスラケットを、ゆらゆらと揺らしてみせる。

「さよなら、オジサン。組織からは逃げられないよ」

トシオは暗い目で、勝ち誇ったようにじっと俺を見る。

「……そうかな?」

突然、手に持ったトシオのスマホが鳴る。

『すてきなひとからメールがとどいたのだ!! だいすきなあずさちゃんかもね!!』

趣味の悪い着信ボイスだ。

彼ら来たみたいだよ、と言いながらメールを開いたトシオの顔がみるみる青ざめる。

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「そ、そんな!! カナが来るはずが無い。あいつは重傷で入院しているはずだ! それに殺し屋も辞めたと聞いた!」

狼狽えるトシオの背後で、聞き慣れた声がした。

「ところが、どっこい」

一瞬のうちに固まるトシオ。

音も無く近寄った制服姿のカナが、トシオの右肩をがっしりと掴む。
その後方では、ISAのメンバーであろう黒服に身を固めた屈強そうな男達が、あっけなく路上に倒されていた。

「カナ、殺し屋派遣ネットショップに注文すると、どうなるんだっけ?」

「ターゲットは殺される。確実にね」

カナに掴まれたトシオの肩がギリギリと音を立てる。

「わたしに、失敗の二文字はないのさ」

トシオは顔面蒼白となり、がたがた震えながら、そのまま雨で水浸しの路上に這いつくばった。

「ご、ご、ごめんなさい!」

「おいおい、謝る相手が違うだろ」

慌ててカナの方に向き直り、目に涙を溜めて懇願する。

「カナさん、許してください!」

「あんたは何もわかってない」

カナが低い声で呟く。

「あずさに謝れ。あんたにあずさを好きになる資格はないよ」

俺も言いたい事がある。

「なぜだか、わかるか? おまえが本当に好きなのはあずさじゃない。他でもないクズ野郎の自分自身だからさ」

……ああ、うあああああああ……。

トシオはその場に突っ伏したまま、大声を上げて号泣した。



雲ひとつない、群青色の広い空。

白いワンピース姿の美咲が、寄せる波をかわしながら、波打ち際に沿って跳ねるように歩いて行く。
それは屈託の無い、ごく自然な笑顔で。

俺は、ファインダーを覗きながら夢中でシャッターを切る。

江ノ島から片瀬東浜を通って、ここ七里ケ浜へと撮影しながら歩いて来た。
陽もかなり傾き、今日のロケは、そろそろ終わろうとしている。

そして美咲と会うのも、今日が最後だ。

カメラの液晶モニタを覗き込む美咲。
今日撮影した写真を、食い入るように見つめている。

「やっぱり、すごいね! 才能あるよ、浩介くん」

「いや、モデルがいいんだよ」

「絶対、有名なカメラマンになれるって。お金持ちになれるよー」

小悪魔っぽくウインクをする美咲。

「ねえ、お金持ちになったら、何が欲しい?」

金がいくらあっても、美咲の心は買えない。

「……そうだな、バイクかな。ハヤブサっていう世界最速のバイク」

「買えるといいね!」

無理だ。
ほんの一握りの、運に恵まれ才能豊かなカメラマンだけが、生き残れる世界だ。
平凡な俺はこのまま薄給で、しがない雇われカメラマンを続けるしか道は無いのだ。

夢なんか、もう何もない。

ただ、今だけは。

しゃがんで砂の中から拾い上げた、七色に輝く貝の欠片から丁寧に砂を払う美咲の姿を、しっかりと目に焼き付ける。

空は、いつしか夕刻の茜色へと変化していた。

美咲が愛おしい。

一緒にいるだけで幸せっていうのは、嘘だ。
自分勝手に思い詰め、ストーカーまがいの事さえしてしまった。

でも、わかったんだ。

一方的に好きな感情を押し付ける行為が、愛じゃないってことを。
好きだからこそ、美咲には幸せになってほしい。

今日で、美咲のことはきっぱりと忘れるんだ。

美咲はしゃがんだまま、貝がらをじっと見つめている。

俺はカメラを構えると、レンズを美咲に向けた。

「なあ」

「ん?」

「今まで、ありがとう」

「なに、それどういう意味?」

「今日で会うのは最後にしよう」

「……えっ」

美咲がこちらを見上げる。
夕陽の強い光に照らされて、眩しそうな。
そして、驚きと、戸惑いと、怒りと、悲しみと。
全ての感情が複雑に入り交じった、その表情に向けて、俺はシャッターを切った。

奇跡のように美しく、それでいて悲しい、最後の一枚(ショット)。

「なんで、そんなこと言うの?」

「……だって、俺は美咲が好きだから」

美咲がゆっくりと立ち上がる。
俺の声には、いつしか嗚咽が入り交じっていた。

「本当に美咲には幸せになって欲しいんだ。だから……」

美咲はまっすぐこちらを向いて近寄ると、ポケットから何かを取り出し、俺の手に握らせる。

「……最後じゃないよ」

手には、猫の姿をしたスサノオのお守り。

「これからだよ」

美咲は、俺を静かに抱きしめた。


◇ ◇ ◇


「最後の一枚」は、その年の大きな写真コンテストで金賞を取った。

そして、俺の仕事や生活は一変することとなる。





気がつくと雨はいつの間にか上がり、夕焼け空が辺り一面を茜色に染めていた。
ところどころに残された水たまりに反射した、暮れかかる太陽の光がキラキラしてて眩しい。

「さすが、元ストーカーのオジサン。ストーカー心理の分析は得意ですな」

「やめろ」

カナに美咲との馴れ初めなんて、話すんじゃなかった。
確かに、かつて俺はストーカー寸前だった。
だが、ぎりぎりのところで思いとどまり、結果として今は美咲と幸せに暮らしている。

想いを伝える方法は、いくらでもあるが。
結局は、愛する心を見失わず、しっかり自分と向き合う事が大事なんだ。
本当の幸せは、強制しても決してやっては来ない。自然に受け入れるもの。

