しかし、僕には手紙を残したい相手がそもそも居ないし、世間に訴えかけ公表したい事も特別ない為、あえて遺書は書かないという選択をした。

 そして最後にいつを“最後の日”とするかだが、僕は初めからその点については決めていた。

 決行は二日後の月曜日だ。

と、そのあたりで急激に眠気に襲われた僕はそのまま意識を手放した。

 数年ぶりに見た夢には母さんがいた。

それは優しかった頃の大好きな母さんの夢だった。

僕を認め、いつだって支えてくれた母さんが僕は大好きだったのだ。

 でも、だからこそ母さんの裏切りが何よりも響いたのかもしれない。

 夢の世界はその時点までは僕に幸福感を与えていた。

 しかし次の瞬間、突然スクリーンの様なものが切り替わり辺りは途端に暗くなる。

——ここは僕の家だ。いや、今となって僕の居場所などない僕の家だった場所だ。

そして繰り返される悪夢の様なあの日の光景が浮かび上がる。

 まさにそれは、トラウマを逆撫でされる様な感覚だった。

 そこには僕と母さんの姿が見える。

 どうやら今度の夢では、この僕は映画館の観客の様だ。

つまりは蚊帳の外の存在というわけか。

 スクリーンにはあの日と同じく、僕が母さんの注意を引く為にひたすら「母さん」と呼び続けるシーンが続く。

 しかし、その声に反応する母さんの姿はやはりない。そうしてようやく気づく愚かな自分の間抜けな顔がスクリーンに映し出される。

 何度も繰り返される悪夢の様なその出来事に、僕の中に黒い感情がふつふつと湧き上がってゆく。

 それはまさに憎しみだった。

 これ程までに僕は母さんを恨んでいたのかと、自分で自分に驚かされる。

愛情が深ければ深いほど、その反動は凄まじいのだと僕は知ってしまった。

 憎しみとは愛情の裏返しだったのかと、何とも扱いづらいこの感情を僕は完全に持て余していた。

 どう消化すればこの感情が消えてくれるのか。

僕の命はもうすぐ尽きると言うのに、もしも死後の世界が存在するとして僕はこの醜い感情を抱いたまま、向こう側へは逝きたくないと思った。

せめて今生でこの感情を消化していきたいと、そう強く願う。

 誰に、とは言わない。僕はもう神などいない事を知っているから。その証拠に誰も僕に救いの手を差し伸べてなどくれなかったし、乗り越えられる程度の壁では決してなかったからこそ、現にいま僕はここにいるのだ。

