きらめきのなかできみは消える



シュン、怒ったかな。

少し前を歩いていたシュンに向かって投げた言葉、人混みの中とはいえ、きっとちゃんと聞こえていた。そして、シュンはそんなわたしに感情を見せることもない。


『うん、今は一緒にいない方がいいかもね』


シュンの顔、見たくない、なんて。子供じみたことを言って、困らせた。そんなわたしに呆れたようにそう言ったシュンの顔は見れなかった。怖かった。何も変わっていない。わたし、本当にずっとあの頃のままだ。

せっかく着た浴衣も、結った髪も、紺色に塗った指先も、なんだか全部捨てちゃいたい。

意味なかったのかな、この、5年間。

わざと怒ったようにシュンに背を向けて、反対方向に歩いてみせる。追いかけてくるのかな、なんて子供じみた考えはシュンには通用しなかった。

バカ、シュン、なんで追いかけてもこないの。本当の本当に、一緒にいない方がいいって、ハルカのこと忘れるべきだって、そんな風に思ってるの?


人混みをかき分けながらわざとゆっくり歩くけれど、そのうち本当にシュンが私を追いかけてこないことを悟って、目の前が真っ暗になる。もう数十分は経っているだろう。

人の声、うるさい。大勢の砂を蹴る音、うるさい。笑い声、カメラのシャッター音、何か食べ物が焼ける音、ぜんぶ、うるさい。聞きたくない。


なんで、みんな、そんな普通に笑っていられるんだろう。



「あれ、ナツノじゃん?」


人混みの雑踏の中。

どこかで聞き覚えのある声に、喉元が鳴った。こんな顔のまま家に帰ったらお母さん心配するだろうな、どうしようかな、なんて思っていた矢先。

顔をあげると、どこかで見たような男の人が立っている。身長はシュンより少し低いくらい、高校生のくせに金髪に近いような髪色、片耳ピアス。


「って、おーい、聞こえてんの?」
「……誰でしたっけ、」
「は? おまえ俺のこと忘れたの? 去年遊んでやったのに」


誰、と本当にわからないから聞いたのに、それは地雷だったみたいだ。わかりやすく顔を歪ませて私を睨みつけている。今、誰にも会いたくなんてないのに。

あれ、この感じ、なんとなく思い出した。

去年1度だけ関係を持った他校の先輩だ。街でいきなり声をかけられてすぐに誘いにのった。あの頃、ちょうど水泳部を辞めたすぐのこと。今よりもっと手当たり次第、誰でもよかった。傷の舐め合いみたいなこと。

でも、別に、今は、私に必要ない。


「……忘れました、先輩も忘れてください」
「は、生意気なこと言うね」
「もう関係ないし、」
「おまえ去年もそーやっていきなり連絡途絶えたよな、思い出したらイラつくわ」
「別に、先輩だってどうでもいいですよね、」
「生意気な口聞くなよ、誰とでも寝る女のくせに」



誰とでも寝る女、か、その通りだな。
来るもの拒まず去るもの追わず、誰でもいい。どうでもいい。私のことを本当に好きな人だっていないし、私が本当に好きになる人だっていない。

適当でいい。上辺でいい。なんでもいいんだよ。シュンと、ハルカと、その思い出があればそれでよかった。


「……確かに、そうですね」


あーあ、バカみたい、何してるんだろう、自分。

そう言って笑うと、先輩は見下して笑いながら「俺がもう一回遊んでやろーか? お前みたいなの、誰も拾ってくれないだろ」と吐き捨てる。うん、その通りだ、わかってるよ。

何も言わないことを肯定と捉えたんだろう、私の腕を先輩が引いた。人混みや騒音は私たちを隠すのに最適だ。すれ違う人たちは誰も不思議に思ってない。


このまま流されたらどうなるんだろう。去年の私なら、まあいっか、なんでもいいや、そんな軽率に、この人について行ったかもしれない。


簡単に触れる。そこに躊躇いなんてものはない。私の腕を掴んだ先輩の手は筋肉質で、自分のものとは力も質感も圧倒的に違うと思い知らされる。自分はちゃんと’女の子’だな、と、どこかで安堵する自分がいる。こんな時に、私っていやに冷静だ。

もし私がこのままこの名前も思い出せない先輩についていって関係を持てば、シュンやハルカはどう思うかな。─────スミくんは、どう思うかな。



「どーする? 俺の家だと時間かかるから駅前のホテル行くか」
「……」
「てかさ、結局おまえ、誰でもいーんだな、本当」


何も言わない私に、沈黙は肯定だと捉えた先輩は少し機嫌を直して私の腕を引いた。笑ってる、誰でもいいのはお互い様でしょ。

力、強いな。ひとつしか年が変わらないとはいえ男性だ、敵うわけない。

腕を引かれながら人混みを縫って歩いて行く。先輩の歩く歩幅が大きくて、必死に合わせるけれど何度も躓きそうになる。浴衣にも下駄にも慣れていない。

先輩はなぜか上機嫌で、何か話しているけれど、私はそれに返事はしない。というか、私の意見とか、きっとどうでもいい。適当に関係を持てる相手がそこに転がっていたから、適当に拾った、先輩にとったらそれぐらいのことなんだろうな。

誰でもいいって、残酷なことなのに、正当化する理由をみんな探してる。


なんか全部、どうでもいいや。


考えること、疲れた。シュンのこと、ハルカのこと、……スミくんのこと。この世に正解とかないし、なんでもいい、なんだっていいんだよ。めんどくさい、全部、どうでもいい、聞きたくない、どうにでもなれ。


あ、やばい、どうでもいいのに、どうして涙、出そうになるんだろう。





「──────ナツノ?」





人混みの中、呼ばれた名前にどくりと心臓が鳴った。だって、聞き馴染みのある声だ。

まさかね、こんなタイミングで、会うわけない。うん、そんなの、出来すぎてるもん。

聞こえた声にふと、顔を上げると、私の予想は裏切られた。


────スミくんが、いる。


今、一番会いたくなかったひと。なんで、どうして、そこにいるの。最悪なタイミングで出会ってしまった。スミくんの顔、一番、見たくなかった。

その瞬間、私は思わず強引に引かれていた先輩の手を振り払った。何も言わずに手を引かれていたから、油断して力を抜いていたんだろう。私の手首を掴んでいた先輩の手が宙に浮く。


思わず込み上げてきそうなっているものをぐっと堪える。スミくんまで数メートル、人混みのせいでまだ私とは確信していないみたい。不思議そうにこちらを見ている。

この距離だったら、シルエットしか、はっきりしないはずなのに。

どうしてわたしを見つけるんだろう。そしてわたしは、どうしてスミくんの声をわかってしまったんだろう。

返事のしない私に、ゆっくりとスミくんが近づいてくるのがわかった。やだな、いやだ、いま、会いたくない。


「なんだ、やっぱナツノだ。やった、会えないかなって思ってた」


人混みの中で距離を詰めて、顔が認識できるくらいの距離でそう笑う。会えないかなって思ってた、だって、バカみたい。

スミくん、私服、シンプルなんだね。

あーあ、スミくんはそうやって、何も知らないでやさしい笑顔を向けてくる。うれしそう。私に会えたのがそんなに嬉しいのかな、バカみたい。会えないかなって、会えるよ、ちいさな街の花火大会、探せばいくらだって見つけられる。

こんなの、運命なんかじゃないし、そんなもの、この世にないし、幸せとか、意味わかんないし。


「おい、何すんだよ、行くぞ」


怒ったような先輩の声は、スミくんには届いていないのかもしれない。再び私の手を取ろうとした名前も知らない先輩を避ける。スミくんに見られたくなかった。

わたし、シュンといる時、スミくんのことを考えていた。そんな自分のことが、信じられなくて、だいきらいで、ゆるせないんだよ。



「めちゃくちゃ浴衣似合ってるわ、まじで会えてよかった、てかなんでひとり? シュンは? って、────ナツノ?」



あ、最悪だ。こんな顔、だれにも、特にスミくんには、見られたくなかったのに。

人混みをかき分けて近づいてきたスミくんが私の顔を覗き込んだ瞬間、驚いて名前を呼んだ。近づいて、やっと私の表情が見えたんだろう。スミくんはびっくりしてるだろうな。そりゃあそうだ。だって、わたし、こんなところ人に見せたことがない。きっと、泣くのを堪えて、ひどい顔をしている。

