「……後悔はしていないけど、それでもこの怪我が原因で選手生命を絶たれたのも事実だ」
「……、」
「リハビリさえすれば日常生活はある程度普通に送れるらしい。でも今まで通り走る事はできないと医者に言われた。走ることでしか——、自分を表現できないのに、それしか持ち合わせていないのにどうしろって言うんだよ……、もう生きる意味なんてないだろっ、」
それまで抱え込んでいたありったけの思いを吐露した彼は、こうべを垂れ静かに涙していた。頰を伝う雫が屋上のアスファルトを濡らしていく。
彼にとって陸上とは、彼と言う人間を語る上で欠かせない要素の一つなのだろう。
そしてそれだけ陸上に全てをかけてきたからこそ、余計に悔しさが募るのかもしれない。
そんな彼には僕がずっと誰かに言って欲しかった言葉を送ろうと思う。
「確かに君の夢は破れてしまったかもしれない。だけど本当にその夢はたった十数年生きただけで”一生ものの夢”だったと決めつけてしまえるものなの?」
まるで追い討ちをかける様にそう口にしたのは彼に顔を上げて欲しかったからだ。
固執する程大切にしてきたものを頭から否定されれば、誰だって顔を上げるだろう。
狙い通り彼の目は、「たとえ誰に否定されようともこの夢は間違いなく一生ものだったのだ」と物語っていた。
そうして彼の注意を引いたと確信した僕は、続けて口を開く。
「夢は日々更新されていくものだと僕は思う。小さい頃から抱いてきた夢が、一切変わらない人なんてほんの一握りだ。その夢だって大幅に修正されないだけであって成長すればする程、より具体的なものに上書きされているはずだよ」
そして会話の端々から彼と言う人間が、非常に自己肯定感の低いタイプであることに気付いた僕は、彼の背中を押す様な言葉を何とか捻り出す。
「君なら必ずもう一度、やりたいことを見つけ出せるさ」
「……自分なんて、無理に決まってる」
「無理じゃない。君自身が自分を信じてやらなくて、……一体誰が君と言う人間の可能性を見出せるって言うんだよ」
きっと「君は出来る」と他者から評価されることは自己肯定感の低い人間にこそ必要な行為だと思う。
だからこそ僕は、何度も自信につながる様な言葉を繰り返し断言する。
「たった十数年の間に、それだけ打ち込める”一生もの”を見出したそんな君自身をもっと誇りなよ」
「……自分を誇れか。また見つかると思う?」
何かが彼の中に刺さったのだろうか。
僕の言葉を反芻(はんすう)した彼の瞳に、わずかに光が宿る。
畳み掛けるなら今だと言わんばかりに僕は続ける。
「君が本気で見つけたいと思うならね」
「そっか」
「さあ、きみはまだ引き返せる。こっちへ戻っておいで」
そうして何とかフェンスをよじ登らせ、思い留まらせることに成功した。
「今日はもう帰りなよ」
そう促すと彼は素直に頷き、階段の方へと歩き出す。
去り際に彼は、こちらに背を向けぽつりと呟いた。
「叶うなら——もう一度だけ、トラックを走りたい」
切実な想いを乗せたその声は、虚しくも風にかき消され、まるで空気に解ける様に消えた。
《第一章:松葉杖の少年 第一節:火曜日fin.》
○「第二章:孤独な少年 第一節:水曜日」
翌日、再び屋上を訪れた僕は今日もまたその場所に先客とおぼしき人物が居たことに若干辟易しつつも仕方なく声をかける。
「どうしたの?」
「……、」
俯きがちなその少年は、思い詰めた様な表情で重い口を閉ざしていた。
そこで僕は努めて柔らかい口調で彼に問いかける。
「僕でよければ君の悩みを聞くよ。良かったら話してみてよ」
すると彼は、今にも消え入りそうな声でぼやいた。
「……君に話したところで何になるって言うんだよ」
彼の言葉はもっともだった。だけどこの場から彼を立ち去らせたい僕は、彼に促し続ける。
「確かにそうだね。でも話せば少しは楽になるかもしれない」
「いや、遠慮する。別に君に話さなくたって、今すぐここから飛び降りれば楽になれるから」
「ふーん。なるほどね」
捻くれ者はなおも僕の提案を拒否し続ける。
「だったら僕が先に飛び降りるから君はそこで見ててよ」
「——え?」
予想外の僕の提案に彼は戸惑いの色を濃くした表情を浮かべている。
「後味悪いだろうな。残された側って」
にんまりと笑う僕は、別に彼がこの話に乗ってこなくたってよかった。
僕はただ誰かの後に飛び降りたくなかっただけなのだから。
だけど彼は乗ってきた。
「ちょっと待ってよ。どうしてそうなるの?」
「どうしてって?」
「君は僕を止めに来たんじゃないの?」
「え?そっちこそ何、言ってんの?僕にしてみれば君が飛び降りようが、何をしようがそんな事は大して重要じゃない」
