やはり体が重くて、どうにも言う事をきかない。
体力にはそこそこ自信があったはずなのに、少し歩いただけでも息切れする。
何かが、おかしい。

俺は重い足取りで、三鷹の喫茶店へと戻って来た。

やっぱり、カナの姿はない。
喫茶店にいるのは、いつもの如く、マスターと『かあっ』爺さんだけだ。

いつもの窓側の席に腰を下ろすと、俺はぐったりと背もたれに体を預けた。

あいつを取り逃して、ふたたびスタート地点に戻ってしまった。
床に叩き付けられたスマホは壊れていて、使い物にならない。
この先、あいつを追いかける唯一の手段も、今や無くなってしまった。

もう、俺は死んだも同然だな。
これからどうすれば良いかも、なにもかもがわからない。
まるで、側溝から下水道に落ちてしまったカルガモのような絶望感。
闇の中から、網目のフタ越しに遠い空を見上げている。

陰鬱な気分で、窓の外をぼんやり眺める。
この季節ともなれば陽は短い。既に、空が赤く染まり始めていた。

ん、あれはなんだ?

通りを、何かがゆっくりとこちらに向ってくるのが見える。
ブルーとシルバー、ツートンカラーの車体。

あれは、ハヤブサだ。
誰も乗っていないハヤブサが、亀が歩くような速度で動いている!?

幻覚か。
まさか、そんな馬鹿げたことが……。

俺はあわてて喫茶店を飛び出した。

目を凝らして見ると、ハヤブサは自走しているのでなく、ちっちゃい何者かがハンドルにぶら下がるような体勢で必死に押していた。
ハヤブサの影に隠れて見えなかったのだ。

それは、カナだった。

制服姿のカナが、滴り落ちる汗を拭おうともせず、歯を食いしばりながら、ひたすらハヤブサを前に進めていた。

「カナ!」

思わず大声を上げていた。
カナは俺の姿に気づくと、にこっと笑った。

「よっ!」

駆け寄って、カナの代わりにハヤブサを支える。
カナはその場に、力が尽きたように、ぺたんと座り込んだ。

「ハヤブサ、取り戻して来たよ」

「取り戻したって、どこから持って来たんだ」

「横浜のバイクオークション施設。バイク買い取りなんたらに電話して聞いたら、そこにあるって言うから、行って勝手に持ってきちゃった」

「はあっ!? 横浜からここまで押してきたのか!?」

「だって、私、ハヤブサの動かし方わからんし」

横浜からここまで、距離にして50キロメートルはある。
250キロの車体を50キロメートルも押して歩くなんて、どんなマッチョでもできることではない。

「ハヤブサはオジサンの宝物じゃん」

「だからって、おまえ……」

カナの姿が涙でにじむ。

「途中でスマホの電池が切れちゃって、連絡できなかったのだ。それで、オジサンにひとつ頼みがあるんだけど」

「なんだ。なんでも言え」

「死ぬほど腹減った。なんか食わせてくれ」





テーブルの上に積み上げられた皿の数々。

カナは、ナポリタンとカレーライスとハンバーグ定食とパフェ5杯をあっという間に平らげた。

「ハヤブサさえあれば、あいつを追いかけられるね」

おなかをぽんぽんと叩きながら、満足げに言うカナ。
カギが無かったとは、今は言えないな。

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■現在のアイテム
女子高生から借りたお金の残額 ¥2530
壊れたスマホ
動かないハヤブサ
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いや、アイテムなんてこの際、どうだっていい。
カナがここにいるだけで充分だ。

「なんで、病室にいたあいつが、俺のニセモノだと気づいた?」

「簡単だよ」

カナはマスターにパフェの追加を頼むと、身を乗り出す。

「ひとつ。オジサンが最大の武器であるハヤブサを手放すはずがないこと。もうひとつは、アマテラス猫のお守り。あいつはそれを見て、『なんだ、これは』って言ってた。見た事もないって感じでね。それで確信したのさ。この人はオジサンじゃなくて、あいつ、だってことをね」