それに、横には怒っている男の人。スミくんだって状況がうまく掴めてないだろう。

先輩は私が手を振り払ったことでさっきより不機嫌に声を落とす。


「は? 誰これ。てかお前、俺を舐めるのもいい加減にしろよ」
「……っ」


一瞬でも、名前も知らない人に、ついて行こうと思ってしまった自分が情けない。


「え? ナツノ、どういうこと? 誰これ」
「お前こそ誰だよ、ナツノの彼氏?」
「ああ、そうですけど、あなたは?」
「はは、こいつの彼氏とか、カワイソーだねオマエ。こいつ、誘われたら誰でも寝るって有名じゃん。俺も去年相手してやったし」
「やめてよ!」


思わず、声が出た。先輩が再度掴んだ手を、もう一度強く、振り払う。

わかってる、自分がしてきたこと、自分のこと、こんなふうに言われたって仕方ない。

でも、なぜか、スミくんのまえで、こんなこと言って欲しくない。やめてよ。

いつも適当に笑ってやりすごして、愛想を振りまいて、明るくいた。シュンの前でだって泣いたことなんてないのに。


「……すいません、傷つけなくないのでこの辺で」


え、と。私が先輩の手を振り払った直後、スミくんがそう言い放って、一瞬で私の手を取った。そしてそのまま走り出す。


「は? おいっ ふざけんなよ!」


名前も知らない先輩が後ろで何かを叫んでいたけど、スミくんは気にしない様子で私の手を引いて走る。下駄でうまく走れないけれど、さっきとは違う、躓いてもいいからこの人の背中を追いたいと思った。

お祭りの人混みは、まるで私達をかくまってくれるみたいだ。






ずっと、シュンとハルカが私のすべてだった。

人当たりが悪いわけじゃない。人見知りなわけでも、人と上手く話せないわけでもない。でも、どこか上っ面の付き合いしかできなくて、シュンと初めて出会った春からずっと、私が本当に心を開いて大切だと呼べるのは、シュンとハルカだけだった。

2人のことが本当に本当に、大好きでたまらなかった。

だからこそ、中学2年の春。ハルカを失った時、実感が湧かなかった。今でもそう。ハルカがいなくなっただなんて、信じたくない。信じられない。

ハルカのこと、忘れたい。忘れたくない。忘れたい。────あんな思いをするなら、いっそのこと、記憶が消えたらいい、なんて。

自分でもよくわからない感情が渦巻いて、うまく飲み込めない。まるで水の中に閉じ込められてしまったような毎日。大好きなハルカ、大好きなシュン、手を繋いで帰った2人の背中、何もできない自分のこと。

でも、あのまま、あの頃のまま、私たちは、大人にならずに生きていくんだと、複雑な感情を持ったまま、歳を重ねていくんだと、そう思っていた。

でも、もう、なんのためにそうしてるのか、なんのために生きていかなきゃならないのか、なんのために大人になるのか、全部わからなくなっちゃった。

シュンが思い出を《薄れていい》なんて言うのなら、わたしはこれから何を大切に、何を指針に、生きていけばいいのだろう。


「ナツノ、こっち」


数分走って、先輩のことも人混みも見えなくなった頃、スミくんはスピードを落としてゆっくりと歩く。走らせてごめん、と私の方を見ないで呟いたけれど、何も答えられなかった。

何も言わない私に、「送るよ」と言って手を離す。息を整えながら、私たちは人混みから離れた夜道を並んで歩く。


「……なんて顔してんの」


女の子に対してそれはあまりに失礼だと思う。泣いてるわけじゃないのに。泣きそうな顔はしているかもしれないけれど。

仕方ない。ずっと溢れそうなものを堪えているから、眉間に皺がよって、きっとひどい顔をしていると思う。こんな顔、見られたくなんてなかったのに。


「……うるさい、なんでもない」
「うわ、いつもに増して反抗的」
「いつもこんなだし、」
「さすがにもっと明るいよナツノは」
「うるさい、どうでもいい」
「シュンはどうした? 一緒に来てたんだろ」
「……スミくんに関係ない」
「関係なくても、ナツノがこんな顔してるなら気にするだろ」
「しなくていいってば、」
「どれだけ反抗的なんだよ、ほんと強がり」
「スミくんは心配なんてしなくていい、意味わかんない」
「意味わかんないことはないだろ」
「ある、関係ない」
「関係なくても、心配はするよ、彼氏だから」


スミくんの声に、私はぐっと拳を握る。力を入れていないとだめだ。

どうしてすぐに、そうやってやさしくわたしの手を引こうとするの。

彼氏彼女、そんな名前だけの関係、別にないと同じじゃん。ただの口約束で、わたしのことを知ったような素振り、しないでよ。

それに、先輩のことだって、どうして聞かないの。
どうして、シュンと来たと、疑わずに決めつけるんだろう。
どうして私を軽蔑せずに、普通に接しようとするんだろう。


「別に、なんでもない」
「あーもう、わかった、なんでもないならそれでいいけど、一緒にいたシュンはどうしたんだよ」
「……帰ったんじゃない、知らない」
「なに? 喧嘩でもした?」
「……」


沈黙は肯定だ。スミくんも呆れたかな。


「だからって、バカなことすんなよ」
「バカ、って……」
「自分をわざと傷つけるようなこと、するな」


どくりと心臓が鳴る。それが、きっと名前も知らない先輩に一瞬でも着いていこうとした、私の弱さだということは、聞かなくてもわかる。スミくんには、全てお見通しなんだろうか。


「なんで、そんなこと言うの……軽蔑したっていいのに」
「軽蔑?」
「スミくんだって、聞いてたでしょ、誘われたら誰とでも寝るって」


情けないけれど、本当の話だ。どうでもいいから、誘いを断る必要もない。それに、本当はどこかで、自分が女の子であることを、自覚したかった。


「傷ついて欲しくないって、俺、前に言わなかった?」


言ったよ。でも、それが全部、意味不明なんだってば。


「意味わかんない、よ……」
「意味わかんなくていいけど、今後、そんなことするぐらいなら、俺に連絡して」
「……っ」
「もう絶対バカなことすんな」


普段、絶対にそんな強い口調を使わないスミくんが、強い口ぶりでそう言った。私はそれにびっくりして唇を噛む。

いろいろ、だめだ、いろんな感情が混ざって、胸が苦しい。どうしようもない。何を言ったらいいかもわからない。


「……ごめん、言い方キツかった。俺、ハンカチとか持ち歩かないから何もないけど」


それはたぶん、スミくんなりの、泣いていいよ、なのかもしれない。敢えて言葉にしないところ、スミくんがやさしいのなんて、本当は痛いくらいわかってる。

わかってるから、わたし、今はスミくんに、会いたくない。会うべきじゃなかった。


「……本当は、シュンと、来てたの」
「うん、知ってる、そう言ってたし」
「疑わないの?」
「疑う必要ないからな」


だから、どうしてスミくんは、わたしの言葉を無償で信じてくれるんだろう。


「……せっかく浴衣着たのに、」
「うん」
「髪も、セットしたし、爪も塗ったのに」
「うん、似合ってる、シュンの為だと思ったら、ちょっと妬けるけど」
「そういうのいい、」
「ごめんごめん、うん、それで?」
「……シュンのバカ、人の感情無頓着バカ、」
「はは、ナツノって、シュンのことは、ちゃんと感情的になるんだなあ」


