爽平はあれから毎日、会社帰りにあの女性のいたベンチに三時間ほど座り続けた。
 自分がなぜここまで夢中になるのかわからない。だが、答え合わせをしたいという純粋な欲求が原動力となっていることは確かであった。
 ただ、ここまで盛り上がった気持ちも、解答が間違っていればそれまでだ。
 ハンカチーフは彼女のものではなく、双子の姉妹などいない。そう言われれば振り出しに戻ってしまう。
(もしかしたら答えの見つけ方が間違ってはいないのか?)
 なぜなら、麻衣夏に似ている女性という認識がいつの間にか思考の表面上を支配していて、まともに頭が回らないのからである。
 爽平は昔感じたことがあるはずだ。
 麻衣夏を初めて見たときに、誰かに似ていると。
 もしかして、それが彼女の事だったのだろうか?
 学生時代まで振り返っても、麻衣夏に似た女性に会った記憶はどこにも残っていなかった。


 そして今日は休日。
 爽平は朝からあのベンチに居座った。まるで待ち人が来ない、フラれてしまった男のように。
 昼を過ぎて、少し空腹気味になってうなだれていると、なにやら頭の上を影が差す。人の気配を感じて見上げると、そこには全身黒ずくめの女性がいた。そして、それが麻衣夏に似た女性だと確認する。
「やっと見つけた」
「……?」
 爽平の言葉に女性は首を傾げる。
「これはきみのかい?」
 鞄から忘れ物を取り出して、彼女へと差し出す。
「ええ。探していたの」
 その言葉を聞いて彼は興奮する。これで彼女の名前がカレンであると確定できたはずだと。
「君の苗字はもしかしてワタヌキかい?」
「ええ、そうよ。もしかしてあなたは探偵かなにか?」
 彼女は不思議そうに目を見開く。
「違うよ。種明かしをすれば君の妹さんの麻衣夏と友達なんだ。君は彼女の双子のお姉さんだろ?」
「なんか言い方が探偵さんみたいね」
「多少探偵みたいなマネはしたけどね」
「どうして私を待っていたの? ハンカチだったら駅員さんに届けてくだされば良かったのに」
「うん、まあね。でも、ちょっと聞きたいことがあったから」
「なに?」
 無邪気な子供のようにカレンは首を傾げる。
「この前、君が言った言葉。あれってどういう事?」
「何か思い出したの?」
 彼女の口調が一転する。言葉に何か重みのある感情が加わった。
「いや、思い出せはしないけど」
「そう」
 また、彼女の表情から色が消える。思い出せないのなら用はない、ということだろうか?
「もしかして、前に会ったことがあるんじゃない?」
「思い出せないのならいいわ」
 彼女は後ろを向いてその場を去ろうとする。
「待って。ヒントくらいくれてもいいだろ」
 彼女の足が止まる。
「思い出す気があるなら」
「あたりまえだ」
「わかったわ。この駅の地下街に喫茶店があるんだけど、そこでいい? 立ち話はあまり好きじゃないの」


 彼女について行き、階段を下る。その途中でスマホが振動した。
 取り出して通話をタップすると、スピーカーからはツーというノイズ音しか聞こえない。液晶を確認するとアンテナが圏外となっていた。着信履歴は麻衣夏である。
「ここの地下ってD社以外だと電波の入りが悪いそうよ。電話するなら地上に上がった方がいいわ。私は先に行ってるからね」
 そのまま彼女は行ってしまったので、爽平は再び階段を上がった。
 今度はこちらから麻衣夏に発信する。ワンコールで繋がった。
「もしもし、麻衣夏。今電話しただろ」
「うん。急に切れちゃったからどうしたかと思った」
「地下入っちゃったからな」
「ふーん、まだお昼前だってのにめずらしく一人でお出かけしてるんだ。いつもなら、あたしが起こしにいかなきゃ、布団の中なのにねぇ」
 麻衣夏は嫌味ったらしい口調になる。
「めずらしく早起きしたもんだから外に食べに出ただけだよ。家には何もないからさ」
 不機嫌になりそうな気配だったので、爽平は本当の事を言わないでおく。
「ふーん。まさか、他の子とデートしてるわけじゃないよね?」
 いきなり核心をついてくる麻衣夏。彼は思わずたじろいでしまう。
「バ、バカ、そんな事するわきゃないだろ」
「あやしいなぁ」


