きらめきのなかできみは消える




どんなに眠くても、学生の朝は必ずやってきてしまう。

スマホのアラームで目を覚ます。シュンより早く布団を出て洗面で身支度を整えた。男子は起きてから家を出るまでの時間、いったい平均どれくらいかかるのだろう。女子は最低でも1時間はいるんじゃない? わたしだけかな。

わたしが髪の毛を整えて制服を着たところでやっとシュンが起きてきた。昨日は長々と話していた気がするけれど、ふたりともいつの間にか寝てしまっていたのだ。


「おはよ、シュン」
「あー、おはよ、」


低血圧だな。不機嫌そうだ。


「男子はいいね、時間かからなくて」
「嫌味?」
「違うけどー」
「別にそのままでいいのに」
「うわ、そーいうの、他の女の子の前で言っちゃダメだよ」
「そういうもの?」
「バカだなあ、シュンは」
「女の子は見た目を気にしすぎなんだよ」
「女の子が気にしすぎなのか、男の子が気にしすぎなのか、どっちなんだろうね」
「なんだそれ」
「シュンにはわからない話」


なんて、嫌味を言うのはやめだ、やめ。

お気に入りの栗色ロングヘア。寝癖を綺麗にストレートにして、さらにそこからポニーテールにくくる。前髪は空気を入れてワンカール。ビューラーとリップで軽く顔を整える。スクールメイクは基本最低限。

スカートは短い方がいい。シャツのボタンはひとつ開けが丁度いい。靴下は長すぎず短すぎない絶妙なラインがある。スクールバックにつける大きなキーホルダーはご愛嬌。

決まりがあるの、女の子って、ルールがあるんだよ。知らないでしょう、知ることもないでしょう。


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お父さんが用意してくれた朝ごはんを急いで食べて、2人で「行ってきますー」と玄関を出た。誰かと朝一緒に家を出るなんて変な感覚だ。

シュンの家は、わたしの家と学校の間にあるので、途中で寄ってカッターシャツを取り替えた。

シュンは団地のアパートでお母さんと二人暮らしをしている。深く聞いたことはないけれど、少し、苦労をしている家系なんだと思う。シュンがいつも使っているカメラはお父さんがくれたものらしいけれど、そのお父さんといまだに面識があるのかどうかさえ聞くことができない。長年ずっと一緒にいる幼馴染とはいえ、踏み込めていないことだってる。お互いに、だけれど。


「シュン、明日は何するの?」


明日は土曜日だ。


「さあ、なんだろうね」
「図書館いこーよー、3年になってからの物理訳わかんないの」
「物理はナツノの方が得意じゃなかった?」
「いや、全般シュンには負けるよ」
「ていうか、受験で使うの? 物理」
「んー、まだ決めてないけど……」
「そろそろ考えなよ、志望校」
「大学行かなきゃダメかな?」
「親が悲しむよ」
「まあ、そーだよねー」


高校3年生。受験生。私たちは、もう自分の将来について考えなくちゃいけない年齢になってしまった。

学校の門を抜けて、もうすぐ下駄箱に着くところで、ピコンとスマホにメッセージが届く。
『今日もお昼一緒に食べよ』
簡素なメッセージ、スミくんからだ。

普通の恋人と呼ばれるひとたちがどれくらいの頻度で連絡をとるのかわからないけれど、私は結構淡白な方だと思う。というか、きっとそう。普段密なやりとりはしていない。何か用事があれば相手から連絡が来る。その程度。頻度はこれくらいがちょうどいい。


「じゃ、昨日はありがとね、ナツノ」
「うん、明日図書館行くの考えといてねー!」


下駄箱に着くと、違うクラスのシュンとは手を振って別れる。毎朝ではないけれど、朝の投稿をするときはお決まりだ。



「ナツノ、行こ」
「あ、うん」


昼休みのチャイムが鳴ると同時に、1番前の席のスミくんが、1番後ろの私の席までやってきた。同じクラスというだけでなんだかソワソワするのに、みんなの前でこういうの、恥ずかしくないのかな。

男子は何かと囃し立てるけれど、女子の反応は目も当てられないものだ。スミくんは顔もスタイルもいい、おまけに愛嬌のある性格で誰からも好かれるタイプ。そんな彼のことを考えれば、私なんかと付き合っているなんて、やっぱり釣り合わない。

スミくんの連れ出し方は、強引じゃない。行こう、と言葉にするけれど、無理に手は引かない。付き合ったときも、付き合おう、と強引には言わなかった。必ず相手の了承を得て、双方の理解があって物事を進めたがる。そういえば、付き合って数週間経つけれど、スミくんに触れたことも、触れられたこともないな、と思った。

「東出さん、また彼氏変わったんだ」
「え、知らなかったの? スミくんだよ、サッカー部の」
「えー、タイプだったのにショック」
「スミくんっていい人だと思ってたのに、女の趣味悪いね」

屋上階段に向かうために肩を並べて廊下を歩いていると、そこら中からヒソヒソと小声が聞こえてくる。聞こえないように話しているのか、それともわざと聞こえるようにしているのか、一体どっちなんだろう。

聞こえてないフリ。気づいてないフリ。私はできるけれど、スミくんはどう思っているんだろう。どうして聞こえているのに、私に何も言わないのだろう。

「ねえ、今日の朝、男と一緒に家から出てきたらしいよ」

え、と。思わず声に出そうになった。でも反応したら負けだということは十に承知だ。

けれど流石にそれは語弊がある。誰かに今朝のことを見られていたんだろうか。うちは学校からそう遠くないから、あり得ない話ではない。大通り沿いだし。

でも、なんの情報もなくその言葉を述べたら、「私が男を泊めた」という簡素な事実だけ広まってしまう。さすがの私も、誰か特定の相手(それは、世間で彼氏と呼ばれる類いのもの)がいる時に、違う誰かと関係を持ったりはしない。人のことは傷つけたくない。こんな私でもそんな良識はきちんともっている。

どうしてだろう。

シュンや両親の前では男女が通じないのに、世間に出るとすべてを男女のカテゴリーで考えられてしまう。そうじゃないのに。でも、そうなることだって、わかっていたし、予想もついていたはず。わかりきっていたのに、浅はかだったのは私の方だ。

スミくんにだって聞こえているはずなのに、何も言わずに、スタスタと歩いていくだけだった。


:
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「ん、いい天気」


今日も立ち入り禁止の屋上へと足を踏み入れて、グッと腕を空へと伸ばす。それを見ながら私は日陰に腰掛けてお弁当を広げる。今日はお母さんが作ってくれた。もちろんシュンの分も。今頃色違いのお弁当箱を広げていることだろう。


「今日は焼きそばパンなの?」
「うん、たまごサンドがなくてさ」
「へえ」


へえ、そうなんだ、どうでもいいけど。なんて続いてしまいそうな相槌に自分で反省する、今のはよくなかったな、と。
スミくんを見ると、さして気にしていない様子で焼きそばパンの封を切っていた。今日も今日とて、彼は整った顔立ちをしている。


「今日の午後、数学と物理だっけ」
「うん、最悪だよね」
「ナツノも理数が苦手?」
「んーそうだな、でも意外と現代文とか古典よりは好きかも。でも物理は苦手」
「あーわかる、俺は化学も無理だけど」


あれ、公式とか化学式とか覚えて将来どーなるんだろうね、とケラケラ笑うスミくんの顔をじっと見る。


「焼きそばパン、美味しい?」
「うん? 欲しいの?」
「いや、別に……」


……どうしてこう、当たり障りのない話をするんだろう。中身のない会話。私と話していて楽しいのかな。身体的なふれ合いを求めているわけでもなければ、私を知りたいわけでもなさそうで、どうしてスミくんが付き合う選択をしたのか全く理解ができない。

今日だって、シュンを家に泊めていたこと、噂の声は聞こえていたはずなのに、どうして何も聞いてこないんだろう。それ以外にも、これまでだって、今日だって、散々私のひどい噂話を聞いてきたはずなのに。


「スミくんはさ、」
「ん?」
「当たり障りのない話しをするよね」
「え? どういうこと?」
「なんかこう、別に相手は誰でもいいような会話」
「ああ、うん、そうかもね」


それが悪いと思っていない、むしろわざとそうしているとでも言うように笑う。掴みどころがない、というのはこういうことなのかな。


「聞かないの?」
「何を?」
「何を、って……色々。今日だって、男泊めてたって、聞こえてた、でしょ」


ほかっておけばいいのに、私らしくない。

気になるのは、きっとシュンのせいだ。自分の意思じゃなく、シュンが「いい奴」だと言ったから。今までの彼氏と呼ばれる人たちと、彼は何が違うのか、興味が湧いた。いつもなら、どうでもいい、勝手に離れていくのを、引き留めもせず、感謝もせず、そっか、と見守るだけなのに。

