16時39分。
ロマンスカーの到着時間ちょうどに、新宿駅西口に辿り着いた。
ハヤブサをロータリーに停めてヘルメットを脱いだ瞬間、エンジンから焼けた鉄の匂いが、激しく立ち昇っていることに気づいた。
よく、ここまで持ってくれたよ。
労うように、ハヤブサのタンクをそっと叩く。
カナはシートからずり落ちるよう降りると、そのままぺたんと路上に座り込んだ。
見ると目がぐるぐる回っている。
「おい、大丈夫か?」
「……ダメじゃ。早く行って。まだ間に合う」
「だけど、おまえ……」
「何の為にここまで来たのさ。わたしゃちょっと酔っただけだよ。すぐ追いかけるから先に行け」
「わかった。ここで休んでろ」
後ろ髪を引かれつつも、俺は小田急線の改札へ向けて駆け出した。
巨大な新宿駅は人で溢れ帰っている。
全く、江ノ島もここも、どこへ行っても人だらけだ。
人ごみを掻き分け、ぶつかりながらも、ひたすら全力で走った。
小田急線の改札までは、あと少しだ。ほんの数百メートル。
いや、待て。
ふと心の中の、もうひとりの自分が俺を呼び止める。
美咲に会って、どうしたいんだ?
俺は、ある重大な事実に気がついていた。
ずっと勘違いをしていたのだ。
もっと早く気づいてしかるべきだった。
会って、何を話せばいいと言うのか。
美咲の前に、のこのこ顔を出す資格もない。
俺はストーカーなんだ。
殺し屋に狙われていたのも俺。
ジェイソンが美咲を狙わず、俺のところに姿を現してやっと理解した。
殺し屋は、スマホの持ち主である美咲を狙っていた訳ではなかった。
最初から配達先は、「俺」だったのだ。
ストーカーの俺を抹殺するために、おそらく葉山が殺し屋を注文したに違いない。
足が止まった。
その場に立ちすくむ。
顔から汗が滝のように滴り落ちる。
俺はその場から、動けなくなっていた。
顔を上げて、目を瞑る。
もはや、どうすればいいのか自分でもわからない。
だが。
やはり美咲に会うべきではない。
それは、明確かつ断定的な、自分自身への結論だった。
戻ろう、カナのもとへ。そして、これからのことをゆっくり考えよう。
意を決した瞬間、人の気配を感じた。
はっとして目を開けると、そこには美咲が立っていた。
◇
すぐ目の前に美咲がいる。
何かしらの感情を伴った表情はなく、ただ少し頭を傾げて俺を見つめている。
「美咲……」
と、いきなり美咲は俺に抱きついて来た。
予期せぬ美咲の行動に怯みながらも、ふわっとした懐かしく甘い香りが鼻孔をくすぐり、思わず体が固まってしまう。
柔らかい体の感触。ずっと待ち望んでいた感覚。
俺の耳元で、掠れた声がした。
「会いたかったよ」
俺は、はっとして思わず美咲の体をはねのけた。
「なに? どうしたの?」
「おまえ、美咲じゃないな」
「何言ってるの? 美咲だよ」
「声が違う。いやとても良く似せているが、俺にはわかる。わずかにトーンが違うんだ」
美咲は俺の目を見ながら、寂しそうに微笑んだ。
次の瞬間、何かを隠し持っていた右の後ろ手が、俺に向かって突き出される。
それが腹部に当たった瞬間、切り裂くような激しい痛みを感じて、俺はその場に崩れ落ちた。
彼女の手には、大型のスタンガンが握られていた。
バチバチと不快な音と瞬く光、そして激しい衝撃を継続的に与え続けるそれは、倒れた俺の腹部を容赦なく抉っていく。
手足の自由が利かない。ただ、倒れたままのけぞるだけだ。
心臓が悲鳴を上げているのがわかる。これは違法に電圧を上げて改造した殺人スタンガンに違いない。
「あ、大丈夫です。この人痴漢なんで、少し懲らしめているんです」
にせものの美咲が、足を止めて俺たちの様子を伺う周囲の人々に、少し困ったような作り顔で説明しているのが微かに見える。
俺はこのまま死ぬのか。
遠ざかる意識の片隅で、遠くから様々な記憶の塊が、次々と自分の体内に飛び込んでくるのを感じた。
そうか。
