暗い公園の中を速足で歩いていると、ふと街灯に照らされた白いベンチが視界に映る。

あたしは足を止めると、灯りに照らされている無人のベンチをじっと見つめた。

この白いベンチを見ると、あの寒い冬の日のことを思い出してしまう。

一度目にそこを通りかかったときに見たのは、小さな箱を握り締めてずっとそこに座り込んでいた横顔の綺麗な男の人。凍えるほど寒い中、白くて長い息を吐きながら、それでも幸せに満ちた表情をしていた。

同じ冬の日。二度目にそこを通りかかったときに見たのは、ショートヘアの女の人の哀しそうな横顔と、綺麗な男の人の絶望したような横顔。

それから、金色のリボンがかかった綺麗な包装紙に包まれた小さな箱。

その日はとても寒くて、暗くなった空からは雪が舞い落ち始めていた。

白いベンチに置き去りにされた小箱に、さらさらと舞い落ちてくる粉雪。

あの横顔の綺麗な彼は、今どうしているのだろう────……

寒い冬の日に見た光景を思い出しながら、冴島先生が去っていった方を振り返った。

「紗幸希、これ受ける?」

高校生活最後の夏休みが始まる一週間前。

うだるような暑さに体力を奪われてぐったりとしているあたしに、亜未が話しかけてきた。

「ん、何?」

気だるそうに顔を上げると、亜未が苦笑いを浮かべながらA4サイズの紙を一枚差し出してきた。

「学校の夏期講習。予備校のもあるし、紗幸希はどうするのかなぁって」
「英語は受けてもいいかな。数学はパス」

あたしは亜未に見せられた紙を眺めながら、ぼそりとそう答えた。

紙にはそれぞれの科目の担当教師名が書いてある。

文系クラスの数学担当は冴島先生になっていた。

夏休みまで、彼の顔を見たくない。

「え? あたしは受けるなら数学なんだけどな。紗幸希も一緒に受けようよ」
「いいよ、一人で受けなよ」

差し出された紙を亜未のほうへ押しやりながら素っ気なく答えたとき、たまたま傍を通りかかった涼太があたし達の会話に首を突っ込んできた。


「サユ達、夏期講習受けんの? サユが受けるなら、俺も受けようかな」

勝手に会話に入ってきた涼太が、あたしの顔を見てにっと笑う。

「あんたは別に夏期講習なんて関係ないでしょ?」
「そうだけど、夏休みも会えたほうが楽しいじゃん。な?」

涼太はあたしの冷たい眼差しにも声音にも、ちっとも怯まない。

にこにこと笑ったまま、亜未に同意を求めた。

「不純な動機で参加されても困るんですけど。みんな真面目に勉強しに――」
「うん、夏休みもこうやって顔を合わせれたほうが勉強もはかどる気がするよね。涼太も参加しようよ。数学好きでしょ? あたし達と一緒に受けようよ」

