「コースケ、新しいバスタオル、そこへ置いておいたからね」

キッチンから、美咲の明るい声が聞こえる。

「ああ、ありがとう」

生返事をしながら、俺は洗面台の鏡に映った自分の顔を覗き込んだ。

全ては終わり、大団円を迎えた。
そう、思っていた。

だが、こうやって自分の顔を改めて見ると、なぜか胸騒ぎがしてならない。
いや、鏡に映った顔は確かに俺であり、それは当たり前のことなのだが。

しかし。

なんなんだろう、この胸に渦巻く違和感は。
何か、大事なことを見逃しているような気がしてならない。

シャワーを浴びようとシャツのボタンを外しながら、ふと、手が止まる。
渋谷のホテル地下駐車場で、あいつが言っていた台詞が頭の中にこだました。

『君の人生はもう終わっているんだよ。今や完全に、僕の人生とすり替わったのさ。まだ気づいてないようだけれども、いずれ、その本当の意味がわかる時が来る』

本当の意味って何だったんだ?

わからない。
何故、今になってそんなことを思い出したのかも。

いや、俺は疲れてるんだ。
あいつの呪縛からようやく逃れたばかりで、まだ心の整理ができていないのかもしれない。

大きくため息をついて心を落ち着かせ、ふたたびボタンに手を掛けようとした時、着信音が鳴り出した。

洗面台の棚に置いた、さっき携帯ショップで受け取って来たばかりの新しいスマホからだ。
手に持って見ると、非通知のテレビ電話。

なぜか、出るな、という心の声が聞こえる。
電話に出たら最後、全てが取り返しがつかなくなるような、そんな漠然とした恐怖感に襲われる。

だが。

俺は無意識に着信ボタンを押していた。

画面に、男の顔が映し出される。
酷く殴られたのか、顔は腫れ上がって、あちこち血がこびり付いている。
周囲は真っ暗で、スマホのライトだけが唯一の光源だ。
車に乗って路面の悪い場所を移動しているのか、しばしば画面が大きく揺れ動く。

その男は、あいつだった。

『やあ。繋がって良かったよ』

「おまえと話す事は、もう何もない」

『まあ、そう言うなよ。今、トラックの荷室に詰め込まれ、どこかへと連れていかれる最中だ。終着点はおそらく人知れぬ深い山の中かな? そこで埋められちまうんだろう。どうせ死ぬんだから、哀れな男の最後の世間話に付き合ってくれてもいいじゃないか』

その顔を見ていると、俺自身が自分に話しかけてきているような、奇妙な感覚に囚われる。

「なぜスマホを持っているんだ。捕まったとき、取り上げられなかったのか?」

『靴下の内側に一台隠してたのさ。いずれ、こうなることは予想していたし。そんなことよりもさ』

あいつは興奮した様子で、身を乗り出す。

『……気がついたかい?』

「何がだ」

『なんだよー、まだ気がつかないのかよ。こんな大事なことだってのに、あんた意外と鈍感なんだな』

「だから、何のことだ」

『服を脱いでみろよ。そうすりゃ一発で理解する』

ニヤニヤ笑いながら、それっきり黙りこくった。
電話を切ってしまいたいのに、それがなぜかできない。

あいつの言葉に引き寄せられるように、スマホを置いて、シャツのボタンを外していった。
3日ぶりに見る、鏡に映った自分の肉体……。

……驚きのあまり、心臓が止まりそうになった。

『どうだい、わかったかい?』

スマホから聞こえるあいつの声。

『正直に告白しよう。俺は実は35歳なんだ。整形して無理矢理若く見せてるけど、体の全てを改造するのは無理がある。当然、10歳も歳の離れたあんたと比べようもない』

鏡に映ったこの体は、俺のじゃない。

あいつの体?

混乱の余りよろけて、棚に置いてあった美咲の化粧品を払い落としてしまった。

大きな音に気づいたのか、美咲の声がする。

「コースケ、どうしたの? 大丈夫?」

「……だ、大丈夫だから! 気にしないで!」

こんな姿、美咲に見せられるはずもない。

スマホを掴み、改めてあいつの顔と対峙する。
いや、それは、あいつではなく、俺自身の顔なのか。

『全く想定外だったんだよ。まさか、あのエレベーター事故の衝撃で、体まで入れ替わってしまうとはさ。そんなありえないこと、想像つくかい?』

そんな、バカな。
だが、すべて合点がいく。
あの事故からずっと続いていた体の違和感、そして、明らかに自分ではないこの肉体。

はっと気がついた。
あいつが猫を抱き上げたときクシャミをして、俺はしなかった。
確かに抗アレルギー薬は服用していたが、あの薬は毎日必ず飲まないと効果がないのだ。
俺は3日間も飲んでなかったのに、クシャミは出なかった。

なんてことだ。

あいつと体が入れ替わっている!

『いやあ、10歳も若返ると、体がこうも軽いなんて。やっぱり若いってのはいいねえ。さて、ここからが本題だ』

あいつの顔から笑みがふっと消え、素の表情となる。

『俺の体は君のところで生き続けるけど、君のこの体はやがて死を迎えようとしている。君はそのことを素直に受け入れられるだろうか』

スマホにメール着信のメッセージが表示された。

『今送ったのは、このスマホのIDとパスワードだ。君は位置情報を使って、俺が今いる場所を探し出すことができる。あと、どのくらいで目的地に着くかはわからないが、君のハヤブサなら追いつける可能性もなくはない』

俺は、何も言えなかった。
ただスマホに映る自分の顔を、食い入るように見つめるだけだ。

『悩んでいる時間は、あまり残されていない。さあ、どうする? 君の答えを楽しみにしてるよ』

ぶつっと音がして画面が暗くなり、通話完了の文字が表示された。

俺はスマホを床に落とすと、ふらふらと洗面台に寄りかかり、改めて鏡に映し出された「その顔」を見つめ続ける。

ここにいる俺は、本当に俺なのか。

いや、本当の俺って、いったい何なんだ。

「コースケ、本当に大丈夫なの?」

どこか遠くから、美咲の声が聞こえてきた。



ー 完 ー