◇
ゆっくり目を開けると、見慣れない天井がうっすらとうつった。それは何故だかぼんやりと滲んでいる。
「大丈夫?」
ふと、声がした。まだ完全に開いていない目を横にずらすと、心配そうなスミくんの顔がある。いつもちゃんとセットされている茶髪が、右側だけちょこんと跳ねていて、かわいいな、とおもった。
そういえば、昨日は花火大会で、スミくんの家に泊まったんだった。いつの間にか眠っていて、ハルカと、あの頃の夢を見ていた。
大丈夫?、ともう一度やさしく聞かれる。なんでそんなことを聞くのだろう。スミくんも起きたばかりかな。
「……うん」
「嫌な夢でも見た?」
スミくんが心配そうにしていた理由がわからず不思議そうにしていると、そっと頬をスミくんの指先がなぞった。そこではじめて、自分が泣いていたことに気がついた。
「昔の、夢を見ていたのかも」
「そっか」
スミくんが手を離したので、自分の左手で頬を拭ってみる。もう、乾いている。寝ている時に流れていたんだろう。ハルカとシュンの夢を見ることはしばしばあるけれど、朝起きた時にだれかが涙を拭ってくれたことは、生まれてはじめてだ。わたしはのそりと布団から出て起き上がる。今何時だろう。
こんな寝起きの顔、本当は、見られたくないけどね。
「ごめん昨日から、なんかわたしへんだ……」
「ナツノが変なのはずっとだけど」
「それを言うなら、スミくんもだけど」
「今日、用事ないならどっか行く? あ、でも足痛いかー」
「突然話変わる……」
「折角だしと思ってさ」
ケラケラとスミくんがわらう。やっぱり、やさしい笑い方をするね。でも、まだ、起きて5分も経ってないってば。
「あれ、ナツノちゃん起きたー? 朝ごはん食べる?」
ちょうどよくヒョコッと襖からスイさんが顔を出した。そういえばスイさんも一緒に寝たんだったな。朝起きるのは先を越されてしまったらしい。開けられた襖から焼けるパンのいい匂いがした。
わたしはスミくんに「足痛いから、今日は帰る」と伝えてスイさんがいる台所へと足を進める。スミくんは「まだ心開かれてないの?おれ」と呆れたような肩をすくめているけれど。
「ナツノちゃん、なんか、表情軽くなった? 重荷取れたみたいな顔してるね」
スイさんが何気なく笑ってそう言うので、わたしはなんだか泣きたくなって、洗面所かります、と逃げた。来週最後のプール掃除は、サボらないから、今日はごめんね、と心の中でスミくんに謝って。
4. きらめきの残像はここに沈めていって
花火大会が終わって、4週目のプール掃除がやってきた。
結局あの日は足が痛いからとスミくんの自転車の後ろに乗せてもらって、家まで送ってもらった。スイさんの服とサンダルを借りたけれど、背が高くてスタイルのいいスイさんの服は少し大きかった。
シュンとは花火大会の日以来話していない。家も近いのに、帰りに私が写真部部室に行かなければこんなにも会うことってないんだなと驚いた。3日もシュンと顔を合わせていないなんて、出会ってから始めてのことかもしれない。長期連休でさえ無理やりシュンに遊んでもらったし。
「あ、ナツノ、今日はちゃんと来たんだ?」
先週と違って天気は晴れ。6月下旬、7月に差し掛かかった気温は、もう夏に高い。日焼け止めをしっかり塗ってプールサイドに降り立つと、スミくんがすぐに私を見つけて駆け寄ってきた。
今日は周りに他のクラスもいる。相変わらず人に囲まれていたのに、わたしを見つけるなりその輪を抜けてきて、スミくんって素直だなあと思う。
「最後だもん、仕方なく、ね」
「相変わらず素直じゃないなー」
ケラケラと笑う。
「めんどくさがりのナツノに朗報、今日はいつもよりはやく終わるってよ」
「え、そうなの? なんで」
「終わったら水張って、水泳部がプール開きするんだって」
「あ、そうなんだ」
なんで、なんて聞くんじゃなかった。
別にもう関係ないけど、水泳部、と聞くとやっぱり少し罪悪感が蘇る。
「見てく?」
「見ないよ」
見てく? なんて、悪戯なような顔をして聞く。見ないよバカ。水泳部のひとたちとは、辞めてから一度も会話すらしていないんだし。
「ナツノちゃん、ひさしぶり」
ふと、それは突然のこと。スミくんの後ろから、私よりも背の低い見覚えのあるショートボブがひょこっと顔を覗かせた。久しぶりに近くで見たその可愛らしい顔にどきりとする。
水泳部で、同い年の、女の子だ。1年ぶりに、面と向かって顔を合わせたかもしれない。
「キサちゃん、」
キサちゃん。私が水泳部に入部した時から唯一同じ学年の女の子。思わず気まずそうな声が出てしまったのは仕方ないと思う。顔は大丈夫かな。というか、明らかにスミくんが匿っていて、タイミングを見て顔を出したと思うんだけれど、どういうこと?