ストーカーなんて、自己愛しか持たない最低の人間がすることだ。

「……敵はでっかい組織だ。美咲のストーカーだったあいつが、また襲って来るぞ」

図らずも、結局カナを殺し屋に復帰させてしまった。
その現実に心がちくりと痛む。

そんな気持ちと裏腹に。

「なんだか、ワクワクしてきたねっ」

両腕を思いっきり天に向けて、伸びをするカナ。
その顔は笑っていた。

あれ、カナの底抜けの笑顔を初めて見たような気がする。

カナは、水たまりを大きくジャンプして飛び越える。
かばんの取っ手にぶら下がった、アマテラス猫のお守りが小躍りしていた。



やばい、寝坊した。

今日は超有名アイドルの、グラビア撮影だってのに。
やっと掴んだチャンス。カメラマンとして名を上げるための大事な仕事なのだ。

俺はベッドから飛び起きて、猛ダッシュで支度すると、商売道具が入った重いカメラバッグを担ぎ上げた。

「コースケ、朝ごはんは?」

ベッドから半身を起こした美咲が、目を擦りながら眠そうな顔で俺を見る。

「いいよ、どっかコンビニでも寄って買うよ」

美咲が作る絶品のスクランブルエッグを食べたいが……。
家で朝食を済ませてから仕事行くのが習慣になっているので、どこか落ち着かない気もする。

美咲と朝食を一緒に食べるのは、これまで当たり前のように続けて来た、日常の一部でもあった。
それを欠くのは、ゲン担ぎじゃないけど、何か良くない事が起きるような、そんな引っかかりを覚える。

「じゃあ、行って来るよ」

「気をつけてね」

玄関のドアを開けたとたん、薄暗い曇天の空から冷たい木枯らしがびゅっと吹き付け、思わず身震いした。
吐く息も白い。このところ、急に冷え込みが増してきた。

もうすぐ12月。
俺は冬が苦手だ。寒いとハヤブサに乗るのも辛いのだ。

両手をこすり合わせて暖めながら、エレベーターに乗り込む。

腕時計を見ると、7時すぎ。
三鷹から代官山のスタジオまで、電車で40分くらいか。
スタジオ入りは8時だから、ぎりぎり間に合いそうだ。

4階で、がこんと音を立ててエレベーターが止まった。
ドアが開いて男が乗り込んで来る。

「やあ、おはよう」

その声に、どこか違和感を感じながら顔を上げたとたん、俺は固まった。

目の前に……。

俺がいる!

髪型、顔かたち、体型。
まるで鏡を見ているようだ。
そして、その声までも、俺の声にそっくりだ。

「なっ!?」

「お久しぶりだね」

にやついた表情で、すぐに気がついた。

あいつだ。

ついに、目や声帯までも整形したのか。
どこからどう見ても、「俺」そのものに変貌していた。

エレベーターの扉が閉まり、がこんと動き出す。

「ど、どういうつもりだ!」

俺は身構えて、あいつを睨みつけた。

「ついに、この時がやってきたってことかな」

あいつは、にやにやした表情を顔に貼り付けたまま、エレベーターの緊急停止ボタンを押した。
ふたたび、がこんと音を立てて、エレベーターが2階付近で停止する。

「何をする……?」

「楽しいショーの開幕だよ」

そう言いながらゆっくりと、ポケットから何かを取り出した。
赤いボタンが付いた小さな黒い箱だ。

「それは何だ」

「君の人生を変えるスイッチさ」

あいつは片側の口角を吊り上げて不気味な笑みを見せると、赤いボタンをポチっと押した。

そのとたん、耳をつんざくようなドカンという轟音とともに、エレベーター全体が激しく揺れ動き。

そのまま落下した。

一瞬の後、激しい衝撃とともに、あいつと重なり合うようにエレベーターの床に叩き付けられ。

俺の意識は、そこでぷつんと途絶えた。





ゆっくりと目を開ける。

頭の中は、まだ霞がかかっているようだ。
ぼんやりとしていて状況が飲み込めない。

そこは薄暗く、さほど広くない部屋の一室だった。
壁の上の方に小さな窓があり、そこから僅かに陽の光が差し込んでいるが、この位置からだと外の様子はうかがえない。
反対側の壁には、ドアノブの付いた扉がある。

部屋の中央に置かれた、木製の肘掛け椅子。
そこに、俺は手足をロープで縛られた状態で座っていた。

目の前には、なぜか大型の液晶モニタ。
電源は入っておらず、何も映し出されていない。

それ以外、部屋の中には何もなく、がらんとしている。
くすんだコンクリートの白い壁は、ところどころ染みやヒビが見られ、ここは、ある程度年数が経った建物の中のようだ。

今、何時だろう。

腕時計を見ようとして、無くなっている事に気がついた。
誕生日に美咲からもらった、大切な腕時計なのに。

体を動かそうとするが、椅子にきつく縛り付けられていて、びくとも動かない。
椅子自体も床に固定されているようだ。

エレベーターの床に叩き付けられた時に打ち付けたのか、頭と腰が痛む。

「おーい」

大声を上げてみた。

「おーい、誰かいますかー!」

だが、あたりはしんとしていて、何の反応も返ってこない。
窓から微かに、外を行き交う車の走行音が聞こえるだけだ。

なんだ。
これは、いったいなんなんだ。

あいつに、嵌められたのか。

考えを巡らせていると、突然、モニタの電源が入った。

映し出されたのは、ベッドに横たわる包帯が巻かれた男の頭。
そして、ベッド周辺に置かれた計器やら点滴やら。

どうやら、そこは病室らしい。
カメラはベッドの枕元に置かれているらしく、広角レンズで病室全体を映し出していた。


頭が動き、ベッドに横たわったまま、ゆっくりとカメラの方に向き直る。

そこには、俺の顔をした、あいつがいた。

『やあ、そっちの居心地はどうかな?』

俺は思わずモニタに向って、怒りを込めて叫んだ。

「おいっ! どういうつもりだっ!」

あいつは、片手を耳に当て、うんうんと頷く仕草をする。

『なるほどなるほど。怒っているようだね。だけど、ごめん。そっちにはマイクがないから何も聞こえないんだ』

あいつは毛布から手を出して、腕時計を眺める。
俺の腕時計だ。

『あ、これね。貰っておいたから。君のスマホや財布もね。これで俺はすっかり葉山浩介、だね』

ふざけるな! とモニタに向って叫ぶが、あいつには届かない。

『いやあ、大変な『事故』だったね。まあ、あのマンションのエレベーターは元からガタがきてたから、落下事故が起きても不思議は無いよね。仕掛けがあったなんて、誰も疑わないよ。さてさて、お楽しみはこれからだ。よーく見ててね』

あいつはカメラに向ってウインクすると、仰向けに寝転がる。
そこへ、手に袋を持った美咲が心配そうな顔で病室に入って来た。

『とりあえず売店でタオルとか日用品、買って来たよ。どう、痛みは?』

『うん、頭がちょっと痛むけど、大丈夫だよ』

美咲はベッド脇の椅子に腰を下ろし、涙ぐんでいる。

『ホントに心配したんだから、コースケ』

違う!
そいつは、俺じゃないんだ!

