俺が俺だと証明できるものは、何があるのだろう。
身分を証明する免許証やスマホなんかは、あいつに奪われた。
しかし、それを持っていたところで、果たして自分である証(あかし)となるのだろうか。
偽物の俺が、しでかした事実は消えない。
美咲に別れを告げたこと。
別れの理由に、カナを引き合いに出されたのは堪えた。
美咲には、カナのことを内緒にしてたから。
カナに対しても、心を傷つけゴミのように追い払った。
あいつは相当、ショックだっただろう。
二度と俺の前に現れることはないかもしれない。
目に見える光景は何も変わらないが、俺の世界は明らかに変わってしまった。
大切なものが損なわれ、失われ、既に取り返しのつかない状況なのだ。
あいつによって、ねじ曲げられた世界。
もう、今となっては、何もかも遅すぎる。
俺が、本物の俺であることを証明しない限り。
仮にそれを成し遂げたとしても、完全にもとの日常に戻る事なんて、できるのだろうか。
自宅のマンションを見上げながら、俺はぼんやりと、そんなことを考えていた。
監禁されていたのは、三鷹商店街の裏通りにある、今は廃墟と化した雑居ビルの一室だった。
ゆるキャラにロープを解いてもらい、外へ出ると既に陽は落ちかかっていた。
まるで自分の気持ちを映し出しているかのような、どんよりとしたモノクロの空が暗い闇へと沈み込まれて行く中、自然と足が向いたのはマイホーム。
駐輪場に、ハヤブサの姿はなかった。
おそらく、『バイク買い取り宇宙ナンバーワン、超高価買い取り、即日ニコニコ現金払いのバイクキング』とやらが、持って行ったのだろう。
部屋には美咲がいるのだろうか。
どの面さげて、帰れば良いのだろう。
『あれは俺じゃない。ISAという国際的ストーカー組織に所属する、俺そっくりに整形した奴が、美咲を欺いていたんだ』
そんな、端から見ればどうしたって荒唐無稽な話を、素直に信じてもらえるだろうか。
あんな酷い別れ方をした直後に。
浮気の言い訳ランキングというものがあるとすれば、おそらく最下位レベルだ。
まずは、どうやって俺という人間を証明するか。
美咲に会う前にそれを考えるのが先だが、果てしなきロング・アンド・ワインディングロードが目の前に広がっているのを感じ、目の前がくらくらした。
『おじさん、不審者?』
声が聞こえた気がして、思わず振り向く。
『なんで自分ち見上げたまま、ぼーっと突っ立ってるのさ?」』
溶けかけのチョコバーを持って、壁にもたれてこちらを睨む、夏制服姿のカナがいる。
「カナ……」
思わず、声に出してから気づく。
いや。
それは、幻影だ。
カナの姿は、まるで陽炎のように、ゆらゆらと壁の中へと消えて行く。
初めて出会った頃に感じた、夏の焼けたアスファルトの匂いを、かすかに鼻孔の奥に残しながら。
俺は、もう一度マンションを見上げてから、その場を後にした。
取り敢えず向った先は、いつもの喫茶店。
他に行くあてなんてない。
からんころんと鐘を鳴らしながら入ると、いつも陣取る窓側の席に目をやる。
そこに、カナの姿はない。
いないだろうと思いつつ、少しだけ期待してたせいか落胆している自分がいる。
昭和のマスターにホットコーヒーを頼むと、ぼんやりと外を眺めた。
あの時。
カナが病室から飛び出して行くのを見届けて、あいつはベッドからすっくと起き上がった。
案の定、どこも怪我なんかしてやしない。
頭の包帯を外しながら、カメラに向けて最後にこう言い放った。
『さて、これで君への復讐も終わりだ。全てを失った気持ちはどうだい? 絶望の底にいることを心から願うよ。最後のプレゼントとして殺し屋を送っておくから、届くまでの少しの間、せいぜいもがき苦しんでくれ。じゃあね』
その目は、笑っていなかった。
あいつは、『復讐』と言っていた。
なぜ、そう言ったのだろう。
一方的に美咲をストーキングしていた奴に、復讐される覚えは無い。こっちの方が被害者だ。
しかし、あいつは、ずっと『復讐』の機会を狙っていたのだ。
そして今日、ついにそれをやってのけた。
いったい何に対する復讐だったのか。
全てのカギは、そこにあるような気がする。
「おい、兄ちゃん」