なるほど、さすがカナだ。
あいつの正体を見抜いていたのか。

「俺に化けたあいつは、美咲と別れやがった。これまで何の為にストーキングしていたのか、意味がわからん」

「ほうほう」

カナ様は腕を組んで天井を見上げる。

「あいつは、本当に美咲さんのストーカーだったのかな?」

「え? どういうことだ」

「実は、オジサンのストーカーだったんじゃない?」

なんだって? そんなバカな。

あいつは美咲に執拗にメールを送り、後をつけていた。マンションの別の部屋に、うちとそっくりのコピールームを作り上げ、俺と入れ替わって美咲と暮らそうとまでした。

それほどにまで、美咲に執着しているのだとばかり思っていたが。

「すっかり、思い違いしてたんだよ」

「何の為に、俺をストーキングするんだ。あいつはBLか」

「それは、まだわからないけど。でも、そうじゃないと美咲さんと別れた説明がつかない」

あいつは、これは復讐だと言っていた。
ストーカーは見せかけで、俺に復讐するために美咲に近づいたということなのか。

しかし、何に対する復讐なのか、さっぱりわからない。

「いずれにしても、あいつの正体を暴かないことには、どうにもならん。なんとか捕まえる方法はないものか」

「昨日の夜、あいつが持っていたスマホの電源が切れたって言ってたよね」

「ああ、朝になったら、ふたたび電源が入っていた」

「夜の間、電源を切る必要があった、って事じゃない?」

「ほうほう」

つい、カナの口癖がうつってしまった。
電源を切るのは、どんな理由があるだろう。

「スマホの存在を、知られたくない誰かがそばにいたのかもね」

「確かに、そうかも知れんな」

「電源がどこで切れたか、覚えてる?」

頭の中に、地図のイメージが広がった。
成城学園駅の近く。

金持ちばかりが住む、世田谷の高級住宅街だ。

「行ってみようよ。今日はちょいとばかり疲れて食欲もないから、明日にでも」

カナはそう言うと、マスターがテーブルに置いたばかりのパフェを瞬時に食べ尽くした。





翌日。

カナとふたりで電車を乗り継ぎ、成城学園前駅へと辿り着いた。

豪邸が建ち並ぶ閑静な住宅街。
すっきりと晴れ渡った柔らかな陽の光が照らし出すその場所は、明らかにそこらの住宅街とは異なる、金持ちのオーラが漂っている。

「このあたりだと思う、スマホの電源が切れたのは」

俺はカナのスマホで地図アプリを見ながら、周囲を見渡した。

「なんか、いけすかない場所だねえ」

「社長やら芸能人やらが住むところだ」

「芸能人に会えるの?」

「おまえ、興味あるのか?」

「いいや、家にテレビがないからわからん」

いったい、カナはどんな生活を送っているのだろうか。

「前から聞こうと思ってたんだが、おまえの家は、その、普通じゃないのか」

「普通、って何さ」

「いや、家族構成とか、お父さんは何をしてるとか、言ってみろ」

「オジサンは刑事か」

「おまえ、自分のこと、一切話そうとしないだろうが」

「ほうほう。ワタシに興味があるのかね?」

「付き合い長けりゃ、知りたくもなるだろ」

「パパは、国のお偉いさんだよ。離婚しちゃって別のとこに住んでるけど」

ええっ!?
俺は思わず声を上げた。

「そして、ママは凄腕の殺し屋なのだ」

「……おまえ、冗談はよせ」

「冗談だと思うなら、そう思ってれば?」

カナは本気とも冗談とも判別が付かない素の表情で、俺を見上げる。

「複雑な家庭環境なのさ」

「……わかった、今はそれ以上、聞かないでおく」

もし、その話が本当なら、カナに近づく不審な男はどうなるのだろう。
例えば、俺みたいなやつ?

パパの闇の権力で、この世から抹殺されるか。
ママの手にかかって、この世から抹殺されるか。

いやいや、考えたくもない。

「旦那様! お疲れさまです!」

突然、後ろからドスの効いた声が響き渡った。

驚いて振り返ると、目付きが異常に悪いスキンヘッドの若い男が立っている。
高級住宅街にまるでマッチしない、昇り龍の柄が入ったスカジャン姿で、少しまくり上げた袖口からは入れ墨がうかがえる。
どう見たって明らかに、そっち系の人だ。

「今日は帰りがお早いですね」

男はそう言って、瓦屋根が立派な数寄屋門の扉を開け、さあ、どうぞとばかりに腰を低くする。
屋敷を取り囲む漆黒のコンクリート塀は高く、ここからは中の様子を伺う事はできないが、雰囲気がわかりやすくもそっち系のお宅だ。

この男は、俺をあいつと勘違いしている。
そして、ここはどうやら、あいつの本拠地らしい。

「どうするよ、カナ」

「行こうよ。あいつも出掛けてるみたいだしさ。『郷に行っては郷に従え』だよ」

「相変わらず、言葉の使い方が間違ってるぞ。少しは勉強しろ」

「おおきなお世話じゃ」

意を決して門をくぐると、そこには見事に和の空間を創作した広大な庭が広がっていた。
松の木のたもとに完璧なまでに美しく配置された庭石、池に泳ぐ大きな錦鯉。
まさに枯山水の世界。