そうだったのか。
俺はやっと理解した。
自分が何者なのかを。
目の前がだんだん暗くなりはじめた。
冷たい永遠の暗黒が、すぐそこまで迫っていた。
もう、何もかもが消え始める……。
薄れゆく視界の片隅で、何かが素早く動くのが見えた。
小柄なそれは、信じられないスピードで、にせものの美咲の首に右腕を叩き込む。
見事なラリアート。
にせものの美咲は、のけぞって地面に激しく頭を叩き付ける。
手から離れた殺人スタンガンが、カラカラと音を立てながら転がっていった。
ゆっくりと、視界が戻って来る。
そう、ハヤブサで転倒したあの時のように。
目の前には心配そうに顔を歪めたカナがいた。
「大丈夫? オジサン」
俺は激しく痛む腹を押さえながら、ゆっくりと起き上がった。
にせものの美咲が、白目を開けて万歳の体勢で路上にのびている。
「ああ、俺は平気だ。もう少しであの世行きだったが。なぜ美咲がニセモノだと気がついた?」
「これ。さっき届いた」
カナはスマホを取り出すと、画面を俺に向けた。
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件名:【殺し屋】再再再再発送のお知らせ
本文:
毎度ありがとうございます、【殺し屋】派遣ネットショップです。
【ストーカー】様よりご注文頂きました【殺し屋】を、再再再再発送しましたので、お知らせします。
弊社が自信を持ってお送りする、あなたにとっての最終兵器となります。
もっとも、このメールを見ずして、あなたは死ぬ事になるでしょうが。
お届け予定時間:10分以内
お届け先:あなた
お届けする【殺し屋】:ミサキ
返品、交換、および受け取り拒否は一切受け付けられませんのでご了承ください。
ご不明な点につきましては、【ストーカー】様にお問い合わせください。
またのご利用をお待ちしております。
※このメールアドレスは配信専用です。このメッセージに返信されても回答しかねます。
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「殺し屋のターゲットは美咲さんじゃない。これまでの殺し屋発送メールは美咲さん宛てじゃなかったんだ」
「ああ、最初っから俺宛てだったんだな」
「知ってたの?」
「ああ、わかっていたさ。俺がなかなか殺されないものだから、にせものの美咲を使ってスマホを奪い取った。殺し屋の情報を与えないためにな。だが、ジェイソンも失敗に終わったもんだから、にせものの美咲を改めて殺し屋として派遣したんだろう。最終兵器としてだ。さすがに俺も、うっかり気を抜いてしまった」
「ほうほう。奴らもいろいろ策を練っていたわけだね」
「それに、今の電気ショックで色々思い出した。まだぼんやりしているところもあるが、大方理解した。俺はストーカーなんかじゃない」
「えっ? どういうことさ?」
「……なぜなら、俺が葉山浩介だからだ」
◇
傾いた陽の光に、黄金色に眩しく照らされた青梅街道を、三鷹に向けてバイクをゆっくり走らせる。
壊れかけたラジエーターから立ち上る白煙が、辺りを蜃気楼のようにゆらゆらと揺らす。
まるで、長かった灼熱の「今日」というろくでもない日の残影のように。
やがて、18時。
殺人スタンガンの影響で、しばらくその場から動く事ができなかった。
痛みを堪えながらジャケットを脱いでみると、腹部に酷い火傷ができていたのだ。
カナにコンビニで氷を買って来てもらい、ひたすら冷やして、なんとかハヤブサに跨げるくらいまでには復活した。
歩くのはしんどいが、バイクに乗ってしまえば運転はできる。
バイク乗りは、どんなに弱っていてもシートに座ればしゃんとするものだ。
ハヤブサも俺も、既にポンコツ。
だが、まだやるべき事は残されている。
行方不明の美咲を探し出すこと。
そして、俺の名を語っていた、あいつとの対決。