耳障りなダミ声が聞こえた。
振り返ると、例の、かあっ爺さんが、こっちを睨んでいる。
声を聞くのは、初めての事で驚いた。
店の置物じゃなかったのか。
「昨日、巨人は負けたのか?」
あんたが手に持っているスポーツ新聞はなんなんだよ。
「とっくに、野球シーズン終わってますけど」
「けっ! どおりで、野球の記事がないはずだわい」
爺さんは、開いていたスポーツ新聞をくしゃくしゃにしながら乱雑に折り畳む。
「ところで、いつも一緒にいる、例の女学生はどうした?」
女学生って、言い方が古いな。
「さあ。わかりません」
「あの子は、なんだ、兄ちゃんのコレか?」
小指を上げる爺さん。
「いやいや、違いますよ。ただの……」
言おうとして、的確な表現がないことに気づいた。
知り合い、と言うには微妙だ。
友人、とも違う。
勿論、彼女、であるはずもない。
どれでもないが、あいつの正体を知っている、唯一のパートナーである事は間違いない。
そうか。
まずは、カナだ。
カナを探そう。
そのためには……。
「ありがとう、爺さん!」
ぽかんとした表情の爺さんに礼を言って、俺は喫茶店を飛び出した。
◇
辺りはすっかり夜の闇に包まれていて、閑静な住宅街の街路灯から放たれるぽつぽつとした灯りが路面をぼんやりと照らしている。
その見覚えのある光景にデジャブのような感覚を感じつつ、俺は一軒の住宅の2階を見上げた。
カナの友人、あずさの部屋だ。
電気は消えている。ダイニングで夕飯を食べているのだろうか。
以前、カナと一緒にここでユータを張り込んでいた事を思い出す。
あずさには、あれから会っていない。
イケメン、ユータとその後どうなったのかも知らない。
とりあえず、ここまで来たが。
どうやって、あずさに会おう。
家には家族がいるだろうし、夜中にいきなりベルを鳴らして出て来たお母さんに、お宅の娘さんのあずささん(女子高生)に用事があるのです、と話しかけるのはさすがに気が引ける。
しかし、スマホを盗られてカナの電話番号がわからず、住所も知らない状況では、あずさを頼るほかないのだ。
この街灯の下で、あずさが部屋に戻り窓のカーテンを開ける機会をひたすら待つか。
いやいや、それではあの時のユータと同じストーカーみたいだ。
考え悩んでいると、ふいに後ろから声を掛けられた。
「あれ? 葉山さんじゃないっスか?」
振り返ると、ユータと、ふわりとしたレイヤーカットの髪を茶色に染めた、少し派手目の女の子が立っていた。
いずれもくだけた制服姿。手を繋いで、いかにも仲睦まじそうだ。
ん?
この小柄な娘は、もしや、あずさか?
「お久しぶりです。こんなところで何してるんですか?」
はきはきとした口調。
以前の地味で大人しい面影は全くない。眼鏡はコンタクトとなり、目元ぱっちりの化粧。
全身から、かつては皆無だった色気を醸し出している。
女って、短期間でここまで変貌するものなのか。
まるでサナギから蝶への変態だ。
俺が驚きのあまり言葉に詰まっていると、あずさが色っぽい目をぱちぱちさせる。
「まさか、あずさのストーカー……」
「いや、違う、違う」
俺はあわてて頭(かぶり)を振った。
「実はカナを探している。例のあいつに嵌められて、スマホも何も持ってないんだ。カナに連絡を取ってもらえないか?」
「例のあいつって、以前、オレを拘束したあいつですか?」
ユータが怯えたように言う。
「いや、待てよ」
ユータは急に顔を強ばらせ、あずさの腕を掴んで二三歩後ろに下がった。
「あずさ、こいつはあいつかもしれん。顔が同じだから見分けがつかないんだ」
「えっ、こいつがあいつなの?」
やれやれ。
こいつがあいつ、って何なんだよ。
「もし本物の葉山さんなら、本物である事を証明してください」
あずさを後ろに庇うようにして、俺を睨みつけるユータ。
こいつ、こんな男らしいキャラだっけ。
ちゃんとした恋人ができると、人って変わるもんだな。
まあ、そんなことはどうでもいい。
俺が俺である証明か。
ここにいる人間しか、知らない事って……。
頭をフル回転させて、脳のニューロンの先っぽにある微かな記憶をたぐり寄せる。
「……『それいけ! アン○ンマン』だ」