スミくん、少しだけ、やっぱり、他の人とは違う。例えばシュンのことだって、無理に問い詰めたり、深く聞いてきたり、そういうことを、彼は絶対にしない。気になっている素振りすら見せない。私に興味がないのかと思うけれど、それも少し違う。だって、どうしてか、スミくんが私を見る目はいつも、やさしい。

だから気になった。気になってしまった。


「それは、聞いていいってこと?」
「え、と、」
「自分から話題振ったのに、なにそれって顔してるね」
「う、そうだね、ごめん」


自分の考えや発言に責任を持っていない。私の悪い癖だ。


「おれはナツノが聞いて欲しいなら聞くけど、聞いて欲しくないなら聞かないよ」


やっぱり、まただ。
私の許可を得たがる。強引じゃない。


「聞いてほしいっていうか、誤解が生まれたら嫌だなって、」
「……誤解が生まれたら嫌だなって、思ってはくれてはいるんだ」
「そりゃ、一応、彼氏なんだし」
「一応って、ナツノは素直だな」
「うーん? なんていうか、泊まったのは事実だけど、シュンは幼馴染で、家族絡みで仲良くて、昨日はうちの両親と一緒に誕生日を祝ってて、だから……」


喋っていて何を言いたいのかわからなくなってしまった。だってこれってすべて言い訳だ。スミくんにとったらそんなことどうでもいい。泊めたか泊めていないか、そこが重要なはずなのだ。


「うん、知ってるよ」
「え、知ってる?」
「だって、4月18日はシュンの誕生日だって、ナツノが言ってたからね」
「あ、そっか、そうだった」


私、スミくんの誘いを断ったんだった。すっかり忘れていた。


「そっか、って、忘れてたでしょ。それで、誕生日会はうまくいった?」
「……うん、ごめん」
「何で謝るの? お祝いできたなら、おれは良かったって思うけど」
「え、」
「微妙な反応。何か言って欲しいことでもあった?」


本当に、優しい顔で、笑うひとだ。

言って欲しいことなんてないけど、この反応は想像すらしていなかった。

大抵の場合、こういう時は彼氏の方が不機嫌になったり怒ったりするものだ。ひどければそのままフラれることもある。別に私はダメージを喰らわないけれど、男と女、というだけでシュンとの関係が認められないのは少々苦しい世界だな、とずっと感じていた。

もちろん、私とシュンの間に、出会ったときから一瞬たりとも、そういったものが生まれたことはない。私がいくら願ったって無理だろう。


「意地悪な、言い方するね、スミくん」
「え、そう? ごめん、悪気はないんだけど」
「彼氏として、聞きたいことはないの?」
「聞きたいこと?」
「だって、気にならないの? わたしにはよく、わかんないけど」


付き合うとか、彼氏とか、そういう物だと思っていた。嫉妬が伴うものなんじゃないのかって。


「んー、まあ、気にならないといえば嘘になるけど……。おれが無理矢理なにか聞いたり、言わせたりしても、ナツノの意思ですべて決めることだし」
「それは、そうだけど」
「ナツノが言いたかったら言えばいいし、言いたくないなら言わなきゃいい、それじゃダメ?」


どうしてそうやって、全部、私に委ねるの。


「スミくんは、どうして、私と付き合おうと思ったの?」


あれ、何故か、声が震える。よくわからない感覚だ。こんなこと、気にしたことなかったのに。シュンのひとことでこうも印象を変えてしまう。ずるいね。


「はは、変なこと聞くね、ナツノは」
「変なこと、ではないと思う」
「うん、そうか、それもそうだな」


妙に納得したように頷いて、何でもないみたいにわたしを見る。


「それは、もちろん、色々理由があるけど、一番は、傷つかないで欲しいから」
「傷つかないで欲しい?」
「うん、それが理由」


なにそれ、意味わからない、意味がわからなさすぎて、拍子抜けだ。


「私別に、傷つくとか、そういうの、ないよ」


もし、いろんな噂を聞いて、私のことを可哀想、だと思っているのならお門違いも甚だしい。《どうでもいい》のだ、シュンと、ハルカと、それ以外の人間関係すべて。


「うん、ごめん、変なこと言って。でも、ナツノが傷ついていなければ、それがすべて」


何を言っているんだろう、この人は、理解できない。

付き合う、彼氏彼女になる、口約束のそれは、確かに不確定で不透明なものだ。けれど、私にそれを求める異性たちは、少なからず何かしら理由があった。それも、自分本位の好意や、性欲、承認欲求、そういった、どろどろとしたまるで鉄の塊のような何か。
それを、真っ直ぐに、傷つかないで欲しいという。意味がわからない。

私に好意があるわけじゃない。何かを求めているわけじゃない。私の人生なんてこの人にとったらどうでもいいことなのに、どうして介入するの。


「なんか、スミくんって思ってたのと違うかも」
「はは、素直」
「だって、別に私のことが好きで付き合いたいわけじゃないでしょ? わざわざこんな風に時間をつくったり、意味わからないや」
「それはナツノも同じじゃない?」
「え、」
「俺のこと、好きじゃないけど、なんとなく一緒にいることを選んでる。違う?」


それは、確かに、そうだけれど。


「おれは、ナツノが傷つかないでいて欲しいと思ってる、それだけだよ」
「何それ……。そんなの、スミくんが気にすることじゃないよ」
「うん、そうだな、でも、できるだけ近くにいれたらそれでいい」


なにそれ、どうしてそんな、何でもないみたいな顔をして、そんなことを言うの。


「付き合う、って関係が手っ取り早くナツノに近づけると思ったからそうした。でももちろん、そんな口約束で相手を縛れるようになるとは思ってないよ、ナツノは好きに生きたらいい」
「本当に、意味わかんない、じゃあ付き合う意味なんてないじゃん」
「まあそれには、肯定も否定もしないかな。ただおれは、強要しないだけ。ただ、傷つかないでほしいと思ってる、それだけだよ」


爽やかな笑顔だ。綺麗で真っ直ぐな瞳。この人は、きっと傷なんて見たことがないのだろう。

その辺で転んだかすり傷を大きな傷だと思っている、そういう、やさしい世界で生きてきた人だ。だから、私やシュンのような、なんとなく周りに一線を引いている傷跡のような何かに、興味をもっているだけ。

この人の言葉を好意と捉えていいのか、それとは全く別物なのか、なんなの。私はうまく噛み砕くことができない。理解できない。わからない。


「ナツノとは今年初めて同じクラスになったけど、存在はずっと知ってたよ」
「私は、スミくんのことなんて知らなかったけど、」


嘘。本当は知っていた。でもどうでもいいと思っていた。容姿が整っているな、とか、それくらいの印象しかなかった。


「うん、それでいいよ。でもさ、おれはなんとなく、ナツノを見てて、、感情を表に出さない子だよなって思って」
「感情、?」
「うん、ナツノって人当たりはいいし、別に嫌われるようなタイプじゃない。いつも明るいし、よく笑うし」


そんなこと、自分でもわかっている。矛盾しているけれど、私は人に嫌われるタイプじゃない。人当たりがいいのも、人懐っこいのも、人に好かれやすいのも、わかっている。こんな風に軽率に異性と関係を持たなければ、もう少しうまくやれているとも思う。


「だから今、少しだけ見えたのがなんとなく、俺は嬉しかった」
「見えたって、別に、いつも通りだよ」
「はは、嘘。ずっと眉間にしわ寄ってる。意味わかんないおれにむかついてるんでしょ」


そう言われて固まる。返す言葉がない。図星だからだ。
人に怒るとか、そういうこと、滅多にない。感情を湧かすだけ無駄なのに、どうして、そんな風に溶け込もうとするの。


「なにそれ、本当に、意味わかんない」
「うん、人の気持ちなんて、意味わからなくて突然だからね」


悔しい、何を言ってもスミくんはさらりと交わして笑うだけだ。全部、一歩上手。


「だったら、別に、彼氏じゃなくてもいいのに、変わった私に興味があっただけじゃん」
「そう言われると、なんか心外だけど」
「私、軽薄だし、軽率だし、優しくないし、全部どうでもいいと思ってる。スミくんみたいな人が、一緒にいる方がへんなんだよ。スミくんだってわかってるでしょ?」
「ナツノの全部がわかるわけじゃないから何とも言えないけど、俺のことが好きじゃないのはわかってるよ」