「俺、キサとは去年同じクラスだったんだよね」
「……へえ、そうなんだ」
なに、別にそんなの、聞いてないし。
キサちゃん。佐伯 綺沙ちゃん。入部した時から、部活の輪に入ろうとしない私を何かと気にかけてくれた、優しい子だ。キサちゃんはいつだって優しかった。先輩がわたしのよくない噂を聞いて当たりが強くなっても、部活の懇親会に参加しないことを先生に咎められた時も、キサちゃんだけはわたしに変わらない態度で接してくれた。
それなのに、わたし、わざとこの子の好きな人と関係を持った。
どくどくと心臓がなる。もう話すことなんてないと思っていた。わざとこの子のことを傷つけて、怒った先輩や後輩たちが私のことをあからさまに無視するようになって、居心地の悪い場所で泳ぐくらいならいっそ辞めてしまおうと思ったのだ。
「ナツノ、ちょっと」
スミくんが突然手招いてキサちゃんから距離をとった。花の咲いていない桜の木陰に身を移すと、小声で私に話しかける。キサちゃんはまるでそれを待っていたかのように、じっとこちらをみて、それからわざと視線を外した。
「キサがさ、ナツノと話したいって」
「なにそれ、今更、話すことなんてないよ」
「それは、ふたりのことだからおれにはわかんないけど」
「てか、スミくん、キサちゃんと仲良かったんだ」
「何? 嫉妬?」
「違うよバカ」
「なんだ、可愛いとこあるじゃんって思ったのに」
悪戯な笑顔を浮かべるスミくんはこの状況をちゃんと理解しているんだろうか。というか、キサって呼ぶくらいには仲がいいなんて知らなかった。人当たりのいいスミくんのことだから、同じクラスになったら基本全員と仲良くなるんだろうけれど。
「というか、なんでスミくんがこんなことするの」
「気に障ったならごめん。でも、ナツノと話したいって言ってたから、いい機会かなって思っておれが連れてきたんだよ」
「なにそれ……」
「なんでだろ、おれも、わかんないけどさ。ナツノがまた泳いでくれたらいいなって思うからかな」
「余計に意味わかんないよ」
ていうか、またって何? スミくんと知り合ったのなんて今年の4月でしょ。それに、そんなこと、また泳いでくれたらいいなんて、スミくんが言うことじゃない。
「でも、俺は別に強要しないよ。話を聞きたくないなら俺から断るけど、どうする?」
ほら、ね。まただ、スミくん。そうやって私に答えを委ねる。自分の発言や行動に責任を持てって言われてるみたい。だから、自分で決めること、苦手なんだってば。
「……ずるいね本当」
「なにが?」
「私が断らないってわかってて言ってるでしょ」
「そんなことないって。ナツノって素直じゃないし」
「うるさいバカ」
見透かしたようにスミくんがわらう。何も言っていないのに、スミくんはまるで全部わかっているみたいだ。
◇
「ごめんね突然、今更話したいなんて」
「ううん……」
やだな、居心地が悪い。その原因をつくったのも逃げ出したのも全て自分だと思うと余計に憂鬱だ。あの時わたしが傷つけたのに、どうしてこんな風に話をしたいと言ってくれるんだろう。
今日の担当区域である女子更衣室に2人きり。スミくんは気を遣って他のクラスの手伝いをしてくるから、といなくなってしまった。本当は、いてくれてもよかったのに。
わたしは弱いから、シュンやスミくんのような強い眼差しがないと、自分で何も決めることができないよ。
重い沈黙の中、窓からオレンジ色の光が差し込む。夕方の女子更衣室。キサちゃんは、よくここで休憩していたわたしに話しかけにきてくれた。においも、温度も、思い出す。水泳部にいた頃の記憶。
「わたし、ずっと後悔してた、去年のこと」
沈黙を破ったのはキサちゃんのそんな言葉だった。
その言葉を聞いた途端、ずしん、と身体が重くなったみたいに感じる。まるで鉛を口から押し込まれたみたい。
なんで今更そんな話をするの。後悔? どうして? キサちゃんに悪いところなんてひとつもなかったのに? 全部私が悪いのに?