ふたりが顔を見合わせる。
「カナのスマホの着メロ。これは本物の俺しか知らない事だろ?」
言ったとたんに、ユータがほっとしたように相好を崩した。
「葉山さんー、良かった本物の葉山さんだ」
ああ、こんなことでしか、自分を証明できないのか。
いや、そうか。
あいつが知らない情報でしか、今や自己証明の方法はないのだ。
「で、何があったんスか?」
俺はこれまでの出来事を、手短に説明した。
あいつが俺と入れ替わって、美咲に別れを告げたこと。
カナの心を傷つけて、追い払ったこと。
最後には、殺されそうになったこと。
「……マジっスか」
「今や、あいつは完全に俺に化けている。どうやら周到に計画を立てていたらしい。完全にあいつの思い通りになってしまった」
「でも、ひとつだけ誤算がありますよ」
黙って話を聞いていたあずさが口を挟んだ。
「あいつは、葉山さんが生きていることを、まだ知らないと思います」
そうか。
ゆるキャラが仕事放棄して俺を逃がした事に、おそらくあいつはまだ気づいてないだろう。
そこに、付け入る隙があるかもしれない。
あずさはスマホを取り出し、電話をかける。
が、やがてスマホを耳に当てたまま首を横に振った。
「カナのスマホ、電源が切れてるみたいです」
どこにいるんだろうか。
まさか、落ち込んで人知れず旅に出たとか。
ちくりと心が痛む。
「そうか。じゃあ、病室にいたあいつは偽物だ、とメッセージを入れておいてくれるか? 俺が会いたがっているって」
「わかりました。葉山さんは、どこにいるって伝えれば良いですか?」
この近所に住んでいて、寝床を貸してくれそうな友人は、何人かいるが。
スマホがないと電話番号がわからないので、連絡が取れない。
それに、周到なあいつが友人達に良からぬ事を吹き込んでいることも、想定しておく必要がある。
そうすると、結局あそこしかない。
「いつもの渋い喫茶店だ。そこを待ち合せ場所にしてくれ。それから……」
こんなこと、女子高生にお願いするのは、本当に情けない。
「……すまないが、いくらかお金を貸してくれないか」
◇
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■現在のアイテム
女子高生から借りた¥5000
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今の俺はまるで、魔物蠢く異世界に放り出された、Lv.0、チート無しの勇者……?である。
あいつは、俺が生きている事に気づいたら、容赦なく殺し屋を送り込んでくるだろう。
なんとかしなくちゃいけない。
あずさとユータに別れを告げると、俺はその足で駅前のネットカフェへと向った。
ここは暇な時に、何度か利用した事があるのだ。
フロントには馴染みの店員がいたので、会員カードがなくても入れてくれたのは幸運だった。
薄暗く狭いボックス席に入ると、PCの電源を入れてブラウザを立ち上げた。
あいつを探す方法が、ひとつだけある。
『スマホを探す』機能だ。
あいつは俺のスマホを持っているはずだ。ネットでスマホを探せば、今いる場所がわかる。
前に、カナに教えてもらったのだ。
パスワードを入力すると、地図が表示された。
スマホの場所は、六本木ヒルズを示している。
あいつは、ここで何をしているのだろう。
そもそも、素性がさっぱりわからない。
ISA(国際ストーカー協会)に所属していること以外は。
「国際ストーカー協会」と入力して検索してみたが、どのページもヒットしなかった。
うーむ。
とりあえず、六本木ヒルズに行ってみるか。
巨大な施設だから、見つけ出すのは難しいかもしれないが、ここで手をこまねいていても仕方が無い。
椅子から立ち上がろうとして、地図上のスマホの位置が道路沿いに移動し始めた事に気がついた。
麻布十番を抜け、赤羽橋交差点で南に向きを変える。
どうやら、あいつは車で移動しているらしい。しかも結構なスピードだ。
品川駅の近くで停止すると、そこから動かなくなった。
やっかいだな。
コーヒーをすすりながら、地図を眺め続ける。
車で移動しているとなると、捕まえるのは難しい。
