あれは、私がまだ小学校の低学年の頃だった。

 母が友人からミュージカルのチケットを買ってきたのだ。付き合いで仕方なく、と父に話していたのを聞いた記憶がある。

 私は母に連れられて、そのミュージカルを観に行った。

 それまで子供のお遊戯会しか観たことのなかった私には、かなりの衝撃だった。

 芝居をしている役者の声も歌声も、激しく空気を震わせて私の感性を刺激した。
 滑らかな動きで迫力のあるダンスにも魅せられた。
 役者たちの笑顔がとても楽しそうで、眩しかった。


 自分もいつか、あんなふうに――。


「そうか。そんな素敵な体験をしたんだね」

「うん」

「応援するよ。叶うといいね」


 佳くんの優しい微笑みに、何となく照れてしまった。


「な、なんか、今日も暑いよね! 早く食べて中に戻ろう!」

「そうだね。あ、飴もどう? よかったら食後に舐めてよ」


 佳くんが自分のバッグから飴の袋を引っ張り出した時、逆さまに取り出されてしまったのか、個装されている飴が、ばらばらと地面に落ちてしまった。


「「あっ!!」」


 私たちが同時に手を伸ばし――


「あ、ごめん」


 とっさに謝ってしまったけれど、相手の手を掴むように触れてしまったのは、佳くんの方だった。


「……!」


 佳くんを見ると、彼の顔がみるみる真っ赤に染まっていく。


「どうしたの? 佳くん」


 え? え? 何?


「手、ごめんね」


 彼は平静を装っているように見えた。

 視線はこちらに合わせない。
 これは、こちらも普通にしていた方がいいのだろうか。

 飴玉を持っているとはいえ、人の唇には平気で触れてくるくせに。


 こんな、手が触れたくらいで真っ赤になるなんて。


 私は何だか悔しくなって、佳くんのほっぺたを人差し指で突っついた。


「どうしたの? 顔が赤いよ。熱中症?」


 すると佳くんが驚いたように私の手を掴んでこちらを見た。

 意外にも大きな手の感覚に、こちらの心拍数も少し上がる。
 掴まれた手は、すぐに離されてしまった。


 二人の視線が重なり合ってとまる。


 彼の真っ直ぐな眼差しには、戸惑いの色が浮かんでいた。


「……」


 佳くんは無言のまま視線を逸らし、再び黙々と飴を拾い始めた。

 な、何よ。何か言ってよ。

 この日、私たちは少しだけぎこちない雰囲気のまま午後を過ごし、帰宅した。