「だから、何なんですか?」
「いや、別に。じゃぁな」

苛立った声で問いかけたあたしに、冴島先生がもう一度軽く手を振る。それから、煙草を咥えてその煙をふぅっと一息に吐き出すと、あたしに背を向けて暗闇の向こうへと歩いて行った。

冴島先生が吐き出した煙が暗がりの中で燻って、視界がぼやけて濁る。

「涼太が何なのよ」

少しずつ遠くなっていく冴島先生の影を睨みながら、小さくつぶやく。

何も知らないくせに、萌菜も冴島先生もおせっかいだ。

あたしのつぶやきは、誰もいない暗闇の中に吸い込まれて、静かに消えていった。

「じゃぁ、この内容に決定でいいですか?」

ざわついた教室に、クラス委員の男子の声が響く。

「反対意見がなければ、これで決定します」

クラスメート達はみんなそれぞれに近くの席の者同士で話をしているくせに、クラス委員の呼びかけには反応を示さない。

それを合意のサインだと捉えたらしいクラス委員の彼は、手にしていた白いチョークを置いた。

彼の隣で懸命にメモを取っていた女子のクラス委員も、筆箱にシャーペンをしまって、ぱたりとノートを閉じる。

「ではこれで、文化祭の出し物についての話し合いを終わります」

男子のクラス委員が場を締めて、二人のクラス委員が教壇を降りる。

彼らと入れ替わるようにして、担任の柴崎先生が教壇に登った。

「みんな受験勉強で忙しいと思うが、文化祭は高校生活最後のイベントだからしっかり楽しんでください」

前に立った柴崎先生が、教室全体を見渡しながら話す。

高校最後の夏休みは、あっという間に終わった。

ほとんど毎日学校の夏期講習と予備校に通いつめていたけれど、実際にどれだけ成果があったのかは正直言って、よくわからない。

教壇で話す柴崎先生の声を聞きながら、あたしは窓の外に視線を向けた。

2学期に入ったからすぐに涼しくなるいうわけでもなく、教室の中も外も夏の名残を残してまだ暑い。

空の遠くには、大きな入道雲が見える。真っ白な雲とと空の青さに、あたしは眉を寄せて、軽く目を細めた。

たとえ受験生でも、それと並行して通常の学校イベントは行われる。もうすぐ、高校生活最後の文化祭だ。

時間は少しずつ、だけど確実に流れていくのに、全てにおいて現実感がなかった。

柴崎先生の話が終わると、日直の合図でクラスメートたちがいっせいに立ち上がる。

「礼」の号令がかかり、1日が終わる。

機械的に小さく頭をさげて椅子に腰を落とすと、帰宅準備を整えた亜未が近づいてきた。

「文化祭に和風喫茶するのっていいよね。今年は勉強があったから夏祭りも花火大会も行けなかったし。浴衣着れるの、すごい楽しみ」

亜未があたしの机に手をつきながら嬉しそうに笑う。

さっきの話し合いで、あたし達のクラスの文化祭での出し物は和風喫茶に決まった。

カキ氷とかおだんごとか、そういうものを売るらしい。

女子が店番をやるときは『浴衣』で。誰が提案をしたのか忘れてしまったけれど、最終的にはそんな決定事項もできていた。

「あたしはここ数年浴衣着てないから、お母さんに頼んで箪笥から引っ張りださないと」

最後に着たのは中学1年生のときで、あたしはその柄どころか色すら覚えてない。

箪笥から引っ張り出す以前に、ちゃんととってあるのだろうか。

そう思っていたとき、不意に後ろから髪を撫でられる感触がして、ぞくりと肌が粟立った。

「サユの髪って綺麗だよな」

髪に触れたものを反射的に払いのけると、その手が誰かにつかまえられて、またぞくりとした。

「何すんの?」

斜め後ろを見上げると、あたしの手をつかんだ涼太が立っていた。

「サユの髪、長くて綺麗だからいろいろできんな」

涼太が空いているほうの手で、あたしの髪を束にして何度か掬う。

「いろいろって何よ」

つかまれた手を振り払いながら冷たい視線を向けると、涼太が束にして掬っていたあたしの髪を指先で梳くようにはらはらと肩に落とした。

「浴衣のときのアレンジ。文化祭の日、俺がサユの髪やってやるよ」

