「ごめんね突然、今更話したいなんて」
「ううん……」


やだな、居心地が悪い。その原因をつくったのも逃げ出したのも全て自分だと思うと余計に憂鬱だ。あの時わたしが傷つけたのに、どうしてこんな風に話をしたいと言ってくれるんだろう。

今日の担当区域である女子更衣室に2人きり。スミくんは気を遣って他のクラスの手伝いをしてくるから、といなくなってしまった。本当は、いてくれてもよかったのに。

わたしは弱いから、シュンやスミくんのような強い眼差しがないと、自分で何も決めることができないよ。

重い沈黙の中、窓からオレンジ色の光が差し込む。夕方の女子更衣室。キサちゃんは、よくここで休憩していたわたしに話しかけにきてくれた。においも、温度も、思い出す。水泳部にいた頃の記憶。


「わたし、ずっと後悔してた、去年のこと」


沈黙を破ったのはキサちゃんのそんな言葉だった。
その言葉を聞いた途端、ずしん、と身体が重くなったみたいに感じる。まるで鉛を口から押し込まれたみたい。

なんで今更そんな話をするの。後悔? どうして? キサちゃんに悪いところなんてひとつもなかったのに? 全部私が悪いのに?


「後悔、って、何を?」
「わたしのせいで、ナツノちゃんが水泳辞めることになっちゃったこと、ずっと後悔してたの」


わたしのせいで、と言う。どうしてそんなことを言えるのかわからなくて、言葉を発することができなかった。

私よりもずっと背が低くて、小柄で、細くて、誤って触れてしまえばすぐにでも消えてしまいそうな見た目をしている。思い出す、キサちゃんは、出会った時から自分のことより他人のことを考えてしまう、やさしい女の子だった。

そしてわたしは、そんなキサちゃんのことを、ずっと、かわいいな、と思っていた。そのかわいいという感情に余計な名前がつきませんように、と、本当はずっと思っていた。


「……なんでそんなこと言うの? 悪いのは、全部わたしなのに」
「ううん、だって人を好きになるのなんて仕方ないことだよ。私が彼を先に気になってただけで、ナツノちゃんがわたしと同じ人をすきになったって、なんの問題もないのに……私が泣いたから、困らせたよね」


キサちゃんがかつて好きだった人と私が関係を持ったことを、そんなふうに受け止めていることに驚いた。

だって、あんなもの、好きとか、そんな綺麗な感情じゃない。そんな単純な感情じゃない。本音はもっと真っ黒で残酷だ。

キサちゃんが思いを寄せていることを知っていて、わざとその思い人に近づいて、関係を持った。好きでもなんでもない。だって、名前も顔も、もう忘れてしまったくらいだ。それくらいの、本当に《どうでもいい》相手だった。

キサちゃんが彼を好きだと言ったから。キサちゃんがわたしに優しくするから。無意識のように、キサちゃんに嫌われるようなことをした。わたし、女の子には、嫌われていなくてはいけなかった。もう二度とハルカの時のように誰にも言えない想いを抱えて、言葉にできないまま誰かのものになって消えていく姿を追うことなんてしたくない。全部自分勝手で自分本位の最低最悪な感情。

そうだね、わたし、今ならわかる。キサちゃんに少しだけ、惹かれていた。だから、怖かった。だから、嫌われたかった。近づかれるのが怖かった。ハルカの時のように、性的な目で見てしまうのではないかという恐怖。自分への、セーブ。そうするしかなかった。そうすることしかできなかった。

何も言わない私にキサちゃんは困ったようにわらう。懐かしいな、身長の低いキサちゃんが、下から覗き込むように私に笑いかけること。


「わたし、ずっと、ナツノちゃんのこと、なんて綺麗なフォームで泳ぐんだろうって思ってたよ。だから、ナツノちゃんが辞める時、私のせいで、勿体無いなって思った」
「……そんなことないよ、キサちゃんは、タイム飛び抜けて早かったし」


わたしは、タイムとか、フォームとか、どうでもいい。ただ、水の中がすきだった。颯爽と泳いで行くあの金魚や熱帯魚のような、サカナになりたかった。


「ううん、タイムとかじゃないの。わたし、ナツノちゃんが泳ぐ姿が、すごく好きだった、それが言いたかったの」


ぐっと、思わず込み上げてきそうになるものを抑えた。不意打ちだった。

視線をゆっくり下に落とすと、ばちりとキサちゃんと目が合った。今、やっとはじめて、この子の顔をちゃんとみた気がする。

かわいらしい顔立ち。ハルカの端正で綺麗な顔とは違うけれど、女の子らしい丸っこい目と小さな鼻が印象的で、まるで小動物のよう。平均より背の高いわたしは幼い頃、キサちゃんのような小柄な女の子を羨ましく思ったこともある。

キサちゃん。かわいい女の子だ。真っ直ぐで、優しくて、それでいてとてもかわいい、女の子だ。

私はひどく泣きそうになる。キサちゃんが女の子で、かわいいという感情も確かにあって、惹かれるかもしれないという予兆に怖くなって突き離した1年前。でも、今は、彼女のことを、とても対等に見れている。色恋じゃない、真っさらな気持ちで、彼女の瞳を見ることができている。

スミくん。────スミくん、悔しいけれど、こんなの、どうしたって認めたくないけれど、きみの、おかげなのかもしれない。


「もう、水泳なんて興味ないかもしれないけど……よかったら、今度見にきてくれない? 近くの国営プールで、最後の地区大会があるから」
「……うん」
「去年よりわたし、早くなったんだよ」


こんなに小さい身体をして、誰よりもはやく泳いでいくサカナのようなキサちゃんは、いまは水泳部部長も努めている。そんなこと、本当は、気にしないふりをしながら知っていた。

キサちゃんが水泳が大好きなことも、努力家なことも、入部した時からずっと同じ空間で泳いでいたから知っている。

キサちゃん、上手く言葉が返せなくてごめん。ごめんなさい。あの時も、今も、ずっとごめんなさい。

キサちゃんは大丈夫だよ、と笑う。相変わらずやさしいね。


「……あと、ひとつ、恋バナしてもいい?」
「えっ?」
「ナツノちゃんはモテるからいろんな人と付き合ったりしてるけど……」
「モテるとかじゃないけど……」
「わたし、本当はシュンくんのことがすきなのかとおもってた。でも、もしかして違ったりする?」
「え、」
「だって、今の彼氏のスミくん、ナツノちゃんのこと本当にすきなんだなって思ったよ。この前わたしのところまで来てね、去年のこと許してやってほしいって」


なにそれ、なにも、聞いてない。言葉が出ない私に、キサちゃんは続ける。スミくんはわたしが水泳部を辞めた理由も何も知らないはずなのに、どうしてそんなことまでするの。彼の優しさには底がなくてときどきこわい。世界は全部スミくんがまわしているんじゃないかと思うくらい。


「わたしもずっと後悔してたから、こうやってナツノちゃんに話すチャンスができてよかった」


その言葉の眼差しに、わたしは目を背けたらだめだ、と思った。

なんて、やさしくて、真っ直ぐで、強い子なんだろう。わたしはキサちゃんの言葉に小さく「こちらこそ、ありがとう」と呟く。今は、こんなことしか言えなくてごめんなさい。ずっと、シュンとハルカ以外の人と深く関わることを避けてきて、特に同性には嫌われるように生きてきたから、わたし、うまい言葉が何も出てこないし、今後もキサちゃんと仲良くなれるなんてこと、きっとないんだろうけれど。

キサちゃん、あなたが本当に魅力的な人だということ、それだけは、私の中でゆるぎないものだよ。