 次に目を覚ました時、どうかこの感情に呑まれていません様に。

 憎しみなど僕の最後には相応しくないから。せめて最後の日くらい心穏やかに過ごしたい。そのための終活であり、その為に僕は筆を握ったのだ。

 僕のための終活はこうして幕を上げる。

 エンドロールを終え、幕を降ろす最後のその瞬間まで僕はこの舞台の主役であり、監督であり、観客でもある。

 だからこそその最後の一瞬まで演じ抜くのだ。

さあ、僕の僕による僕のための終活の幕開けだ——。


《第四章:僕のこと 第二節:土曜日fin.》




○「第四章:僕のこと 第三節:日曜日」




「——え」


 目を覚ますと僕は泣いていた。

頬を伝う涙が何だかとても熱く感じるのは、目が疲れている所為だろうか。

 気付けば昨夜賑わっていたファミレス店内も、客の数がまばらになっていた。

それもそのはずだ。窓際の席から見上げた空はすでに随分と明るく、スマホの液晶に目をやれば時刻はちょうど午前八時を告げていた。

 とは言っても今日は日曜日だ。

 昼時にでもなればまた、客が空いている席をまるで椅子取りゲームでも始まったかの様な勢いで埋め尽くし、途端にごった返すに決まっている。

 ふと手元に視線を落とすと、昨夜あのまま寝落ちてしまったらしい僕の手の中にはボールペンが握られていた。

 そして卓上にはドリンクバーのグラスから吹き出した水滴を含み、端にふやけた跡の残る紙ナプキンが置かれている。

 ミミズが這った様な字が並んでいるそれは、昨夜頭を捻り導き出し、僕が最終的に出した結論を書き記した“回答”だった。

走り書きしたメモの様なそれを拾い上げ、とりあえずジーンズの尻ポケットにしまい握りしめていたボールペンを元の位置に戻す。

 それから朝食をとり、人が多くなる前に店を出た。

 その後、チェックインまでの時間本屋で立ち読みすることで過ごした。

 おそらくこれが人生最後の読書となるのだろう。

 読書だけじゃない。これから起こる事や、やる事全てが僕にとっては人生最後となるものばかりだ。

 “人生最後”のそれら全てを噛み締めて、僕は終活をやり遂げるのだ。

 それからやや感傷的になったりもしたが、ホテルのチェックインの時間が迫ってきたので駅の方へと向かう。

 僕がそのホテルに到着したのはチェックインに予定した時刻の十分前だった。

自動ドアをくぐり、恐る恐るフロントに立つホテルマンに近付き、声をかける。


「あの……、十五時に予約していた者なんですけど」


 明らかに挙動不審であろう僕に、ホテルマンはにこやかに微笑みかけた。


「お待ちしておりました。では、お手数ですがこちらの用紙に記入をお願い致します」


 そう言って差し出された用紙に僕は何とか震える手で記名する。

 手に汗握るという表現が、これほどまでにしっくりとくる場面も早々ないだろう。

途中、記入中に保護者の有無を聞かれでもしたらどうしようかと不安を抱いていたが、その後もホテルマンからは何ら聞かれる事なく手続きは進む。

 その後、フロントに置かれたアメニティと朝食サービスについての説明を受け、ルームキーを受け取るとそのまますんなり部屋へと通された。

 部屋に着くなりその場に思わずへたり込んでしまう。


「だ、第一関門なんとか突破した……」


 しばらくはそのまま動けなかった僕だけど、脱力した身体を何とか起こし部屋の中を見渡す。

 おそらくこれは至って普通のよくあるビジネスホテルの一室なのだろう。

 開放感がそうさせるのだろうか。

 部屋の窓際に設置されたシングルベッドに、勢いよくダイブした僕は心の底から歓喜していた。

 清潔なシーツにセキュリティシステムが完備された部屋。


「——凄いぞ。何もかも完璧だ」


 至って普通のこのビジネスホテルの一室は、僕にとってはまさに理想の空間だった。

 この場所にはあの男は居ないし、この場所では暴力に怯えて過ごさなくていいのだから。

 それからというもの僕は、眠るまでの間最後の日をどう過ごすのが最適なのかを思案した。

 しかし僕の頭では、精々ホテルのテレビで有料サービスを楽しむと言ったくらいしか浮かばなかった。

 ベッドに寝転がりながら、一覧表を適当に漁りアクション映画を二本鑑賞すると時刻は午後七時半だった。

若干の眠気を感じつつ伸びを一つし、起き上がる。


「風呂でも入るか」


 誰もいない部屋の中にポツリとこぼれ落ちる僕の声が、やけに大きく聞こえた。

 そう言えばまだ、浴室は見ていなかったな。

浴室の扉を開け放つと、ウォシュレット付きのトイレに横付けする形で浴槽が備え付けられていた。


「このカーテン……なんだろ? え? てか、洗い場どこだよ」


 僕の視線は浴槽とトイレを隔てる様にして垂れ下がっていたカーテンと、どこにも見当たらない洗い場を探し、彷徨う。

 ろくに旅行など行ったことがない僕は、そのカーテンが何のためにあるのかを知らなかったのだ。

そのカーテンの使用用途は、知っておかなければもしかしたら不都合なことでもあるのではないかと考えた僕は、すぐにスマホを開きネットで検索をかける。

“ビジネスホテル_浴槽_カーテン”で検索すると、僕と同じ様な疑問を抱いた人たちの質問が投下された掲示板に行き着いた。

 それらを斜め読みしていくと、どうやらこのカーテンは、シャワーカーテンと言って湯船に湯を張る時は外側に垂らし、シャワーを使用するときは内側に垂らせばいいらしい。

 そしてこうしたタイプの浴槽のことを一般的に、ユニットバスと呼ぶのだと僕はこの時初めて知った。


「なるほどね」


 とりあえず使い方がわかった所で、湯船に湯を張ることにした。

湯が溜まるまでの十五分間僕はまたテレビを見て、それから湯を張った湯船の中にフロントで貰ったアメニティの入浴剤をいれ、湯船に浸かってみる。

 鼻腔を擽るラベンダーの香りが浮き足立った僕の気分を落ち着かせてくれ、次第にリラックスモードへと切り替わる。

 すると幾分か落ち着きを取り戻した僕は、先ほどまで盛り上がっていたはずの気持ちが途端にしぼみ始めた。

そして僕がこの世を去った後のことを考える。


——屋上から飛び降りた後、僕の身体はどうなってしまうのだろうか。


 冷静にものを考える時間が持てると、こうした事を考える余裕さえ生まれるのかと何だか不思議な気持ちになる。

 そして同時に、これまでの生活がどれだけ切羽詰まったモノだったのかと思い知らされるのだ。

 そんな感傷的な思いも全て綺麗さっぱり洗い流すように、張っていたお湯と一緒に線を引っこ抜き排水溝に流してしまう。

お湯が抜けきったのを確認すると、先ほど調べた知識をもとにユニットバスの外側に垂らしていたシャワーカーテンを、今度は内側へと引き入れる。

それから入念に身体を隅々まで丁寧に洗い、僕は人生最後となる入浴を終えた。

 ベッドルームに戻った僕は男女兼用のスリーパーパジャマに袖を通し、浅くベッドに腰掛けながらタオルで髪の毛を拭き上げる。

 水分を含んだタオルをその辺に適当に放り投げると、ベッドに寝転がり天井を見上げた。

そして、ようやく息がつけた気がする。

 僕の終活も終わりが近付いてきているのだと、自分に言い聞かせる様にそっと目を閉じた。