『ただ、頭打ったせいか、記憶がちょっと曖昧なんだよな。勿論、美咲のことは覚えてるけど、他の事を思い出そうとすると、霞がかかっているというか、何も思い出せない』

白衣を着た医者が、病室に入って来た。
いや、医者じゃない。

ボサボサの髪の毛。ひっきりなしにぎょろりとした目を動かしている。

こいつは、殺し屋派遣ネットショップの『ニセ医者』だ。
カナが入院した時に襲って来た、ヘタレの殺し屋。

『や、や、や。ぐ、ぐ、ぐ、具合はど、ど、ど、どうですか』

美咲がニセ医者に頭を下げて挨拶する。
当然ながら偽者だと知るはずもない。

『先生、このひと記憶を無くしているみたいなんです。大丈夫なんでしょうか』

『あ、あ、あ、あ、頭を打ちましたからね。おそらく、いちいちいち、いち時的な記憶障害でしょう』

『治るんでしょうか』

『な、な、な、治りますとも! いや、治らないかも!』

どっちなんだよ。

『と、と、と、とにかく。軽い打撲はありますが、骨折とか内蔵損傷は見られないので、に、に、に、にさん日で退院できるでしょう!』

よかった、と美咲が胸を撫で下ろす。
ニセ医者は、軽く頭を下げると、かくかくした動きで病室を出て行った。

『……美咲、ごめんな。心配かけて』

あいつが、しおらしく美咲に声を掛ける。
美咲は不安そうに、あいつをじっと見つめていた。

『……こっちへ、おいで』

あいつが両手を伸ばすと、美咲はゆっくりと立ち上がり、その腕の中に体を沈み込ませる。

や、やめろ。
やめてくれ!

そして、あいつは美咲の髪を撫でながら、もう片方の手を顎にそっと添えると、顔を寄せ。

美咲にキスをした。

それは濃厚な、長い長いディープキス。

なんで、こんなことが……。

次の瞬間、モニタの映像はぷつんと切れて、真っ暗になった。

俺は、頭の中が真っ白だった。

ロープをほどこうと必死に手を動かしてみるが、びくともしない。

気がおかしくなりそうになりながらバタバタもがいていると、ふいに、モニタが再度ついた。

『やあ』

あいつだ。
美咲の姿は見えない。

『君と話したいから、美咲ちゃんには水を買いに行ってもらったよ。あれ、とっても怒ってるかい? そうだよねえ、暴れたい気持ちもわかるよ。でも、これでわかったかな? 君と俺は、完全に入れ替わったってことをさ。そうそう、美咲ちゃんの唇、やわらかくって最高だね!』

モニタの中のあいつは、バカにしたように舌を出す。

『さて、ここまでは前菜。実はここからが、最大の見せ場なんだ。だから、チャンネルはそのままでね!』

しばらくして、ペットボトルを手にした美咲が病室に戻って来た。

『はい』

『ありがとう、美咲』

ペットボトルを受け取りながら、あいつが妙にしおらしく答える。

『……あのさ、美咲』

『なに、なんか他に欲しいものある?』

『いや、そうじゃないんだ。実は、色々思い出して来た。それでな、美咲にどうしても話さなきゃいけないことがある』

『どうしたの、改まって』

あいつはそこで一旦口をつぐむと、目線を美咲から背けた。

『何よ、話してよ』

美咲は少し不安そうな目で、あいつをじっと見つめてる。
やがて、あいつの口から発せられた言葉に、俺の心臓は跳ね上がった。

『美咲、別れよう……』

美咲は、驚いた表情で声を上げる。

『え、どういうこと!?』

『これまでずっと、言えなかった。実は他に好きな子ができたんだ』

『ちょっと、冗談はやめてよ』

『本当だ。だからもう、美咲と一緒にいることはできない』

『そんな……』

美咲は目を大きく見開き、口が半開きになっている。
それは、俺も同じだった。

『カナっていうんだ。女子高生だよ。夏から付き合っている』

『女子高生? コースケ、何を言ってるの?』

『美咲が知らないところで、ずっと会ってたのさ。もう、隠れて付き合うのは限界なんだ。俺はカナを愛している。だから、美咲とはこれで終わりなんだ』

美咲の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

『ねえ、コースケ。嘘だと言って。冗談だって言ってよ……』

『美咲、本当にすまない。これまでありがとう』

あいつは、キッパリとした口調でそう言い放つと、全てをシャットアウトするように顔を背ける。

美咲は涙をぬぐおうともせず、暫くあいつを見つめていた。
そして、二、三歩後ずさりすると、踵を返し、俯きながら早足で病室を出て行った。

モニタ越しのその空間で、今、この瞬間、目に見えない大切なものがなくなってしまった。
映し出される画像に変化はないのに、明らかに、そこから消え失せたものがある。

俺は、放心状態でその様を眺めていた。

いつしか、モニタの電源が切れたのにも気づかずに。





あれから、何時間経っただろう。

俺はずっと、考えていた。

あいつは、美咲のストーカーだった。
周到な計画を立てて俺と入れ替わり、ついに美咲を手に入れた。
思いを遂げたんだ。

しかし、その直後にあいつは美咲に別れを告げた。

なぜなんだ。

すぐに別れるのなら、なぜこれほど長期間に渡ってストーキングしてたんだ?

わからない。

ロープが食い込んだ手首からは、血が滲んでいた。
だが、痛みは感じない。
俺はすっかり脱力感に包まれ、全ての感覚が失われつつあった。

ぷつんと音がして、ふたたびモニタの電源がつき、あいつの声が耳に飛び込んで来た。

俺に向って話しかけているのかと思ったが、そうではない。
大声で電話を掛けていた。

『……もしもし、『バイク買い取り宇宙ナンバーワン、超高価買い取り、即日ニコニコ現金払いのバイクキング』さんですか? バイクを売りたいんすけど。てか、タダでいいんで、すぐに持ってってもらえます? ハヤブサってバイクです。とっとと処分したいんです、はい。住所は……』