ハヤブサと奴の位置が追えるスマホがあれば、なんとかなりそうだが、今の俺には何もない。
しかし、あいつがあちこち場所を移動する理由は何なんだろう。
全く想像もつかない。
30分ほどして、再び地図上のスマホアイコンが動き出した。
五反田、中目黒を抜け、世田谷方面へと移動していく。
駒沢オリンピック公園の脇を通って、成城学園前駅の近くで停止すると、突然「オフライン」と表示された。
オフラインとは、つまり、スマホの電源がそこで切れたと言うとこだ。
電池が切れたのか、あいつが自分で切ったのかはわからないが。
自分で切ったとすれば、なぜ。
気づかれたのだろうか。
PCの時計を見ると、20時過ぎだった。
急に、どっと睡魔が襲ってくる。
俺は、PC画面をぼんやり眺めながら、汗臭いリクライニングチェアの背もたれに体を沈み込ませた。
朝から監禁され、精神的に追い込まれ、しまいには殺されかけて。
本当に酷い一日だった……。
そのまま、意識が次第に深い暗闇へと落ちていった。
◇
はっと、目を覚ました。
かなり、ぐっすりと寝てしまっていた。
ふと、起動したままのPCの画面に目をやると、スマホは再びオンラインになっており、ある場所を指し示していた。
新宿歌舞伎町にある、「国際アンバサダーホテル」。
時計に目を移すと、10時5分。
うーむ。
あいつはなぜ、昨晩スマホの電源を切り、また今朝になって電源を入れたのだろうか。
俺が生きている事に気がついたのであれば、切ったままにしておくはずだ。
スマホの現在位置が追えることくらい、あいつも知ってるだろう。
そうすると、夜のあいだ電源を切らなきゃならなかった、別の「理由」があるのかもしれない。
良く寝たせいか、頭は昨日よりすっきりとしている。
とりあえず、国際アンバサダーホテルへ行ってみよう。行動を起こさなきゃ、何も始まらない。
ネットカフェを出ると、空は雲ひとつなくすっきりと晴れ渡っていた。
いきなり眩しい太陽の光を浴びたので、頭がくらくらする。
一瞬、家に帰りたい衝動に囚われた。
このまま、マンションに帰ると。
美咲がスクランブルエッグを作って、微笑みを携えながら俺を待っていて。
いやいや。
そんなのは幻想だ。
今は、全てにけりを付けなければ駄目なのだ。
中央線に乗り、新宿へと向かった。
三鷹から新宿までは20分程だ。あいつが再び移動する前に、間に合えばいいのだが。
通勤混雑帯の時間を過ぎた電車は、空いていた。
向かいの席に、『遅刻しますが、何か?』的なオーラを纏った茶髪の女子高生が、座ってスマホをいじっている。
カナの事を思い出した。
あいつは、どこへ行ってしまったんだろう。
ネットカフェを出る前に、電話を借りてあずさから聞いた電話番号でカナのスマホにかけてみたが、相変わらず圏外だった。
今どきの女子高生が、半日以上もスマホの電源を切っているなんて、考えにくい。
カナが今どきの女子高生と言えるのかどうかは、置いとくとして。
新宿駅で下りて、歌舞伎町の外れにある国際アンバサダーホテルへと向かう。
そのインターナショナルな名称とは裏腹に、実体は古ぼけた3階建ての小さいホテルだった。
建物に入ると、とたんにカビ臭いにおいに包まれた。
こじんまりとしたロビーに置かれている表皮がすり切れたソファも、煤けた壁に掛けられている、すっかり色あせてしまったアルプスの山岳風景の絵画も、何もかもがくたびれている。
まるで、全ての調度品が一斉に、疲れ切ったため息を吐いているようだ。
そしてフロントに、でんと座るおばさん。
ちりちりパーマの髪型で化粧が濃く、人生これまで一日5食欠かした事はありません的な感じの三重顎。
入って来た俺を、蔑むような目でじろりと睨みつけた。
「すみません、さっきここに人が来ませんでしたか?」
「人ならしょっちゅう来ますけど? ここはホテルですから」
その割には、スターウォーズに出て来る巨デブの怪物ジャバ・ザ・ハット似のおばさん以外、人気が無い。
「ええと、じゃあ」
俺は自分の顔を指差した。
「こんな顔の人です。俺と同じ顔をした人が来ませんでしたか?」
おばさんが顔をしかめると、顎の線がひとつ増えて四重顎になった。