「後悔、って、何を?」
「わたしのせいで、ナツノちゃんが水泳辞めることになっちゃったこと、ずっと後悔してたの」
わたしのせいで、と言う。どうしてそんなことを言えるのかわからなくて、言葉を発することができなかった。
私よりもずっと背が低くて、小柄で、細くて、誤って触れてしまえばすぐにでも消えてしまいそうな見た目をしている。思い出す、キサちゃんは、出会った時から自分のことより他人のことを考えてしまう、やさしい女の子だった。
そしてわたしは、そんなキサちゃんのことを、ずっと、かわいいな、と思っていた。そのかわいいという感情に余計な名前がつきませんように、と、本当はずっと思っていた。
「……なんでそんなこと言うの? 悪いのは、全部わたしなのに」
「ううん、だって人を好きになるのなんて仕方ないことだよ。私が彼を先に気になってただけで、ナツノちゃんがわたしと同じ人をすきになったって、なんの問題もないのに……私が泣いたから、困らせたよね」
キサちゃんがかつて好きだった人と私が関係を持ったことを、そんなふうに受け止めていることに驚いた。
だって、あんなもの、好きとか、そんな綺麗な感情じゃない。そんな単純な感情じゃない。本音はもっと真っ黒で残酷だ。
キサちゃんが思いを寄せていることを知っていて、わざとその思い人に近づいて、関係を持った。好きでもなんでもない。だって、名前も顔も、もう忘れてしまったくらいだ。それくらいの、本当に《どうでもいい》相手だった。
キサちゃんが彼を好きだと言ったから。キサちゃんがわたしに優しくするから。無意識のように、キサちゃんに嫌われるようなことをした。わたし、女の子には、嫌われていなくてはいけなかった。もう二度とハルカの時のように誰にも言えない想いを抱えて、言葉にできないまま誰かのものになって消えていく姿を追うことなんてしたくない。全部自分勝手で自分本位の最低最悪な感情。
そうだね、わたし、今ならわかる。キサちゃんに少しだけ、惹かれていた。だから、怖かった。だから、嫌われたかった。近づかれるのが怖かった。ハルカの時のように、性的な目で見てしまうのではないかという恐怖。自分への、セーブ。そうするしかなかった。そうすることしかできなかった。
何も言わない私にキサちゃんは困ったようにわらう。懐かしいな、身長の低いキサちゃんが、下から覗き込むように私に笑いかけること。
「わたし、ずっと、ナツノちゃんのこと、なんて綺麗なフォームで泳ぐんだろうって思ってたよ。だから、ナツノちゃんが辞める時、私のせいで、勿体無いなって思った」
「……そんなことないよ、キサちゃんは、タイム飛び抜けて早かったし」
わたしは、タイムとか、フォームとか、どうでもいい。ただ、水の中がすきだった。颯爽と泳いで行くあの金魚や熱帯魚のような、サカナになりたかった。
「ううん、タイムとかじゃないの。わたし、ナツノちゃんが泳ぐ姿が、すごく好きだった、それが言いたかったの」
ぐっと、思わず込み上げてきそうになるものを抑えた。不意打ちだった。
視線をゆっくり下に落とすと、ばちりとキサちゃんと目が合った。今、やっとはじめて、この子の顔をちゃんとみた気がする。
かわいらしい顔立ち。ハルカの端正で綺麗な顔とは違うけれど、女の子らしい丸っこい目と小さな鼻が印象的で、まるで小動物のよう。平均より背の高いわたしは幼い頃、キサちゃんのような小柄な女の子を羨ましく思ったこともある。
キサちゃん。かわいい女の子だ。真っ直ぐで、優しくて、それでいてとてもかわいい、女の子だ。
私はひどく泣きそうになる。キサちゃんが女の子で、かわいいという感情も確かにあって、惹かれるかもしれないという予兆に怖くなって突き離した1年前。でも、今は、彼女のことを、とても対等に見れている。色恋じゃない、真っさらな気持ちで、彼女の瞳を見ることができている。
スミくん。────スミくん、悔しいけれど、こんなの、どうしたって認めたくないけれど、きみの、おかげなのかもしれない。
「もう、水泳なんて興味ないかもしれないけど……よかったら、今度見にきてくれない? 近くの国営プールで、最後の地区大会があるから」
「……うん」
「去年よりわたし、早くなったんだよ」
こんなに小さい身体をして、誰よりもはやく泳いでいくサカナのようなキサちゃんは、いまは水泳部部長も努めている。そんなこと、本当は、気にしないふりをしながら知っていた。
キサちゃんが水泳が大好きなことも、努力家なことも、入部した時からずっと同じ空間で泳いでいたから知っている。
キサちゃん、上手く言葉が返せなくてごめん。ごめんなさい。あの時も、今も、ずっとごめんなさい。
キサちゃんは大丈夫だよ、と笑う。相変わらずやさしいね。
「……あと、ひとつ、恋バナしてもいい?」
「えっ?」
「ナツノちゃんはモテるからいろんな人と付き合ったりしてるけど……」
「モテるとかじゃないけど……」
「わたし、本当はシュンくんのことがすきなのかとおもってた。でも、もしかして違ったりする?」
「え、」
「だって、今の彼氏のスミくん、ナツノちゃんのこと本当にすきなんだなって思ったよ。この前わたしのところまで来てね、去年のこと許してやってほしいって」
