「誰だお前…」


「誰だっていいだろ」


そう言葉を放った彼の手によって、掴まれていた男の手が離れていく。


「逃げるよ」


彼は私の耳元で小さく囁いた。
私は息が苦しくなるまで走り、呼吸が荒くなる。


「ハァハァハァ…」


「大丈夫?ゆっくり深呼吸して」


走るのをやめ、その場で深呼吸した。
すると、徐々に荒くなった呼吸が落ち着いていく。


「ここまで来ればもう大丈夫だ!
あ!ここって…」


「どうしたんですか?」


「いやだってここ、君の家の近くでしょ?」


私のことを見透かしたかのように喋る彼。
あ!きっと沙智が話したに違いない。

だって恋人だもんね!


「沙智に聞いたんですか?今日、二人が付き合ってるって聞きました」


「沙智って誰…?
君のお友達?」


「誰って、同じ職場の子ですけど」


私を傷つけない為に、嘘をついてくれているんだと、そう思った。

でも彼は本当に何も知らない素振りをする。


じゃあ、この人は何で私の家を知ってるの?

次第に恐怖心が芽生える。


「あ、そうなんだ!知らなかったよ
ごめんね」


「あの…
ずっと気になってたんですけど、何で私の家知ってるんですか?」


「本当に俺のこと覚えてないの?
最後に会ったの幼かった時だし、さすがに忘れてるか」


思い浮かぶとしたら、血の繋がっていない弟の翼(ツバサ)?
お父さんの子で、実の母親に引き取られて、今は東京に住んでいなかったっけ?
こっちに帰省してきたのかな。


「もしかして、翼?」


「やっと思い出してくれたか!
あれだけ頻繁に通っても気付かれないから、いつ気付くかこの時を待ってた!」


「言ってくれたらよかったのに。」


「実はさ、君に話したいことがあるんだ」


「なんで君って呼ぶの?亜衣って、昔はよく呼んでくれていたじゃん」


「あ、そうだったね
亜衣、一度しか言わないからよく聞いて?」


真剣な眼差しの翼が私の方を見る。
私も真似するように、翼の目を見つめた。


「うん、なに?」


「俺さ…亜衣のことが好きなんだ」


「えっ、でも私達、血の繋がっていない兄弟なんだよ?
だから絶対に、それだけはあり得ないって思ってた」


「俺達、本当の兄弟じゃないし」


「実は私もね、翼のことが好き。」


自分の口から溢れる言葉を翼に伝える。
街灯に照らされる翼の頬が、ほんのり赤くなっているのが分かった。

外にいるはずなのに体がやけに熱い。

きっと私の顔は、ゆでダコさんみたいに真っ赤だ。


「でも、しばらく亜衣と会えなくなる」


「なんで…?」


ようやく想いが伝わったはずなのに、翼の一言によって、簡単に壊される。


「亜衣とちゃんと向き合いたいから。
自分のしてきた過ちを償わないといけないって、そう思った」


「償うって?もしかして、悪いことでもしたの?」


「きっとすぐ分かるから
俺はずっと亜衣の味方だよ」


翼が優しく私の体を抱きしめた。
翼の温もりを肌で感じる。

あの時はまだお互い幼かったけど、今はもう成人した大人同士。


「翼、ありがとう!
私も翼の味方だよ」


その後、家の前まで送ってくれた翼と別れる。
せっかく来たんだし、″お父さんに会っていったら?″って言ったけど、恥ずかしいからと言って、会わないで帰って行った。


本当はあの時点で気付くべきだった。
翼が私のことを″君″と呼んでいたあの瞬間に・・・


彼が私の為を思ってついたウソ。
それは、アイが生んだ優しいウソでした―――。