「何をおっしゃってるのか、わかりません」
そりゃそうだ、と自分でも理不尽に思う。
「さっきまで、ロビーのソファにカップルの方が座られてましたけど。場所がら、あまり顔は見ないようにしてるので」
場所がらって。
ここは、あっち系のホテルなのか。
「それは、どのくらい前ですか?」
「だから、さっきです」
埒(らち)が明かない、ってのはこういうことなんだな。
ここにいたのがあいつだとすると、一緒にいた女は誰なんだろう。
まさか、美咲じゃないとは思うが。あんなにキッパリと別れを告げたんだから。
俺は四重顎おばさんに軽く会釈をして、ホテルを出た。
間に合わなかったか……。
さて、これからどうしよう。
「葉山さん!」
いきなり後ろから甲高い声を掛けられ、俺はその場で飛び上がった。
振り返ると、ガリガリにやせ細った、緑色のワンピース姿の女が立っていた。
髪はボサボサのショートで、顔は……。
うーん、なんだろう。
絶対本人には言えないが、強いて言えばかまきりに似ている。
名前を呼ばれたが、見た事もない女だ。
「わたし、間違ってました!」
女は、両手を前で合わせながら、まるで祈るような体勢で俺に近づいて来る。
その顔は、今にも泣き出しそうだ。
「ななな、なんですか?」
たじろいで二三歩後ずさった俺に、女はぐいと目と鼻の先まで顔を接近させた。
「さっきは、葉山さんのせっかくの提案を断ってしまってごめんなさい! 私、やっぱり、やります!」
歯を食いしばって、何らかの決意表明をする女。
何の事やら、さっぱりわからない。
「あのー、どちら様、でしたっけ?」
「そんな、とぼけないでください! 私を見捨てないで!」
女は目やら鼻から、たちまち大量の液体を噴出しながら、がっくりと膝をつく。
そして俺のジャケットの裾を握りしめつつ、からだ全体を小刻みに震わし嗚咽を漏らした。
前方から歩いて来たインド系の男が俺たちの様子を見て、『おいおい、やっちまったな』とでも言いたげに肩をすくめて通り過ぎて行く。
いや、勘違いだって。
いきなりのことに、ただただ困惑していたが、はたと気がついた。
この女は、俺をあいつだと勘違いしている。
さっき、あいつがホテルで会っていたのは、この女に違いない。
「言われた通り、ちゃんと整形もします! ストーキングも毎日やります! 私にはあの人しか居ないんです!」
ははあ。
これは、あいつの手口だ。
整形させて、ストーキング相手の彼女か奥さんとすり替える。
俺に成り済まし、ISAの活動員としてストーカー候補者たちと面接してたのか。
あちこち移動していたのは、それが理由だ。
俺は、あいつのフリをすることにした。
「……わかりました。考えておきましょう」
「本当ですか!」
女は顔を上げて、まるで聖者の許しを得た罪人のような、安堵に満ちた表情で俺を見つめる。
「ストーカーは大変ですよ。時には自分や人の人生をめちゃくちゃにする。それでもいいんですね」
「勿論です! あのひとの心を掴むためには、私、なんだってやります!」
それは、まさに獲物を狙わんとする、かまきりの眼光。
「かまきり……いや、はりきりすぎないよう、ほどほどに頑張ってください」
「今、かまきりって言いました?」
しまったな。
「それはそうと。あなたの事で思い悩んでいたら、行く場所を忘れてしまいました。私、さっきあなたに、どこへ行くか言いましたっけ?」
女はしばし空を睨むと、思い出したのか激しく首を縦に振った。
「渋谷です! 渋谷ロイヤルワールドホテルで、次の面接があるって言ってました!」
◇
渋谷ロイヤルワールドホテルは、明治通りのにぎやかな繁華街から少し外れた場所にある、意外にも近代的で洒落た建物だった。
広いロビーにはカフェが併設されており、多くの人で溢れかえっている。
渋谷駅から走ってここまで来たので、冬だというのに汗だくだ。
息も荒いまま、なかなか落ち着かない。
まるで自分の体じゃないように、動きが鈍く感じてどこか違和感がある。
昨日の酷い精神的疲労が、今頃になってどっと溢れ出て来たのかもしれない。
俺はジャケットを脱ぎながら、カフェにいる客の顔を見渡す。
だが、あいつの姿は見当たらない。