カナが後ろから、ヘルメットをゴツンとぶつけて来る。
「なんだ」
「ハラが減って死にそうだ」
「もうすぐ着く。おまえも家に帰してやるからそれまで我慢しろ」
「今、何か食わせろ。すぐにだ。この誘拐犯め」
「誘拐って。おまえが勝手に付いて来たんだろうが」
誘拐犯か。
客観的に見て、俺はいったい今日一日で、いくつの犯罪を犯したんだろう。
・窃盗 ←美咲のスマホ
・暴行 ←ゆるキャラ
・未成年者略取 ←カナ連れ去り
・道路交通法違反 ←200キロ超オーバー
・殺人? ←ジェイソンを車ごと爆破。生死は不明だが
罪状のオンパレード。まさに極悪人だ。
思わず、声を上げて笑ってしまう。
「何、笑ってるのさ。気持ち悪い」
「いや、俺って我ながらすげえなと思ったんだ」
「うん、オジサンはすごいよ」
何もわかってないな、コイツは。
「なにせ、凄腕の殺し屋たちを倒してきたんだから」
「それは、カナに助けられたからだ」
「そうね。少しは助けた」
「いや、おまえがいなかったら、とうに死んでたよ」
「感謝するが良い。カナ様に」
「ああ、そうだな」
「そして全てが終わったら、私にパフェを奢るのじゃ」
「ああ、10杯でも100杯でも奢ってやる」
「ホントに!?」
……コイツに冗談は通じなかったんだ。
◇
俺はハヤブサを止めてヘルメットのバイザーを開けると、夕焼けに赤く染まるマンションを見上げた。
やはり、ここが俺の家だ。
なぜ、あいつが俺と美咲の部屋に現れたのかはわからないが、全てのカギはあいつが握っている。
おそらく美咲の居場所も知っているハズだ。
初めて対面した時の、あいつの第一声。
『あんたは、いったい何故……!?』
この時に、気づくべきだった。
自分の家に、知らない人間がいたらこんな話し方はしない。
『あんたは誰だ!』
こう、言うだろう。
『いったい、何故』。
そう、俺を知っていたからこそ、『何故』ここにいるんだ、という反応をしたのだ。
ヘルメットを脱いでタンクの上に置くと、ジャケットのポケットから、にせものの美咲から奪い返した本物の美咲のスマホ(ああ、ややこしい)を取り出す。
着信履歴からあいつの電話番号を選ぶと、通話ボタンを押した。
だが、いくら待ってもあいつは電話に出ない。
「カナ、おまえは帰れ」
「ヤダ。ここまで付き合ったんだから、最後まで見届ける」
「ダメだ。これはあいつと俺の問題だ」
「でも……」
「ダメ」
きっぱりと言うと、カナはしばらくもぞもぞしていたが、やがてストンとシートから飛び降りた。
少し寂しげな目で俺を見る。
「……ありがとな、ここまで付き合ってくれて」
「オジサンも、がんばれ。達者でな」
ぼそっと言い残すとカナは、名残惜しそうに何度も振り返りながら、やがて住宅街の中へと姿を消していった。
なんだか、急に寂しさが込み上がる。
もう、二度と会う事はないであろう不思議な女子高生。
捉えどころがなかったが、奇妙な魅力に満ち溢れていた。
ありがとう、カナ、本当に。
もう一度心の中で呟いて、俺は痛む腹部を押さえながら、ゆっくりとマンションへと足を向けた。
◇
がこん、と音がしてエレベーターが4階で止まる。
ドアが開くと同時に、一日の最後を締めくくるがごとく、ありったけの力を絞り絞って鳴く蝉の声が耳に飛び込んで来た。
ゆっくりと外廊下へ出て、一番奥の部屋の前に立て掛けられた、SPECIALIZEDの自転車を見やる。
あれは、確かに俺の自転車だ。
そして、あの部屋は俺と美咲のものだ。
俺は、まるで誰も住んでいないかのような静けさに包まれた廊下を歩いて、「自分の部屋」の前に立った。
あいつは、まだ中にいるのだろうか。
それならそれで、対決だ。
一度大きく深呼吸をすると、わざと音を立ててドアノブを回し、中へと入る。
陽が落ちていくと共にゆっくりと這い上がる薄闇が、部屋の中を包み始めていた。
人の気配は感じられない。