なにそれ、なにも、聞いてない。言葉が出ない私に、キサちゃんは続ける。スミくんはわたしが水泳部を辞めた理由も何も知らないはずなのに、どうしてそんなことまでするの。彼の優しさには底がなくてときどきこわい。世界は全部スミくんがまわしているんじゃないかと思うくらい。
「わたしもずっと後悔してたから、こうやってナツノちゃんに話すチャンスができてよかった」
その言葉の眼差しに、わたしは目を背けたらだめだ、と思った。
なんて、やさしくて、真っ直ぐで、強い子なんだろう。わたしはキサちゃんの言葉に小さく「こちらこそ、ありがとう」と呟く。今は、こんなことしか言えなくてごめんなさい。ずっと、シュンとハルカ以外の人と深く関わることを避けてきて、特に同性には嫌われるように生きてきたから、わたし、うまい言葉が何も出てこないし、今後もキサちゃんと仲良くなれるなんてこと、きっとないんだろうけれど。
キサちゃん、あなたが本当に魅力的な人だということ、それだけは、私の中でゆるぎないものだよ。
◇
「シュン」
名前を呼べば、猫背の背中が怠そうにこちらを振り返る。長い髪も丹精な顔立ちも幼い頃から変わらないなあと思う。久しぶりに会うと、尚更実感する。
「……遅い」
「ごめんってばー、バスの時間間違えちゃって」
申し訳なさそうな顔をしてシュンの元へと駆け寄った。私が15分も遅刻をしたのでさすがのシュンでも不機嫌そうな顔をしている。切れ長の綺麗な二重が絵になるなあ、なんて呑気なことを考えたりして。
学校からバスで25分。土曜日、国営プール。
キサちゃんから誘われた水泳地区大会へとシュンを呼び出したのは他でもないわたしだ。
「まあいいけど、はじまる時間ギリギリ」
「キサちゃんが出るの後半だからまだダイジョーブだもん」
「ふうん……」
「なにその、理解できないみたいな目」
「いや別に」
そういうのはタイプの違いじゃん。変な目で見なくてもいいのに、シュンってばいつも冷めた目をしている。まあ確かに、遅れてきたのはわたしが完全に悪いんだけどさ。
さすがの私だって、ちょっとは緊張してたんだよ。だって、あの花火大会の日以来、シュンと話していなかったから。2週間ぶりくらいかな。学校で顔を見ることはあったけれど、私から話しかけない限りシュンからコンタクトを取ることは一切ない。わかっていたから、自分からメッセージを送っておいた。『水泳部の地区大会見に行かない?』と。
来てくれるか心配だったけれど、待ち合わせの国営プール前にシュンの背中を見た時は安堵した。13時15分、日差しがジリジリとアスファルトを照らしていて、もう夏の匂いがしている。
「とりあえず中入ろ、涼しいだろうし」
「うん」
遅れてごめんね、ともう一度謝ると、いつものことだから、と簡素な返事が返ってくる。それでもいつも待ってくれているシュンは昔から優しいね。
.
:
事前に用意しておいた(というか、キサちゃんがわざわざ2枚教室まで届けてくれた)チケットで館内へと足を踏み入れる。ロビーを抜けると温室プールをガラス越しに見ることのできる観客席がある。まだ地区大会なのでそこまで観客は多くないけれど、わたしとシュンはどちらが何を言うでもなくいちばんうしろの右端へと腰を下ろした。こういうところは似ているんだよなあ。
スミくんだったらきっと、よく見えるから前の席にしよう、とケラケラ笑う。想像できてしまうところが少し悔しいな。
「なんか、久々だね、シュンと話すの」
「そう?」
「そーだよ、薄情者」
「確かにここ2週間くらい部室が静かだった」
「人を邪魔者みたいに言うんだから」
「別にそういうわけじゃないけど」
キサちゃん何時から出るの、と聞かれたので、14時くらいかな? と返す。地区大会といえど水泳は個人戦なので、タイム競争とはいえ時間がかかる。いまは高校1年男子の部終わりかけだ。
キサちゃんのことはたまにシュンにも話していたから知っているはず。面識はないだろうけれど。
久しぶりに人が真剣に水泳をしているところを見る。学校のプールより広くて綺麗な水の中をいとも簡単に泳いでいく選手たち。今日の為に毎日泳いできたのかな。ガラス越しに見えるその姿は誰もが綺麗で、やはりサカナのようだと思う。
お昼の陽が差し込む室内プールの水面は、ひどくきらきらと光って揺れている。プールよりもずっと高い位置に設置されている観客席からの景色だから、余計に。
「……わたし、この間シュンが私に言ったこと、考えたよ」
会話を切り出したのは、私の方。シュンは私の方を向かず、真っ直ぐガラス越しに泳いで行くサカナたちを目で追っていた。
本当は、こういうことを自分から言葉にするのはひどく苦手だ。何かを決めたり責任を持ったりすることが苦手。誰かの言葉に頷いたり曖昧にした方がずっと楽だ。
『ずっと、こうなったらいいなと思ってた。ナツノが他の誰かを好きになればいいって』────花火大会の日、シュンが私に向かって言った言葉を思い出す。
「ずっと、私が他の人をすきになればいいと思ってた、って、言ってたよね、シュン」
声が震える。いつも横にいたのに、今日のシュンはもう随分と遠くにいるように感じてしまう。こんなこと、一生言わないでいいと思っていた。
シュンだけは、私と一緒に、ハルカを忘れないで生きていくと思っていた。
「……本当は、気づいてた? わたしが、ハルカのこと、好きだったこと」
ぐっと、拳に力を入れて、言葉にした。シュンの顔を見ることは、できなかった。
