「ちょっと、かわいい浴衣台無しじゃん! 靴擦れも酷いし、痛かったでしょ?」


傷だらけの足と、はだけた浴衣を右手で押さえて声の主の方へ振り返る。いきなり部屋の襖が開いたから驚いた。

あの後、5分ほどスミくんの背中に乗って歩いた。宣言通り、私の家よりスミくんの家の方が圧倒的に近かった。夜道を歩いている間、私たちの間には会話はなくて。

ただ、何故かどくどくと早くなる鼓動がうるさくて、どうにかスミくんには聞こえませんように、と願った。


「あ、ゴメンネ、いきなり入って! 驚くよね!」


スミくんの家は池もある広い庭園と厳かな瓦屋根が特徴的な一軒家だった。お家が大きくて驚いた。家に上がるなり玄関横の襖を開けて、縁側のある畳の部屋に私を下ろした。玄関横にはスミくんが言っていた通り熱帯魚が泳ぐ水槽があって、その上には綺麗な風景写真がいくつも飾られていた。

スミくんに「ちょっと待ってて」と言われた数分後のこと。

突然扉を開けて明るい声を放ったのは、限りなく金髪に近い綺麗なストレートロングを揺らした女の人。タンクトップとショートパンツを身に纏った姿はスタイルがよくて、目のやり場に困ってしまう。


「あ、え、っと、お邪魔してます……」
「ふふ、カワイー、スミと同い年?」
「あ、そうです、勝手に上がってごめんなさい……。東出ナツノと言います、」


こういう時、どうしたらいいんだろう。初めてのことで正解がわからない。そもそも、スミくんの家族構成も、何も知らない。


「ナツノちゃん! カワイー名前! わたしね、スミの姉の(スイ)って言うの。よろしくね、ナツノちゃん」


あれ、わたし、人見知りなんてしないはずなのにな。

普段ほとんど関わることのない年上の綺麗な女の人にどぎまぎしてしまっている。それに、スミくんにお姉さんがいるなんて知らなかった。顔立ちこそ似ていないけれど、お互い綺麗な顔をしている。

スイさんは救急箱のようなものを持って私に近づいてしゃがんだ。目線の高さが同じになると、なんとなく、スミくんに似ているな、と思う。

同じ目線で話をしようとしてくれるところ。あとは、裏表のなさそそうな、まっすぐした眼。


「スイ、さん」
「うん、そうそう、好きなように呼んでね」
「……それは、」


私が救急箱を指さすと、あ、そうそう、と笑う。


「転んじゃったんでしょ? 折角浴衣着たのにヤダよねえ。スミに手当てしてやってって頼まれてね、傷の手当てさせてね? もー痛かったでしょー、ちょっと染みるかもだけどごめんね」


話す隙を与えないスイさんは白い歯を見せて笑いながら、私の浴衣をめくってまずは膝へと消毒液を垂らす。


「痛っ」
「はは、ごめんごめん、すぐ終わるから」


傷の手当て、と言ってスイさんがまた消毒液を含ませたコットンを私の膝へ当てる。その瞬間ピリッと電流が走ったような痛みを感じて、鼻の奥がツンとした。

その瞬間、張り詰めていた糸が切れたように全身に痛みが戻ってきた。なんでだろう、痛みを感じないように気を張っていたのかな。じわじわと痛む足の指先。思ったよりしっかり靴擦れしていたんだと気づく。こけた時に両手も擦りむいてしまったし、最悪だ。