別にいつも感情的だってば、わかったように口、聞かないでよ。

何があった、とか、どうしたの、とか。無理に聞かない。スミくんは、そういうひとだ。


「わたし、スミくんが思ってるほどいい子じゃないよ」
「別にそこまで買い被ってないよ」
「彼氏なんて、名前だけだと思ってるし、」
「うん、わかってる」
「シュン以外なんて、どうでもいい、本当にどうでもいいって、そう思ってるよ、」
「うん、知ってる」
「なんで、普通じゃないんだろ、なんでかな、」
「うん、」
「わたしはわたしの大事なものを大事にしているだけなのに、ずっとどこか、ずれていって、シュンまでさ、」
「うん、」
「シュンがいなくなったら、どうやって生きていけばいいの、わたしわかんない、考えたこともない」
「そしたら、俺はナツノの横にいるよ、味方でいる」


────あ、もう、限界だ。

シュンの前でだって泣いたことなんてないのに、一粒頬を濡らすと、それは次から次へと溢れ出してくる。

いやだ、泣きたくない。涙なんて流さなくてもいい。

《どうでもいい》を言い聞かせるように。拙い言葉で発する私の声に、スミくんは「うん」とか「そうだね」とか、そういう言葉で頷く。

涙が止まらない私に何をするでもなく、ただ、手を引いて横にいる。

何を言うでもない。特別なことも、優しい言葉も、お説教も、何もない。

肩は触れていないのに、スミくんがいる右側だけが、いつしか熱を帯びていく。苦しくて、苦しくて、どうしようもない。胸も、目頭も、熱くて止まらない。


シュン、わたし、本当は、忘れるのが怖い。
シュンとハルカ以外の特別な人を作るのが怖い。
大好きな2人の記憶を、思い出にするのが怖い。





何分そうしていたんだろう。

意思とは反対に溢れてくるそれを止めることができず、ただ横にいてくれるスミくんに甘えてその場に止まった。何か言葉を添えることも、震える肩を抱くこともない。

人が集まる川沿いから離れた住宅街。該当も少ない道を、とにかくゆっくり歩く。一歩一歩、踏みしめるように、けれど確実に前には進んでいて。


「……ごめ、ん、」
「うん?」
「ごめん、なさい、関係ないのに、」
「謝る必要ない、何も言わなくていいから」


何に対してのごめん、なのかわからない。ハルカがいなくなった時でさえ泣かなかったのに、どうしてこんな、ただの帰り道で涙が出るのかわからなかった。

ただ、苦しい。息が詰まって、吐くのがつらい。目頭が熱くて、どうしようもない。


「ひゃ、っ」


滲んだ視界のせいか、慣れない下駄のせいか、小石に躓いて派手に転んでしまった。一瞬のことで、目がチカチカする。少し前を歩いていたスミくんは驚いて振り返って、すぐにしゃがんで私の手を取った。


「ちょ、大丈夫か?! 怪我した?」
「だ、大丈夫、、」


大丈夫、と言ったものの。
よく見れば下駄の鼻緒が切れてしまっていた。


「どこが大丈夫なんだよ……」


派手に転んだせいで手のひらと膝は擦りむけていて、足の指は靴擦れで赤くなっている。せっかく大人っぽい白地の浴衣を選んだのに、それが仇となって土まみれになってしまった。最悪だ、今日は本当についてないのかも。


「大丈夫、だから」
「ごめん、足痛めてるの気付かなくて。走らせたし、本当ごめん」
「なんでスミくんが謝るの……」


自分が転んだわけじゃないのに。

同じ目線で、まるで自分が痛みを負ったような顔をして、私の浴衣についた土を払う。ハンカチも絆創膏も持ってないし、本当ごめんな、と言う。

だから、やめてよ。

こんな私に、なんで優しくするの。それに、スミくんが謝る必要なんてどこにもない。これ以上スミくんに優しくされたくない。


「……やめてよ、大丈夫だから、謝らないで」
「うん、でも、ごめん、俺が手引いてればよかった」


そういう問題じゃないよ。なんで自分のせいにするの。


「……もう、1人で帰れる。スミくんは先に帰って」
「こんなに派手に転んでおいて? 下駄も壊れてるのに」
「裸足で帰るもん、もう構わないで」
「なんでそう意地っ張りかな」
「意地っ張りとかじゃない……」


やさしさが怖いんだよ。これ以上スミくんと一緒にいるのが、わたし、こわいんだよ。


「意地張るのはいいけど、怪我してるのに置いていけるわけないだろ。俺の家すぐそこだから、乗って」


スミくんがしゃがんだ状態で背中を向ける。乗って、は、スミくんの背中に、ということだろう。鼻緒が切れてしまった下駄のせいということは、わかるけど。


「いい、大丈夫、」
「なにが大丈夫なんだよ、もーいいから、はやく」
「スミくんにそこまでしてもらう義理ないもん」
「怪我の手当てしたらすぐ帰すよ」
「だから、いい、」
「もーうるさい、早く」
「いいってば、だったら、あの先輩のとこ戻る、」
「だから、バカなこと言うな!」


怒鳴ったスミくんはハッとして、目を逸らしながら「……ごめん、言い方キツかった」と謝った。

初めて聞いた。スミくんのこんな声。

わたしは唇を結んで涙が溢れるのをまた堪える。なんで、自分はこんなに情けないんだろう。何も学んでない。ずっと同じだ。スミくんのやさしさがこわいのは、彼のやさしさに触れて、自分の気持ちが揺れ動いているのがわかってるからなのに。

素直になれなくて、意地っ張りで、自分で自分のことがわからなくて、ごめん。ごめんなさい。スミくん、あなたを、傷つけたいわけじゃないのに。

歩けない私に、乗って、とまた一言だけ言って背中を見せる。

わたしは涙を拭いながら、歩けないから、仕方ないんだもんね、と自分に言い訳を作って、スミくんの背中に身を預けた。




「ちょっと、かわいい浴衣台無しじゃん! 靴擦れも酷いし、痛かったでしょ?」


傷だらけの足と、はだけた浴衣を右手で押さえて声の主の方へ振り返る。いきなり部屋の襖が開いたから驚いた。

あの後、5分ほどスミくんの背中に乗って歩いた。宣言通り、私の家よりスミくんの家の方が圧倒的に近かった。夜道を歩いている間、私たちの間には会話はなくて。

ただ、何故かどくどくと早くなる鼓動がうるさくて、どうにかスミくんには聞こえませんように、と願った。


「あ、ゴメンネ、いきなり入って! 驚くよね!」


スミくんの家は池もある広い庭園と厳かな瓦屋根が特徴的な一軒家だった。お家が大きくて驚いた。家に上がるなり玄関横の襖を開けて、縁側のある畳の部屋に私を下ろした。玄関横にはスミくんが言っていた通り熱帯魚が泳ぐ水槽があって、その上には綺麗な風景写真がいくつも飾られていた。

スミくんに「ちょっと待ってて」と言われた数分後のこと。

突然扉を開けて明るい声を放ったのは、限りなく金髪に近い綺麗なストレートロングを揺らした女の人。タンクトップとショートパンツを身に纏った姿はスタイルがよくて、目のやり場に困ってしまう。


「あ、え、っと、お邪魔してます……」
「ふふ、カワイー、スミと同い年?」
「あ、そうです、勝手に上がってごめんなさい……。東出ナツノと言います、」


こういう時、どうしたらいいんだろう。初めてのことで正解がわからない。そもそも、スミくんの家族構成も、何も知らない。


「ナツノちゃん! カワイー名前! わたしね、スミの姉の(スイ)って言うの。よろしくね、ナツノちゃん」


あれ、わたし、人見知りなんてしないはずなのにな。

普段ほとんど関わることのない年上の綺麗な女の人にどぎまぎしてしまっている。それに、スミくんにお姉さんがいるなんて知らなかった。顔立ちこそ似ていないけれど、お互い綺麗な顔をしている。