返ってこない返事の代わりに、わたしは「恋愛対象として」と、小さく、聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。こういうところ、わたし、とても弱いね。
「うん、なんとなく、気づいてた」
何を言おうか、どう言葉を紡ごうか、考えあぐねていたんだろう。数秒間が空いてから、シュンがそっと、息を吐いた。
その瞬間、どっと、肩の荷が降りたように、重いものがすべて取れたかのような感覚に陥った。ずっと、ずっと、シュンに言えなかった。シュンだけには、今後も言えないと思っていた。
誰よりもいちばん近くにいたのに、いちばん肝心なことを、長い間、きみに言うことができなかった。
「そっか、そっかあ……」
「ナツノが自分から言うなんて、思いもしなかったけど」
結局、シュンには全部お見通しだったのか。
急に視界がクリアになったような気がする。震える手とカラカラの喉を隠すようにしてそっとシュンを見ると、なんでもないみたいにまっすぐ前を向いていた。何も言わない私に、どうした? とでも聞くように。
「へん、だと思う?」
「なにが?」
「わたしが、女の子を好きなこと」
「なにがへんなの?」
至って不思議そうに、シュンが聞き返す。そのことに、私はぐっと、喉元がなる。
ああ、そうか、わかった。
私が、本当は、いちばん気にしていたんだ。自分自身の性対象が同性であること。亡くなった親友であること。大好きな幼馴染────シュンの想い人であること。言葉にすればシンプルなことで、シュンにとってさほど大きなことではなかったのかもしれない。私が思うよりずっと、シュンも、世間も、マイノリティであるわたしたちに、関心があるわけじゃない。
気にしていた。簡単だったのに、おかしなことではなかったのに、ずっと怖くて言いだせなかった。
「ただ、ハルカのこと、過去にできてないのは、俺も同じだったから」
「うん、」
「ナツノが他の誰かをすきになる時が、思い出を過去にするタイミングなのかなって、ずっと思ってた」
毎年、桜まつりの日。絶対に人前で涙流すような人間ではないのに、川に桜を流す時だけは、肩を震わすこと。その、シュンの肩を、5年間一度も抱くことができなかった。わたしたちはいちばん近くにいたようで、本当はずっとお互いに踏み込めなかったんだね。
カルキくさいプールのにおいが鼻をくすぐる。真っ直ぐに水の中を泳いでいく。あの中にわたしもいたかもしれない。もっと早く告げていれば、違う未来もあったかもしれない。
けれど、変えられない。交通事故で亡くなったハルカのことも、わたしたちが過ごしてきた5年間も。
「シュンも、ハルカのことがすきだった、よね」
「どうだろ、異性をすきになったことがないから、よくわかんないけど」
「え? でも、両思い、だったんでしょ?」
「両思い?」
「だって、ハルカと、手を繋いで帰ってるところ……わたし、見たよ」
シュンを見ると、困惑したように黙り込んだ。どういうこと? だってあの日、2人の背中をみてから、わたしはずっと、ふたりは両思いなんだと思っていた。
「ああ、思い出した、始業式の日」
「そう! 中学2年の、始業式の日だよ」
その前に、と。シュンがズボンのポケットからゴソゴソと何かを取り出した。それは色褪せて所々折れている。
「え……何これ」
「手紙」
「見ればわかるけど、誰から」
「ハルカ」
「ちょっと待って、どういうこと?」
「預かってたんだ、中学2年の春。ハルカから、ナツノへって。タイミングが来たら渡そうと思ってた」
何それ、そんなこと、予想もしていなかった。私は震える手でそれを受け取る。寒くないのに指先はひんやりとして冷たい。まるで氷を受け取るみたいな感覚。吐く息が浅くなるのを感じる。ガラス越しとはいえ、泳いで行く水の音やスタート合図の笛の音が聞こえた。
「先に読んだら?」
シュンの言葉に、震える手で、ゆっくりとそれを開いた。
◇
ハルカが亡くなった。それはあまりに突然の出来事だった。
中学2年、春。わたしがシュンとふたりで手を繋いで歩いていた後ろ姿を見た始業式から1ヶ月ほど経った頃。
日曜日の夜、たまたまシュンと一緒にうちで難しくなった数学のテキストを解いていた時のこと。ハルカは家族旅行に行っていて、時々開かれる私の家での勉強会に参加できなかった。お土産楽しみだね、シュン。そんな風に、ハルカが帰ってくるのことを、当たり前のように話していた夕方17時。
ドタバタとお母さんが階段を駆け上がってくる音がして、突然バタリと私の部屋の扉が開かれた。シュンも私も驚いて扉を開けたお母さんを見た。
受話器を片手に、お母さんの手と唇が、尋常じゃないくらいに震えていた。そんな親の姿を、私は生まれてから初めて見た。
『────ハルカが事故に遭ったって、今、電話があって』
辿々しく、気が動転していたんだろう、混乱したように私たちに、『病院に行くからすぐ準備して、』と泣きそうな声で続けた。
今思えば、きっとお母さんはこの時には既に旅行から帰宅途中のハルカ家族を乗せた車が大型トラックと衝突したことも、病院に搬送されたものの全員ほぼ息をしていなかったことも、聞かされていたのだろう。