なんだ、全部、わかってるじゃん。だったら、この時間も、この関係も、必要ないのに。


「うん、わたし、スミくんのことは嫌いじゃないけど、すきでもない」
「知ってる」


じゃあ、どうしろっていうの。強引に手を引かれる恋愛(と呼ぶには軽薄過ぎる関係だけれど)しかしたことがないから、自分で責任を負えないよ。


「……だから、距離を保ってるの?」
「距離?」
「無理に詰めてこようとしないじゃん、スミくんは」
「無理に距離を詰める必要がないからな。別にスピードは関係ない。ナツノの近くにいて、傷つかないでいてくれる、それがすべてで、それ以上でも以下でもない」


それって一体、どんな感情なの。どういう日本語で表すのが正解なの。

恋愛でも、友情でも、尊敬でも、哀れみでもない。傷ついて欲しくない、を、私はどういうふうに受け取ったらいいの。

スミくんの、歴代の彼氏と決定的に違うところ。無理に距離を詰めようとしないところ。物理的にも、心理的にも、彼は私に触れない。私が寄っていかない限り。


「スミくんは私に傷つかないで欲しいって言うけど、だったら、近くにいれれば、私がスミくんのことを好きでもきらいでも、関係ないってこと?」
「うん、まあ、そう言われるとそうなのかな。自分勝手なのか、おれって」
「自分勝手というか、理解不能」
「単純に好きだって言われた方が良かった?」
「スミくんはそんなこと、絶対言わないでしょ」
「さあ、そんなことわかんないけど」


からかうな、ばかやろう。


「もし私なんかを本当に好きな人がいるんなら、普通に、趣味悪いよ」
「自分でそんなこと言うなよ」
「言うでしょ、スミくんだってわたしの噂話、たくさん聞いてるくせに」
「うん、でも別に関係ないでしょ。どうでもいい」


どうでもいい、なんて、スミくんからそんな言葉が出てくるとは思わなかった。


「はは、めちゃくちゃ嫌そうな顔するね。おれのこと嫌いになった?」
「別に、そういうわけじゃないけど、」
「ああそう、ならよかった」


何を考えているんだろう、全然理解できない。でも目の前のこの人は、冗談を言ったり、適当なことを述べるような人じゃないと思う。

きっと本当に、《傷ついて欲しくない》と思っているのだ。赤の他人の、私に対して。

歴代彼氏や関係を持った人たちのことを思い出す。勝手に近づいて、勝手に離れていく。だから否定も肯定もしない。適当に頷くだけだ。付き合おう、にも、別れよう、にも。軽率な言葉に軽率な感情で返して何が悪いの。

適当な好意を寄せてくるあなたたちに、私の何がわかるというのだろう。でも、そんなことを思うこと自体、無駄だ。感情なんて持たないに越したことはない。


「ていうか、スミくんのことは理解ができなすぎて無理かも、どうしよう」
「はは、いきなりキッパリ言うね、おもしろいじゃん」
「面白いって何!」
「はは、別にどう思っててもいーよ、俺はさ、ナツノとこうやって話してみたかったんだよね。だからこうしてナツノが少しでも本心出してくれてるなら、それは結構本望だよ」


スミくんとは今年初めて同じクラスになった。基本他人に興味がないので、学年でもそこそこ有名なスミくんのことさえどうでもいいと思っていた。でも、スミくんはそんな私と話してみたかっただなんて、笑えるよね。


「もう気が向いたときしか話さないよ、意味わかんないもん」
「気が向いたら話してくれるんだ?」
「ていうか、スミくんなんて、私じゃなくたっていくらでも相手してくれる女の子いるでしょ。遊び放題なのに、意味わかんないよ」
「んー別に遊びたいと思ってないからね」


シュンの前以外でこんなふうに素で話したのはいつ以来だろう。私はこういう、自分のテリトリーに土足で踏み込んでくる奴がいちばん苦手だ。

知られたくないことを曝け出す必要はない。受け止めてもらえるなんてそんなこと思ってない。だから自分から一線を引きたい。
だから、《傷ついて欲しくない》なんて、そんなこと言うな、バカ。




私がシュンと仲良くなった3年後。運よく同じクラスになった私たちは相変わらずクラスの中で浮いていた。(私たちは、というより、どちらかというと人見知りのシュンに、私以外の友達ができなかった)

とにかく全てのことを低燃費でこなすシュンのことを、私はずっと面白いと思っていた。初めて出来た友達でもあり、一目会った時からその綺麗な瞳が羨ましくて、何かとちょっかいをかけていて。気づけば殆どの時間をシュンと過ごすようになっていた。


小学3年生、春。


人見知りで物静かなシュンと、明るいのにシュン以外と一緒にいることを選択しない異色の私たち2人に、転機が起きる。

4月のクラスオリエンテーションでフルーツバスケットを行うことになったのだけれど、それに乗り気じゃないのはシュンの方だった。みんながせっせと机を教室の半分に寄せて、椅子を丸く配置している中、ひっそりと教室を抜け出していたのだ。

もちろん、私はすぐにそれに気づいて後を追う。いくらシュンが人見知りの人嫌いでも、こういった学校行事を自らサボるなんてことは早々ない。


『シュン』


私が声をかけると、驚いたように振り向いて、でもどこか安堵したように歩き直した。私を無視して階段下まで歩いていくと、その下に身を潜める。ここならバレないと思ったんだろう。


『もう、なんで突然いなくなるの』
『別に、やりたくなかったから』
『珍しいね、シュンがサボるなんて。そんなに嫌だった? フルーツバスケット』
『別に、嫌なわけじゃないけど、苦手なだけ』


フルーツバスケット。ひとりひとりにフルーツの名前が与えられる。椅子でぐるりと円を囲んで、余った1人は中心に立つ。


『そうなの? なんで?』
『1人だけ仲間外れみたいだから』


至って真剣にそう答えたシュンに、私は思わず笑ってしまった。笑う私をみて、シュンは怪訝そうに顔を顰める。

そうだ、シュンって、本当はすごく優しい。

下校中に見つけた居場所のない子猫にミルクをあげたり、踏まれて潰れたタンポポを土に埋めたり、転んだ私に黙って絆創膏を差し出したり。わかりやすく、手を差し伸べる。シュンのそういう、不器用だけれど心優しいところが、いいなあと思う。


『ねえ、シュン、わたしシュンに会えてよかったなあ』
『大袈裟』
『そんなことないよ、シュンがいれば他の友達なんていなくてもいい』
『なにそれ、へんだよ』


その声に、私はまた笑う。シュンも満更でもないような顔をしていた。変でもいいじゃないか、出会った時からずっと、シュンのこの優しい瞳がいいなと思っていたのだから。


『───ねえ、2人ともここで何してるの?』


ふと。授業中の階段下、誰もやってこないと思っていたその場所に上から声が落ちてきて、私たちは同時に声の方へと振り返った。

振り返った先、とても綺麗な黒髪ストレートの女の子が、不思議そうに私たちを見ていた。幼い私でも、純粋にすごく綺麗な顔立ちをしている女の子だと、そう思った。


『フルーツバスケット抜け出したんでしょ? 私も混ぜて!』


にこりと笑った美少女と、美少女越しに見えた窓の外の綺麗な桜たち。


『なんで? 私たちフルーツバスケットが苦手だから抜けてきたんだよ』
『うん、私も同じなの、だから混ぜて欲しいな』
『どうして苦手なの?』
『だって、ひとりだけ余るなんて、仲間外れみたいで可哀想でしょ?』


あ、シュンと、同じことを言う。

今でも忘れられない。

屈託なく笑う美少年に、横を見れば、普段人とほとんど関わることのないシュンが、真っ直ぐ彼女を見つめていたこと。今思えばあの時、シュンは突然現れた自分と同じ感性を持つ彼女に、思わず、見惚れていたのだろう。



『───わたしハルカっていうの!』



それが、私たち親友3人が会話をした初めての日の記憶だ。






2.触れて溶ける、プールサイドの熱帯魚







かくして、スミくんがまったくよくわからない人だとわかった途端、関わるのが怖くなってしまった。かろうじて付き合う、という関係は続いているけれど、なんとなく避けている。

にも関わらず、予想外にも彼との関わりは割とすぐにやってきたのだった。


「すっげー嫌そうな顔してるね、ナツノ」


5月中旬、くじ引きで決めたプール掃除当番が、まさかのスミくんとペアになってしまった。

6月下旬に行われるプール開きに向けて、5月から1週間に一度掃除という名のメンテナンスが行われる。その前に軽く水泳部が掃除をしているので、そこまで大変な作業ではないはずなんだけどね。

全校各クラスから男女1名ずつ選出されると聞けばラブのひとつも起こりそうなもの。けれど現実はそう甘くない。プール掃除なんて過重労働もいいところだ。勿論自ら手を挙げる人がいるわけもなく、くじ引きになったというのに。