スイさんは救急箱のようなものを持って私に近づいてしゃがんだ。目線の高さが同じになると、なんとなく、スミくんに似ているな、と思う。

同じ目線で話をしようとしてくれるところ。あとは、裏表のなさそそうな、まっすぐした眼。


「スイ、さん」
「うん、そうそう、好きなように呼んでね」
「……それは、」


私が救急箱を指さすと、あ、そうそう、と笑う。


「転んじゃったんでしょ? 折角浴衣着たのにヤダよねえ。スミに手当てしてやってって頼まれてね、傷の手当てさせてね? もー痛かったでしょー、ちょっと染みるかもだけどごめんね」


話す隙を与えないスイさんは白い歯を見せて笑いながら、私の浴衣をめくってまずは膝へと消毒液を垂らす。


「痛っ」
「はは、ごめんごめん、すぐ終わるから」


傷の手当て、と言ってスイさんがまた消毒液を含ませたコットンを私の膝へ当てる。その瞬間ピリッと電流が走ったような痛みを感じて、鼻の奥がツンとした。

その瞬間、張り詰めていた糸が切れたように全身に痛みが戻ってきた。なんでだろう、痛みを感じないように気を張っていたのかな。じわじわと痛む足の指先。思ったよりしっかり靴擦れしていたんだと気づく。こけた時に両手も擦りむいてしまったし、最悪だ。


「……ごめんなさい、こんなことさせて」
「え? なーんで謝るの? 怪我してる子を助けるのは当たり前のことでしょ」


そんなこと、ないです。と、口には出して言えなかったけど。

ああ、スミくんのお姉さんだなあと思う。顔立ちこそすごく似ているわけじゃないけれど、こういう、優しさを当たり前にできるひと。

薄いピンクに塗られた長い爪先を見つめる。綺麗な細い指先がわたしに触れて、なんだかこわくなる。わたし、優しさに触れていいのかな。

それに、女の人に、触れられること、久しぶりだ。


「……スミくんは、」


女の人、と意識した途端、変な汗が出る。何か話題が欲しくて、思わず口をついた。声が震えていないか、それだけが少し心配だ。

そうだ、でも、スミくん、どうしたんだろう。


「はは、隠れてんじゃない? 珍しく反省した顔してたけど、ナツノちゃんと喧嘩でもした?」
「喧嘩……じゃないです、」


うん、喧嘩は、していない。

でもわたし、本当に最低だ。仮にもスミくんと付き合っているのに、名前も知らない先輩に着いていこうとして。しかも、その場をスミくんに見られたし。思い返せば、普通に考えてあり得ない。第一、助けてくれたスミくんにあんなこと言うなんてどうかしている。スミくんが声を荒げたのも当たり前だ。

どうしてスミくんは、こんなわたしを気に留めるんだろう。傷ついてほしくないと言うけれど、今年初めて同じクラスになっただけの私を、どうしてそんなに気にするんだろう。


「ナツノちゃんは、スミと付き合ってるの?」
「えっ、と、」


突然聞かれて驚く。スイさんの表情は穏やかだ。まるでそれが当たり前みたいに聞くんだな。

初めは痛かった消毒液も、馴染んで痛みを和らげていく。傷痕を治すものは、痛みを伴うのかもしれない。


「はは、ごめんね変なこと聞いて。怪我してるとはいえ、スミが女の子連れてくるなんて初めてだったからさ」
「え、そう、なんですか……」


じわり。胸の奥になにかが滲む。スイさんの、笑顔が痛い。


「うん、答えにくい質問してごめんね」
「いや、そんな」
「見る感じスミの片思いかな? 我が弟ながら頑張るねえ」
「いや、そういうわけでも、」
「はは、見ればわかるよ、姉だからね」


本当に、綺麗な笑顔をする人だ。顔立ちではなく、笑い方が、スミくんに似ていると思った。

片思い、なんて、そんなかわいいものじゃないと思う。だって、スミくんがわたしを先になる理由がない。

分け隔てなくて、人気者で、容姿も整っていて、頭もいい。物語で言えば、間違いなくヒロインの相手役。そんなスミくんとは、私は正反対の位置にいる。


「ナツノちゃんはスミのことどう思う?」
「どう、か」
「別にワタシが姉だからとか気にしなくていーからね」


スイさんが伏せ目がちに、次は私の手を取る。転んだ時に手をついたせいで、手のひらも傷だらけだ。消毒液を垂らしてコットンを当てると、やはりちくりと痛みがはしる。


「……優しいな、って思います。スミくんは、見返りを求めないし、強引さもなくて、そういうやさしさに私は慣れていないから、時々こわくなる、……気がします」


そうだ、彼の優しさはいつも、当たり前とでもいうようにそこにある。まるで鳥の羽が浮くように、夕焼けに雲が流れていくように、ふわりとしていてかたちがない、けれど確実にわたしの中に流れ込んでくる。

だから、とても、厄介なんです、なんて言えないけれど。


「スミのこと、よくわかってるねえ、ナツノちゃん」
「そんなこと……」
「でも、ナツノちゃんはスミとは一線引いてるんだね、なんとなくわかるよ」
「……お姉さんのスイさんにこんなこと言うのは、変ですよね」
「ええ? 全然そんなことないでしょ。ガールズトークガールズトーク」


ガールズトーク、なんていう響きがくすぐったい。そんなの、ハルカがいなくなってから、誰ともしたことがない。


「こんなこと言うのは、変だと思うんですけど、」
「うん?」
「スミくんは、なんでも持ってる。私とは全然違うんです。スミくんとは、やっぱり、住む世界が違うと思います」
「住む世界かあ……」


スイさんが私の手の甲に大きな絆創膏を貼る。傷の手当てはこれで終わりだ。

スイさんは笑って「浴衣も着付け直してあげるよ」と私を立たせた。凄いな、人の着付けができるなんて。私なんて、お昼から動画を見て一生懸命着たのに。

そういえば、シュンはちゃんと家に帰れたかな。


「実はさ、スミとワタシ、血繋がってないんだ」
「えっ?」
「はは、お互い綺麗な顔してるから繋がってると思うでしょ? でも血縁関係ゼロなの、オモロいよね」


突然言われて驚いてしまう。スイさんはなんでもないみたいに笑って私の浴衣を魔法みたいに着付けていく。

転んだ拍子に土で汚れてしまったけれど、スミくんが払ってくれたおかげで汚れは薄まった。白地に紺色の花柄。お気に入りの浴衣。


「スミね、両親いないんだよ。幼稚園の頃交通事故でさ。その後親戚のうちに引き取られて、そこからずっと一緒だから、別に血が繋がってなくても本当の姉弟みたいなものだけど」
「そう、だったんですか……」


まさかのことに、言葉が出ない。

両親がいないなんて、そんなことさえ知らなかった。スミくんは、きっと人生で一度も傷ついたことがない、私やシュンとは違う人間だと思っていた。

だけど、そんなの、決めつけていたのは私の方だ。


「幼い頃からね、スミってやさしいんだよ。傷を知ってるからこそ、人一倍他人の傷に敏感なの。困ってる人を見ると、手を差し伸べちゃうやつなんだよ」
「それは、わかります……」


何度も何度も、スミくんのやさしさに触れた。強引じゃなく、強要しない、必ず相手の意思を尊重するあたたかいやさしさ。


「ごめんねナツノちゃん、本当はスミに背負われてうちになんて来たくなかったでしょ?」
「それは……」


来たくなかった、というよりは、こういうことに慣れていない、が正しいけれど。


「あいつ無理矢理連れてくるなんてことするわけないんだけど、怪我もしてるし、よっぽど心配だったんだろうね」
「……無理矢理が、優しさな時もある、と思います」
「はは、わかってくれてありがとね」
「むしろ、謝るのは私の方で……スミくん、怒ってるのかも、」
「いや、それはないと思うなー、私に傷の手当てしてやってくれって頼んできた時、相当心配そうな顔してたよ?」
「そんな……」
「それに、自分でやればいーのに、ナツノちゃんが女の子だから気を遣って私に頼んだんだろーね、ああ見えてウブでカワイイとこあるでしょ?」