「……ごめんなさい、こんなことさせて」
「え? なーんで謝るの? 怪我してる子を助けるのは当たり前のことでしょ」


そんなこと、ないです。と、口には出して言えなかったけど。

ああ、スミくんのお姉さんだなあと思う。顔立ちこそすごく似ているわけじゃないけれど、こういう、優しさを当たり前にできるひと。

薄いピンクに塗られた長い爪先を見つめる。綺麗な細い指先がわたしに触れて、なんだかこわくなる。わたし、優しさに触れていいのかな。

それに、女の人に、触れられること、久しぶりだ。


「……スミくんは、」


女の人、と意識した途端、変な汗が出る。何か話題が欲しくて、思わず口をついた。声が震えていないか、それだけが少し心配だ。

そうだ、でも、スミくん、どうしたんだろう。


「はは、隠れてんじゃない? 珍しく反省した顔してたけど、ナツノちゃんと喧嘩でもした?」
「喧嘩……じゃないです、」


うん、喧嘩は、していない。

でもわたし、本当に最低だ。仮にもスミくんと付き合っているのに、名前も知らない先輩に着いていこうとして。しかも、その場をスミくんに見られたし。思い返せば、普通に考えてあり得ない。第一、助けてくれたスミくんにあんなこと言うなんてどうかしている。スミくんが声を荒げたのも当たり前だ。

どうしてスミくんは、こんなわたしを気に留めるんだろう。傷ついてほしくないと言うけれど、今年初めて同じクラスになっただけの私を、どうしてそんなに気にするんだろう。


「ナツノちゃんは、スミと付き合ってるの?」
「えっ、と、」


突然聞かれて驚く。スイさんの表情は穏やかだ。まるでそれが当たり前みたいに聞くんだな。

初めは痛かった消毒液も、馴染んで痛みを和らげていく。傷痕を治すものは、痛みを伴うのかもしれない。


「はは、ごめんね変なこと聞いて。怪我してるとはいえ、スミが女の子連れてくるなんて初めてだったからさ」
「え、そう、なんですか……」


じわり。胸の奥になにかが滲む。スイさんの、笑顔が痛い。


「うん、答えにくい質問してごめんね」
「いや、そんな」
「見る感じスミの片思いかな? 我が弟ながら頑張るねえ」
「いや、そういうわけでも、」
「はは、見ればわかるよ、姉だからね」


本当に、綺麗な笑顔をする人だ。顔立ちではなく、笑い方が、スミくんに似ていると思った。

片思い、なんて、そんなかわいいものじゃないと思う。だって、スミくんがわたしを先になる理由がない。

分け隔てなくて、人気者で、容姿も整っていて、頭もいい。物語で言えば、間違いなくヒロインの相手役。そんなスミくんとは、私は正反対の位置にいる。


「ナツノちゃんはスミのことどう思う?」
「どう、か」
「別にワタシが姉だからとか気にしなくていーからね」


スイさんが伏せ目がちに、次は私の手を取る。転んだ時に手をついたせいで、手のひらも傷だらけだ。消毒液を垂らしてコットンを当てると、やはりちくりと痛みがはしる。


「……優しいな、って思います。スミくんは、見返りを求めないし、強引さもなくて、そういうやさしさに私は慣れていないから、時々こわくなる、……気がします」


そうだ、彼の優しさはいつも、当たり前とでもいうようにそこにある。まるで鳥の羽が浮くように、夕焼けに雲が流れていくように、ふわりとしていてかたちがない、けれど確実にわたしの中に流れ込んでくる。

だから、とても、厄介なんです、なんて言えないけれど。


「スミのこと、よくわかってるねえ、ナツノちゃん」
「そんなこと……」
「でも、ナツノちゃんはスミとは一線引いてるんだね、なんとなくわかるよ」
「……お姉さんのスイさんにこんなこと言うのは、変ですよね」
「ええ? 全然そんなことないでしょ。ガールズトークガールズトーク」


ガールズトーク、なんていう響きがくすぐったい。そんなの、ハルカがいなくなってから、誰ともしたことがない。


「こんなこと言うのは、変だと思うんですけど、」
「うん?」
「スミくんは、なんでも持ってる。私とは全然違うんです。スミくんとは、やっぱり、住む世界が違うと思います」
「住む世界かあ……」