「有り得ない、誰かに代わってもらおうかな」
「ひど、俺のことめちゃくちゃ避けてるじゃん」


決まってしまったものは仕方ない、というか代打をたてるほどの人脈もない。渋々横に並んでプールへと移動する。別に一緒に行かなくてもいいのに、スミくんががついてくるのも鬱陶しい。

避けているというか、苦手というか、理解できないものは想像以上にこわいものなのだ。


「ていうか、このプール掃除あと4回もあるの……」
「1週間に1回を1ヶ月だからね」
「わかってるよそんなこと、毎週スミくんと掃除当番なんて憂鬱だなって思っただけ」
「ひどいなー、本人を目の前にしてそんなこと言う? しかも、仮にも彼氏と名乗ってるのに」
「名前だけだもん」
「吹っ切れてきたなあ、ナツノ」
「スミくんが悪いよ」


別に悪気ないのに、とまたなんでもないみたいに笑っている。春の気温が心地いい。この季節に水の中へ飛び込んだらもっと気持ちがいいだろう。


「ナツノって水泳部だったでしょ。プール掃除とか得意じゃないの」
「プール掃除に得意も不得意もないでしょ! てか私が水泳部だったってなんで知ってるの」


1年前、高校2年の夏に辞めたし、水泳部なんて殆ど誰も気にしてないない幽霊部のようなものなのに。


「そりゃ、ナツノは有名だからね」
「まあいろんな意味でねー」
「はは、自虐?」
「煩い」


嫌われている自覚があるだけマシだ。スミくんみたいな、誰にでも分け隔てなく愛想を振りまける、いつでも中心にいるような人間にはわからない。

女子更衣室で体操着に着替えてから裸足でプールサイドへと降り立った。半袖半ズボン。まだ少し肌寒い気もするけれど、今日は晴天だから丁度いい。

裸足に感じる、懐かしいその感触にどくりとする。小学生からずっと続けていた水泳。もし生まれ変われるのなら、サカナになりたいと、ずっとそう思っていた。いつか見た水槽の中で泳いでいく金魚を見て、明日目が覚めたらこいつになっていないだろうかと、本気で神さまにお願いしたことだってある。

他のクラスからも選出された男女各1名ずつがだるそうに集まっている。プール掃除なんて誰も進んでやりたがらないよね。ほとんどのクラスがジャンケンかくじ引きで決めたと思う。水泳部は夏以外近くの市民プールを借りて練習しているし。


「ナツノ、こっち」
「うわっ」


担当の先生が前の方で何やら説明していたみたいだけれど、集団の後ろでぼうっとしていたせいで聞き漏らしてしまった。おかげで後ろから近づいてきたスミくんにも気がつかなくて、変な驚き方をしてしまったし。


「なにその驚き方、ぼーっとしすぎ」
「勝手でしょ、もう、放っておいてよ」
「バカ、クラスごとで掃除する区域が分かれてんの、必然的に協力しないと終わらないから」
「……最悪」
「ホース係かモップ係がどっちがいー?」


淡々と進めていく姿がなんだか悔しくて、キッと睨みつけて「ホース」とひとこと。スミくんはハイハイ、とモップを手に持った。

こんなに嫌悪感を全面に表しているのに、どうしてこの人は屈せず話しかけてくるんだろう。おかしい。意味がわからない。

私は手渡されたホースを持って、担当区域へ走った。


:
.


「ナツノ、やる気ある?」


あるわけないでしょ、と心の中で悪態をつきながら、眉間に皺を寄せて彼を視界から外してやる。さっきからこうして無視を決め込んでいると言うのに、スミくんは何も気にしない様子で普通に話しかけてくる。というか、基本彼には、悪気がない。私はわざと距離をとっているのに、いとも簡単にそれを超えてくる。無視、という概念を知らないのだろうか。


「まあナツノにやる気なんてあるわけないか」


水を抜いたプールの中に降り立ってせっせとモップで床を磨くスミくんと、プールサイドに座り込んでホースから水を流すだけの私。


「1週間に1日この作業が続くなんて結構罰ゲームだなー」


5月と言えど日差しは眩しい。あと、スミくんの独り言は煩い。

罰ゲームなんていうけれど、人脈の広いスミくんは色んなクラスな人に話しかけられている。違うクラスの人、サッカー部の人、スミくんに憧れている後輩女子、様々なひとたち。


「ハー、相方がこれだと当分任された区域が終わるわけないよなー。担当区域が終わらないと1週間に1日どころか、最終週は毎日掃除のペナルティがつくらしいなー」
「え、ペナルティ?」
「あれ、無視してたんじゃないの?ナツノ」
「……うわ、引っ掛けた」
「別に引っ掛けてないけど? ペナルティがつくのは本当の話。さっき先生の話聞いてなかったの?」


ちゃんと聞いておけばよかった。にやりと笑うスミくんは、やっと返事したなーとこぼす。不本意だ。


「担当区域ってどこまでなのー」
「プール底1番端のレーンと、女子更衣室のロッカー拭き、外階段のゴミとり」
「結構重いじゃん!」
「紙配られただろ、見てないの」
「見てない、捨てちゃったよ」
「ナツノ、意外とそういうところ適当だなー」
「意外でもないでしょ」


他人から見た自分の評価なんて肌で直接感じるものだ。周りからの自分の見え方が心底悪いのなんて百も承知。


「いや、意外だよ。だって根は真面目でしょ、ナツノって」
「何それ、どこ情報」
「見えてるものを言ってるだけだけど」
「じゃあスミくんの目は節穴だね」
慧眼(ケイガン)かもよ?」


そんなわけあるか。

何を見てそんなことを言うんだろう、この人の距離の測り方が未知数で、何を考えているかわからないところがこわい。こわいとか、不本意だけど。


「てかさ、ナツノはどうしてそんなに自分が周りから好かれてないと思ってるの?」
「好かれてないというか、普通に、嫌われてるでしょ、どう見てもー」
「なんで?」
「さあ、男を取っ替え引っ替えしてるからじゃない」
「周りからの評価は低いのに男子には好かれるってわけかー」
「みんな本当は誰でもいいんだよ、好かれてるとか、そんなんじゃないよ。わたしは都合がいい、それだけだよ」


付き合うとか、好きだとか、そういうことを綺麗に受け取れなくなったのはいつからだろう。誰のことも好きじゃない、同時に、誰も私のことを好きじゃなかった。

適当に愛想を振りまいて、来るもの拒まず去るもの追わず、そういうスタンスを貫いているだけ。同性に嫌われる人間を気にいる異性がまともなわけがない。世界はそういうふうに出来ているのだ。


「じゃあ、おれもそのひとりってこと?」
「知らないよ」


こうして接する限り、この人が私のことを恋愛対象として好きだとは到底思えないし、それ以外の理由で私に近づくメリットもない。傷ついて欲しくない、を、私はいまだにうまく噛み砕けていない。

どれだけスミくんのことを考えても八方塞がりなのだ。


「そういう男子たちと一緒にされるのはなんか癪だな」
「スミくんが一番意味不明」
「んー、俺はナツノと話をしてみたかったって前に言ったけど」
「だからそれが意味わかんない」
「でもさ、初めて喋った時は愛想が良くてよく笑って、取り繕った笑顔ばかり見せてたけど、今はずっと眉間に皺がよってる」
「それが何、てか接続詞おかしくない?」
「だからさ、そういうのが見たかったんだよね、って話」
「あのさ、スミくんの話は脈絡がなくて本当に意味がわかんないんだよね!」
「はは、怒んないでよ、ナツノらしくない」


けらけらとスミくんが笑う。なんなの、本当に、何がしたいの。ナツノらしくないとか、そんなこと、スミくんが言うな。


「ていうか時間やばいからちょっと真剣にやるよ」
「私はここで水を流すだけの係だもん」
「ハイハイ、いーよナツノはそこで水撒いてれば。今日は俺がやりますよっと」


来週からはその態度許さないからなー、とスミくんは少々不満そうにモップを動かし始める。私はチョロチョロとホースからプール底に水を撒く。

日があたったスミくんの髪は透き通ってきらきらと光ってみえる。茶髪はきっと地毛だろう。自分から校則を破って染めるタイプとは思えない。綺麗な髪質。それに、男子のくせに、長い睫毛だ。羨ましい。


「スミくんって本当、綺麗な顔してるよね」
「え、突然?」
「よく言われるでしょ」
「何? おれのこと好きになった?」
「うわ、そのポジティブさ分けて欲しい」
「見た目で好きになるようなタイプじゃないことわかってるって」
「その知ったかぶりやめてよ」
「確かに、そういわれればちょっと調子乗ってるかも」