病室の入り口に佇んでいる人影が目に入った。

制服姿のカナだった。

カナは心配そうに眉を歪め、もじもじしながら、ゆっくりとあいつに近づく。
あいつは電話を終えると、カナの姿に気づいた。

『なんだ、おまえか』

『……具合、どうなのさ』

『別に? なんでもない』

あいつは、そっけなく答える。

カナは後ろ手で持っていた紙の包みを、あいつに差し出した。

『なんだ、それは』

『……福神漬け』

『なんで、福神漬けなんだ』

『好きだって言ってたから』

確か前に、カレーの付け合わせに福神漬けは最高だ、と言った覚えがあるが。
福神漬けだけ持って来るところが、いかにもカナらしい。

『そんなものは、いらん』

あいつは、差し出された袋をはねのけた。
カナは床に散らばった福神漬けに目を落とす。

『どうした、オジサン』

『ふん、どうもしねえよ』

『また、記憶なくしたとか?』

『そんなわけねえだろ』

『なんか、雰囲気が違う』

『当たり前だろ? エレベーターが落下したんだ。叩き付けられて、からだ中が痛いんだよ!』

カナは心配そうに、大きな目でじっとあいつを見つめている。

『……ハヤブサ、売っちゃうの?』

『あんなもん、もう必要ない。飽きたのさ』

『ずっと大事にしてたじゃん』

『うるさいな、大きなお世話だ。この際だからついでに言ってやる。おまえにもうんざりなんだ。これまでおまえに関わって、ろくな事がなかった。もう、こりごりだ』

あいつはカナを睨みつけ、吐き捨てるように言った。

『……オジサン、本気で言ってる?』

『ああ、本気だとも! ずっと迷惑してたんだ。いつまでも俺のまわりをうろちょろしやがって、目障りにもほどがある。これ以上、おまえのお遊びに付き合いきれん』

『……』

『だいたい、俺がおまえのことなんか、好きなはずないだろうが!』

カナは無表情だった。
いや、俺にはわかる。
あいつは、すごくショックを受けている。

『……わかった。本当にこれまで、かたじけなかった』

かたじけない、の使い方が、間違ってる。

『ああ、二度と顔を見せるなよ』

カナはごそごそとカバンからアマテラス猫のお守りを取り外すと、あいつに突き出した。

『なんだ、これは?』

『……』

『こんなもん、いるかよ!』

あいつは、お守りをひっ掴むと、病室の奥へと放り投げた。

カナは床に転がったお守りを、暫くじっと見つめていた。
そして、何も言わずに、病室から駆け出ていった。





小窓が強い風で、カタカタと鳴り続けている。
この部屋の唯一の光源であるが、その明るさも次第に弱まりつつあった。

あれから、どれだけ時間が経過したのか。

不思議と喉が乾いたり、腹が減ったりとか、トイレへ行きたいといった生理的な感覚が湧いてこない。

人間、とことん追いつめられると麻痺するらしい。

あいつは、俺から美咲を奪った。

そして、カナ。

ハヤブサまでも。

大事な仕事も、すっぽかすこととなってしまったので、もう二度とこんなチャンスは巡ってこないだろう。

全てを失った。

やれやれ。

こんな最悪な状況なのに頭に浮かんだ言葉は、それだけだった。
怒りや、悲しみや、悔しさや、絶望。ありとあらゆる負の感情を超越した言葉。

「やれやれ、だ」

口に出してみると、心なしか気分が少し和らいだように感じる。

目の前のモニタはついたままだ。
スマホのメール画面が、映しだされている。

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件名:【殺し屋】発送のお知らせ

本文:

毎度ありがとうございます、【殺し屋】派遣ネットショップです。

【葉山浩介】様よりご注文頂きました【殺し屋】を本日発送しましたので、お知らせします。

お届け予定時間:1時間以内

お届け先:あなた

お届けする【殺し屋】:ゆるキャラ

返品、交換は一切受け付けられませんのでご了承ください。
ご不明な点につきましては、【葉山浩介】様にお問い合わせください。

またのご利用をお待ちしております。

※このメールアドレスは配信専用です。このメッセージに返信されても回答しかねます。

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やれやれ。

もう、どうにでもなれ。

ガチャリ、とドアノブを回す音がした。
ひさびさに感じる、人の気配。いや、凶悪なペンギンか。

ドアがゆっくりと開いて姿を見せたのは、やはりというか、毛むくじゃらの巨大な着ぐるみだった。

「ちーっす」

愛らしい大きな瞳のペンギンから発せられる、だるそうな声。
手には魚の形をした鈍器。

その凶器をくるくると振り回しながら、奴はゆっくりと俺に近づく。

「配達に伺いましたー」

俺は、目の前にそびえ立つペンギンを見上げた。

「ああ、とっとと済ましてくれ」

「まじっすか。今日はずいぶん素直っすね」

「もう、どうでもいいのさ」

「駄目っすよ、人間、最後まで生きるために必死でもがかねえと。『死中求活』って言うでしょ。アーネスト・ヘミングウェイも言ってたじゃねえっすか、『世界は美しい、戦う価値がある』ってね」

殺し屋に、説教される俺って。
てか、意外と博識なんだな。

ペンギンは頭を傾げると、ふうと息をつき、ゆっくりと魚を振り上げる。

俺は目を瞑った。
これで終わりだ。何もかも。

耳元で、びゅっと言う鋭い風切り音が聞こえた。

そして、激しい破壊音。

あれ?

目を開けると、粉々に破壊されたモニタが床に転がっていた。
予期せぬ攻撃に驚いたかの如く、画面がぱちぱちと点滅していたが、やがてすっかりその機能を停止した。

なにがなんだか、わからない。

ペンギンは、壊れたモニタをつぶらな瞳でじっと眺め、やがて魚を放り投げた。

「……どういうことだ?」

「埼玉に新しいアミューズメント施設ができるの知ってます? 『ゆるキャラドリームランド』って言って、全国のマイナーゆるキャラが集結するんすよ」

話しながら、だるそうに頭をぐるぐる回すペンギン。
ポキポキと音が鳴る。

「俺、そこに採用されたんす」

「それは……おめでとう」

「なので、もうこんな稼業は辞めるんだ、俺」

いつしか、着ぐるみから発せられる凶悪なオーラが、消え失せていた。

「ゆるキャラなんか、もうオワコンだからこの先どうなるかわかんねえっすけど、とりあえず精一杯やってみるっす。あんたも何をされたのか知らんけど、頑張って生きて下さいよ。『人間万事塞翁が馬』ってね。いいことも悪い事も、いろんな事が待ってるのが人生ってやつっすよ。あきらめちゃ終わりだ」