スイさんが私の手の甲に大きな絆創膏を貼る。傷の手当てはこれで終わりだ。

スイさんは笑って「浴衣も着付け直してあげるよ」と私を立たせた。凄いな、人の着付けができるなんて。私なんて、お昼から動画を見て一生懸命着たのに。

そういえば、シュンはちゃんと家に帰れたかな。


「実はさ、スミとワタシ、血繋がってないんだ」
「えっ?」
「はは、お互い綺麗な顔してるから繋がってると思うでしょ? でも血縁関係ゼロなの、オモロいよね」


突然言われて驚いてしまう。スイさんはなんでもないみたいに笑って私の浴衣を魔法みたいに着付けていく。

転んだ拍子に土で汚れてしまったけれど、スミくんが払ってくれたおかげで汚れは薄まった。白地に紺色の花柄。お気に入りの浴衣。


「スミね、両親いないんだよ。幼稚園の頃交通事故でさ。その後親戚のうちに引き取られて、そこからずっと一緒だから、別に血が繋がってなくても本当の姉弟みたいなものだけど」
「そう、だったんですか……」


まさかのことに、言葉が出ない。

両親がいないなんて、そんなことさえ知らなかった。スミくんは、きっと人生で一度も傷ついたことがない、私やシュンとは違う人間だと思っていた。

だけど、そんなの、決めつけていたのは私の方だ。


「幼い頃からね、スミってやさしいんだよ。傷を知ってるからこそ、人一倍他人の傷に敏感なの。困ってる人を見ると、手を差し伸べちゃうやつなんだよ」
「それは、わかります……」


何度も何度も、スミくんのやさしさに触れた。強引じゃなく、強要しない、必ず相手の意思を尊重するあたたかいやさしさ。


「ごめんねナツノちゃん、本当はスミに背負われてうちになんて来たくなかったでしょ?」
「それは……」


来たくなかった、というよりは、こういうことに慣れていない、が正しいけれど。


「あいつ無理矢理連れてくるなんてことするわけないんだけど、怪我もしてるし、よっぽど心配だったんだろうね」
「……無理矢理が、優しさな時もある、と思います」
「はは、わかってくれてありがとね」
「むしろ、謝るのは私の方で……スミくん、怒ってるのかも、」
「いや、それはないと思うなー、私に傷の手当てしてやってくれって頼んできた時、相当心配そうな顔してたよ?」
「そんな……」
「それに、自分でやればいーのに、ナツノちゃんが女の子だから気を遣って私に頼んだんだろーね、ああ見えてウブでカワイイとこあるでしょ?」


スイさんがケラケラと笑う。血は繋がっていないとはいえ、笑い方も似てる。姉弟なんだなあ。スミくんの、お姉さんだ。

そういえば、スミくんがどんな恋愛をしてきたとか、どんな子が好きなのかとか、そういうことも、何も知らない。


「何があったかわからないけど、スミがあんなに反省してる顔はじめてみたよ、きっとナツノちゃんのこと本当に大事なんだね。あいつ、優しい奴だからゆるしてやって」


わかってる、スミくんが誰よりやさしいことなんて、わたし、もう痛いくらい知っている。


「ほら、出来た、世界一カワイイね!」


スイさんが慣れた手つきで浴衣の着付けを直してくれて、部屋の隅にあった全身鏡へと向かせられる。自分で着た時より綺麗だ。すごいなあ。

スイさんが笑って「どう?」と私の顔を覗き込んだので、思わずドキリとする。綺麗だな、髪も、まつ毛も、指の先まですべて。

触れられていたけど、何かを感じたわけじゃない。そのことに、少しだけ安堵をする。

女性、に括られる人に触れたのは、本当に久しぶりだ。去年、水泳部を辞めた時以来のこと。

ずっと、どくどくと緊張していた。

女の人に触れられる、それが、すごく苦手だ。もしかしたら、ハルカの時みたいに、────なんて。

そんなわたしをみて、スイさんが不思議そうにしたあと、一呼吸おいて優しく微笑んだ。あれ、もしかして、スイさんには全部バレてしまっているのかもしれない。




「ねえナツノちゃん、違ったらゴメンなんだけど、もしかしてさ────」