俺は美咲のスマホを手にして、再び、あいつの携帯にかけた。
発信音はするが、部屋のどこからも着信音は聞こえてこない。
ここにはいないのか。
ダイニングは、朝ここへ来た時のままだった。
ただ、フライパンの中にあったスクランブルエッグは、綺麗に無くなっている。
美咲の部屋に入ると、横引き窓から差し込む西日が、静かに家具を照らしていた。
美咲、いったいどこへ行ったんだ。
俺は床に敷かれたラグの上に、倒れ込むように寝ころんだ。
腹の痛みのせいもあるが、全身の力が抜けたようだった。
手枕をして、ぼんやりと天井を見つめる。
どうして良いのかわからなかった。
時が止まったままのこの部屋で、だたひたすら、美咲が帰って来るのを待つしかないのか。
今や、それは奇跡と呼ぶに等しかった。
ふと、たくさんの服が掛けられたハンガーラックを見やる。
シンプルだが、色彩豊かな美咲好みの服が並んでいる。
手前にあるカーキ色のチュニック。
あれは美咲にせがまれて、俺が買ってやったやつだ。
彼女のお気に入りで、休日二人で出掛ける時は、いつも着ていたな。
ぼんやり服を眺めていると、襟元から何かが垂れ下がっているのに気がついた。
ん? なんだ?
目を凝らすと、それが値札のタグであることに気がついた。
あいつ、タグ外すの忘れたまま着てたのか?
可笑しくなって笑いかけた瞬間、突如ある事に気付き、背筋に寒気を覚えた。
服を買ってやったのは去年だ。
タグを付けたままなんて、ありえない。
俺は飛び起きると、ハンガーラックの服を片っ端から調べた。
全ての服に、値札タグが付いている。
……どういうことだ。
改めて、部屋の中を見渡す。
確かに、美咲の持ち物が並んではいるが、猛烈な違和感を感じる。
生活感が無い……。
全てのモノに、使われた形跡が見当たらないのだ。
まさか俺は、大きな勘違いをしていた?
急いで引き窓を開けて、ベランダから外を見下ろす。
マンションの裏には小さな公園があって、いくつかの遊具が置かれている。
タコの形をした滑り台の奥側には、ブランコが見えて……。
なんてことだ。
全てを理解した俺は、激しい恐怖感に襲われて、美咲の部屋の中へと後ずさりした。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。
呼吸がうまくできない。
「……全く、しぶとい奴だな」
突然発せられたしわがれ声に、はっとして振り返ると、そこには包丁を手にしたあいつが無表情に立ちつくしていた。
◇
俺はあいつを、正面から睨みつける。
「いったい、ここは何なんだ!」
「何って、美咲ちゃんと俺の部屋だよ。あんたの部屋に何度も忍び込んで、全てを念入りに調べ上げて忠実に再現したんだ。美咲ちゃんをここへ連れて来ても、違和感無く生活を続ける事ができるようにね」
「ストーカーは、おまえだったんだな」
「ストーカーという言葉は正しくない」
あいつは顔を歪めると、違うというように包丁を左右に振った。
「あんたは美咲ちゃんにふさわしくないのさ。俺こそが美咲ちゃんの『正しい葉山浩介』になるべき男なんだ。だから、顔も整形している。あとは目を直すだけだ」
まず、その陰湿な目から直せよ。
「あんたはいずれ、殺し屋の手でこの世から消える。そうすれば俺はあんたと入れ替わり、ここで美咲ちゃんと一緒になることができる。もともと、そうするべきだったんだよ」
「狂っている。おまえはいかれたストーカーだ」
「だから、その言い方をやめろ!」
あいつは大声で叫ぶと、包丁を振りかざした。
俺は構わず声を張り上げる。
「俺が記憶を失ったと聞いて、とっさに俺をストーカーにでっち上げた。美咲から引き離すためにな。そして、殺し屋派遣ネットショップを使って、密かに俺を抹殺しようとした」
包丁を振り上げたまま目をきょろきょろと激しく動かしている、あいつ。