着ぐるみは俺を見下ろしながら、相変わらず気だるそうな話し方でそう言った後、肩をすくめてドアへと向って行った。

俺はその背中に向けて声を掛ける。

「……おい、あのさ」

「なんすか?」

「どうせ助けるなら、このロープも解いてくれないか?」



俺が俺だと証明できるものは、何があるのだろう。

身分を証明する免許証やスマホなんかは、あいつに奪われた。
しかし、それを持っていたところで、果たして自分である証(あかし)となるのだろうか。

偽物の俺が、しでかした事実は消えない。

美咲に別れを告げたこと。
別れの理由に、カナを引き合いに出されたのは堪えた。
美咲には、カナのことを内緒にしてたから。

カナに対しても、心を傷つけゴミのように追い払った。
あいつは相当、ショックだっただろう。
二度と俺の前に現れることはないかもしれない。

目に見える光景は何も変わらないが、俺の世界は明らかに変わってしまった。
大切なものが損なわれ、失われ、既に取り返しのつかない状況なのだ。

あいつによって、ねじ曲げられた世界。

もう、今となっては、何もかも遅すぎる。
俺が、本物の俺であることを証明しない限り。

仮にそれを成し遂げたとしても、完全にもとの日常に戻る事なんて、できるのだろうか。

自宅のマンションを見上げながら、俺はぼんやりと、そんなことを考えていた。

監禁されていたのは、三鷹商店街の裏通りにある、今は廃墟と化した雑居ビルの一室だった。

ゆるキャラにロープを解いてもらい、外へ出ると既に陽は落ちかかっていた。
まるで自分の気持ちを映し出しているかのような、どんよりとしたモノクロの空が暗い闇へと沈み込まれて行く中、自然と足が向いたのはマイホーム。

駐輪場に、ハヤブサの姿はなかった。
おそらく、『バイク買い取り宇宙ナンバーワン、超高価買い取り、即日ニコニコ現金払いのバイクキング』とやらが、持って行ったのだろう。

部屋には美咲がいるのだろうか。

どの面さげて、帰れば良いのだろう。

『あれは俺じゃない。ISAという国際的ストーカー組織に所属する、俺そっくりに整形した奴が、美咲を欺いていたんだ』

そんな、端から見ればどうしたって荒唐無稽な話を、素直に信じてもらえるだろうか。

あんな酷い別れ方をした直後に。

浮気の言い訳ランキングというものがあるとすれば、おそらく最下位レベルだ。

まずは、どうやって俺という人間を証明するか。

美咲に会う前にそれを考えるのが先だが、果てしなきロング・アンド・ワインディングロードが目の前に広がっているのを感じ、目の前がくらくらした。

『おじさん、不審者?』

声が聞こえた気がして、思わず振り向く。

『なんで自分ち見上げたまま、ぼーっと突っ立ってるのさ?」』

溶けかけのチョコバーを持って、壁にもたれてこちらを睨む、夏制服姿のカナがいる。

「カナ……」

思わず、声に出してから気づく。

いや。

それは、幻影だ。

カナの姿は、まるで陽炎のように、ゆらゆらと壁の中へと消えて行く。
初めて出会った頃に感じた、夏の焼けたアスファルトの匂いを、かすかに鼻孔の奥に残しながら。

俺は、もう一度マンションを見上げてから、その場を後にした。

取り敢えず向った先は、いつもの喫茶店。

他に行くあてなんてない。

からんころんと鐘を鳴らしながら入ると、いつも陣取る窓側の席に目をやる。

そこに、カナの姿はない。

いないだろうと思いつつ、少しだけ期待してたせいか落胆している自分がいる。

昭和のマスターにホットコーヒーを頼むと、ぼんやりと外を眺めた。

あの時。

カナが病室から飛び出して行くのを見届けて、あいつはベッドからすっくと起き上がった。
案の定、どこも怪我なんかしてやしない。
頭の包帯を外しながら、カメラに向けて最後にこう言い放った。

『さて、これで君への復讐も終わりだ。全てを失った気持ちはどうだい? 絶望の底にいることを心から願うよ。最後のプレゼントとして殺し屋を送っておくから、届くまでの少しの間、せいぜいもがき苦しんでくれ。じゃあね』

その目は、笑っていなかった。

あいつは、『復讐』と言っていた。
なぜ、そう言ったのだろう。
一方的に美咲をストーキングしていた奴に、復讐される覚えは無い。こっちの方が被害者だ。

しかし、あいつは、ずっと『復讐』の機会を狙っていたのだ。
そして今日、ついにそれをやってのけた。
いったい何に対する復讐だったのか。
全てのカギは、そこにあるような気がする。

「おい、兄ちゃん」

耳障りなダミ声が聞こえた。

振り返ると、例の、かあっ爺さんが、こっちを睨んでいる。
声を聞くのは、初めての事で驚いた。
店の置物じゃなかったのか。

「昨日、巨人は負けたのか?」

あんたが手に持っているスポーツ新聞はなんなんだよ。

「とっくに、野球シーズン終わってますけど」

「けっ! どおりで、野球の記事がないはずだわい」

爺さんは、開いていたスポーツ新聞をくしゃくしゃにしながら乱雑に折り畳む。

「ところで、いつも一緒にいる、例の女学生はどうした?」

女学生って、言い方が古いな。

「さあ。わかりません」

「あの子は、なんだ、兄ちゃんのコレか?」

小指を上げる爺さん。

「いやいや、違いますよ。ただの……」

言おうとして、的確な表現がないことに気づいた。

知り合い、と言うには微妙だ。
友人、とも違う。
勿論、彼女、であるはずもない。

どれでもないが、あいつの正体を知っている、唯一のパートナーである事は間違いない。

そうか。

まずは、カナだ。
カナを探そう。

そのためには……。

「ありがとう、爺さん!」

ぽかんとした表情の爺さんに礼を言って、俺は喫茶店を飛び出した。





辺りはすっかり夜の闇に包まれていて、閑静な住宅街の街路灯から放たれるぽつぽつとした灯りが路面をぼんやりと照らしている。

その見覚えのある光景にデジャブのような感覚を感じつつ、俺は一軒の住宅の2階を見上げた。

カナの友人、あずさの部屋だ。
電気は消えている。ダイニングで夕飯を食べているのだろうか。
以前、カナと一緒にここでユータを張り込んでいた事を思い出す。

あずさには、あれから会っていない。
イケメン、ユータとその後どうなったのかも知らない。

とりあえず、ここまで来たが。

どうやって、あずさに会おう。
家には家族がいるだろうし、夜中にいきなりベルを鳴らして出て来たお母さんに、お宅の娘さんのあずささん(女子高生)に用事があるのです、と話しかけるのはさすがに気が引ける。

しかし、スマホを盗られてカナの電話番号がわからず、住所も知らない状況では、あずさを頼るほかないのだ。

この街灯の下で、あずさが部屋に戻り窓のカーテンを開ける機会をひたすら待つか。
いやいや、それではあの時のユータと同じストーカーみたいだ。

考え悩んでいると、ふいに後ろから声を掛けられた。

「あれ? 葉山さんじゃないっスか?」

振り返ると、ユータと、ふわりとしたレイヤーカットの髪を茶色に染めた、少し派手目の女の子が立っていた。
いずれもくだけた制服姿。手を繋いで、いかにも仲睦まじそうだ。

ん?