反省反省、とわらう。反省なんてしてないでしょ、バカ。

プールサイドに腰掛けてブラブラと足を振る。水の出るホースを持っているだけ。でも、なんとかここでは役割を果たせているみたいだ。


「ねえ、来週まだ話しかけるの禁止ね」
「え、なんで?」
「なんとなく、やなの」


感情を揺さぶられたくない。考えたくない。

シュンやハルカ以外のこと、余計に考えたり、感情を分け与えたり、したくないの。だから踏み込んでこないでほしい。


「ふーん、そうなんだ」


なぜか嬉しそうに笑う。なんで笑うの。


「顔わらってるよ」
「うん、だって、ナツノもちゃんと嫌って言えるんだなと思って」
「なにそれ、私が来るもの拒まずみたいじゃん!」
「そうじゃないの、実際」
「まあ、そう言われれば、そうだけど」
「うん、だから、ナツノが決めたならいいよ。話さなくても」


また、そうやって私に委ねる。自己判断は苦手なんだってば。


「じゃあ来週プール掃除サボってもいいってことー?」
「別にいいけど、サボって怒られるのは自分だからな」
「うっ」


そういう面倒くさいこと、本当は心底大嫌い。出来れば穏便に何事もなく過ごしていたい、本音はね。

私なんかが言ったって、誰も理解してくれないと思うけど。





「ナツノ、昨日本当にサボったなー?」


初のプール掃除から一週間が経過した翌日。教室に着くなり不満たれた顔をしたスミくんがどかどかと私の席めがけてやってきた。

一番後ろの窓際、とにかく目立たなくて最高のスポットなのに最悪だ。ただでさえスミくんという存在自体目立つのに、あの温厚なスミくんが怪訝を呈した顔をしているのは私でさえ少々萎縮する。あれ、やばい、意外と怒っていたりするのかも。


「えーと、まあ、色々あって」
「俺も部活休ませてもらって行ってるんだけど?」
「その、急用で」
「だとしても一言くらいあってもいいんじゃない?」
「その通りです、私が悪いね、ごめんなさい!」


よし、めんどくさい。ここは申し訳なさそうに謝るが吉。


「全然思ってない顔」
「うわっ、バレてる」
「バレるでしょ、行きたくないって顔に書いてあるんだから」
「行きたくないとは言ってないじゃん!」
「でも思ってるでしょ」
「それは、思ってる」
「ほらね」
「ごめんなさい……」
「ナツノがサボったってわかったから、昨日の担当区域、今日に変えてもらったから。ほら、今日の放課後ね」


げ、と思わず顔に出てしまったのを見てスミくんがニヤリとわらった。悔しい、やっぱりスミくんの方が一枚上手だ。ちゃらんと音を鳴らしたスミくんの右手人差し指には校内プールの鍵が握られている。

あれ、初めてかも、スミくんが強引に私を連れ出そうとすること。

最悪だ。昨日サボったのはもちろんわざとだけれど、それがかえって仇となってしまった。スミくんが鍵を所持しているということは、今日に掃除をふりかえたクラスは私たちだけ。つまり完全にスミくんとふたりでプール掃除をすることになってしまう。

別にいい、ふたりとか、そういうの、別にいんだけど。
なんでだろう、本当に、スミくんといるのがとても居心地がわるい。なんだか全部見透かされているようで、心臓がぐっとくるしくなる。だからできるだけ距離をとりたい。ずかずかと裸足でわたしの思考にはいってきてほしくないの。


:
.


「いいの? ナツノ、行かなくて」


放課後。

スミくんとプール掃除を約束していたのに、ホームルームが終わった瞬間そそくさと教室を抜け出した。向かったのは写真部部室。つまるところ、シュンの元へだ。

今日も相変わらずここにはシュンしかいない。幽霊写真部員たちが顔を出すことは殆どない。


「行かなくていいのって、何が!」
「プール掃除、スミとやるんじゃないの」
「な、なんでそれをシュンが知ってるのー」
「スミとナツノみたいな有名人2人のこと、聞きたくなくても耳に入ってくるよ」


うわあ、最悪だ。

確かに今日、ちゃりんとプールの鍵を私に見せつけたスミくんの行動はばっちりクラスメイトに見られていたはず。また女の子に嫌われる要因がひとつ増えてしまった。まあ別に、いいんだけれど、そんなことは。


「いいの、もうサボるって決めたから」
「珍しいね、ナツノがそんなに避けるの」
「避ける?」
「避けてるんじゃないの、スミのこと」


避けてる、というか。接し方がわからない、が正しいのかもしれない。

いつもみたいに、適当に愛想を振り撒いて置くことだってできたのに、こうなったのは確実にシュンのせいだ。シュンが、いい奴だと思うだなんて言うから。

自分の思考が自分軸じゃないことは悔しいけれど、シュンの言うことはいつもなんとなく、正しい。

写真やカメラによくないからって、カーテンも閉め切った部屋。6月頭なので気温はちょうどいいけれど、夏になるととても暑くてここへ来ることは殆どなくなる。シュンもそうだ。


「だいたい、プール掃除にこんなに時間かけなくたっていいのに」
「水泳部もいるのにね」


水泳部はまだ市民プールを借りて練習しているのかな。よくわからない。昨年までどうしていたっけ、忘れてしまった。


「なんでみんなで掃除なんてするんだろ」


3月の終わり。水泳部が春に向けて軽くプール掃除をすること、私は知っている。


「水泳部が使う区域と、全校生徒が使う区域が違うからじゃない」
「もちろん、わかるけどー」


部員数が少ない水泳部が使うのはほんの2レーンくらい。力を入れて掃除をするのは確かにその区域だけで、あとはかなり適当だ。わたしがそうだったから、わかる。

でも、1ヶ月(4週と言った方がなんだか多く感じるので、その方がいいかもしれない)もかけて掃除なんてしなくていいのに。時間を区切っているのは部活をやっている人への配慮なんだろうけれど。



「今年は泳ぐの?」
「え?」
「去年の夏から泳いでないんでしょ、一回も」
「ああ、うん、そーだよ。飽きちゃった」
「6月下旬からプールの授業始まるけど、それは泳ぐの」
「それは、まあ、出ないといけないかもね、内申もあるし」
「ふうん」


どくりとする。シュンが全部わかっているみたいで時々こわい。私も私でわかっていない自分の感情を明確に言葉にしてしまいそうで、逃げたくなる。

あれ、これ、スミくんに感じているものと、少し似ている。


「シュンはどうするのー? 水泳苦手だから毎年フルで休んでるじゃん!」
「うん、そう、どうしようかなとは思ってた」


シュンは水泳に限らず、運動全般があまり得意じゃない。

高校3年生。授業を休めばそれなりに成績にも響いてくる。元々サボり癖と遅刻魔のわたしには少々痛い年齢だ。もちろん、普段成績上位のシュンだって、授業を休むというのはかなり痛手になる。

まあ、私は何になりたいとか、将来どうしたいとか、決まっているわけじゃないけれど。

今年は泳がないのかと聞かれると、よくわからない。泳ぎたい、より、わからない、が先に来る。泳ぐことが嫌いになったわけじゃない。むしろ、水の中は唯一色んな音が聞こえなくなる聖域のようなものだと思っているのにね。


「同じクラスじゃないから、もう見れないね」
「えー何が?」
「ナツノの泳ぐ姿」
「シュン、私の水泳に興味あったの? 初知りだよー」
「そう? 昔から綺麗だと思ってたけど」
「うわ、そーういうこという! じゃあやめなきゃよかった!」
「単純」


そんなこと言うなんて、珍しいね、シュン。

わざとニヤけた顔をすると、呆れたように肩をすくめて、それから立ち上がって締め切られたカーテンへと歩いて行く。珍しい、日光でも浴びたくなったのかな。


「ほら、見て」
「え? なにをー?」


カーテンを開けた先、3階の部室窓からシュンが外を覗き込むので、私も立ち上がって横へ並ぶ。それから、げ、とシュンの言う通りにしたことを後悔した。


「スミ、ひとりでプール掃除してるよ」
「見るんじゃなかった」
「行かなくていいの」
「それ2回目だよーシュン」
「うん、だって、顔に気にしてるって書いてある」


なにそれ。そんなことない。

第3校舎の3階部室。いつもはカーテンで閉められているから気づかなかったけれど、ここからプールがよく見える。

プール掃除を今日に変えてもらったと言っていたスミくんが、黙々とひとりでモップをかけているところが目に入る。見たくないのに、最悪だ、どうして見せるの。

というか別に、昨日、他のクラスがいる時にやってしまえばよかったのに。私がサボったのが100パーセント悪いけれど、まるで待っているみたいに鍵をチラつかせて、やっぱり強引には連れて行かない。

スミくんってそういうひとだ。わかってる。


「いいの? 行かなくて」
「シュン、それ3回目」
「強がりだねほんと、本当は罪悪感でいっぱいになってるくせに」
「そ、そんなことないもん、」
「ていうか珍しいよ、来るもの拒まず去るもの追わずのナツノが避けてるなんて」
「避けてるわけじゃ…」
「そういうの、逆に意識してるってことだと思うけど」