スイさんがケラケラと笑う。血は繋がっていないとはいえ、笑い方も似てる。姉弟なんだなあ。スミくんの、お姉さんだ。

そういえば、スミくんがどんな恋愛をしてきたとか、どんな子が好きなのかとか、そういうことも、何も知らない。


「何があったかわからないけど、スミがあんなに反省してる顔はじめてみたよ、きっとナツノちゃんのこと本当に大事なんだね。あいつ、優しい奴だからゆるしてやって」


わかってる、スミくんが誰よりやさしいことなんて、わたし、もう痛いくらい知っている。


「ほら、出来た、世界一カワイイね!」


スイさんが慣れた手つきで浴衣の着付けを直してくれて、部屋の隅にあった全身鏡へと向かせられる。自分で着た時より綺麗だ。すごいなあ。

スイさんが笑って「どう?」と私の顔を覗き込んだので、思わずドキリとする。綺麗だな、髪も、まつ毛も、指の先まですべて。

触れられていたけど、何かを感じたわけじゃない。そのことに、少しだけ安堵をする。

女性、に括られる人に触れたのは、本当に久しぶりだ。去年、水泳部を辞めた時以来のこと。

ずっと、どくどくと緊張していた。

女の人に触れられる、それが、すごく苦手だ。もしかしたら、ハルカの時みたいに、────なんて。

そんなわたしをみて、スイさんが不思議そうにしたあと、一呼吸おいて優しく微笑んだ。あれ、もしかして、スイさんには全部バレてしまっているのかもしれない。




「ねえナツノちゃん、違ったらゴメンなんだけど、もしかしてさ────」






スイさんが「じゃあ私、彼氏と花火見る予定だから!」と笑顔で部屋を出ていった後、縁側にて。私は1人暗くなった空を眺めていた。

夜風が気持ちいい。夏が近づくにおいがする。

スイさんに浴衣を直してもらった。わたしが自分で着た時より綺麗で少し悔しい。おまけに髪もなおしてくれて、仕上げに、と少しばかりメイクもしてくれた。いつもとは違うキラキラのアイシャドウに薄ピンクのリップを重ねて、自分じゃないみたいで驚いた。

それから、スイさんに触れられるたび、少しだけどきりとした。

スイさんはきっとこういうことが好きなんだろう。元々すごく整った顔立ちをしているのだろうけど、奇抜な髪色も派手なメイクも全て似合っていた。わたしはある程度、浮かないぐらいの身支度しかできないから、そういうセンスを本当に尊敬する。



「─────ナツノ、ごめん」



ふと、その声に振り返る。スイさんが部屋を出ていった数分後。見たことないくらい気まずそうな顔をしたスミくんが襖から顔を覗かせた。

わたしもなんだか気まずくて、視線を下に落とした。スミくんのこと、ちゃんと見れない。絆創膏だらけの足の指先を見つめたまま、「ううん」と呟く。スミくんにちゃんと聞こえたかな。

なんだか、ぎこちない。スミくんの声を聞いた途端、鼓動が早くなって苦しい。


「……下駄、直したから。家にあった布で、応急措置だけど」


そっと近づいてきて、右手で持っていた下駄を縁側の外へ置く。縁側に座っていた私の横にスミくんが腰を下ろした。

どくり、どくり、変な音が鳴る。やだな、聞こえていませんように。話しにくい、何を話せばいいんだろう、緊張して喉が渇く。

縁側、ふたりきり。広い庭だなあ、誰がお手入れしているんだろう。なんて、わざとどうでもいいことを考えたりして。


「……ありがとう、下駄、直してくれて」
「別にこれくらい、」
「怪我の手当も、ありがとう。スミくんがスイさんに頼んでくれたんでしょ?」
「いや、それはそうだけど……ていうか、ごめん」
「なんでスミくんが謝るの? 悪いのは全部わたしなのに……」


バツの悪そうな顔をする。スミくんが悪いと思っているのは、声を上げたことと、無理矢理家に連れたきたことかな。そんなの全然悪くないのに。

悪くないのに謝るの、スミくんの悪い癖だ。


「あんな風に声をあげるとか、ほんと情けない」
「いや、だって私が、意味わかんないこと言ったから、スミくんが怒るのも無理ないし、私が悪いよ」


『先輩のところへ戻る』なんて、今考えても助けてくれたスミくんに最低のことを言ってしまった。思ってもいないことをすぐに口にして、素直じゃない。これは私の悪い癖。


「いや、そもそもナツノはシュンと喧嘩して落ち込んでただろうし、転んだのも俺がちゃんと手を引いてなかったせい」


風が吹く。窓を全開にしている縁側。ここから実は今日の花火がよく見えるんだと、スイさんがさっきこっそり教えてくれた。

今何時だろう。たぶん、花火が始まるまであと数分。


「スミくんは何も悪くないのに、謝るの、変だよ」
「……いや、本当、かっこ悪いなって思ってさ」
「かっこ悪い?」
「ごめん、情けないけど、ナツノに傷つくようなことするなって、まるでナツノの為みたいに言ったけど、今日は自分の欲求も入っちゃってるなって思って」
「なにそれ、意味わかんない……」


何が、言いたいんだろう。そっとスミくんの方を見ると、恥ずかしそうに左手で顔を押さえていて。

なに、その反応、予想外にも程がある。


「こんなこと言うのも変だけど、」
「うん、?」
「正直、ナツノの手引いてた奴に、めちゃくちゃイラついたし、」
「なっ……」
「それに、今日もし偶然会えなかったら、ナツノの浴衣姿見れたのがシュンとあの意味わかんない奴だけだって思ったら、」



空に光の線が走る。花火が、あがる。



「────さすがに妬ける」



光の速度のが早いそれは、空に綺麗な光の粒を広げたあと、音の速度が追いついて、ドン、と大きく花火の音が響き渡った。ひとつの大きなそれを皮切りに、暗闇の中にきらきらと光の粒が咲いては落ちていく。綺麗で、儚くて、心臓が締め付けられる。


そして、何も答えない私の左手に、そっと、スミくんの右手が触れた。

どくり、どくり、音が聞こえる。花火の音が大きくてよかった。スミくんの方を見ることなんて出来ない。この鼓動の名前を、私はまだ言えない。


「……嫌?」


またそうやって、私に委ねるの、ずるいねスミくん。
何も言わないのは、きっと肯定だと捉えたんだろう。


「ほんと、素直じゃない」


さっきよりも強く、でも決して痛みのない温度で、彼の手がわたしのそれに重なる。先輩から逃げるように手を引いた時とは違う。強引さはないけれど、確実な温度でわたしの中に溶け込んでくる。後戻りは、きっともう、出来やしない。

手を重ねた、それだけだ。抱きしめたわけでも、唇を重ねたわけでも、身体の関係をもったわけでもない。

でもなぜか。

泣きたくなるくらい胸がくるしくて、どうしようもない。どうしようもないくらい───胸の奥が締め付けられて、悔しいくらい、スミくんのことで頭がいっぱいになる。ずるい、どうしようもない、こんなの、止めようがない。

ねえシュン、こんなこと、ゆるされるのかな。
わたしだけ、他の誰かを大切に思うこと、ゆるされるかな。

ハルカの記憶が薄れていくんじゃないかって怖くて、シュン以外、もう誰のことも、《どうでもいい》にカテゴライズしていくことしかしないって、思っていたのに。意思とは反対に、わたし、彼の手のあたたかさを受け入れている。




このひとの手をはなすこと、わたしにはできない。




ドン、何度も大きな音で空にきらめきが降る。スミくんの手のひらが重なる左手が少しだけ震えると、それに『大丈夫、』とでも言うようにスミくんの手の温かさが増した気がした。


「スミくん、わたし、さ、」
「うん?」


優しく、スミくんが聞き返す。花火の音がやまなくても、すぐ隣にいる私たちは会話ができる。息をする呼吸の音が聞こえる。

こんなこと、言わなくていい。言うべきじゃない。誰にも言わなくたっていい。今までみたいに、シュンやハルカのことだけ考えて、それ以外はどうでもいいと匙を投げて、それでいて、自分を守るように、”女の子”という存在とは、距離をとるべきだ。