亜未が、涼太への反論を遮る。

涼太に誘いかける亜未の声は、やけに嬉しそうに弾んでいた。

「数学? いいよ、俺も一緒に受ける」
「じゃぁ、あたし申し込んどくよ!」
「亜未。あたし、数学は受けないよ?」

亜未に言ったけれど、夏休みにも無条件に涼太に会えることが決まって舞い上がっている彼女は、あたしの話なんて聞いちゃいなかった。

もう、勝手にして……

だんだんどうでもよくなってきたあたしは、涼太と楽しそうに話している亜未の横顔を見つめながら深いため息をつく。

机に肘をついたとき、ふと冴島先生が廊下を歩きすぎていくのが見えた。

「冴島先生!」

そのあとを、教科書を手にした女子生徒が追いかけてくる。

冴島先生が立ち止まり、女子生徒が追いつく。

教科書を広げて彼に何か質問をしているらしいその女子は、里見 萌菜だった。

去年、教育実習生としてやって来た冴島先生を見る萌菜の目は、男の人を見る一人の女の子のそれだった。

だけど、今廊下で話している冴島先生と萌菜は普通に先生と生徒に見える。

1年以上経って、萌菜のほとぼりが冷めたのだろうか。

2年生のときはあたしも萌菜とそれなりに仲がよかったのに。クラスが離れた今、なんとなく萌菜と言葉を交わす機会が減ってしまった。

廊下で話している彼らをぼんやりと見つめていると、あたしの見ているものに気がついた亜未がぼそりと呟いた。

「あ、萌菜と大ちゃん」
「うん」

何となしに返事をすると、さっきまで涼太とのおしゃべりに盛り上がっていた亜未が今度はそっとあたしの耳元に顔を寄せてきた。

「高2のとき、萌菜が大ちゃんと付き合ってるって噂あったじゃん。あれってほんとだったのかな? 今も継続中だったり……?」

あたしの耳元の顔を寄せた亜未が、ひそひそとそんなことを囁く。

「さぁ。噂じゃない? 萌菜、何も言ってなかったでしょ」

亜未の言葉にさほど興味なさそうな返事をする。

けれど、そう言っておきながら、あたしの視線はいつまでも廊下で話す冴島先生と萌菜に注がれたままだった。



夏休み。亜未が勝手に申し込んだ1時間の数学の夏期講習に真面目に出席したあと、鞄の中から英語の問題集を取り出して机の上に広げた。

「あれ、帰らないの?」

帰る用意を終えた亜未が、夏期講習が終わっても席を立とうとしないあたしにふらふらと近づいてくる。

「うん、取ってる予備校の授業までまだ時間あるし。ついでに学校で勉強してから帰る」

あたしがそう言うと、亜未の後ろからやってきた涼太と上原くんが興味深そうにあたしの手元を覗き込んできた。

「サユ、まだ勉強すんの? 熱心だな、お前」

涼太が机の上に置いていた問題集を拾い上げて、つまらなそうな顔で、パラパラとページを捲る。

「返して。あたしはあんたと違って忙しいの」

立ち上がって涼太の手から問題集を奪い取ると、上原くんがくすっと声をたてて笑った。


「宮坂さん。涼太だって別に暇なわけじゃないから」
「そうだよ。俺だっていろいろ勉強しないといけないことがあるし」

上原くんのフォローを受けて、涼太がなんだかエラそうに胸を張る。

「ふぅん。だったら、なおさら、あたしの邪魔をしないでください」

あたしだって、本気で涼太が暇だと思っているわけではない。

涼太に何か言われる度に、つい反発してしまう自分が嫌だったけど、今さら後には引けなかった。

「サユ。お前、ほんとに冷たいやつだよな。そこまで言うなら、一人で残ってガリ勉してろよ。上原! 亜未! 俺達は駅前でアイスでも食ってちょっとリラックスして、それからまたそれぞれ頑張るぞ」

涼太があたしにあてつけるみたいにそう言って、亜未と上原くんの肩をぽんっと叩く。

「うん、ちょっとくらい休むのも大事だよね」

肩を叩かれた亜未が、嬉しそうな声で涼太に同意する。

「勝手にどうぞ」

亜未の様子を横目で見遣りながら素っ気無い声で言うと、上原くんがくすくすと笑いながらあたしのほうを見た。


「宮坂さん。あんまり無理しすぎないでね。涼太や武田さんが言うとおり、たまには息抜きも必要だから。今度時間あるときは、みんなと一緒にアイスでも食いに行こう」

上原くんが柔らかい声音で、さり気なくあたしを誘ってくれる。

上原くんは、他人の小さな心の動きにすぐ気付く人だ。いつも穏やかで柔らかい微笑を浮かべているけれど、実は結構侮れない。

もしかして、あたしが涼太に対して変な意地を張ってるとでも思われたのかな。

そう思うと少し恥ずかしくて、あたしは目を伏せながら上原くんに小さく頷いた。

「じゃぁ、紗幸希。また明日ね」

教室から去って行く亜未と涼太、それから上原くんに手を振ったあと、あたしは机の上の問題集に視線を落とした。

昨日の夜、家でやりかけのまま終わってしまった英文法の問題集。予備校に行くまでには、あと3時間くらいあるから、できる限り多く問題をこなしておきたい。

目を閉じて大きく一つ深呼吸をすると、シャーペンを握りなおして問題に取り掛かった。


1時間ほど集中して問題を解いて自己採点話していると、解答を読むだけでは理解できない問題がいくつか出てきた。

時計を見ると、予備校に行くまでにはまだ随分と時間がある。

職員室に担任の柴崎先生がいれば、質問できるかもしれない。

荷物をまとめて立ち上がると、あたしは職員室へと向かうことにした。

夏期講習が終って人気のなくなった廊下は、閑散としていてとても静かだ。

床を踏みしめるとき、上履きの底が擦れて鳴るキュッキュッという音が、やけに響いて耳につく。

締め切っている窓の外からは、蝉の声が小さく漏れ聞こえていた。

誰ともすれ違うことなく職員室までたどり着いたあたしは、そっとドアを開いた。

冷房がよく効いた室内から、冷気が外へと漏れ出す。

頬に触れた冷たい空気に少し目を細めながら職員室の中へと一歩足を踏み入れると、そこはやけにシンとしていて、通常とはなんだか雰囲気が違っていた。

「誰もいないのかな……」

「えぇ? そうなんですか?」

小さく呟いたとき、不意に、職員室の奥の方から女子生徒の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。