驚いてシュンを見ると、なんでもないような顔をしてプールサイドのスミくんを見つめていた。なにそれ、なんで、そんなに平気そうにそんなことを言うんだろう。


「……いいの? わたしがあそこに行っても」
「何が悪いの?」
「わかんない」


わからない。わからないけど、シュン、君をここへおいて行っていいのか、私はずっとわからないでいるよ。



6月が近づくにつれ、日差しはさらに強くなっている。

私は裸足になった素足にこれでもかというほど日焼け止めを塗りたくって、1週間ぶりに渋々体操服に着替えてプールサイドへと降りたった。放課後とはいえまだ日は出ている。

私がやってきたことにまだ気づいていないスミくんはすでにホースで水を流している。恐る恐る近づくと、わざとらしく不服そうな顔を見せた。でも今朝ほど怒っていないみたいだ。表情を見ればなんとなくわかる。


「なんだ、こないかと思った」
「来ないようにしたかったんだけど、仕方なく、ね」


そう、これも、シュンのせい。
行かなくていいの、と何度も言うから、来てしまった。


「来たのはいいけど、もう終わる時間なんだけど」
「嫌味っぽいこと言うねえ、スミくん」
「まあいいよ、ナツノが来ないのなんて想定内だし」
「それはちょっと心外」
「どの口が言うんだよ」


う、やっぱりいつもよりは不機嫌みたいだ。私は多少の罪悪感を抱えつつ、でも来てあげたんだからいいじゃない、と謎の上から目線をかましたりして。最低だ。

もーわかったよ、だったら早く終わらせて帰ろう、と珍しくスミくんがめんどくさそうに言うので、私ははーいと返事をした。


:
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『な、アイス食いたくない?』


スミくんからの提案があったのはプール掃除が終わってすぐ。もちろん一緒に帰る気なんだろうなとは思ったけれど、その提案は不覚にも私の胸を躍らせた。アイス、大好物だ。特に、毎日違うフレーバーが楽しめるようにと願いが込められたアイスチェーン店のミルクソーダ味。


『……奢りならいいよ』
『遅れてきたくせに』
『うっ、』
『はは、ジョーダン、いーよ、奢るから行こ』


アイスにつられてしまったけれど、嬉しそうなスミくんの顔にはこちらまで頰が和む。顔が整っているというのはずるいね。

シュンはもう帰ったかな。

プールを出て、更衣室で体操服から制服に着替える。紺色の半袖セーラー服。中学の時もセーラー服だったから、本当は高校生になったらブレザーがいいなと思っていたんだけどね。

着替えたら下駄箱集合。わかりやすい。

きっと私の方が時間がかかるのをわかっていてそう提案してくれたんだろう。スミくんって気が利くオトコだ。シュンならこうはいかない。(というか、先に帰ってるかも、もしかしたらね)

まだ部活動の時間なので、運動部の掛け声や吹奏楽部の楽器の音を聴きながら廊下をあるく。校内にはもうあんまり人がいない。

スミくんのこと待たせてるかな。


「────行こうよスミ、久しぶりにさー」


あ、と思う。

クラスの下駄箱に着く前に、さっと違う列に身を隠した。スミくんが、いつも一緒にいるクラスメイトたちと話している声が聞こえたからだ。


「だから、今日は先約があるんだって」
「最近付き合い悪いじゃん!」
「じゃあさ、うちらファミレスでベンキョーするから予定終わったらおいでよ」
「あーうん、わかったわかった、行けたらなー」
「うわっ、全然来る気ない!」


男女3〜4人くらいかな。聞き馴染みのある声だ。誰とでも仲のいいスミくんにとったら当たり前のことで、日中、同じクラスのわたしは似たような光景をいつも目にしているけど。


「もーいいからおまえら、早く帰れって」
「ていうか先約ってなに? もしかして彼女?」
「あー、東出さんかー」


うわ、やだな、東出って、わたしの苗字が出てくるの。

同じクラスとはいえ、日中そこまで関わることはない。(というか、スミくんは普通に話しかけてくるけれど、基本わたしは目立ちたくないから避けている)クラスメイトたちも、私たちのやりとりをそこまでいつも気にしているわけじゃないと思う。


「わかってるならもーいいじゃん」
「うわ、本当に東出さん待ち?」
「まあ彼女待ってるなら仕方ないかー」
「ちえ、つまんないのー、絶対埋め合わせしてよねスミ」
「はいはい、また今度行くから」
「またそーやって適当な!」
「仕方ねえよ、スミずっと東出さんのこと気になってたもん、見守ってあげよーぜ」
「ハイハイ、男子は東出さんのことすきだよねー」
「顔は可愛いからなー、な、スミ?」
「もーおまえらうるさい、早く帰って」


あれ、これって、わたし聞いたらまずい話だったかも。

『ずっと東出さんのこと気になってた』って、なにそれ。そんなの、聞いたこともスミくんから感じたことない。

スミくんはそれには否定も肯定もしないで笑っていて、早く帰れーって皆んなを追いやっている。



なにこれ、こんなの、聞かなきゃよかった。心臓が変な音をたてる、こんなの知りたくない。





「気持ちいいなーこの季節、夏になる前」
「わたしはもっと暑い方が好きだけどー」


学校から自転車で約15分。わたしは大好きな街のアイスチェーンがいいと言ったのに、スミくんは海が見たいと言って反対方向にペダルを漕いだので渋々後ろを追いかけた。

あの後、スミくんがクラスメイトたちを帰して、完全にいなくなったことを確認してから下駄箱に顔を出した。スミくんは何食わぬ顔で遅い、と言う。私も何も聞いていない顔で、ゴメン、と呟いた。

本当はアイスなんて食べに行かなくても、あのままコッソリ帰ってもよかった。不本意だけど、サボった罪悪感があるから仕方なく、うん、仕方なく着いてきた。部活動が終わる時刻より少し早めに出たので帰宅ラッシュには被らなかったし。

海近くのコンビニでソーダ味のアイスを2つ買って私に手渡すと、堤防に自転車を止めて登る。

なんだか慣れた手つきだ。よく来るのかな。

スミくんは登った上から私に手を差し伸べて、当たり前のようにナツノもきたら? なんて言う。


「わたし、別に海とか好きじゃないー」
「まあいいじゃん、今日くらい、サボったんだし付き合ってくれても」


それを言われたら登るしかなくなってしまう。

スカートを気にしながらスミくんの横へ登った。同時に視線を上げると、視界全面に夕日の映るオレンジの海が広がっていた。

潮風が頬に当たる。街と反対にあるこちら側には中々来ることがないので、その光景に思わず息を呑んでしまった。

水平線に少し隠れる太陽が水面をオレンジに染めていて、光が反射したそれはきらきらと光って揺れている。波が押して返すのは、まるで私たちにこの煌めきを届けようとしているみたい。

波の音とひかりの温度が心地いい、それでいて、なんだかぐっとくる。なぜだろう。


「いいなこの時間、久しぶりに来たけど、やっぱ綺麗」


そう言ったスミくんがソーダアイスを齧ったシャリっと夏した後で我に帰る。夏に近づく音。ソーダも好きだけど、クリームソーダのが好きなのに。今日は仕方ないからソーダ味で手を打った。仕方ないから、ね。


「……よく来るの?」
「うーん、まあ、よくというか、何も考えたくないとか、逆に悩んでる時とかにふらっとひとりで」
「スミくんでもそんな時あるんだ」
「はは、あるよ、人間だし」


そんな風には見えないのに。
でも、そっか、誰でもあるんだ、悩むこと。

私もソーダアイスにかぶり付くと、少し溶けてしまったそれはしゃりっと音を立てる。今度はカタカナじゃなくてひらがなの音。美味しい、悔しいけど今日はミルクソーダよりソーダ味が合ってるかもしれない。


「何に悩むの? スミくんなんて、全部持ってるのに」
「なにそれ、全部持ってるってへんなの」


ケラケラ笑う。このひとはやっぱり優しい笑い方をする。

さっきの下駄箱でのことを思い出す。

スミくんを誘ったクラスメイトたち、本当に残念そうに帰っていった。スミくんが人に好かれていること、よくわかる。誰にでも優しくて分け隔てない。わたしへの興味がなんなのか、わからないけど。

今日だって別に、誘われたクラスメイトたちの方へ行ったってよかったのに。もしかしたらあの中に、本当にスミくんに恋をしている女の子だっているかもしれない。


「部活とか受験とか将来のこととか、考えるよ、人並みに」
「スミくんも人間なんだ」
「俺のことなんだと思ってんの」
「聖人君主」
「それは褒め言葉に受け取っとくけど」