「だが誤算だったのは、俺が、狙われているのは美咲だと思い込んだことだ。一日じゅう殺し屋を躱しながら、美咲を助ける為に探し続けた。そして、やっとわかったんだよ。おまえの奸知がな」
「高い金を払ったのに、全く使えないネットショップだ。だがもういい、俺があんたを処分してやるさ」
あいつは長い舌を出して包丁をぺろりと舐めると、狂気に満ちた目でそれをゆっくり俺に向ける。
ぴろろん。
手に持っていた美咲のスマホが鳴る。
意識をあいつに集中させつつ、ちらりと画面に目をやった。
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件名:【殺し屋】最終発送のお知らせ
本文:
毎度ありがとうございます、【殺し屋】派遣ネットショップです。
【ストーカー】様よりご注文頂きました【殺し屋】を発送しましたので、お知らせします。
これが最終発送のご案内となります。
お届け予定時間:1分以内
お届け先:あなた
お届けする【殺し屋】:女子高生
受け取り拒否は不可能です。
ご不明な点につきましては、【ストーカー】様にお問い合わせください。
またのご利用をお待ちしております。
※このメールアドレスは配信専用です。このメッセージに返信されても回答しかねます。
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「ぐっ!?」
あいつに目を向けると、背後から何者かの腕が首に絡まり、のけぞっていた。
いや、それが何者なのかは、すぐに理解した。
「カナ、何でおまえが……」
カナは腕に力を込め、ギリギリと音を立ててあいつの首を締め上げる。
あいつは舌をだらんと出しながら、床に倒れ込んだ。
手からぽとりと包丁が落ちる。
だがカナは力を緩めない。
「葉山浩介を殺すよう、『指示』を受けた。あなたが『葉山浩介』なのよね。自分でそう言っていた。そうでしょ?」
あいつは白目を剥きながら、ただ言葉にならない声を発するだけだ。
「カナ! やめろ!」
「邪魔しないで、オジサン。これは私の『仕事』なの」
カナは今まで見た事も無いような厳しい目で、俺を睨みつける。
そんな。カナが。どうして。
「全てわかってて今日、俺にくっついてたのか? 俺を殺すために」
「違う! 『指示』が来ない事をずっと願ってた。オジサンに出会ったのは偶然。こんなことになるとは知らなかったよ。わたしはただ、オジサンを助けたかっただけ!」
今思うと、カナは誰も知らないはずの殺し屋派遣ネットショップについて、注文キャンセルの方法や再配達のシステムなど色々詳しく、妙だとは感じていた。
まさか、殺し屋の一味だったなんて。
しかし、他の殺し屋たちから俺を守ってくれたのも事実だ。
なぜなんだ。
頭が混乱して、うまく考えが纏まらない。
だが今は……兎に角こんなことをカナにさせるわけにはいかない。
「頼むからやめてくれ、カナ! そんなおまえを見たくない!」
「無理。『指示』は絶対なの」
「……そうだ。注文をキャンセルすればいい。おいおまえ、今すぐキャンセルしろ!」
意識が殆どなくなったあいつに、必死に呼びかけるが返事は無い。
俺は祈る気持ちで、あいつの首を絞め続けるカナの肩にそっと手を置く。
「カナ。俺はおまえが好きだ。だから、もうやめようこんなこと。な。全て忘れて、これから例の喫茶店へ行って一緒にパフェを食いまくろう。ありったけ全部のパフェを、食い尽くそうぜ」
だが、カナは表情ひとつ変えずに俺を睨んだまま、金切り声を上げた。
「出て行って! 今すぐに! オジサンに見せたくないの!」
これは、俺が知っているカナじゃない。
カナにはカナの裏の事情があるのだろう。それは、深い闇に包まれた不条理な何か。
俺が入り込めない世界。
どうすることもできないのか……。
俺は最後に、カナの目をじっと見つめた。
無垢で澄んだ、大きな目。
その奥にあるのは、悲しみか、怒りか。
