プール掃除3週目。

1週間前、スミくんと夕日を見ながらアイスを食べたことを思い出して、そういえばあのとき来週はサボらないって約束したんだった、と内心何故かどきどきしていたのだけれど。

今日は生憎の雨が降って中止になった。先週で殆ど掃除は終えているのであとは最終調整だけだと言っていたけれどその通りになるとは。窓の外でしとしとと降る雨を見ながら、今日はシュンも早く帰るだろうし、私も授業が終わったらすぐに帰ろうと思っていた。

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「すごい雨だなー」


呑気なスミくんの声に少々いらつきを覚えたりして。

放課後、生物化学室。広い実験台の上にノートと参考書(というか、物理の課題だ)を広げているのに、全然わからない。困る、こんな調子で受験なんて大丈夫かな。

本当はシュンを探しに第3校舎3階までやってきたというのに、シュンってば薄情で、どうやら先に帰ってしまったらしい。渋々ひとりで帰ろうかと踵を返した瞬間、なぜかばったりスミくんと出くわしてしまったのだ。

どうやらスミくんは、部活が休みの日、よくここで勉強しているみたい。生物化学室は写真部部室のすぐ隣なので、今まで気づかなかったことに驚きだ。

この間『一緒に勉強する?』と言っていたのは冗談ではなかったみたい。私を見るなり、『お、ちょうどよかった』なんて言って笑うものだから、仕方なく今日の課題を広げているというわけだ。

スミくんとは時々お昼を一緒に食べているので、別に1週間ぶりの会話というわけでもないんだけれど、なんだか緊張するのはなぜだろう。


「というか、なんでこんなところで勉強してるの? 意味わからない」
「そ? ひとりのほうがはかどったりするじゃん」


まあそれは、そうなのかもしれないけれど。この間だってクラスメイトに誘われていたんだし、わざわざこんなところにひとりでやってこなくてもいいのに。


「こんな辺鄙なところでしなくたっていいのに」


一応進学校のうちの高校は、こんな奥の隠れた教室にこなくたって、図書室やら自習室やら相当充実しているはず。スミくんって普段人に囲まれているくせに、実はひとりがすきだったりするのかな。この間も、夕焼けの海を見せてくれたけれど、誰かをここに連れてきたのは初めてだと言っていた。


「辺鄙って、言い方悪いなー」
「ほんとのことじゃん、この3階にだって、中々来る人いないよー、わたしとシュンくらい」


殆ど使われていない第3校舎3階は、幽霊部活(つまるところ、殆ど活動していない写真部のような部活)の部室ばかり。プールの辺りと同じ、殆ど人はいない。


「なんか落ち着くんだよね、ここ」
「えー、私はなんか気味悪いや」


一見普通の理科室のようだけれど、窓際には水槽がずらっと並んでいる。生物担当教師の趣味だろうけれど、私はこういった生き物はちょっと苦手だ。小さな水槽で泳いでいる名前も知らないサカナを見ると、窮屈そうだな、と思ってしまう。


「そう? 俺結構すきなんだよね、熱帯魚」
「熱帯魚なんだ、それも知らなかった」
「そう、これがコンゴテトラでこれがナミクマノミ、こっちはベタ」


あれ、すごく目がきらきらしている。

スミくんはうれしそうに話しながら立ち上がって水槽に近づいていく。仕方がないから私もそれについて行って、水槽の一番近くの椅子に腰掛けた。ふたりでじっと水槽を覗き込む。窓の外では、雨がまだしとしとと降り続いている。

スミくんから出るサカナの名前、ひとつも知らないや。

この水槽で泳いでいるサカナたちは、綺麗な色をしている。赤だったり、黄色だったり、青と緑が混ざった色だったり。


「サカナってさ、泳ぐと水の中に曲線ができるじゃん」
「曲線?」
「そう、一瞬、水の中を泳いでる波動みたなもの」
「ああ、なんとなく、わかるかも」
「サカナが泳いでるところって永遠に見てられるんだよなー」
「ふうん……」


それは、私が水泳をしているときも少しだけ感じていた。ゴーグル越しに見える水中の波動。ふつふつと小さな泡は光にあたるときらきらと光って上へ昇っていく。水の中は確かにとても綺麗だ。


「……確かに綺麗」
「だろ?」
「スミくんが熱帯魚がすきなんて初めて知った」
「家でも飼ってるよ、飼育が簡単なやつだけど」
「ふうん」
「全然興味ないなーナツノ」
「そんなことないけど、なんか意外だなって」
「そうか? なんならサカナになりたいなーとか思うことあるよ」
「……わたしも、小さい頃飼ってた金魚を見て、サカナになりたいって神さまにお願いしたことあるよ」
「へえ、さすが元水泳部」


わたしの言葉に、予想以上に嬉しそうに笑う。わたし、何言ってるんだろう。こんなこと、スミくんに話すことじゃないのに、へんなの。

でも、何故か、目の前で泳いでいる熱帯魚たちが、あまりにきれいで目が離せなくて。

思い出す、水の中を泳いでいたときの記憶。1年前までずっと、わたしもこのサカナのように、狭くて小さいプールの中を好き勝手泳いでいた。大会とか、タイムとか、そんなことは置いておいて、単純にとても泳ぐことが好きだった。

水の中ってね、きらきらしているんだよ。
いろんな葛藤とか、悩みとか、そういうものなんて、どれだけちっぽけな物なんだろうと思わせてくれるの。水の中では嫌な音なんて聞こえないんだよ。