庭の向こう側には、古い平屋の日本家屋が静謐(せいひつ)な趣きを以て佇み、ぴかぴかに磨かれた縁側の床に、やわらかな陽の光が淡く輝いている。

その古風で風情のある雰囲気が、逆に不気味さを感じさせる。

「あいつじゃないことがバレたら、ここから二度と出れないかもしれん」

「拷問されるだろうね。まるでこの世の地獄のような残酷非道なやつ。その後で、生きたまま砂の粒になるまで粉々にされて、土に埋められるであろう」

「縁起でもない事を言うな」

俺は緊張で足が震えているが、カナはけろっとしている。

勢いであいつの家に潜入したのはいいが、全くのノープランだ。
まさか、そっち系の家だとは思ってもみてなかったし、何が待ち受けているかも想像がつかない。

「カナ、ひとまず出直すか」

「ここまで来て、何おじけついてるのさ」

「いやいや、一度、作戦を立て直す必要があるって」

「作戦てなによ」

「だから、それを考えなきゃ、どうすればいいかもわからないだろ」

「オジサン、こういう時は勢いでいかなきゃ。『当たって砕けろ』って言うじゃん」

「ホントに砕けてどうする」

小声でカナと揉めていると、縁側の引き戸が開く音がした。

艶やかな紫色の着物を着た、背が高くすらりとした女が顔を出し、不審そうな顔でこちらを見やる。
歳の頃は、50歳くらいだろうか。黒髪を後ろできっちりと結び、かつてはモデルだったかのような、目鼻立ちのくっきりとした美形。
だが、きりりとした自己主張の強い眉と、見るもの全てを切り裂くような鋭い眼光が、明らかにただ者ではないことを表していた。

「アンタ、そこで何してるんだい?」

凄みのあるハスキーボイスだ。

この女は、何者か。
あいつの母親、にしてはまだ若いような気がする。

「なに黙ってんだい。その娘は誰?」

なんて答えればいいか迷っていると、女は突っ掛けに足を通し庭へと下りて来た。
そして、まっすぐ俺を見つめると、眉をひそませる。

「……違うね。おまえ、何者だ?」





20畳はある、広々とした和室。
壁の一角には神棚、床の間の大きな掛け軸には「忠孝仁義」の文字。

天然木の一枚板であつらえられた大きな座卓を前に、並んで正座する俺とカナ。
その向かい側には、ぴしりと背筋を伸ばしたあの女が、瞬きもせずに真っすぐ俺を睨み続けている。

「……すみません」

状況的に、とりあえず謝る以外の言葉が見つからない。

「何が、すみませんなんだい」

「いえ、なんか押しかけて、ご迷惑をお掛けしてしまったようで」

「ここへ来た理由はわかっている」

女はそう言うと、漸く視線を外して湯のみに手を伸ばした。

「おまえの事は記憶にある。おおかたアイツが何かやらかしたんだろ」

俺を知っているって、どういうことだ。
この女も、あいつの仲間なのだろうか。

「私の旦那だよ、アイツは」

驚きの声を上げたい衝動を、寸でのところで抑えた。
あいつが結婚してた?
しかも、かなり歳の離れた年上女房?

「婿入りさ。とんでもない穀潰し(ごくつぶし)野郎だ」

「じゃあ、あいつ、いや旦那さんがしてることもご存知なんですね?」

「いいや、何も知らん。うちの商売は、見ればだいたい想像がつくだろ。アイツは商売に関わらずに、金だけは使って好き勝手になんかやっている」

「ストーカー商売をやってます。そのせいで、俺は生活をめちゃくちゃにされた」

「だから、どうした」

女は湯のみを卓上に置くと、ふたたび俺を氷のような視線で睨みつける。

「知った事じゃない。アイツが何しようが、私は関知しない」

「そんな、あなたの旦那さんの事ですよ!」

「ああそうだ、どんなロクデナシだろうが、私の夫には違いない。関知はしないが、火の粉が飛んで来たら振り払わなきゃならん。本業に影響が出ないようにな。どうやらあんたがたは、その手のたぐいらしい」

部屋にピンとした空気が張りつめる。

「あのさ、オバサン」

その空気を切り裂くのは、カナのすっとんきょうな声。
女の方眉がぴくりと吊り上がる。

「なんか、茶菓子とかない?」

「おまえ、今はやめろ。空気を読め」

「だって腹へって、限界じゃ」

「帰ったら何か食わせてやるから、黙ってろ」

女がわざとらしく咳払いをした。

「おまえら、ここから生きて帰れると思ってるのか」

ああ。
嫌な予感が現実となった。
考えろ、俺。さもないと、本当に土に埋められてしまう。

「……旦那さんが、何されても関知しない、っておっしゃいましたね」

「それが、どうした」

「本当に、何をしても自由なんですか?」

「どうしようもないやつでも、アイツは身内だ。私を裏切るようなことをしなけりゃ、どうでもいい。まあ、アイツにそんな度胸など、あるはずもないが」

「俺の恋人とディープキスをするのは、裏切り行為じゃないんですか?」

表情を変えぬまま、女の顔がみるみる赤らんでいく。

「そんな嘘に、引っかかると思ってるのか」

「そんな嘘をつく為に、わざわざこんなところまで来ません!」

女は突然、思いっきり両手を卓上へと振り下ろした。
バタン、と大きな音がして湯のみがひっくり返り、飲み口からゆるやかに流れ出た液体が、天板を四方に彷徨い始める。
無感情を装った女から、何かが溢れ出した瞬間だった。