「……じゃあ、一体」
何だって言うんだよと、その両の目のまなこが僕に問うてくる。
「さっきも言ったと思うけど……正直、後味悪いんだよね。僕の目の前で、僕よりも先に飛び降り様だなんて……、悪いけど僕は誰かの後に飛ぶだなんて真っ平御免だね」
「君って相当の捻くれ者だって言われるでしょ?」
「そりゃー、お互い様でしょ」
そう笑う僕に、彼は諦めた様にため息を一つ吐き、話し始めた。
「初めは単なるおふざけみたいなものだった。だけど気付いたら部活内でいじられ役からイジメのターゲットにすり替えられていたんだ」
それはどこにでもあるイジメの始まり方だった。そして彼は不運にもそのイジメの主犯とクラスメイトだったことで次第にクラスでも浮く存在となっていたらしい。
まるで誰もが彼と言う存在を弾き出す様に、ある者はイジメの主犯に同調し、ある者は我関せずと言わんばかりに見て見ぬ振りをし、またある者はこれまであまり話した覚えもないのに陰口を叩き始めたと言う。
彼は元々自分はいじられ役だったと言った。
そもそも“愛あるいじり”と、“心ないいじり”は似ている様で全くの別物であることをどれだけの人たちが理解できているのだろうか。
いじられキャラと呼ばれる彼らにだって、許せるいじりとそうでないいじりがある事を僕たちは知っておかなくてはならない。
確かにいじりとは、簡単に周囲の笑いを誘えるかもしれない。
だけど、そのさじ加減を一歩間違えればそれは最早イジメ同然だ。
実際この“いじられ役”や、“いじられキャラ”と呼ばれる多くの人たちが、いじめ同然の言葉を投げかけられたり、軽々しく暴力を振るわれたりするのを僕は今までたくさん見てきた。
おそらく多くの人たちが、その存在の扱い方を誤って認識してしまっているからだろう。
誰かを落とし、貶し、悲しませてまで取る笑いなんて僕は認めたくなどない。
「信じられるか? 昨日まで普通に話していたはずの——友達だと思ってた奴まである日突然、僕を遠巻きにするんだ」
苦々しくそう吐き捨てた彼の表情は、どこか虚ろだった。
誰だって、イジメのターゲットにはなりたくないと思うのは至極当然の事だと思う。
その心理状況が強く働いた結果、学校という集団生活を余儀なくされる場において、いじめを過激化させるきっかけになり得る。
集団心理とは、何と残酷で厄介なものだろうか。
「たった一人でよかった。……たった一人本当の意味での味方が欲しかったんだ」
名ばかりの友達など要らないと彼は言う。その声は泣いていた。
彼の頰は涙など伝っていないのに、その声は確かに泣いていた。
だけど、たった一人の味方が居てくれたらと願う彼は本当に独りなのだろうか。
僕は彼に問うた。
「家族は? 君の味方じゃないの?」
すると彼は首を横に振り、言ったのだ。
「家族には話していない。話せば心配するに決まってるから。親に心配されるくらいなら死んだ方がマシだ。……誰にも話せないからこそ僕は独りぼっちなんだ」
そんな彼の言葉を聞き、何だか無性にイラついた。心配してくれる家族が居ながら、何が独りぼっちなのだと。
たった一人の味方が欲しいと言いながらも、すでに手にしている事にすら気付きもしない彼に心底腹が立つ。
そんなものは断じて一人とは言わない。だって僕は知っているから、本当の孤独を。だからこそ自分は孤独なのだと悲観する彼が許せなかった。
——気付けば僕は吠えていた。
「そんなものは一人でも何でもない! 君には家族という味方がいるじゃないか。心配してくれる家族以上に何を望むって言うんだよっ!?」
自分の中の激情が堰を切ったかのように次から次へと溢れ出す。
「それにここで命を絶ったらいじめていた奴らの思う壺だよ!! 奴らは君が死んだところで何らダメージなんか受けないし、君が命を賭してまで奴らの前から消えてやる必要なんかない!!」
ずっと不思議だった。
どうして、いじめを受けた側が追いやられなきゃいけないんだろう。——僕たちは、一体どんな罪を犯したんですか?
どうして、いじめられるとカウンセリング勧めらなきゃいけないんだろう。——僕たちはどこかおかしいのですか?一体、いじめにあうと言うのは何の病気だと言うんですか?
どうして、いじめが原因で不登校や引きこもりとなった人間は落ちこぼれの烙印を押され、いじめていた側の人間は過去の自分の過ちを認め、それを世間に公表した上で悔い改めたと語る事を世間は立派だと褒め称えるのだろうか。——僕たちは世間の人々の持つ物差しからそれ程までに外れた人間なのですか?
他者から、自信も、居場所も友人さえも奪っておいて、それでも尚いじめていた人間の方が評価されるこんな世の中は間違っていると僕は思う。