ほんの少しの可能性にかけて、私たちはハルカが搬送されたという病院へ向かうべく車に乗り込んだけれど、ものの30分足らずで再び助手席に座ったお母さんの携帯が鳴った。車の中で電話をとったお母さんは、『そうですか』と声を震わせて泣いていた。隣で運転していたお父さんも、だ。
────ハルカが亡くなった。
家族と一緒に、全員ほぼ即死だった。お母さんが何と後部座席に乗っているわたしとシュンに説明したのか、今はもう覚えていない。
事の事態を言葉では聞いても、頭では理解できず、私とシュンはまるで御伽話でも聞いているかのように、私の両親が泣いている姿を見ていた。
涙も出なかった。どうして両親がそんなに泣くのかわからなかった。ハルカがいなくなってしまうなんて、現実のこととは思えなかった。
その時、シュンがそっと、私の手を取ったことを覚えている。いつも人に興味がなさそうで、感情に無頓着なシュンの手が、ひどく震えていた。
わたしたちはお互いの震えを止めるように手を取り合って、言葉を発することもせず、車内に響く私の両親の泣き声を聞いていた。その間ずっと、わたしはハルカの綺麗な水の中に泳いでいく姿を思い出していた。
◇
『ナツノへ
突然だけど、手紙を書いています。小学生の頃は、メモ帳によくメッセージを書いて授業中に交換していたりしたよね。懐かしいなあ。中学になってからは、もしかして初めての手紙かな? どうしても伝えたいことがあったので、今こうして筆をとっています。
実は、今年の夏に、パパの転勤で海外に行くことになりました。行き先は、アジアのどこかみたい。詳しくは、私もまだ知らないんだけどね。
いつ日本に帰ってくるか、まだ決まってないんだって。もしかしたら、大人になるまで、戻ってこれないかもしれない。いきなりだから、驚くよね。正直わたしもとてもびっくりしています。
私のことが大好きなナツノだから、直接伝えたら泣いちゃうんじゃないかなあと思って、手紙にしてみました。そんなことを言いつつ、今書いているわたしも、泣きそうです。
思えば、ナツノとシュンと出会ってから、わたしは毎日がとても楽しかった。
ナツノはいつも私のことを頭がいいだとか、友達が多いだとか、すごく褒めてくれるけど、そんなことないんだよ。わたしはただ、親に言われたように勉強して、嫌われないように人に優しくしているだけなの。自分を持っていない自分のことが、時々とても嫌になる。
だから、いつも自分を持っているシュンとナツノのことが、すごく好きで、憧れだったよ。わたし、3人でいるのがすごく楽しくて、いちばん大好きな時間でした。ナツノとシュンに出逢えて、本当に良かった。わたしの人生の、最大のラッキーな気がするよ。
なんて、こんなこと、永遠のお別れみたいで変かな。自分で渡すのはなんだか恥ずかしくて、シュンに託すことにしました。怒らないでね。
SNSもメッセージも、海外からたくさん送るから、ナツノも送ってね。時差でうまく噛み合わないかもしれないけど、時間が合えばたまに電話もして欲しいな。ナツノが好きな甘いお菓子があれば送るからね。(ナツノの大好物なアイスは送れないけど)
最後に、ずっと、ナツノに言えなかったけど、わたし、ナツノのことが、本当に大好きでした。もしかして、勘違いだったらごめんね、でもきっとそうじゃないかなって思うから、思い切って書いています。嫌いにならないでね。
直接聞くのは難しいけど、手紙だと普段話せなかったことも話せるね。
ナツノも、私のことが好きでしたか?
(友情でもあれば、また違うニュアンスで受け取ってくれたら、わたしと同じ気持ちな気がします)
ハルカより』
なに、これ。
どうして、今更、こんな手紙を、どうして。
読み終わった拍子にシュンを見ると、シュンも私の手紙を覗き込んでいた。その目頭が熱く、赤くなっているのを見て、それまで我慢していた何かがぼろぼろと水滴のように溢れ出して頬を滑り落ちていった。
席、いちばん後ろの端っこにしてよかったね、シュン。
封の切られていなかった封筒。そっか、シュンもこの5年間、この手紙を開くこともわたしに渡すこともできず、ずっと大事に抱えていてくれたんだね。
そっと手紙を封筒に閉まって、震える右手で、シュンの左手を握った。
お母さんとお父さんが泣いている時、ハルカのお葬式にでた時、クラスでハルカの死を告げられた時、そのどれもで、私は涙さえ流すことができなかった。
どうしてみんな泣いているんだろう。どうしてそんなことを言うんだろう。どうしてそんなに悲しい顔をするんだろう。どうしてまた会えると願わないのだろう。だって、ハルカがいなくなるなんて、そんなこと、あるわけない。毎日一緒に登校して、休み時間に他愛もない話をして、難しいテストの勉強に頭を悩ませて、部活では水の中を駆け抜けて、放課後には夕暮れの中を並んで歩いた。小学3年生からずっと、シュンと3人でいた。
桜が降る春の日も、泳ぐ金魚を飼いたいと駄々を捏ねた夏祭りも、銀杏のにおいに顔を顰めた秋の朝も、教室のストーブで悴んだ手を温めた冬休みの登校日も、私の記憶には全て、ハルカとシュンがいる。いつだって一緒にいて、時にはうまくいかないことに泣いて、時にはお腹が痛いくらい笑って、時には意見がぶつかって気まずくなったこともあった。けれどそのどの記憶でも、ハルカは優しかった。笑っていた。とても、綺麗だった。そんなハルカを、私はずっと、見ていた。