褒め言葉だよ。べつに、スミくんのこと、悪い人だなんて思ってない。変わってるし、よくわからないとは思ってるけど。


「受験とか将来とかわかるけど、部活でも悩んだりするんだ」
「まあそりゃね、人並みには」
「でもサッカー部のエースなんでしょ」
「エースなんてもんじゃないよ、フツー」
「謙遜だ」
「ちがう、ほんとにフツーなんだって、みんなイメージで出来るって勘違いしてるだけ」
「そういうもんかな」
「そ、まあべつに、春の大会終わったら引退だしなんでもいいんだけど」


自称進学校のうちの高校は、そこまで部活動に力をいれていない。スミくんの回答もなんだかあっさりだ。せっかく3年間も続けてきたというのに、そんなものなんだろうか。


「勝ち進んだら、夏まであるんでしょ? 受験大変だね」
「勝ち進むことはないよ、みんなそこまで本気でやってない」
「そういうもの?」
「うん、そういうもの」


そういうものなのか。よくわからない。スミくんって意外に淡白なのかな。

私は去年まで水泳部に所属していたけど、大会というものには出たことがないし、優劣をつけるものでもないと思っていた。好きだから泳いでいる、それでよかった。

でも、普通は何か目標や夢があるものだと思っていた。わたしよりスミくんのほうが現実的だなんて、なんだか意外だ。


「ていうか、ナツノも受験のこと気にしたりするんだ、意外」
「意外とは心外な」
「なんとなく、今の成績でいけそうなところ受けるだけなのかなって思ってたから」


大学。進学。それが当たり前の校風。スミくんもそれを疑わない。わたしたちはもう、自分たちで未来の選択をしなくちゃいけない。だけど、選択する前に、大学に行くことはほとんど義務のようなもの。誰もがそれを疑わずに机に座っている。


「うん、まあ、そんなとこかな。スミくんは?」
「んー、まあ、県外も少しは視野にいれてるけど、まだ確実じゃないかな」
「え、そうなんだ」
「何? 寂しい?」
「そんなこと一言も言ってないでしょ!」
「はは、そう言うと思ったー」


県外、か。確かにそういう選択もある。それに、スミくんは頭がいい。具体的にどれくらいかはわからないけど、クラス順位はかなり上位だったはず。

あれ、そういえば、シュンはどうするのだろう。いつもシュンと一緒にいるのに、肝心なことをいつも聞けていない。この街を出ていくかもしれないなんて、考えたことがなかった。

シュンがいなくなる。そんなこと、想像すらできない。


「凄いな、でも、ちゃんと考えてるんだね、みんな」
「なにが?」
「将来のこと」
「別にしっかり考えてるわけじゃないけどなー。学びたいことも、夢も、しっかりあるタイプでもないし」
「ふうん、じゃあなんで大学にいくの?」
「幅を広げる為じゃない? 今後やりたいことができた時のために」
「私はやりたいことなんて、見つかる気がしないや」
「そう? でも、水泳は好きだったんじゃないの」
「うん、でも、もう飽きたよ」


わたしは、大人になりたくない。そんな子どもじみたことを、ずっと思っている。年齢だけ、歳を重ねていくけれど、私はずっとあの頃のまま、ここにいる。

やりたいことなんて今後、見つかるかな。仮に卒業して、シュンが遠くなって、ハルカの記憶が薄れて、そうしたら、私は一体何を軸に、今後生きていけばいいんだろう。

大好きだった水泳でさえ、やめてしまったというのに。


「別に無理しなくていいと思うけどね、やりたいことなんてある方が珍しいと思うよ」
「そうかな、」
「うん、だって、人生に理由っている?」
「壮大な話になってるよ」
「はは、確かに」
「わたしは理由なんてないけど、ある人だっているじゃん」
「それはそうだけど、じゃあ、やりたいこととか、夢とか、ないことが悪いことでもないんじゃない?」


あれ、そうかな。人生って、将来って、夢や目標や理由があるべきじゃないのかな。私を生かしてくれる指針みたいなもの、なんでもいい、小さなもの。

わたしはもしシュンがいなくなってしまったら、きっと指針がなくなってしまう。生きるための方位磁石のようなもの。



「じゃあさ、今度一緒に勉強する?」
「……シュンに教えてもらうから、いい」
「はは、そう言うと思った。でもおれのが文系科目は得意だと思うけど?」
「なによ、わたしと一緒にいたいだけでしょ」
「ああ、そう言われると、そうなのかも」


え、なんでそこで納得するの。

横を見ると妙に納得したように頷きながらわらっているスミくんがいて、何その反応、と思う。スミくんがわたしを見る目は相変わらずやさしくて何も言えなくなってしまう。


「あ、アタリだ」
「え?」


横を見ると、スミくんが食べていたソーダアイスの棒に、丸っこい字で《アタリ》と書かれている。


「うわいいな、ずるい」
「ナツノは?」
「ハズレ」


わたしの棒はといえば、これまた丸っこい字で《ハズレ》と書かれている。なんだ、残念、なんか悔しい。何にも負けてないのに、負けたみたい。スミくんって運までいいのか、そんなのずるいと思うんだけど。


「かして」
「ヤダ」
「じゃ、あげる」
「え、」


わたしのものと交換しようと思ったのかな。アタリ付きの棒をわたしに手渡して、なんでもないみたいに腕を伸ばしている。


「なに、なんでくれるの?」
「え、欲しそうだったから」
「スミくんが当たったんだから、スミくんがもらえばいーのに」
「んー、でもそれ渡したら、ナツノまたここ来てくれるかなって」
「なにそれ」
「願掛けみたいなものじゃない?」


一応、彼氏彼女、という名前だけは、ついているのにね。

どうして強引に手を引かないんだろう。触れようと思えばすぐ横にいるのに、スミくんはそんなことは一切しない。今のアタリのアイスみたいに、なんでもないみたいにやさしさだけを手渡して、それがまるで普通のような顔をする。

わたし、むずかしい、スミくんの好意のようなものを、うまく飲み込むこと。


「とりあえず、来週はサボるの禁止ね、ナツノ」
「それは約束できない、けど」
「どーかな、きっと来るよ、ナツノはやさしいから」
「どこを見てわたしがやさしいと思ったのか、スミくんってほんと、節穴だよ」
「だから、慧眼だって」


海を見ると、もう日が沈みかけている。夕焼けの海がこんなにきらきらしているなんて知らなかった。スミくんが連れてきてくれなかったら、今後見ることなんてなかったかもしれない。それは大袈裟かもしれないけれど。

やだな、このひとのこと、深く知りすぎない方がいい。

日が沈むまでにアイスを食べ終えて帰らなきゃ。溶けたものが私に入り込んでくる前に。





プール掃除3週目。

1週間前、スミくんと夕日を見ながらアイスを食べたことを思い出して、そういえばあのとき来週はサボらないって約束したんだった、と内心何故かどきどきしていたのだけれど。

今日は生憎の雨が降って中止になった。先週で殆ど掃除は終えているのであとは最終調整だけだと言っていたけれどその通りになるとは。窓の外でしとしとと降る雨を見ながら、今日はシュンも早く帰るだろうし、私も授業が終わったらすぐに帰ろうと思っていた。

:
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「すごい雨だなー」


呑気なスミくんの声に少々いらつきを覚えたりして。

放課後、生物化学室。広い実験台の上にノートと参考書(というか、物理の課題だ)を広げているのに、全然わからない。困る、こんな調子で受験なんて大丈夫かな。

本当はシュンを探しに第3校舎3階までやってきたというのに、シュンってば薄情で、どうやら先に帰ってしまったらしい。渋々ひとりで帰ろうかと踵を返した瞬間、なぜかばったりスミくんと出くわしてしまったのだ。

どうやらスミくんは、部活が休みの日、よくここで勉強しているみたい。生物化学室は写真部部室のすぐ隣なので、今まで気づかなかったことに驚きだ。

この間『一緒に勉強する?』と言っていたのは冗談ではなかったみたい。私を見るなり、『お、ちょうどよかった』なんて言って笑うものだから、仕方なく今日の課題を広げているというわけだ。

スミくんとは時々お昼を一緒に食べているので、別に1週間ぶりの会話というわけでもないんだけれど、なんだか緊張するのはなぜだろう。


「というか、なんでこんなところで勉強してるの? 意味わからない」
「そ? ひとりのほうがはかどったりするじゃん」


まあそれは、そうなのかもしれないけれど。この間だってクラスメイトに誘われていたんだし、わざわざこんなところにひとりでやってこなくてもいいのに。


「こんな辺鄙なところでしなくたっていいのに」


一応進学校のうちの高校は、こんな奥の隠れた教室にこなくたって、図書室やら自習室やら相当充実しているはず。スミくんって普段人に囲まれているくせに、実はひとりがすきだったりするのかな。この間も、夕焼けの海を見せてくれたけれど、誰かをここに連れてきたのは初めてだと言っていた。