今や、カナは俺を完全に拒絶していた。
……わかったよ、カナ。
俺は立ち上がると、まっすぐ早足で部屋を出た。
振り返ること無く。
外は既に陽が沈み、残りかすのような淡い夕焼けに包まれていた。
強い風がびゅっと廊下を吹き抜けて行く。
ここは、4階。
あのとき、エレベーターで4階のボタンを押したのがそもそもの間違いだった。
部屋のベランダから、裏の公園を見て確信した。
俺の部屋からは、タコの形をした滑り台の裏側に、ブランコ全体が見える。
だが、この部屋からはブランコの上の支柱しか見えなかった。
つまり、階が違ったんだ。
俺はエレベーターに乗って、5階のボタンを押す。
がこんとエレベーターが止まり、出て廊下の奥を見ると、そこには同じように自転車が立て掛けられていた。
黒いSPECIALIZEDの自転車。
疲れた。本当に。
ドアノブを回して家に入る。
懐かしい匂いがする。そう、この匂いを忘れていた。
ダイニングテーブルの上には、俺の財布とスマホが置いてある。
こいつを持って行くのを忘れたせいで。
ため息をつきながら、美咲の部屋のドアを開けた。
ラグの上で、美咲が体を丸めて寝り込んでいる。
ごく自然にリラックスした様子で。
「美咲……」
美咲は、うーんと言いながら体を動かし、薄目を開ける。
「もしかして、今日ずっとここにいたのか?」
「どこまで行ってたの? 待ちくたびれて寝ちゃったよ」
屈託の無い顔で微笑む。形の良いえくぼが浮かんでいる。
ずっと会いたかった美咲が、そこにいた。
「ねえ、変なの。コースケのために作ったはずのスクランブルエッグが、なくなったの」
あいつは、朝俺が出かけた後、ここへ忍び込んで、スクランブルエッグと美咲のスマホを盗んだ。
それは言わない方がいいだろう。
「……寝ぼけて自分で食べたんじゃないか?」
この階下では今頃……。
意識を向けると、心が重く沈んでいく。
ぴろろん。
ポケットのスマホが鳴った。
「それ、私のスマホの着信音じゃない?」
「いや、違うよ」
とぼけてそう答えて。
俺はダイニングに戻ると、スマホを取り出し、メールボタンをタップした。
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件名:【殺し屋】発送キャンセルのお知らせ
本文:
毎度ありがとうございます、【殺し屋】派遣ネットショップです。
【ストーカー】様よりご注文頂きました【殺し屋】ですが、【殺し屋】の判断によりキャンセルされた事をお知らせします。
またのご利用をお待ちしております。
※このメールアドレスは配信専用です。このメッセージに返信されても回答しかねます。
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カナ、あいつ……。
気づくと、いつの間にか目から涙がこぼれ落ちていた。
ほっとしたのか、嬉しいのか。
泣くなんて、いつ以来だろう。
酷くろくでもない一日が、やっと終わったのだ。
そして俺は、これまでのメールを全て消去した。
最後に、江ノ島の展望台をバックに写っている、あいつの薄気味悪い写真を開く。
美咲は、あいつにストーカーされていることを黙っていた。
俺に心配をかけないように。
江ノ島までつけて来たあいつを、とっさに撮影したのだろう。証拠を残す為に。
だから、こんなにブレて傾いて写っている。
俺は消去ボタンを押すと、あいつに別れを告げた。
もう、来ないだろう。
もし再び姿を見せたら、今度こそ俺の手で抹殺してやる。
ジャケットを脱ごうとして、ふとポケットを探ると例のスサノオ猫のお守りが出て来た。
しかも何故か、2個。
1個増えている。
カナめ。
思わず、熱いものが込み上げて来て、胸がいっぱいになる。
俺は、まだ部屋でまどろんでいる美咲に向かって声を掛けた。
「なあ」
「ん?」
「……猫、飼おうか」