 爽平が喫茶店を探し、中に入ると奥の方の席から手があがる。それはカレンだった。
 彼が席につくとちょうどウェイターが水を運んできてテーブルに二つ置く。
「ご注文が決まりましたらお呼びください」
 と、去っていこうとするウェイターをカレンが呼び止める。
「待って私はカレーライス」
 オーダーを言った彼女の言葉を聞いて、爽平は思わず笑い出しそうになる。まさか本当に『カレー好き』だったとは。
 そんな彼を見て彼女は呟いた。
「単純ね」
 一瞬だけ見え隠れする蔑んだ笑み。
「え?」
「ヒントをもらえることがそんなにうれしい?」
「え? ええまあ」
 笑い出しそうになったことは別の意味だったが、誤魔化す意味も含めて曖昧に答えた。
「あなたは何にする? それとも待ってもらう?」
 カレンは爽平とウェイターを交互に見る。
「あ、俺も同じものでいいや」
 そう告げると、ウェイターはお辞儀をして去っていく。


「まずは私を知っているか? ってことだけど、これは思い出してもらうしかないのよ」
「でも、いつ会ったことがあるかぐらいのヒントはくれてもいいんじゃないか?」
「今、あなたが留めている記憶の範囲にはないわ」
 それは、まさか前世という意味なのか? そんな馬鹿な考えを飲み込む。どうも相手の言葉の意図するものがわからない。
「じゃあ、二つ目」
 そう言うと、彼女はその後の言葉を続ける。
「あなたは人を殺したことがある?」
 この前のようなミステリアスな雰囲気はないが、重みのある言葉だった。
「記憶にないし、もしそのような事実があるのなら、俺は普通には暮らしていけないだろう」
「そう?」
「もしその記憶が欠落していたとしても、あなたの……カレンさんの言葉が本当なら、俺は何らかの罪に問われているはずだ。でも、俺には塀の中でお世話になった記憶はない。もちろん、経歴に何もないからこそ普通に就職できている」
「思い出せないのなら仮の話をしましょうか。もしあなたが誰かを殺したとして、どうしてあなたの罪は罰せられないのかしら?」
 まるで謎かけだ。
「罪を犯していないからだろう」
「仮の話なのだから、もう少し柔軟に考えましょう。あなたは罪を犯している。でもその罪を問われない」
「それは過失だった場合?」
「そう、そんな風に考えればいいのよ」
「でも過失であれ、なんらかの罪になる。罰せられないということはないだろう。それに殺した人間の家族にはなんらかの憎しみを抱かれる」
「そうね。でも憎しみを抱かれない場合もあるわ」
「それは過失ではなく事故だった場合だろ」
「人間はそんなに割り切れるものではないけどね」
 しばらく沈黙が続く。そんな中、ウェイターがカレーライスの皿を持ってくる。
「お待たせしました」
 そう言って再び去っていく。その皿を嬉しそうにカレンは引き寄せるとさっそくカレーをスプーンで口に運ぶ。
「ところでさ、変な事聞いていい?」
 カレーを食べている彼女を見て、どうしても爽平は聞いてみたくなったのだ。
「なに?」
「カレー好きなの?」
 カレンのスプーンを持つ手が止まる。
「好きな方がいい?」
 微妙な口元。感情が読めなかった。
「え?」
「どっちでもないよ」
 そう言って、彼女は食べることに専念する。爽平にはまったく意味がわからなかった。だから腹が減っていたこともあってか、素直に目の前のカレーライスを食べることにする。
「そういえばさ、家どこなの。ここの駅の近所に住んでいると思って、毎日君が来るのを待っていたのだけどさ」
「川崎の方」
「川崎? ここから一時間以上かかるんじゃないの?」
「実家だから。それに別にここに通っているわけでもないしね」
「じゃあ、俺と出会ったのは偶然なのかな?」
 運命の出会いなんて信じているわけじゃないし、爽平が思いを寄せるのは麻衣夏だけだ。でも、カレンとの出会いには運命的な何かを感じずにはいられなかった。
「ふふっ、あなたはどう思うの?」
 彼女は嗤いながらそう言った。