○「プロローグ」



 代わり映えのしない毎日を、明日も明後日も繰り返すものだとばかり思っていた。

 ——初めは些細な諍いだった。だけどそれは次第に集団心理に働きかけ、終いにはいじめへと繋がった。

 息をするのってこんなにも難しかっただろうか。

 生きるって案外難しいことなのだと、誰もが一度はその壁にぶち当たる。

 違いがあるとすればそのタイミングは人それぞれであり、その壁を乗り越えられる人間とそうでない人間の二パターン存在するということ。

 僕の場合はそれが高校二年生の春で、後者のタイプだった。

 自分一人で思い悩み、抱え込んだ結果、僕はこの世界との決別を選んだ。

 誰かに助けを求めることはしなかった。いや、正確にはできなかった。

 頼れる人間などいないことを、僕はいつだって知っていたから。


「僕は今日、——この世界を卒業します」


《プロローグfin.》



○「第一章:松葉杖の少年 第一節:火曜日」



 春休みが終わり新学期を迎えた今日、僕はずっと考えていたことをついに決行しようと学校の屋上へと足を向けた。

 クラス替えの紙が張り出された掲示板など目もくれず、立ち入り禁止と書かれたプレートがぶら下がるチェーンを乗り越えて、僕はひたすら階段を登る。

 だけど息を切らしながらもようやく辿り着いたその場所には、まるで僕の行く手を阻む様に今まさにフェンスを乗り越えようとする先客がいた。

 その背中につい声をかけてしまったのは何故だろう。


「……ちょっと、待って。一旦落ち着こう?」


 僕の声に一瞬驚いた様な表情をしたその少年は、右足をかばう様に松葉杖をついていた。

 日に焼けた健康そうな肌を覆うギプスは、何だか彼には不釣り合いに映る。


「邪魔しないで。もう決めたことだから」


 声をかけた手前、「はい、そうですか」と突き放すわけにはいかず、仕方なく口を開く。


「なんでこんな事、——自殺なんて」

「別に。君には関係ないでしょ」


 自分でも思わず笑ってしまう様なセリフを吐いた自覚はある。

 自分だってそのつもりでここに来たくせに、何を言っているのかと聞いて呆れる。

 
「確かに関係ないけど……、もう決めている事ならせめて理由だけでも聞かせてくれてもいいじゃん」

 僕のその提案に一瞬考えを巡らせた様子の彼は、それもそうかとポツリポツリと語り始めた。

 案外彼は話のわかるやつのようだ。

 自虐的な笑いを含む声で「理由はこれ」と、自分の足を指差した彼の瞳には途端に哀愁が漂う。


「こう見えても県大会では上位に食い込む程度には足には自信があったんだ」


 自信が”あった”と過去に思いを馳せる彼はどこか懐かしそうに目を細める。


「——だけどあの日、小さな子供がボールを追いかけて車が行き交う車道に飛び出したから、思わずその後を追いかけたんだ。そしたらトラックが突っ込んできた。結構な事故で新聞にも小さくではあったけど載ったらしい。……幸い命に別状がないことを周りは大いに喜んだ」


 どこか遠くを見つめる彼の表情が次第に翳(かげ)り始める。


「次に目が覚めた時には病院にいた。助けた子供の両親にはずっと頭を下げられて心底助けられて良かったって思った。こんな自分にも誰かを救うことができたんだって嬉しくもあった。……もちろん今でも助けたことは後悔してない」


 頭で考えるよりも身体が先に反応していたのだと彼は言う。

 その小さな子供はある意味運が良かったし、ある意味では運が悪かったのかもしれない。

 何故ならその子は、誰かの犠牲の上で生きることの重さを一生背負って生きていかねばならないのだから。

「……後悔はしていないけど、それでもこの怪我が原因で選手生命を絶たれたのも事実だ」

「……、」

「リハビリさえすれば日常生活はある程度普通に送れるらしい。でも今まで通り走る事はできないと医者に言われた。走ることでしか——、自分を表現できないのに、それしか持ち合わせていないのにどうしろって言うんだよ……、もう生きる意味なんてないだろっ、」


 それまで抱え込んでいたありったけの思いを吐露した彼は、こうべを垂れ静かに涙していた。頰を伝う雫が屋上のアスファルトを濡らしていく。

 彼にとって陸上とは、彼と言う人間を語る上で欠かせない要素の一つなのだろう。

 そしてそれだけ陸上に全てをかけてきたからこそ、余計に悔しさが募るのかもしれない。

 そんな彼には僕がずっと誰かに言って欲しかった言葉を送ろうと思う。


「確かに君の夢は破れてしまったかもしれない。だけど本当にその夢はたった十数年生きただけで”一生ものの夢”だったと決めつけてしまえるものなの?」


 まるで追い討ちをかける様にそう口にしたのは彼に顔を上げて欲しかったからだ。

 固執する程大切にしてきたものを頭から否定されれば、誰だって顔を上げるだろう。