涼太はあたしの髪を何度も手で触って確かめたあと、にこっと笑った。

「つまり、あたしはあんたの実験台になるってこと?」
「実験台とか言うなよ」

ほんの少し眉を寄せて見上げると、涼太が唇を尖らせる。

「だってそうでしょ」
「言っとくけど俺、絶対サユのこと可愛くできるから」

涼太はあたしの頭を上からぐしゃりと撫でると、自信たっぷりな目をして言った。

「何よ、それ」

その自信がどこから湧き出てきているのかはよくわからない。

けれど涼太のその眼差しを真っ直ぐにずっと見返し続けることができなくて、あたしは頭に載せられた彼の手を振り払いながら顔を背けた。

「涼太、あたしの髪もやってよ。サユほどは長くないけど」

あたしが涼太の手を払いのけた瞬間、黙って話を聞いていた亜未が身を乗り出してきた。

涼太は鎖骨辺りまで伸ばしてゆるく巻いている亜未の髪を直接触ることはなく、目で見て雰囲気を確かめる。

それから人懐っこい顔でにこっと笑うと「いいよ」と答えた。

「どんな感じがいいかとか、そういうのがあったらまた教えて」
「うん」

涼太の言葉に、亜未が嬉しそうに笑い返す。

「あ、サユは全部俺にお任せでいいだろ?」

涼太が亜未からあたしに視線を移す。

そう訊ねてきた涼太は、ハナからあたしに反論させるつもりなどないようだった。

「亜未には希望聞いてるのに? やっぱりあたしは実験台なんじゃない」

机に片肘をつきながら嫌味っぽくふっと息を吐くと、苦笑いを浮かべる涼太の顔が横目に見えた。

「そうじゃなくて。サユは俺の中でもうイメージがあんの」
「どんな?」

机に肘をついたまま視線だけを上に向けたとき、亜未が言った。

「涼太は紗幸希のことよく見てるもんね」

亜未の声はいつもと変わらず明るかったけど、涼太を見る目は切なげで、無理やり引き上げたみたいな唇の端は微かに引き攣っていた。

「いや、別にそういうんじゃなくて」

自分を見つめる亜未の目がどれだけ切なげな色をしているか。それに少しも気付いていない涼太が、困惑気味にちらりとあたしに視線を向ける。

あたしは切なげに笑う亜未の前で涼太のその視線をまともに受け止められず、何にも気付いていないようなふりをして教室の床に視線を落とした。



文化祭当日。亜未の髪を巻きなおして一まとめのアップにした涼太が、椅子に座って待っているあたしの隣に腰をおろした。

「じゃぁ、次はサユな」

和風喫茶の控え室としてひとつ借りている教室に、涼太は持ち運べる鏡とかアイロンとかヘアスプレーとか。そういうものを諸々と持ち込んでいた。

隣に座った涼太が、あたしの前に鏡を立てる。

「サユ、紺色似合うよな」

顔を近づけてきて一緒に目の前の鏡を覗き込んだ涼太が、あたしの髪を手の平で撫でながら笑った。

「そう?」

ストレートな涼太の褒め言葉に、あたしは鏡から顔を背けて、濃紺に大きめな赤い牡丹が散らばる浴衣に視線を落とした。

「サユ。いつも髪下ろしてるけど、今日はアップにしてもいい?」

あたしの髪を弄りながら、涼太が鏡越しに訊ねてくる。

「いちいち訊いてこなくたっていいよ。実験台でしょ?」

素っ気無い声で答えると、涼太が呆れ顔でくすっと笑った。

「だから、実験ではないって」

涼太は笑いながらもう一度あたしの髪を撫でると、手にブラシを持ってそれで時間をかけて丁寧にあたしの髪を梳いた。

それから梳いた髪を少しずつ束にして留めると、大き目のカーラーで小分けにした束ごとに髪を巻いていく。

作業を始めた涼太は、無駄な話をするのをぴたりとやめた。

真剣な顔で作業を続ける涼太を、あたしは彼に気付かれないように鏡越しにじっと見つめる。

ときどき額にかかる髪をかきあげながら丁寧にあたしの髪に触れる涼太の顔は、今まで見たことがないくらい綺麗だった。

その顔にすっかり魅せられてしまい、涼太を食い入るように見つめていると、作業の手を一瞬休めた涼太と鏡越しに目が合った。

あたしがじっと見つめていることに気がついた涼太が、いつものように人懐っこい顔で嬉しそうににかっと笑う。