「証拠はあるのか!」

「ありませんが、あいつは俺に化けて、見せつけるように俺の恋人とキスをしました。そうして、俺の人生を踏みにじった。だから、あいつを追っているんです。本来の自分を取り戻す為に」

女は大きく息を吐くと、小首を傾げて俺を見つめる。

「……こうして見ると、本当にそっくりだ」

しばらくそのまま長い長い沈黙が辺りを包み、時間が止まったかのような錯覚を覚え始めた頃、漸く女が口を開いた。

「証拠を持ってこい。1日だけ待ってやる」

気づくと、頭から水を掛けられたかのように、全身がぐっしょりと汗で濡れていた。





「意外と、たいしたことなかったね」

屋敷を出て、葉の無い桜並木に囲まれた路地を駅へと向う道すがら、カナが能天気に呟く。

「は? 相当ヤバかっただろうが」

「無事に帰れたじゃん」

「少しばかり寿命が延びただけだ。1日以内にあいつが美咲とキスした証拠を持ってかないと、俺たちは消されちまうんだぞ」

「オンナの嫉妬って恐ろしいね」

「おまえも女だろうが」

「そうさ。オジサンには分からんだろうが、私だって嫉妬することもあるんだよ」

ん?
カナの口から、こんな言葉が出て来るとは。
驚いてカナを見やると、憂いを含んだ目で俺をじっと見つめている。

「……オジサン」

「な、なんだ」

「頼む。もう我慢ができん」

そう言って指さした先には、住宅街の中に佇む洒落たベーカリーの軒先に並べられたフランスパン。

やれやれ。

ため息をつきながら小銭を出そうとポケットを探ると、突然スマホが鳴り出した。
不審に思いながら取り出してみると、粉々に砕けたガラスのディスプレイには、着信中の文字がうっすらと表示されている。

壊れてなかったのか。

通話ボタンを押して耳に当てると、怒気を孕んだあいつの声が飛び込んで来た。

『……ヤッてくれたジャないか……』

ノイズが酷く、音量も不安定で良く聞き取れない。

「なに? 何のことだ?」

『……まサか、そう来るトハ想定……なカッタよ。……俺は終わリダ。……アノ女……怒らセタラ、死……』

「おいっ、聞こえないぞ! もしもし!」

『……こうナッタら……しテヤる。……後悔しテモ遅い……』

「なんだって? もう一度ちゃんと話せ!」

だが、ノイズの音は次第に大きくなり、やがて通話は途絶えた。
スマホを見ると電源が切れている。電源ボタンを何度押しても、それから二度とオンになることはなかった。

「ろうした?」

いつの間にか、細長いフランスパンを口に咥えたカナが、きょとんとした目で俺を見ている。

「どうしたも、こうしたもない。あいつからだ。どうやら、あいつのかみさんに会った事が知れたようだ」

あいつのウィークポイントは、裏稼業の親分である、かみさんだった。
かみさんに内緒で、入れ替わりストーカー商売に手を染めると同時に、自らもストーカーになっていった。
今回の俺との周到な入れ替わり計画も、秘密裏に進めていたんだろう。

俺と入れ替わったことを、かみさんに知られたくないから、家に帰るとスマホの電源を切った。
万が一、美咲から電話がかかってきたりして、あの勘が鋭く嫉妬深いかみさんにバレるのを恐れていた。
だから、夜はスマホがオフラインだったのだ。

だが、俺がかみさんに暴露したせいで、あいつの立場は一変した。

「まずいぞ、カナ。かみさんにバレた事を知ったあいつが、何をしでかすかわからん」

カナはフランスパンが喉につかえたのか、目を白黒させている。

「よく聞き取れなかったが、何かを『してやる』って言っていた。後悔しても遅いと」

「また殺し屋を送ってくるとか?」

ごほごほと咳をしながら、苦しそうに答えるカナ。

「いいや、おそらくもっと酷いことだ。あいつは俺を恨んでいる。俺に最もダメージを与えるのは何かと言えば……」

思わずカナと顔を見合わせた。

「美咲だ!」
「美咲さん!!」