彼は言った。

 「きっと母さんは、お腹の子供を守るために不要になった僕を切り捨てた」のだと。

 「味方だと信じていたのに裏切られた」と、唯一の拠り所を失った彼の悲痛な叫びが僕にも伝播する。

 僕は知っている。毎日通う場所で居場所を失うよりも、毎日帰る——帰らなくてはならない場所で居場所を失った時の方が何倍も辛く苦しいことを。

 同じだから。彼は——僕だ。

 彼の苦しげに吐き出されるもの全てに同調し、共感し、伝播してしまう。

その苦しみが理解出来てしまうからこそ、僕はどうしようもないくらい無性に泣きたくなった。

 だけど僕は自分勝手な人間だから。自分勝手な僕は歯切れ悪く口を開いた。


「君がここに来た理由は分かった。話してくれてありがとう……」

「ううん。こっちこそ聞いてくれてありがとう」


 彼は僕がこのあと何を言おうとしているのか、何となく分かっていた様な気がした。


「……悪いんだけど、頼むから僕の目の前で飛び降りるのはやめて欲しい。君を見ていると自分を見ている様で何だかとても苦しいんだ」


 目頭が熱くなり、今にも泣き出しそうな自分の声が鼓膜を震わす。


「分かった。ここまで話を聞いてくれた君に免じて、今日はやめておくよ」

 そう言ってまた寂し気に笑ったであろう彼の顔が、ぼやけた視界に映る。

 こちらに背を向け歩み出した彼が「そう言えば」と、再び僕に声を掛けた。


「君の話を聞き忘れていたね」


 そんな口約束なんていっそ忘れてくれてよかったのに、どうやら彼はとても律儀な人の様だ。


「どうする? 君さえよければ聞かせてよ」

「……せっかくだけどやめておく」

「そっか」


 彼の申し出を受けていれば、少しは楽になれたのかな。

 天の邪鬼な僕はせっかくの彼の申し出を、やんわり拒否する。


 ——お願いだからこれ以上、誰も僕の中に入ってこないで。


 自分は人に干渉してはここから追い返すくせに、自分の事となると途端に殻に閉じこもり、触らないでと締め出してしまう。

僕って奴は、なんて自分勝手で臆病者なのだろう。

 気付けば辺りはすっかり明るくなっており、グラウンドには自主練習に励む部活動生の姿が徐々にその数を増していた。

 静まり返った朝の学校から、苦手な学校へと姿を変えていく。


「それじゃあ、“また”。先に行くね」

「うん」


 彼の口にした“また”などないことを僕たちは知っていた。

 彼が立ち去った後も、僕はしばらくグラウンドを駆ける部活動生たちを静かに眺めていた。


《第三章:傷だらけの少年 第一節:木曜日fin.》



○「第四章:僕のこと 第一節:金曜日」



 ——金曜日。それは僕が一週間で最も嫌悪する曜日。

 世間は華金だの、プレミアムフライデーだのと騒いでいるが、僕にとって金曜日とは生死を分ける魔の曜日だ。

 事の発端は、母親の再婚がきっかけだった。

 僕の高校入学を機に母さんが突然「会わせたい人がいる」と、口にした。

 思えばあの頃が僕の人生はピークに達していたのかもしれない。母子家庭で貧しくはあったが、母さんと力を合わせて親子二人三脚の生活は僕の人生で最も幸せで温かい家庭を感じられる日々だった。