この小柄な娘は、もしや、あずさか?

「お久しぶりです。こんなところで何してるんですか?」

はきはきとした口調。
以前の地味で大人しい面影は全くない。眼鏡はコンタクトとなり、目元ぱっちりの化粧。
全身から、かつては皆無だった色気を醸し出している。
女って、短期間でここまで変貌するものなのか。
まるでサナギから蝶への変態だ。

俺が驚きのあまり言葉に詰まっていると、あずさが色っぽい目をぱちぱちさせる。

「まさか、あずさのストーカー……」

「いや、違う、違う」

俺はあわてて頭(かぶり)を振った。

「実はカナを探している。例のあいつに嵌められて、スマホも何も持ってないんだ。カナに連絡を取ってもらえないか?」

「例のあいつって、以前、オレを拘束したあいつですか?」

ユータが怯えたように言う。

「いや、待てよ」

ユータは急に顔を強ばらせ、あずさの腕を掴んで二三歩後ろに下がった。

「あずさ、こいつはあいつかもしれん。顔が同じだから見分けがつかないんだ」

「えっ、こいつがあいつなの?」

やれやれ。
こいつがあいつ、って何なんだよ。

「もし本物の葉山さんなら、本物である事を証明してください」

あずさを後ろに庇うようにして、俺を睨みつけるユータ。
こいつ、こんな男らしいキャラだっけ。
ちゃんとした恋人ができると、人って変わるもんだな。

まあ、そんなことはどうでもいい。
俺が俺である証明か。

ここにいる人間しか、知らない事って……。
頭をフル回転させて、脳のニューロンの先っぽにある微かな記憶をたぐり寄せる。

「……『それいけ! アン○ンマン』だ」

ふたりが顔を見合わせる。

「カナのスマホの着メロ。これは本物の俺しか知らない事だろ?」

言ったとたんに、ユータがほっとしたように相好を崩した。

「葉山さんー、良かった本物の葉山さんだ」

ああ、こんなことでしか、自分を証明できないのか。

いや、そうか。
あいつが知らない情報でしか、今や自己証明の方法はないのだ。

「で、何があったんスか?」

俺はこれまでの出来事を、手短に説明した。
あいつが俺と入れ替わって、美咲に別れを告げたこと。
カナの心を傷つけて、追い払ったこと。
最後には、殺されそうになったこと。

「……マジっスか」

「今や、あいつは完全に俺に化けている。どうやら周到に計画を立てていたらしい。完全にあいつの思い通りになってしまった」

「でも、ひとつだけ誤算がありますよ」

黙って話を聞いていたあずさが口を挟んだ。

「あいつは、葉山さんが生きていることを、まだ知らないと思います」

そうか。
ゆるキャラが仕事放棄して俺を逃がした事に、おそらくあいつはまだ気づいてないだろう。
そこに、付け入る隙があるかもしれない。

あずさはスマホを取り出し、電話をかける。
が、やがてスマホを耳に当てたまま首を横に振った。

「カナのスマホ、電源が切れてるみたいです」

どこにいるんだろうか。
まさか、落ち込んで人知れず旅に出たとか。
ちくりと心が痛む。

「そうか。じゃあ、病室にいたあいつは偽物だ、とメッセージを入れておいてくれるか? 俺が会いたがっているって」

「わかりました。葉山さんは、どこにいるって伝えれば良いですか?」

この近所に住んでいて、寝床を貸してくれそうな友人は、何人かいるが。
スマホがないと電話番号がわからないので、連絡が取れない。
それに、周到なあいつが友人達に良からぬ事を吹き込んでいることも、想定しておく必要がある。

そうすると、結局あそこしかない。

「いつもの渋い喫茶店だ。そこを待ち合せ場所にしてくれ。それから……」

こんなこと、女子高生にお願いするのは、本当に情けない。

「……すまないが、いくらかお金を貸してくれないか」





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■現在のアイテム
女子高生から借りた¥5000
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今の俺はまるで、魔物蠢く異世界に放り出された、Lv.0、チート無しの勇者……?である。
あいつは、俺が生きている事に気づいたら、容赦なく殺し屋を送り込んでくるだろう。

なんとかしなくちゃいけない。

あずさとユータに別れを告げると、俺はその足で駅前のネットカフェへと向った。

ここは暇な時に、何度か利用した事があるのだ。
フロントには馴染みの店員がいたので、会員カードがなくても入れてくれたのは幸運だった。

薄暗く狭いボックス席に入ると、PCの電源を入れてブラウザを立ち上げた。

あいつを探す方法が、ひとつだけある。

『スマホを探す』機能だ。

あいつは俺のスマホを持っているはずだ。ネットでスマホを探せば、今いる場所がわかる。
前に、カナに教えてもらったのだ。

パスワードを入力すると、地図が表示された。
スマホの場所は、六本木ヒルズを示している。

あいつは、ここで何をしているのだろう。
そもそも、素性がさっぱりわからない。
ISA(国際ストーカー協会)に所属していること以外は。

「国際ストーカー協会」と入力して検索してみたが、どのページもヒットしなかった。

うーむ。
とりあえず、六本木ヒルズに行ってみるか。
巨大な施設だから、見つけ出すのは難しいかもしれないが、ここで手をこまねいていても仕方が無い。

椅子から立ち上がろうとして、地図上のスマホの位置が道路沿いに移動し始めた事に気がついた。

麻布十番を抜け、赤羽橋交差点で南に向きを変える。
どうやら、あいつは車で移動しているらしい。しかも結構なスピードだ。

品川駅の近くで停止すると、そこから動かなくなった。

やっかいだな。

コーヒーをすすりながら、地図を眺め続ける。
車で移動しているとなると、捕まえるのは難しい。
ハヤブサと奴の位置が追えるスマホがあれば、なんとかなりそうだが、今の俺には何もない。