そう、それでいい、変えなくていい、変わらなくたっていい、─────でも。

スミくん、きみには、もう嘘をついていたくない。



「わたし、恋愛対象が、たぶん、女の子なの」



ドン、さっきよりも大きく、複数の花火が上がる。そろそろクライマックスかもしれない。でも、横にいるスミくんの呼吸の音は聞こえている。私の絞り出したような声は、信じられないくらい震えていた。

さっき、スイさんがわたしに浴衣を着付けた後、ぎこちない私を見て言った言葉を思い出す。

『ねえナツノちゃん、違ったらゴメンなんだけど、もしかしてさ、─────女の人が苦手だったりする?』

苦手、じゃない。むしろ逆だ。

綺麗だと思う。可愛い、と思う。周りにいる同性、すべて、もしかしたら、恋愛対象になり得てしまうかもしれない。

だから、怖くて、わざと、遠ざけた。


「うん、なんとなくわかってたよ」


ぽつり、と。決して私の方は見ないで、スミくんが呟いた。それが意外な答えで、私は思わず「え?」と素っ頓狂な声を出してしまう。


「ナツノのことずっと見てたから、なんとなくわかってた」


さっきよりも手が震える。喉が渇いて、胸の奥が苦しい。そんな私の左手を、スミくんがぎゅっと握り返した。まるで痛みを全部吸い取ってくれるみたい。花火の音はやまない。まるで私たちのことを包んでくれるみたいに光の粒が降る。


「大丈夫だから、それ以上言わなくて。ナツノが傷つかないでいてくれたら、それでいい」


スミくん、きみはどこまでも、私より一枚上手だね。そしてわたしのことを少しだけ、勘違いしているかもしれない。

わたし、恋愛対象はずっと”女の子だけ”だと思っていた。何人と付き合っても、数え切れないくらい身体を重ねても、異性を好きだと思えたことがない。異性と関係を持つのは、自分が女の子であることを忘れない為、それだけだと思っていた。


─────けど、スミくん、わたし、きみにどうしてか、とても惹かれている。


こんな矛盾した話をしたら、スミくん、きみはどう思うかな。そして、シュンや、ハルカは、こんな私のことをどう思うだろう。

ハルカ、わたし、あなたのことを、もしかしたら過去にしないといけないときが、来たのかもしれない。





花火が終わると、バタバタとスイさんが帰ってきた。やけに帰りが早いと思ったら、どうやら花火大会の混雑で不機嫌になった彼氏と喧嘩したらしい。大声で玄関を開けたスイさんの音に驚いて、繋いでいた手は反射的に離された。変な汗、かいてなくてよかった。


「もー本当ゆるせない! アタシだって楽しみにしてたのにさー」
「あーはいはい、うるせー」


バタバタと音を立てて玄関横のこの部屋に入ってきたスイさんに、スミくんが適当に返事をするのもなんだか笑えてしまう。というか、こんな態度をするのが意外で、そういう一面を見れたのも嬉しい。

彼氏と喧嘩かあ。私には程遠い話だな。喧嘩をするほど深い仲になれたことがない。まあ、なろうとも思っていなかったんだけれど。


「てかナツノちゃんどーする? 泊まってく?」
「えっ?!」
「その足じゃ歩けないでしょー? 車出してあげてもいーんだけど、今日うちの親がちょうど親戚のところに出ちゃっててね」
「いやでもご迷惑……」
「大丈夫大丈夫! 今日スミとアタシしかいないし! てか明日日曜日だしいいじゃん」
「いやそーいう問題じゃないだろ」


突然のスイさんの提案に驚いた。まさかそんなことを言われるなんて。あまりの勢いに押されそうになっていると、スミくんが呆れたように間に入ってくれた。


「じゃあどーいう問題なのよ」
「だから……」
「あ、ダイジョーブだよナツノちゃん! スミ、こう見えてもピュアボーイだから! てかアタシが手は出させないからね」
「おまえなあ……」


そんな2人の掛け合いが面白くて思わず笑ってしまう。スミくんは少しだけ頬を赤くしてスイさんに怒るけれど、スイさんはなんでもないみたいにそれを受け流す。仲のいい姉弟だ。血が繋がっていないとはいえ、スミくんがこの家で本当に大切に育てられたことがよくわかる。

私は一人っ子だから羨ましい。スミくんが人に優しいのって、きっとこういうところにルーツがあるんだろう。


「うん、わたし、泊まってもいいですか? お言葉に甘えて」
「え、」


スミくんが本当に驚いたような顔をして固まった。スイさんはそうこなくっちゃ、と嬉しそうに笑った。なんとなく、今日はここにいたい、そんな自分の意思で決めてもいいんじゃないかと思ってしまったんだ。


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『よし宴だ!』とスイさんは私が泊まることを心底喜んだ様子で色々準備してくれた。お酒を飲みながら(スイさんは27歳らしい、わたしたちより10歳も年上だ)、喧嘩した彼氏の愚痴を吐いたりして。とりあえずのこと寝る準備をするのが先だというスミくんの言葉に負けて、スイさんがお泊まりセットを貸してくれた。パジャマもスキンケアもシャンプーも美意識が感じられる女の子のものだった。

お言葉に甘えて順番にお風呂に入った後、縁側のある和室(客室なんだって、広いお家だよね)に3人分の布団を敷いてくれて、スイさんはお酒、わたしたちはジュースを飲みながら夜中まで語り合った。


「……てか、ほんとコイツ自分勝手すぎ」
「はは、でもおもしろいなあスイさん、わたし大好き」


夜中の2時48分。
お酒に潰れたスイさんは泥のように眠ってしまった。わたしたちは寝てしまったスイさんを3枚敷いた布団のいちばん右側に寝かせて布団をかけた。帰ってきてからずっと飲んでいたので相当深い眠りについているみたい。同性とこんなに話せたのは本当に久しぶりのことだ。スイさんの顔をじっとみていると、スミくんはおれたちもそろそろ寝なきゃね、と笑った。

そのまま電気を消して、スミくんが真ん中の布団に潜り込んで、私はいちばん窓際の布団に潜り込む。そういえば、自分の家以外で寝るのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。

暗くなった部屋の中、わたしは布団を頭までかぶった。スミくんも話す気配はないので、ゆっくりと眠りについたのかもしれない。わたしは慣れない部屋というのもあって、すぐには寝ることができなさそうだ。

今まで色んな人と関係を持ったけれど、泊まりにまで発展したことはなかったな。そこまで長い時間を共有したいと思ったことがない。

今日はお母さんに『シュンの家に泊まる』と連絡したけど、大丈夫だったかな。意外とうちはそういうところがゆるかったりするから、問題はないと思うけど。(シュンの誕生日に同じ部屋に泊めるくらいだし)

そういえば、シュンには『ごめんね』とひとことメッセージを送っておいたけど、返事はない。シュンの連絡はいつも遅いので、そこまで気にすることではないんだけれど、もしかしたらまだ怒ってるかもしれない。距離を取ろうって言ったこと、シュン、本気なのかな。


「ナツノ、寝た?」


ふと。もう寝たんじゃないかと思っていたスミくんの布団から声がした。お互い布団に入る前に電気を消したから、顔は見えない。頭まで被っていた布団から少しだけ顔を出す。窓から差し込む月明かりにはまだ目が慣れていない。


「ううん、まだ寝てない」
「そっか」
「……寝ないの?」
「……寝るけど」


けど、は、きっとまだ言いたいことがある時の話し方だ。


「ごめんな、今日」
「え?」
「スイが無理言って」
「いや、楽しかったよ。それに、わたし兄妹とかいないから、いたらこんな感じなのかなって」
「そっか、ならよかった」


スミくんは相変わらず、人の気持ちを上手に汲もうとするね。

静かな空間にはスイさんの寝息だけが響く。花火を見ている時重なっていた手を離してから、ふたりで会話をしていない。スイさんの明るさに助けられたな、と思う。だって、2人きりになったいま、自分が上手に話せているかわからない。