ハルカ、わたし、あなたにずっと恋をしていました。ずっと、嫌われるのも、一緒にいられなくなるのも怖くて、隠していました。直接言うことがついに出来なかったけれど、私も、あなたのことがすきでした。5年越しのラブレターに、こんな形で返事をすることになってしまって、本当にごめんなさい。
ハルカ、わたし、あなたのことが好きでした。
なんだ、私たち、両思いだったんだね。信じられないよ、こんなこと、ハルカ、────ハルカ。
「始業式の日、ハルカに呼び出されて、先に聞いてたんだ。ハルカが夏に海外に行くこと」
「……うん、」
「その時ハルカ、大泣きして。1人で歩ける状態じゃなかったから、手を引いて帰った。多分、それが手を繋いで帰ったように見えたんだと思う」
「そ、っか、わたしの、勘違いだったんだ、」
「ずっと、ハルカがいなくなったこと、どこかで受け入れられなかった、たぶん、ナツノもそうだと思うけど」
「うん、本当に、そうだね」
「過去にするのが悪いことだって、思い込もうとしてた。けど、忘れることと、過去にすることは違う」
「うん、」
「おれはハルカのこと、忘れないと思う。どれだけ記憶が薄れても、ハルカと過ごした子供の頃が、すごく楽しかったこと、ハルカの存在、それだけはずっと憶えてる」
「うん、わたしも、そうだよ、ハルカの存在を忘れるわけないよ」
「そう、だから、それだけでいいんだよきっと。おれたち、大人になっていい。ナツノは、誰かをすきになったっていい」
記憶は薄れていくのかもしれない。けれど、ハルカの存在を、わたしたちが忘れることは決してない。ハルカを過去にすることが、悪いことだと必死に引き留めていたのは、きっとシュンじゃなくて私の方だ。
シュン、わたしたち、大人になれるかな。
わたし、他の誰かをすきなっても、いいのかな。
ぼろぼろと流れて溢れるそれを止めることができない。苦しい。息を吐くのが苦しい。声にならない声が喉元に詰まって、目も鼻も痛い。嗚咽のようなものを必死で抑える。感情を出すことがこんなに苦しいだなんて知らなかった。今までずっと隠していたから、バケツに溜まった水のように溢れ出てしまった。
きっとわたしたち、この瞬間をずっと待っていたのかもしれない。
ハルカ、あなたのことを、忘れるわけじゃない。置いていくわけじゃない。
わたしたちは、あなたの分まで、大人になる。それは、もう、どうしたって変えられない。
「……誰かを、すきになっていいって……それ、は、スミくんの、こと?」
ボロボロと溢れる涙を必死に拭いながら、辿々しく、途切れ途切れに言葉を紡ぐと、シュンはゆっくりと頷いた。私のように声を上げることはないけれど、シュンの頬にも静かに涙が伝っている。
「うん。……すきなんだろ? あいつのこと」
「すき、なの、かな」
「うん」
「すきに、なっていいのかな」
「いいよ、俺が保証する。もしハルカが怒ったら、俺が宥める」
「なに、それ、シュンのばか」
「性別関係なく、スミに惹かれてるなら、素直にそれでいいと思う」
性別関係なく、か。それもそうだ。
わたしの恋愛対象は女の子で、ハルカのことが好きだったのは勿論、性対象も女の子だった。何度異性に好意を向けられても、何度異性と身体を重ねても、男の子、を好きになることなんてないんだと思っていた。
不思議な感覚、だ。
人生で初めて、異性に対して、ハルカに対して抱いていた感情と似たようなものを感じた。シュンに対して持っている友愛のような何かとはまた違う、言葉にするのを躊躇うような、憧れと、尊敬と、途方もない、興味と。彼の手にもう一度触れてみたい、彼の恋愛対象が自分であればいいと思う、そんな欲求。いつの間にこんな思いが芽生えてしまったのか、それすら定かではないけれど。
「全部、お見通しなんだね、シュンには」
「何年一緒にいると思ってんの」
「……ずるいや、シュンばっかり」
「ていうか、スミにナツノのこと教えたの、おれだしね」
「え? どういう、こと?」
「覚えてる? スミのこと、いい奴だと思うって言った理由」
「え? なんだっけ、」
「言ってなかったよな、そういえば」
「直感とか、なんとか、言ってなかった?」
「まあ、それもあるけど。ナツノ知らないだろうから教えとくけど、スミ、サッカー部と兼任で、写真部部員だよ」
気づかなかった? と。シュンが当たり前みたいな顔をする。うそ、そんなこと、今初めて知った。
今度聞いてみなよ、滅多に部室に来ることなんてないけど、とシュンが続ける。それと同時に、あ、とシュンが呟くので、拍子にガラス越しのプールサイドを見た。
いつの間にか、キサちゃんが泳ぐ時間になっていたみたいだ。
私たちが目線を上げたと同時に飛び込みの笛が鳴って、いちばん右端レーンの一際小さいキサちゃんが、とても綺麗なフォームでプールの中へと飛び込んだ。大きな水飛沫をあげて沈んでいくその背中を、窓から差し込む光の煌めきが、きらきらと照らして波に揺れていく。
滲む視界の中で、いつか見た、ハルカの背中がそれに重なった。
きらきらとひかる水面に、その残像がゆっくりと沈んでいくのを見た。ひどく綺麗で、いとおしくて、狂おしくて、かぎりなく麗しい。どうか、どうか、まだ消えてほしくないと願いながら、思わず延ばしかけたわたしの右手をシュンが抑えた。シュン、きみも、もしかして同じ景色を見ているのかな。