しかし、あいつがあちこち場所を移動する理由は何なんだろう。
全く想像もつかない。

30分ほどして、再び地図上のスマホアイコンが動き出した。
五反田、中目黒を抜け、世田谷方面へと移動していく。
駒沢オリンピック公園の脇を通って、成城学園前駅の近くで停止すると、突然「オフライン」と表示された。

オフラインとは、つまり、スマホの電源がそこで切れたと言うとこだ。

電池が切れたのか、あいつが自分で切ったのかはわからないが。
自分で切ったとすれば、なぜ。

気づかれたのだろうか。

PCの時計を見ると、20時過ぎだった。
急に、どっと睡魔が襲ってくる。
俺は、PC画面をぼんやり眺めながら、汗臭いリクライニングチェアの背もたれに体を沈み込ませた。

朝から監禁され、精神的に追い込まれ、しまいには殺されかけて。

本当に酷い一日だった……。

そのまま、意識が次第に深い暗闇へと落ちていった。





はっと、目を覚ました。

かなり、ぐっすりと寝てしまっていた。

ふと、起動したままのPCの画面に目をやると、スマホは再びオンラインになっており、ある場所を指し示していた。

新宿歌舞伎町にある、「国際アンバサダーホテル」。

時計に目を移すと、10時5分。

うーむ。

あいつはなぜ、昨晩スマホの電源を切り、また今朝になって電源を入れたのだろうか。
俺が生きている事に気がついたのであれば、切ったままにしておくはずだ。
スマホの現在位置が追えることくらい、あいつも知ってるだろう。

そうすると、夜のあいだ電源を切らなきゃならなかった、別の「理由」があるのかもしれない。

良く寝たせいか、頭は昨日よりすっきりとしている。
とりあえず、国際アンバサダーホテルへ行ってみよう。行動を起こさなきゃ、何も始まらない。

ネットカフェを出ると、空は雲ひとつなくすっきりと晴れ渡っていた。
いきなり眩しい太陽の光を浴びたので、頭がくらくらする。

一瞬、家に帰りたい衝動に囚われた。

このまま、マンションに帰ると。
美咲がスクランブルエッグを作って、微笑みを携えながら俺を待っていて。

いやいや。

そんなのは幻想だ。
今は、全てにけりを付けなければ駄目なのだ。

中央線に乗り、新宿へと向かった。
三鷹から新宿までは20分程だ。あいつが再び移動する前に、間に合えばいいのだが。

通勤混雑帯の時間を過ぎた電車は、空いていた。
向かいの席に、『遅刻しますが、何か?』的なオーラを纏った茶髪の女子高生が、座ってスマホをいじっている。

カナの事を思い出した。

あいつは、どこへ行ってしまったんだろう。
ネットカフェを出る前に、電話を借りてあずさから聞いた電話番号でカナのスマホにかけてみたが、相変わらず圏外だった。
今どきの女子高生が、半日以上もスマホの電源を切っているなんて、考えにくい。

カナが今どきの女子高生と言えるのかどうかは、置いとくとして。

新宿駅で下りて、歌舞伎町の外れにある国際アンバサダーホテルへと向かう。
そのインターナショナルな名称とは裏腹に、実体は古ぼけた3階建ての小さいホテルだった。

建物に入ると、とたんにカビ臭いにおいに包まれた。
こじんまりとしたロビーに置かれている表皮がすり切れたソファも、煤けた壁に掛けられている、すっかり色あせてしまったアルプスの山岳風景の絵画も、何もかもがくたびれている。
まるで、全ての調度品が一斉に、疲れ切ったため息を吐いているようだ。

そしてフロントに、でんと座るおばさん。
ちりちりパーマの髪型で化粧が濃く、人生これまで一日5食欠かした事はありません的な感じの三重顎。

入って来た俺を、蔑むような目でじろりと睨みつけた。

「すみません、さっきここに人が来ませんでしたか?」

「人ならしょっちゅう来ますけど? ここはホテルですから」

その割には、スターウォーズに出て来る巨デブの怪物ジャバ・ザ・ハット似のおばさん以外、人気が無い。

「ええと、じゃあ」

俺は自分の顔を指差した。

「こんな顔の人です。俺と同じ顔をした人が来ませんでしたか?」

おばさんが顔をしかめると、顎の線がひとつ増えて四重顎になった。

「何をおっしゃってるのか、わかりません」

そりゃそうだ、と自分でも理不尽に思う。

「さっきまで、ロビーのソファにカップルの方が座られてましたけど。場所がら、あまり顔は見ないようにしてるので」

場所がらって。
ここは、あっち系のホテルなのか。

「それは、どのくらい前ですか?」

「だから、さっきです」

埒(らち)が明かない、ってのはこういうことなんだな。

ここにいたのがあいつだとすると、一緒にいた女は誰なんだろう。
まさか、美咲じゃないとは思うが。あんなにキッパリと別れを告げたんだから。

俺は四重顎おばさんに軽く会釈をして、ホテルを出た。

間に合わなかったか……。
さて、これからどうしよう。

「葉山さん!」

いきなり後ろから甲高い声を掛けられ、俺はその場で飛び上がった。

振り返ると、ガリガリにやせ細った、緑色のワンピース姿の女が立っていた。
髪はボサボサのショートで、顔は……。

うーん、なんだろう。
絶対本人には言えないが、強いて言えばかまきりに似ている。

名前を呼ばれたが、見た事もない女だ。

「わたし、間違ってました!」

女は、両手を前で合わせながら、まるで祈るような体勢で俺に近づいて来る。
その顔は、今にも泣き出しそうだ。

「ななな、なんですか?」

たじろいで二三歩後ずさった俺に、女はぐいと目と鼻の先まで顔を接近させた。

「さっきは、葉山さんのせっかくの提案を断ってしまってごめんなさい! 私、やっぱり、やります!」

歯を食いしばって、何らかの決意表明をする女。
何の事やら、さっぱりわからない。

「あのー、どちら様、でしたっけ?」

「そんな、とぼけないでください! 私を見捨てないで!」

女は目やら鼻から、たちまち大量の液体を噴出しながら、がっくりと膝をつく。
そして俺のジャケットの裾を握りしめつつ、からだ全体を小刻みに震わし嗚咽を漏らした。

前方から歩いて来たインド系の男が俺たちの様子を見て、『おいおい、やっちまったな』とでも言いたげに肩をすくめて通り過ぎて行く。

いや、勘違いだって。

いきなりのことに、ただただ困惑していたが、はたと気がついた。
この女は、俺をあいつだと勘違いしている。
さっき、あいつがホテルで会っていたのは、この女に違いない。