「わたしね、泳ぐことはだいすきだった、水の中も。だから本当は、水泳だって、やめようなんて思ってなかった」


あれ、なんで、こんなこと溢してしまうんだろう。

スミくんは何も言わずに水槽を眺めている。本当に熱帯魚が好きなんだなあ。

高校2年、夏。

水泳部員は多くはないけれど10名程度はいて、その半数が女の子だった。先輩がひとり、同い年がふたり、後輩がふたり。入部したときから、チームプレーでもないし、特別仲良くすることなんてなかったけれど、同い年の女の子はそれなりに私に対して仲間に入れようと優しさを見せてくれていて。うん、そうだ、あの子はとてもやさしくて、とても、魅力的だった。

どこか既視感があった。きっと多分、ハルカに似ていたんだ。

私が水泳部を辞めた理由は、人間関係がうまくいかなかったから。元々若干浮いていた私だけど、周りとの波長が合わなくなった決定打は、同い年の女の子の思い人と、私が関係をもったこと。

知らなかった、と言いたいところだけど、本当は知っていた。わたしはわざと、あの子が好きな人と関係を持った。───嫌われるべき、だからだ。わたしは女の子に、好かれるべきじゃない。

近づけば失う、そして傷つける、同時に私も息が出来ないくらいの痛みを負う。

だから、わざと、嫌われた。


「……なあナツノ、プールってなんで塩素入れるか知ってる?」
「え? 突然」


スミくんの声で我にかえる。去年の夏のこと、あまり思い出したくない。でもスミくんは、なんだか全てお見通しだとでも言うように、あまりに普通に話しかけてくる。


「うん、突然」
「知らないよ、化学苦手だし」
「おれも苦手だよそれは」
「……化学に興味ないけど、水の管理のためじゃないの」
「うん、そんなところ、感染症の予防とか、微生物の繁殖抑制とか、水質管理だね」
「急に知識ひけらかしてくる! 賢いからって!」
「別にそんなつもりじゃないよ」


じゃあ、突然どうしてそんな話をするの。


「塩素って身体に悪いイメージあるけど、実際にはそうやって、おれらのこと守ってくれてたりするんだよね」
「守ってる、か、確かにそうなのかな」
「うん、それがないとダメなんだよ。おれはあんまりあの匂い、得意じゃないけど」
「プールの塩素のにおいは、嫌いじゃないけど。でも、多すぎてもダメなんでしょ。それくらいは知ってる」
「うん、そのとおり。適切な量が決められてるんだよ。おれたちを守ってくれているものでもあるけれど、配分を間違えたら死に至ることもある。薬と同じ」
「ふーん……」


何が言いたいんだろう。

横を見ても、何食わぬ顔でまだ水槽の中を眺めている。相変わらず、私たち以外に人の気配はないし、雨はやまない。

でも、なんとなく、確かにな、とも思う。

適切な量を、私たちは見誤ってはいけない。それはきっと、世の中のあらゆるものがそうだ。水も塩も適切な量がないと人は生きていけないけれど、限度を超えれば息を止めることができてしまう。人間関係だってそうだ。

適度な距離感。適切な関係。あらゆるものは、毒になり得る。なくては生きていけないのに、抱えすぎると苦しくてどうしようもない。誰かに向ける深い感情も、それに似ている。抱えすぎて、ときどき、消えたくなってしまうこともある。そんな衝動を、誰かが理解してくれるなんて、思ってもいないけれど。


「私ってさ、やっぱりクラスで浮いてるよね」
「クラスっていうか、学校全体?」


ケラケラ笑う。冗談のように言うけど、実際その通りだ。


「そんなに笑わなくてもいいじゃん」
「でも、わざとやってるんでしょ、ナツノって本当は人当たりいいし、嫌われるようなタイプじゃないし」
「別に、そんなことないよ、わたしはいつも適当に愛想振りまいてるだけだよ」
「でもどこか寄せ付けないって雰囲気、もろに出てる」
「わかりきってるのに、なんで私にかまうの?」
「別に、おれがナツノに興味があるから、それだけ」
「好きじゃないのに告白してきたり」
「付き合う、という過程を踏まないと、仲良くしてくれなかっただろ」
「意味わかんないや、やっぱり、スミくんのこと」
「俺自身もわかんないから、そりゃそうだと思う」
「私に近づくのなんて、見た目が刺さったバカか、身体目的のゴミか、何も考えてないアホのどれかだよ」
「ひっどい言いようだなー」
「でも、本当に、そうだから」
「過小評価すんだね、自分のこと」
「だとしたらスミくんはきっと、わたしのことを過大評価してるよ」


面白い奴だとおもって近づいているなら、大馬鹿野郎だ。何も持っていない。何も特別なんかじゃない。私は何者でもないよ。


「雨、やまないね」
「結構好都合だけどね、俺的に」
「……またそう言う変なこと言う」
「ね、来週の花火大会行かない?」
「行かない」
「まだ断られるか、けっこー仲良くなったと思ったのに」
「そんなのスミくんが決めることじゃない」
「俺は仲良くなったと思ってたんだけど」
「……なんでそんなにわたしにかまうの」
「おれがかまいたいから、それだけだよ」
「本当に意味わからない……」


窓の外の雨が、まだやまない。スミくんはわたしが困った様子にけらけらと笑っていた。