「……スイさん、よく寝てるね」
「酒飲むといつもこうなんだよ、ほんと厄介」
「わたしたちも将来こうなってるかもよ」
「ナツノはなんか酒強そうだよなー」
「なにそれ、どんなイメージ?」
「はは、ごめんごめん」
「それで言えば、スミくんはすーぐ酔っちゃいそうだけど」
「バカにしてる?」
「うん、若干」
「はは、じゃ、20歳になったら答え合わせしよっか」


そんなのまだ、2年も先だよ、バカ。

17歳。誕生日が来たら、18歳。あと2年もある、が正解なのか、もう2年しかない、が正解なのか、どっちだろう。あたりまえのように将来の話をするスミくんは、やっぱりなんでもないみたいに普通にしている。大人になりたくないなんて、子供じみたことをいつまでも思っているのは、きっとわたしだけなのだ。

ハルカがいなくなってから、わたしはどこか、大人になるということが、うまく噛み砕けないでいる。


「あのさ、ナツノ」
「うん?」
「もしかしてだけど、夜、寝れてなかったりする?」


どきりとした。突然そんなことを聞かれると思っていなかったからだ。


「……なんで?」
「よく遅刻してるじゃん。そうじゃなくても、始業ギリギリに来てるし。それに、目のクマ、隠せてない」


目のクマが隠せてないなんて、そんなこと言うの失礼だよ。けれど、図星のわたしは、どうその言葉に返そうか思考をぐるりと巡らせる。

かさりと布団が動く音がした。月明かりに目が慣れる。はっきりは見えないけれど、スミくんの手が、私の布団の方へと伸びていた。わたしはそれに、不思議とまるでそうあるべきようにスミくんの手の方へと自分のそれを近づけた。そうすると、ゆっくりと、スミくんの指先が私の指先に、触れた。

指先だけ。お互い、それを握ることも、引き寄せることもしない。

けれど熱を帯びて心臓の音が早くなる。こんなに静かな夜、スミくんにどうかこの音が聞こえていないようにと願う。

そして観念する。この人には、何も敵わない。


「……たまにね、寝れないことがあって」
「うん」
「スミくん、わたしね、中学生の時幼馴染を亡くしてるの」


息が途切れそうになる。それを、指先から感じるスミくんの熱が留めてくれる。ああ、へんだな。今日は、少しだけ話すぎているかもしれない。

スミくんは何を言うでもない。けれど何も言わない、がわたしにとっては正解で、それ以上も以下も求めていない。スイさんの寝息と、私たち2人の呼吸の音だけが響く。それでいい。


「交通事故だった、あの時は、突然のことで驚いたなあ……」


中学2年、春。突然届いた連絡。ハルカの大好きな桜がまだ咲いていて、私とシュンはそれをいつまでも信じることができなかった。ハルカがこの世からいなくなってしまうなんて、現実のこととは思えなかった。


「……好きだった? その子のこと」


いつも、敢えて大事なことは何も聞かないスミくんが、そう呟く。わたしはその呼吸をやけに冷静に聞いていた。


「うん、わたしの、初恋だった」


そして、ほろりと、そう口からこぼれ落ちた。

あ、わたし、初めてあの気持ちを”恋”だと言葉で形容した。そして、ずっと言えなかったことを、こんなにあっさりと口にできることに自分で驚いた。

どうしてだろう、”だった”なんて、いつの間に過去になったんだろう。いつの間に、過去にしてしまったのだろう。

中指だけが触れていたのに、ゆっくりとスミくんの指が私の指に絡んで、そのままやさしく、手のひらで包み込まれた。ゴツゴツとした、男の子の手。私とは違う。ハルカの綺麗な指先とも、違う。

スミくんがやさしくわたしの手を包むまで、自分の手が震えていること、気づかなかった。


「……小さいな、手」
「スミくんが大きいのかも」


男女、だからね。どれだけ平等を謳っても、わたしたちには身体的性差がある。わたしがどれだけ女の子を魅力的に思っても、男の人に抱かれることが出来る。気持ちと身体は比例しない。


「俺、自分勝手?」
「ううん、ありがとう」


包まれた手を、今度はわたしが握り返す。自分勝手じゃないよ、わたし、花火を見ている時も、今この瞬間も、嫌だなんて思ってない。

だって、スミくん、わたしね、この夜が続けばいいなんて、ハルカがいなくなってから、初めて思った。








私が初めての恋を自覚したのは、中学1年の春のことだ。









『お互い第一希望が通ってよかったねー、ナツノ』


中学1年春。小学生の頃から水泳を習っていたわたしは、迷わず水泳部に入ることを決めていた。それを真似したのが、大親友のハルカ。

わたしたちふたりは、どちらも第一希望の水泳部に入部が決まった。(人数が多いうちの中学は、各部活に均等に人数が配分される様に、第3希望まで申請してから先生たちが適性を見てどこになるか決まるんだ)

ハルカは私と違って友達も多いし、何より勉強も運動も人並み以上にこなす、誰もが認める才色兼備だった。だから別に、わざわざ私と同じ部活を選ばなくたってよかったのにね。

でも、本当は、すごく嬉しかった。


『ハルカは別に水泳部じゃなくてもよかったのに』
『えー、なんでそんなこと言うのよう』
『私は嬉しいけどさ、なんでわざわざ同じにするのかなって』
『そんなの、ナツノと同じがいいからに決まってるでしょー?』


そう言ったハルカの笑顔は信じられないほど眩しかった。まるで太陽の下に咲く向日葵みたい。

いつもわざわざ私とシュンのところへやってくるハルカだけれど、いつか違うところへ行ってしまうんじゃないかって怖かったから。ハルカが私と同じ部活を選んでくれたこと、その理由が私だったこと、全部すごく嬉しくて、一種の誇りだった。



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『ねえ、ふたりは恋ってしたことある?』


中学校に入学してから1ヶ月ぐらい経った時だと思う。部活が決まって、準備期間が過ぎて、そろそろ入部1日目がやってくる時期。

いつものようにシュンとハルカ、3人で帰っていた時。珍しくハルカが『公園寄らない?』と誘いを持ちかけてきたので、私たちはアイスを買って近くの公園に立ち寄った。ハルカとわたしはミルクソーダ味、シュンは見かけによらずストロベリー。かわいいとこあるよね。

下校中の買い食いは本当はだめなんだけど、許してほしい。わたしたち3人、誰かがこうして公園に2人を誘うのは、決まって悩みや相談がある時だけなんだ。


『え、ハルカ、好きな人できたの?』


恋をしたことがあるか、と。ハルカの口からそんな言葉が出るなんて驚いた。今考えればそれもどうかと思うけれど、わたしたち3人のなかで、恋バナ、と呼ばれるものをしたことがなかった。というか、3人ともそういったものに疎かったのだと思う。


『チガウチガウ、わたしじゃなくて!』
『えー?! 絶対ウソ! 彼氏できたとか?! どう思う? シュン!』
『別に、ハルカモテるし、普通なんじゃない』
『確かに、今までそんなことがなかったことのがおかしいかー』
『だから、チガウってばー!』


じゃあなんでそんなことを聞くんだ、ハルカ。
顔を赤らめたハルカは、私たち2人を宥める。


『告白されたの、2つ上の先輩に……』


ええ、とどよめく。2つ上の先輩。しかも名前を聞けば、学内でイケメンだと騒がれている人気の先輩だ。それも、確かサッカー部のキャプテン。

今考えれば中学3年生なんて大したことないのだけれど、中学1年の私たちにとって、それはひどく大人に見えたものだ。

やっぱり、ハルカってモテるんだなあ。

小学生の頃はまだ周りもみんな幼くて、そこまで色恋をしているわけじゃなかったと思うけれど。中学生になった途端、ハルカの人気は更に上がった。

それもそうだ。真っ黒でツヤのあるロングストレート。綺麗に切り揃えられたぱっつんの前髪は、睫毛が長くてくりっとしたハルカの瞳によく似合っている。顔が小さくて手足が長いハルカのスタイルの良さは、みんなが同じセーラー服を着るようになって更に目立つようになった。

今までだってハルカが異性に好意を持たれることなんて何度もあったけれど、こうしてきちんと告白をされたことは少数だったと思う。しかもそれがなんだか大人に見える年上だと思うと、少し寂しさを感じた。だって、ハルカがもし誰かと付き合うなんてことになったら、こうして3人でいる時間も減ってしまうし。

そもそも、付き合う、とか、未知のことだ。少女漫画や、ドラマや、小説の中でしか起こらないんじゃないかと思っていた。誰かが誰かを好きだとか、そういった類の話は噂レベルで回ってくることはあったけれど、どこか上の空で他人事。自分には関係ないと思っていた。


『ハルカはその人のこと好きなの?』
『まさか! そんなわけないよ』
『えー、じゃあどうするの!』
『……シュンと、ナツノは、どう思うかなって』


どう思うって、何が?