「辺鄙って、言い方悪いなー」
「ほんとのことじゃん、この3階にだって、中々来る人いないよー、わたしとシュンくらい」


殆ど使われていない第3校舎3階は、幽霊部活(つまるところ、殆ど活動していない写真部のような部活)の部室ばかり。プールの辺りと同じ、殆ど人はいない。


「なんか落ち着くんだよね、ここ」
「えー、私はなんか気味悪いや」


一見普通の理科室のようだけれど、窓際には水槽がずらっと並んでいる。生物担当教師の趣味だろうけれど、私はこういった生き物はちょっと苦手だ。小さな水槽で泳いでいる名前も知らないサカナを見ると、窮屈そうだな、と思ってしまう。


「そう? 俺結構すきなんだよね、熱帯魚」
「熱帯魚なんだ、それも知らなかった」
「そう、これがコンゴテトラでこれがナミクマノミ、こっちはベタ」


あれ、すごく目がきらきらしている。

スミくんはうれしそうに話しながら立ち上がって水槽に近づいていく。仕方がないから私もそれについて行って、水槽の一番近くの椅子に腰掛けた。ふたりでじっと水槽を覗き込む。窓の外では、雨がまだしとしとと降り続いている。

スミくんから出るサカナの名前、ひとつも知らないや。

この水槽で泳いでいるサカナたちは、綺麗な色をしている。赤だったり、黄色だったり、青と緑が混ざった色だったり。


「サカナってさ、泳ぐと水の中に曲線ができるじゃん」
「曲線?」
「そう、一瞬、水の中を泳いでる波動みたなもの」
「ああ、なんとなく、わかるかも」
「サカナが泳いでるところって永遠に見てられるんだよなー」
「ふうん……」


それは、私が水泳をしているときも少しだけ感じていた。ゴーグル越しに見える水中の波動。ふつふつと小さな泡は光にあたるときらきらと光って上へ昇っていく。水の中は確かにとても綺麗だ。


「……確かに綺麗」
「だろ?」
「スミくんが熱帯魚がすきなんて初めて知った」
「家でも飼ってるよ、飼育が簡単なやつだけど」
「ふうん」
「全然興味ないなーナツノ」
「そんなことないけど、なんか意外だなって」
「そうか? なんならサカナになりたいなーとか思うことあるよ」
「……わたしも、小さい頃飼ってた金魚を見て、サカナになりたいって神さまにお願いしたことあるよ」
「へえ、さすが元水泳部」


わたしの言葉に、予想以上に嬉しそうに笑う。わたし、何言ってるんだろう。こんなこと、スミくんに話すことじゃないのに、へんなの。

でも、何故か、目の前で泳いでいる熱帯魚たちが、あまりにきれいで目が離せなくて。

思い出す、水の中を泳いでいたときの記憶。1年前までずっと、わたしもこのサカナのように、狭くて小さいプールの中を好き勝手泳いでいた。大会とか、タイムとか、そんなことは置いておいて、単純にとても泳ぐことが好きだった。

水の中ってね、きらきらしているんだよ。
いろんな葛藤とか、悩みとか、そういうものなんて、どれだけちっぽけな物なんだろうと思わせてくれるの。水の中では嫌な音なんて聞こえないんだよ。


「わたしね、泳ぐことはだいすきだった、水の中も。だから本当は、水泳だって、やめようなんて思ってなかった」


あれ、なんで、こんなこと溢してしまうんだろう。

スミくんは何も言わずに水槽を眺めている。本当に熱帯魚が好きなんだなあ。

高校2年、夏。

水泳部員は多くはないけれど10名程度はいて、その半数が女の子だった。先輩がひとり、同い年がふたり、後輩がふたり。入部したときから、チームプレーでもないし、特別仲良くすることなんてなかったけれど、同い年の女の子はそれなりに私に対して仲間に入れようと優しさを見せてくれていて。うん、そうだ、あの子はとてもやさしくて、とても、魅力的だった。

どこか既視感があった。きっと多分、ハルカに似ていたんだ。

私が水泳部を辞めた理由は、人間関係がうまくいかなかったから。元々若干浮いていた私だけど、周りとの波長が合わなくなった決定打は、同い年の女の子の思い人と、私が関係をもったこと。

知らなかった、と言いたいところだけど、本当は知っていた。わたしはわざと、あの子が好きな人と関係を持った。───嫌われるべき、だからだ。わたしは女の子に、好かれるべきじゃない。

近づけば失う、そして傷つける、同時に私も息が出来ないくらいの痛みを負う。

だから、わざと、嫌われた。


「……なあナツノ、プールってなんで塩素入れるか知ってる?」
「え? 突然」


スミくんの声で我にかえる。去年の夏のこと、あまり思い出したくない。でもスミくんは、なんだか全てお見通しだとでも言うように、あまりに普通に話しかけてくる。


「うん、突然」
「知らないよ、化学苦手だし」
「おれも苦手だよそれは」
「……化学に興味ないけど、水の管理のためじゃないの」
「うん、そんなところ、感染症の予防とか、微生物の繁殖抑制とか、水質管理だね」
「急に知識ひけらかしてくる! 賢いからって!」
「別にそんなつもりじゃないよ」


じゃあ、突然どうしてそんな話をするの。


「塩素って身体に悪いイメージあるけど、実際にはそうやって、おれらのこと守ってくれてたりするんだよね」
「守ってる、か、確かにそうなのかな」
「うん、それがないとダメなんだよ。おれはあんまりあの匂い、得意じゃないけど」
「プールの塩素のにおいは、嫌いじゃないけど。でも、多すぎてもダメなんでしょ。それくらいは知ってる」
「うん、そのとおり。適切な量が決められてるんだよ。おれたちを守ってくれているものでもあるけれど、配分を間違えたら死に至ることもある。薬と同じ」
「ふーん……」


何が言いたいんだろう。

横を見ても、何食わぬ顔でまだ水槽の中を眺めている。相変わらず、私たち以外に人の気配はないし、雨はやまない。

でも、なんとなく、確かにな、とも思う。

適切な量を、私たちは見誤ってはいけない。それはきっと、世の中のあらゆるものがそうだ。水も塩も適切な量がないと人は生きていけないけれど、限度を超えれば息を止めることができてしまう。人間関係だってそうだ。

適度な距離感。適切な関係。あらゆるものは、毒になり得る。なくては生きていけないのに、抱えすぎると苦しくてどうしようもない。誰かに向ける深い感情も、それに似ている。抱えすぎて、ときどき、消えたくなってしまうこともある。そんな衝動を、誰かが理解してくれるなんて、思ってもいないけれど。


「私ってさ、やっぱりクラスで浮いてるよね」
「クラスっていうか、学校全体?」


ケラケラ笑う。冗談のように言うけど、実際その通りだ。


「そんなに笑わなくてもいいじゃん」
「でも、わざとやってるんでしょ、ナツノって本当は人当たりいいし、嫌われるようなタイプじゃないし」
「別に、そんなことないよ、わたしはいつも適当に愛想振りまいてるだけだよ」
「でもどこか寄せ付けないって雰囲気、もろに出てる」
「わかりきってるのに、なんで私にかまうの?」
「別に、おれがナツノに興味があるから、それだけ」
「好きじゃないのに告白してきたり」
「付き合う、という過程を踏まないと、仲良くしてくれなかっただろ」
「意味わかんないや、やっぱり、スミくんのこと」
「俺自身もわかんないから、そりゃそうだと思う」
「私に近づくのなんて、見た目が刺さったバカか、身体目的のゴミか、何も考えてないアホのどれかだよ」
「ひっどい言いようだなー」
「でも、本当に、そうだから」
「過小評価すんだね、自分のこと」
「だとしたらスミくんはきっと、わたしのことを過大評価してるよ」


面白い奴だとおもって近づいているなら、大馬鹿野郎だ。何も持っていない。何も特別なんかじゃない。私は何者でもないよ。


「雨、やまないね」
「結構好都合だけどね、俺的に」
「……またそう言う変なこと言う」
「ね、来週の花火大会行かない?」
「行かない」
「まだ断られるか、けっこー仲良くなったと思ったのに」
「そんなのスミくんが決めることじゃない」
「俺は仲良くなったと思ってたんだけど」
「……なんでそんなにわたしにかまうの」
「おれがかまいたいから、それだけだよ」
「本当に意味わからない……」


窓の外の雨が、まだやまない。スミくんはわたしが困った様子にけらけらと笑っていた。