「言われた通り、ちゃんと整形もします! ストーキングも毎日やります! 私にはあの人しか居ないんです!」

ははあ。
これは、あいつの手口だ。
整形させて、ストーキング相手の彼女か奥さんとすり替える。

俺に成り済まし、ISAの活動員としてストーカー候補者たちと面接してたのか。
あちこち移動していたのは、それが理由だ。

俺は、あいつのフリをすることにした。

「……わかりました。考えておきましょう」

「本当ですか!」

女は顔を上げて、まるで聖者の許しを得た罪人のような、安堵に満ちた表情で俺を見つめる。

「ストーカーは大変ですよ。時には自分や人の人生をめちゃくちゃにする。それでもいいんですね」

「勿論です! あのひとの心を掴むためには、私、なんだってやります!」

それは、まさに獲物を狙わんとする、かまきりの眼光。

「かまきり……いや、はりきりすぎないよう、ほどほどに頑張ってください」

「今、かまきりって言いました?」
 
しまったな。

「それはそうと。あなたの事で思い悩んでいたら、行く場所を忘れてしまいました。私、さっきあなたに、どこへ行くか言いましたっけ?」

女はしばし空を睨むと、思い出したのか激しく首を縦に振った。

「渋谷です! 渋谷ロイヤルワールドホテルで、次の面接があるって言ってました!」





渋谷ロイヤルワールドホテルは、明治通りのにぎやかな繁華街から少し外れた場所にある、意外にも近代的で洒落た建物だった。
広いロビーにはカフェが併設されており、多くの人で溢れかえっている。

渋谷駅から走ってここまで来たので、冬だというのに汗だくだ。
息も荒いまま、なかなか落ち着かない。

まるで自分の体じゃないように、動きが鈍く感じてどこか違和感がある。
昨日の酷い精神的疲労が、今頃になってどっと溢れ出て来たのかもしれない。

俺はジャケットを脱ぎながら、カフェにいる客の顔を見渡す。

だが、あいつの姿は見当たらない。

トレーを持って通りがかった、カフェの若い女性店員に声を掛けた。

「あの、人を捜しているんですが」

「はい、どちら様でしょう?」

笑顔を携え、はきはきと明るい声で返事をする店員。
先ほどの四重顎おばさんとは対応が違いすぎて、まるで異世界に来たようだ。

「ええと、葉山浩介と言って、」

やむを得ず、自分の顔を指差す。

「こんな顔をしてます」

店員が、不思議そうな表情で頭を傾げる。

「……双子の弟なんです。だから顔も同じなんです」

「ああ、そうでしたか。少々、お待ち頂けますか?」

店員はカウンターへ行き、俺の方をちらちら見ながら他の店員と何やら話している。

咄嗟に口から出た嘘だが、まずかったかな。
どうも俺は、いろんなところで不審者扱いされる体質のようだし。

暫くして店員が戻って来た。

「お客様、その方ですが、つい5分程前までいらっしゃったのですが」

また、入れ違いか……。

「女性のお連れ様とご同席でしたが、電話がかかってきて、お一人で慌ただしく出て行かれたようです」

「何か言ってましたか?」

「ええ。大声で電話で話されていたので、うちの店員の耳に入ってしまったのですが、『それは俺じゃない!』とか興奮されていたようで」

「それは俺じゃない、って言ってたのですか?」

誰かが、あいつを見間違えたということか。
おそらく、見た目がそっくりな俺を、あいつと勘違いした。

それが誰かと言えば。

さっきの、かまきり女しか考えられない。
あの女があいつに電話をしたのだ。

まずいな。
俺が生きていて、あいつを追っている事に気づかれた可能性がある。

「このホテルに、駐車場はありますか?」

「ええ、地下がお客様向け駐車場となっております」

まだ、間に合うかもしれない。

お礼もそこそこに、エレベーター脇にある階段で地下まで駆け下りた。

青白い蛍光灯の光に照らされた駐車場には十数台の車が停まっていたが、人の気配はなく辺りはしんとした冷気に包まれている。
俺は乱れた呼吸を整えながら、耳を澄ました。

どこからか、ピピッという、リモートキーの解錠音が聞こえる。

こちらからは見えないが、奥側のブロックだ。
音がした方へと、車の間を縫いながら急いで向う。

目に入ったのは、赤いオープンのミニクーパー。
そしてドアを開け、まさに車に乗り込もうとする、あいつの姿。

やっと、見つけた。
ほんの数メートル先に、探し続けたあいつがいる。

「おい!」

俺の姿に気づいたあいつは、驚きの表情を浮かべた。

「まさか、本当に生きていたとはね」

ドアを開けたまま俺のほうへ向き直ると、顔をしかめる。
手に持ったスマホに、ちらりと目をやった。

「なるほど、このスマホを追ってきたのか」

いきなりスマホを振り上げると、そのまま床に叩きつけた。
ガラスが砕け散る音が、コンクリート壁の駐車場内に反響する。

「なぜ、こんなことをする」

「なぜって、君になるためさ。そう何度も言っただろう」

鋭い目はそのままに、口元にだけ薄笑いを浮かべる、あいつ。

「復讐ってどういう意味だ。おまえにそんなことされる覚えはない」

「君に覚えはなくても、俺にはちゃんとした理由があるんだよ」

「どういうことだ」

「説明する気はないね」

あいつは、にべもなく言い放つ。

「とにかく、君に生きてもらってちゃ困るんだ。せっかく時間をかけて組み上げたパズルがバラバラになってしまう。頼むから死んでくれないかな?」

「ふざけるな。俺の人生を無茶苦茶にしやがって。元に戻せ! 美咲にちゃんと説明しろ!」

「わかってないなあ」

あいつはそう言いながら、人差し指を左右に振った。

「君の人生はとっくに終わっているんだよ。今や完全に、俺とすり替わったのさ。まだ気づいてないようだけれども、いずれ、その本当の意味がわかる時が来る」

「本当の意味だと?」

「それを知った時、君はどうするのかな?」

そう言うと、するりと体をミニクーパーに滑り込ませた。

「おい! 待て!」

駆け寄る寸前に閉まるドア。
エンジンが掛かり、ミニクーパーは急発進した。

追いかけようとするが、なぜか思うように足が動かない。
ミニクーパーは、タイヤの激しいスキール音を響かせながら、あっと言う間に駐車場から消え去っていった。