 病気で父が亡くなり、これまで女手一つで育ててくれた母さんには感謝していたし、今後の母さんの幸せを考えると僕はその母さんの願いを拒むことはしなかった。

いや、拒むことなど出来るはずがない。

 それまで母さんが僕の為に、どれだけ母親であり続けるための努力をしてくれていたのかを思えば思うほど、母さんには頭が上がらなかった。

 若くしてパートナーである父を失った母さんは、僕と言う存在を日々生かす為に相当な無理と我慢を繰り返してきてくれたのだから。

 自分の事に一番お金を掛けたいであろう時期に掛けられず、お洒落の制限が苦痛に感じた事だってあっただろう。

友人との旅行や食事だって行きたかったに決まっている。

 人一人生かすのだって大変なことだろうに、その上子供を養うと言うのはどれ程の負担を強いられるものなのだろうか。

 再婚する事で、少なからず経済的な負担も緩和されるのではないかと、子供ながらに思った。

 何よりいつか僕が独り立ちした時、母さんを支えてくれる人が側に居てくれたらどんなに安心かと考えたからだ。

 その後、母さんからその男との顔合わせを兼ねた食事に誘われ、快諾した。

 やはり母さんの選んだ人物がどう言う人間かは知っておきたいし、いずれ会わなくてはならなくなるのだから、その時期は早いに越したことないと思ったのだ。

 事前情報として聞かされていたのは、男は母さんが派遣社員として勤める会社の上司で、バツイチだが連れ子はいないということだけ。

 その週の土曜日に男に指定された店は、おそらく母さんとの二人暮らしでは到底ご縁のないであろう、見るからに高そうなコース料理を味わえる料亭だった。

 その時点で経済力のある人物である事が分かり、これからは何の気兼ねもなく自分の事に母さんがお金を掛けられるのだと心底嬉しかった。

 しかしその男との顔合わせ時点で、何だか僕はその男が生理的に受け付けないと感じた。

 正直、どうしてこれほどまでにその男を拒否してしまうのか、自分でもその理由が分からなかった。

 何故かその男はやめておいた方がいいと本能的に察知したのだ。

 しかしその会食で、僕はもう後には引き返せないことを知る。

 家に帰ったら母さんを全力で説得し、この婚約を破棄させようと心に決めていたのに、母さんは嬉しそうに言った。


「あなたはもうすぐお兄ちゃんになるのよ」


 愛おしそうに自分の腹を見つめ撫でながらそう告げる母さんが、一瞬何を言っているのか分からなかった。

 ようやく脳が事態を理解した時、僕は激しく動揺していた。

 それからと言うもの僕の意思に反して、母さんと男はトントン拍子に話が進み、そしてついに籍を入れた。

 母さんの希望で挙式は挙げず、家も元々僕と母さんが住んで居た築四十年の一戸建てに住み続ける事になった。

それは母さんが、僕が自立するまでは出来るだけ今まで通りの生活を送れるようにと、その点にかなりこだわったからだ。

 父が生前残した財産で、唯一未だに残っているのはこの我が家だけだ。

 自分の給与だけではどうしても回らないという生活苦に悩まされた母さんは、身の回りのありとあらゆる物を売ることで生計を立てた。

 昔、父と付き合って居た頃に父からもらったアクセサリーや洋服はもちろん、父に嫁いだ時に祖父母から持たされた嫁入り道具など全て母さんは僕との生活費に当てる為、手放した。

 だから母さんが父と過ごしたこの家は唯一、母さんの手元に残った父の形見となる。

 そんな我が家で、母さんと僕と男の共同生活がスタートした。

はじめの頃は何事もなく、まさに平穏だった様に思う。

 今にして思えば、あれは“嵐の前の静けさ”というべきだったのかもしれない。

 平和だった日常が崩れ始めたのは、男との生活が始まってからおよそ三ヶ月目に入った頃だった。

 あの時、初めて男と対峙した時に感じた、決して当たって欲しくなどなかった嫌な予感がついに当たってしまったのだ。

 ある夜の金曜日。

 男から会社の同僚と飲んで帰ると母に一報があり、久しぶりに母さんと僕の二人だけで晩御飯を食べた。結果として、それが母さんと食べた最後の食事となることをこの時の僕はまだ知らない。

 その晩、男が帰宅したのは日をまたぎ掛けそうな時間だった。

 そして不運にも乾いた喉を潤そうと、僕が布団を抜け出したのもちょうどその頃だった。

 普段ならそっと開閉される筈の勝手口が、その晩は乱暴に開け放たれた。


「……おかえりな、さい」


 おずおずと、どこか様子のおかしい男に向かって声を掛ける。

 酔っ払っているのか足取りもフラフラとしていて危なっかしい。

「えっと、……肩、貸そうか?……大丈夫?」


 最近になってようやく敬語が外れ、余所余所しさが薄れてきたばかりだ。

 この人は案外、酒に弱いタイプだったのかと一人納得していると、男の口からとんでもない言葉が飛び出した。


「——お前のせいでな、俺はとんだ笑い者だ。お前さえいなけりゃどんなに良かったか」

「……え、」

「俺の気持ちがお前に分かってたまるかよっ、ただでさえお前みたいなお荷物背負わされてるのに……、俺が外でなんて言われてるのか知ってるか?」

「……っ」


 突然胸ぐらを掴みかかられて、意表を突かれた僕は必死にもがいた。

 しかし、びくともしない男の腕は鍛え抜かれている事が素人目にも分かる。

そのゴツゴツとした腕はまさに男らしく逞しいものだった。

 そう言えばこの男、武道経験者であることを以前聞いた気がする。


「前の男の置き土産である古巣で生活している“うつけ者”だぞ!? この惨めさがお前に分かるかっ!?」


 初めに浮かんだ感情は、目の前の男は一体誰なんだという未知という名の恐怖だった。

 その次に襲いかかってきたのは、男の腕が僕の腹を思いっきり殴りつける衝撃だった。

そのまま床へと転がった僕に容赦無く、腹に蹴りを入れ続ける男。