トレーを持って通りがかった、カフェの若い女性店員に声を掛けた。
「あの、人を捜しているんですが」
「はい、どちら様でしょう?」
笑顔を携え、はきはきと明るい声で返事をする店員。
先ほどの四重顎おばさんとは対応が違いすぎて、まるで異世界に来たようだ。
「ええと、葉山浩介と言って、」
やむを得ず、自分の顔を指差す。
「こんな顔をしてます」
店員が、不思議そうな表情で頭を傾げる。
「……双子の弟なんです。だから顔も同じなんです」
「ああ、そうでしたか。少々、お待ち頂けますか?」
店員はカウンターへ行き、俺の方をちらちら見ながら他の店員と何やら話している。
咄嗟に口から出た嘘だが、まずかったかな。
どうも俺は、いろんなところで不審者扱いされる体質のようだし。
暫くして店員が戻って来た。
「お客様、その方ですが、つい5分程前までいらっしゃったのですが」
また、入れ違いか……。
「女性のお連れ様とご同席でしたが、電話がかかってきて、お一人で慌ただしく出て行かれたようです」
「何か言ってましたか?」
「ええ。大声で電話で話されていたので、うちの店員の耳に入ってしまったのですが、『それは俺じゃない!』とか興奮されていたようで」
「それは俺じゃない、って言ってたのですか?」
誰かが、あいつを見間違えたということか。
おそらく、見た目がそっくりな俺を、あいつと勘違いした。
それが誰かと言えば。
さっきの、かまきり女しか考えられない。
あの女があいつに電話をしたのだ。
まずいな。
俺が生きていて、あいつを追っている事に気づかれた可能性がある。
「このホテルに、駐車場はありますか?」
「ええ、地下がお客様向け駐車場となっております」
まだ、間に合うかもしれない。
お礼もそこそこに、エレベーター脇にある階段で地下まで駆け下りた。
青白い蛍光灯の光に照らされた駐車場には十数台の車が停まっていたが、人の気配はなく辺りはしんとした冷気に包まれている。
俺は乱れた呼吸を整えながら、耳を澄ました。
どこからか、ピピッという、リモートキーの解錠音が聞こえる。
こちらからは見えないが、奥側のブロックだ。
音がした方へと、車の間を縫いながら急いで向う。
目に入ったのは、赤いオープンのミニクーパー。
そしてドアを開け、まさに車に乗り込もうとする、あいつの姿。
やっと、見つけた。
ほんの数メートル先に、探し続けたあいつがいる。
「おい!」
俺の姿に気づいたあいつは、驚きの表情を浮かべた。
「まさか、本当に生きていたとはね」
ドアを開けたまま俺のほうへ向き直ると、顔をしかめる。
手に持ったスマホに、ちらりと目をやった。
「なるほど、このスマホを追ってきたのか」
いきなりスマホを振り上げると、そのまま床に叩きつけた。
ガラスが砕け散る音が、コンクリート壁の駐車場内に反響する。
「なぜ、こんなことをする」
「なぜって、君になるためさ。そう何度も言っただろう」
鋭い目はそのままに、口元にだけ薄笑いを浮かべる、あいつ。
「復讐ってどういう意味だ。おまえにそんなことされる覚えはない」
「君に覚えはなくても、俺にはちゃんとした理由があるんだよ」
「どういうことだ」
「説明する気はないね」
あいつは、にべもなく言い放つ。
「とにかく、君に生きてもらってちゃ困るんだ。せっかく時間をかけて組み上げたパズルがバラバラになってしまう。頼むから死んでくれないかな?」
「ふざけるな。俺の人生を無茶苦茶にしやがって。元に戻せ! 美咲にちゃんと説明しろ!」
「わかってないなあ」
あいつはそう言いながら、人差し指を左右に振った。
「君の人生はとっくに終わっているんだよ。今や完全に、俺とすり替わったのさ。まだ気づいてないようだけれども、いずれ、その本当の意味がわかる時が来る」
「本当の意味だと?」
「それを知った時、君はどうするのかな?」
そう言うと、するりと体をミニクーパーに滑り込ませた。
「おい! 待て!」
駆け寄る寸前に閉まるドア。
エンジンが掛かり、ミニクーパーは急発進した。
追いかけようとするが、なぜか思うように足が動かない。
ミニクーパーは、タイヤの激しいスキール音を響かせながら、あっと言う間に駐車場から消え去っていった。