ひらひらと水の中に消えていくサカナのようなそれを、じっと目に焼き付ける。片時も見逃したくない。目頭が熱くて痛い、溢れるもののせいで視界が滲む。消えていく。キサちゃんに重なる残像が、ゆっくりと沈んでいく。けれど忘れない、忘れるわけがない。胸の奥で、瞳の奥で、脳の奥で、わたしはずっと、この景色を抱えていく。約束する。
この煌めきを、わたしはずっと、連れて生きていく。だから、ハルカ、どうか、もうひとりで泣かないでね。傷つかないでね。
大好きだよ、だから、わたしはあなたをここで手放すよ。
◇
「シュン、ナツノ」
突然聞き馴染みのある声に呼び止められて、振り返る。
地区大会が終わった夕方17時。プールを出た瞬間のこと。
「スミ」
まさかのことで、私は驚いて声が出なかったのに、シュンは至って平然とその名前を口にした。
────スミくん。
大会が終わった直後だからか、応援に来ていた観客たちや、悔しい顔をした選手たちが建物前に溢れている。その中から、あの花火大会の日のように、わたしとシュンを見つけ出すなんて、スミくんってすごい。
数年涙を流していなかった分、止めようとしても溢れるそれを流し続けて数時間。目は腫れているし、顔も浮腫んでる。こんな可愛くない状態で会いたくなかった、なんて少し乙女なことを思っている自分に驚いたり。
「……ふたりが面識あるなんて、知らなかった」
「同じ部活だから」
「それ、わたし、全然知らなかったよ」
「ごめんごめん、でも、シュンも言わないし、わざわざいいかなって」
悪気なさそうにケラケラと笑う。そういえば、スミくんの家の玄関には、熱帯魚が飼育された水槽の上に綺麗な風景写真がいくつも飾ってあった。それに、人付き合いが苦手なシュンが、最初から”スミ”と呼んでいたこと、違和感は確かにあった。ヒントはそんなところに落ちていたのに、気づかなかったのはわたしの方だ。
「でも、スミくんなんでわざわざこんなところに……」
「そりゃ、ね」
突然、背中の後ろに隠していた右手をスミくんが私の目の前へと差し出した。手には大きな花束が握られていて、驚いて思わず後退りしてしまった。
いきなり、どうして花束なんか。
「誕生日おめでとう、ナツノ」
一瞬理解できなくて固まってしまう。だって、自分でも忘れていた。私の誕生日なんて、シュンくらいしか知らないのに。
それが今日だなんて、どうしてスミくんが知っているの。
「なんで今日って知って……」
「シュンに聞いた」
思わずシュンを見ると、これまた悪気なさそうに「すごい花束」と呟いている。このふたりがこんな風に繋がっていたなんて予想外だ。滅多に人と関わらないシュンとまで仲良くしているなんて、スミくんは本当に侮れない。彼のことを苦手な人間なんて、この世にいないんじゃないかと思うほど。
差し出された花束はピンクを基調にまとめられていて、こんなの私には似合わないと思う。けれど照れ臭さそうにそれを差し出すスミくんの顔を見ると、なんだか何も言えなくなってしまう。
胸がいっぱいで、どうしようもない。だってわたし、この花束みたいに、抱えきれないほどのやさしさを、きみにもらった。
「え、ナツノ泣いてる?」
「泣いてない」
「うそ、泣いてるじゃん」
「スミくんのせい、だよ」
「うん、スミのせいだと思う」
横から冷静にそう言い放ったシュンの言葉に、焦ったように花束を持った手を引っ込めようとする。そんなスミくんが可笑しくて、思わずわたしは手を伸ばした。頬を流れていくそれは、さっきのものとは違う、暖かい温度をしている。
優しく両手で花束を受け取ると、スミくんは安堵したように笑った。その、優しい笑顔が見たかった。
「……来年も祝ってよね」
「え、それ、告白だと受け取っていいやつ?」
「ち、違う、バカ」
「はは、相変わらず素直じゃない」
頬が熱くなった、きっと泣きながら赤い顔をしている。こんなの、スミくんにもシュンにも見られたくなかったな。
そうだね、わたし、ずっと素直じゃなかった。ごめんね、でも、素直になるには、もう少し時間が欲しいよ。
私が花束から視線を上げると、スミくんとばちりと目が合った。その瞬間、うるさく心臓の音が鳴り出す。綺麗な顔をしている、そしてあまりにもやさしい顔で笑う。どうしてこんな風に、すんなりとわたしの中に入ってこようとするんだろう。
重なった視線に、スミくんがそっと私の肩を引き寄せた。手のひら分の距離を、初めて超えた。
「シュン、ごめん、ナツノのこと借りていい?」
「借りるっていうか、元々おれのものでもないし」
「はは、そっか、それはそうだ」
7月の気温が私たちの熱を上げていく。季節のせいか、気持ちのせいか、そんなことはこの際どうだっていい。今まで触れたどの異性の温度とも違う、スミくんの熱にまた泣きそうになると、震える肩をさりげなくやさしく引き寄せてくれた。
「ナツノ」
シュンが呼ぶ。視線を向けると、いつも無表情なくせに、ひどくやさしい顔で笑っていた。
「────幸せになって」
わたしはそれに、ゆっくりと時間をかけて頷く。「なるよ、だれよりも」とスミくんが笑った声を聞きながら、潤んだシュンの瞳を見ていた。
そのゆれる瞳に、ぼんやりとしたハルカの姿が映る。
何よりも大切で、だれよりも大好きな幼馴染が言った「幸せになって」という言葉を、わたしはきっと一生忘れないだろう。
ひとつの恋が過去になる予感がした。
─────18歳、最初の日だった。