公園のベンチに座ってぶらぶらと足を揺らす。学校帰りの小学生たちが走り回っている。鬼ごっこかな。数ヶ月前まで私たちもあの子たちと同じだったと思うと、なんだかやるせない。

人の気持ちに無頓着すぎて、ハルカがどうして私たちにそんな話をするのかわからなかった。それに、その時はまだ、恋愛というものが自分には程遠過ぎて、実感や共感がなかったんだと思う。


『好きじゃないなら、断るべきだと思うけど』
『……シュンはそう思う?』
『うん、そりゃ、そうでしょ』
『ナツノは?』
『わたしもシュンと同じかなー。それに、ハルカに彼氏ができたらちょっと寂しいし。ね、シュン』
『まあ、そうかもね』
『そっか』


うん、そうだね、とハルカが納得する。その表情は柔らかい。少し悩んだ顔をしてても、綺麗だなと思う。

わたしも、好きじゃないのに付き合う選択をするべきじゃないと思う。というか、好きだから付き合う、のだと思っていた。だから、ハルカがどうして迷っているのかわからなくて。

でも、なんとなく、その時思ったことがある。

ハルカは告白された先輩との関係を迷っているんじゃない。その事実をわたしたちに伝えて、反応を知りたかったのかもしれない。─────主に、シュンの。


シュンに断るべきだと言われた時、ハルカは心なしか嬉しそうな顔をしていた気がする。オレンジの夕焼けに照らされたからか、ふたりが会話しているのをその時横でじっと見ていた。私が”恋愛”について考えたのは、この時がほとんど初めてのことだったと思う。

シュンやハルカに好きな人、又は彼氏彼女なんていうものができたら、わたしはどうするんだろう。






『ねえシュン、この間のハルカの話、どう思う?』
『どう思うって、何が?』
『だーかーらー、ハルカに彼氏ができたらどう思うかって話!』


もう、シュンはいつだって人の気持ちに鈍感だ。

放課後、いつものように3人で帰宅した後。シュンはこれから川に写真撮りに行くというので、私はついていくことにした。ハルカは習っているピアノの塾があったから、久しぶりにシュンと2人になったときのこと。

お義父さんにもらったというカメラを首からぶら下げて、空を撮ったり道端の猫を撮ったり。最近のブームなんだって。私のことを撮ってくれてもいいのにね。


『どうって……自然なことじゃない、知らないけど』
『なにそれ、シュンは寂しくないの? もしハルカに彼氏ができても』
『まあ、寂しくはあるかもしれないけど』


あれ、意外にも、そこは素直なんだ。


『わたし、全然実感湧かないや』
『実感って? ていうか、ハルカだって断るって言ってたし、そんなに悩むことでもないだろ』
『そうかな、ハルカモテるし、いつ彼氏ができるかってどきどきしちゃうよー』
『ふうん、変なの。そんなのハルカの勝手なのに』


そりゃ、そうだけどさ。

ちえ、シュンのバカ。そんなふうに言わなくたっていいのに。それに、もしかしたら、ハルカはシュンのことが好きなのかもしれないのに。

これは、私の憶測でしかないけれど。


『……あとで後悔するよ、バカシュン』
『後悔? なにを?』
『ハルカにもしすごーいカッコイイ彼氏ができたら、シュン、後悔するかもよっ!』
『……それはナツノも同じかもよ』


なにそれ。すぐ人のことバカにする。

ハルカが私たち2人の元からいなくなったらどうしよう。もちろん、そもそもいちばん初めは私とシュン2人でいて、小学3年の春ハルカと出会った。だから、もしハルカが誰かを好きになって、その人優先になって、私たちのことは二の次になったとしても、シュンと2人に戻るだけなんだけど。


『でも、やっぱ、寂しいな、わたし』
『なんでそんなにハルカがいなくなると思うんだよ』
『わかんない、でもさ、私とシュンはそういうことに疎いけど、ハルカは直ぐに誰かのものになっちゃいそうだなって思うんだ』


枯れかけの桜の木が風でざわめく。

そっか、わたし、焦ってるのかも。ハルカがひとりで大人になってしまうんじゃないかって。ひとりで先に誰かのものになってしまうんじゃないかって。

この気持ちがなんなのか、まだよくわからないけれど、それが凄く寂しくて、同時にすごく、嫌だ。


『ね、シュン、もしハルカがいなくなっても、わたしとシュンはずっと一緒にいようね』
『いなくなるとか大袈裟』
『そんなことないもん』
『ハルカに彼氏ができたらいなくなると思ってんの』
『そういうわけじゃないけどー』


でも、いなくなると同じことだ。わたしたちが1番じゃなくなる。わたしはハルカとシュンが1番なのに。


『ナツノって依存気質なのかもね』
『ちょっとなにそれ、悪口でしょ!』
『別に』


シュンは逆に淡白すぎる。たぶん一緒にいるのだって誰でもいい。というか別に誰かと一緒にいなくても問題ないタイプ。だからこそ楽でもあるんだけれど。


『もしハルカがおれたちのところからいなくなっても、別に忘れなければ永遠だと思うけど』
『忘れなければ永遠?』


シュンのくせに、珍しくクサいことを言う。

いつも、フラッと私たちの元からいなくなってしまいそうなハルカ。誰にでも人気で、分け隔てなくて、頭が良くて、容姿端麗で、優しくて、華麗で、こんな狭い世界にいていい人間じゃない。きっと誰か素敵な人と恋をして、いつか私たちの前からいなくなってしまう。

そんな想像が容易に出来てしまうほど、私はハルカをずっと雲の上の存在のように思っていたんだ。


『ねえ、シュン、じゃあ、忘れないっていう約束が欲しいよ、わたし』


はあ? と呆れたシュンは、やれやれとうざそうに私をみる。至って真剣に言ってるのにな。


『はいはい、ハルカが本当にいなくなったらね』
『もう、シュン、適当に言ってるでしょ!』
『べつにそんなことないって』
『シュンのバカ、私真剣に悩んでるのに!』


うそつき。でも、わたしは、真剣だもんね。

シュン、きみだけはどうか、私をおいていかないでね。



『じゃあハルカがいなくなったら、桜をハルカだと思うことにすれば』



突然風が吹いた直後。拗ねた私に、シュンがやれやれとそう言った。

桜はトクベツな花だ。私たちが出会った時にはいつもすぐそばにいて、それでいて────ハルカのいちばん好きな花だった。

だから、シュンのその提案があまりにも名案で、私の機嫌なんてすぐに直ってしまう。シュン、きみは昔から、私の扱いがうまかったね。


『シュン、大好き』
『うわ、うざい』
『なんでそんなこと言うの!』
『もーいいから、写真撮らせて』


戯れる私たちを横目に春風が髪をさらっていく。心地いい気温と春のにおい。小鳥の囀りもどこからかやってきた綿毛も地面に落ちた桜の花びらでさえ全てが綺麗に見える。


1年後、本当にハルカがいなくなって、私たちはこの場所で毎年桜を川に流すことになるなんて、この時はまだ予想もしていなかったけれど。