□八月一日

 賭の期日まで一ヶ月となる。爽平は相変わらず何も思い出さない。
 思い出さないまま賭の結果を出してしまっていいのだろうか。
 フェアじゃない気がする。爽平はあたしの正体を知らない。
 四月朔日麻衣夏の正体を知ったらどうなるのだろうか。
 たとえどんな結果になろうとも、知らなければあたしたちは前に進めない。

□八月二日

 今日はちょっと強引に攻めてみた。
 直接的なアイテムを持ち出して、彼の目の前に見せつける。
 一瞬だけ彼は驚いていた。毛嫌いしている感覚はあるものの、思い出す兆候はない。
 映画もベタにホラー映画にしてみた。血を見たら何か反応するかと思っていたが、それさえもなかった。

□八月七日

 彼と海へ行った。さすがに二人で西瓜割りは恥ずかしいので、西瓜の形をしたビーチボールを持っていく。
 周りにもそんなことをやる人間はいなかった。おかげで普通に遊んでしまった。結構楽しかったかも。
 爽平と一緒にいることが楽しいと思える自分、そして黒くもやもやとした自分。果たしてどちらが本当の自分だろう。
 夜、ファミレスで佳枝と久しぶりに会う。卒業以来だから、もう二年にもなるのか。

□八月八日

 そろそろ八月も上旬が終わる。かねてより計画していたものを実行する。
 ゴスロリ服は爽平には見せていないもう一つのあたしの姿。もしかしたら、こちらの姿こそ本当のあたしなのかもしれない。退廃的で悪魔的で成長しない少女のような黒い自分。
 送ってもらってすぐ着替えて目的の駅へ向かう。爽平は本屋で立ち読みをするような事を言っていた。タイミングが合わなければまた今度にすればいい。
 本屋の前を何度かうろうろしていたら、爽平が出てきた。あたしは彼に気付かないふりをしてそのまま歩いていく。
 しばらく後をつけられていたが、バッグに入っているスマホが着信のために振動しはじめたのだ。
 あたしは爽平に気付かれないように右手の中に収まっているリモートスイッチでスマホを通話状態に切替える。イヤホン一体型マイクに「もしもし」と小声で呟くが、反応がなかったものだから少し焦った。

 もう一度小声で呟くと今度は反応がある。「麻衣夏の声が聞きたかっただけ」だって。こんな時でなければ大げさな反応をしてやったのに。

□八月十一日

 明日は爽平が休みなのでプールに行こうと誘う。
 計画していた第二弾を実行することにした。

□八月十二日

 爽平が待っているはずの駅のベンチで彼を観察する。時間になってもあたしが現れなければ、周辺を探し回るか、座れる場所に移動するだろう。案の定、こちらに向かって歩いてくる。目が合った。面白くて笑いそうになる。
 彼に気付かれないようにハンカチをベンチの上に置き、そのまま立ち上がって彼の元へ歩み寄る。
 意味深な質問を投げかけた後に、呆然としている彼を置いてその場を去る。彼が後をつけてきていないことを確認し、柱の死角に入る数メートル手前でスマホを通話モードにする。あたしが見えている場所で着信させなければ意味はない。
 呼び出し音が鳴るとあたしは急いで柱の死角に入り、耳元のイヤホンマイクに手をあてた。
 寝坊したと、いい加減な嘘をつくのは気が引けるが、それが無難な理由だろう。
 思わず「着替えてソッコーで行く」と言ってしまった時は焦ったが、爽平はあたしがまだ寝ていたと考えていれば成功だ。まさかゴスロリから着替えていくなんて思いもしないはず。
 一年前、爽平と再会した時、彼はあたしを覚えていなかった。だからリセットすることにした。彼が知っている四月朔日麻衣夏でない別の誰かとして。
 忌まわしい事件の日、爽平は怯えるようにあたしの顔をしっかりと記憶に刻みつけたと思う。成長したとはいえ、あたしの面影を思い出してくれればいいのだが。
 もともとこれは彼を騙す計画ではない。知り合って親しくなってしまい、幼い頃に出会った記憶をどこかへ無くしてしまった彼を呼び覚ますためのものだ。
 知り合った時、お互いに何者なのかはまったく気付いていなかった。しばらく会っているうちにあたしは思い出してしまったのだ。
 自分が殺そうとした相手が爽平だということに。

□八月十五日

 前から友達と約束していた沖縄旅行に行く。四泊五日だ。爽平が近くの駅まで送ってくれた。いちおう彼には七泊八日と伝えてある。

□八月十七日

 佳枝から電話があった。爽平に会ったらしい。玲衣夏の事を聞かれたそうだ。
 双子の姉妹ということで単純に誤解してくれれば少し面白くなるかもしれない。まあ、本来の趣旨からは外れるかもしれないが、これもまた余興だろう。そうでも考えないと、この計画は実行することがとても辛い。

□八月十九日

 本来ならまだ沖縄にいるはずだが、爽平には内緒で帰ってきた。あの仕込みが成功していれば、彼はもう一人のあたしをずっと探しているはずだ。

□八月二十一日

 駅に行ったら爽平がぐったりしながらベンチに腰掛けていた。朝からずっと待っていたのだろうか。でも、彼はまだ何も思い出していないようだ。
 ヒントを与えるために喫茶店で話すことにする。その前に、確実に麻衣夏であるあたしのアリバイを作る。爽平のスマホの電波が圏外になる直前に発信し、彼にかけ直させることにする。
 そういえばもう八月も下旬。賭の期限まであと少し。
 最悪の場合も考慮して、多少のショックを与える仕込みも行ってみた。姓を「ワタヌキか?」と聞かれて、どうしようかと迷ったけど、双子だと思わせて違っていた方が衝撃的だろうと考えて肯定してみた。だけど、この仕込みが使われることなく爽平が思い出してくれればいいのだが。

□八月二十二日

 お土産を持って爽平の家に行く。沖縄で本当に買った物なので、ばれることはないだろう。
 彼があまりにも思い出さないので、嫌味を込めて、近くのスーパーで買った西瓜ジャムも持っていく。
 見た瞬間に嫌な顔をして、もうやめてくれと怒られた。
 だからあたしは言ってやった「どうして嫌いなのか考えたことがあるの?」って。
 彼は思い出せないのではない。思い出すことをやめてしまっているだけなのかもしれない。

□八月二十三日

 玲衣夏から電話があった。爽平がそっちへ行ったらしい。あの子が二卵性の双子であること、そして可憐姉さんが亡くなっていたことが爽平にバレた。
 きっと爽平は混乱しているだろう。
 その後、彼から電話があった。バッテリー切れで再度かけ直してきてくれたが、二度目の電話は何か悟りきったような口調でもあった。
 爽平にも覚悟ができたのだろうか?
 あたしはいつものゴスロリに着替えると、爽平を駅の改札で待つことにした。
 もう、夏が大好きなだけの女ではいられない。


「俺は麻衣夏に殺されかけたのか」
 膝をついて頭を抱えている爽平。
「殺せなかったけどね……」
 あの時の怒りは今でも覚えている。あたしは可憐お姉ちゃんが大好きで、それを奪った目の前の男の子が憎かった。だから本当に殺してやるつもりだった。
 だけど……お母さんに後ろから抱きしめらてこう言われた。
『やめなさい。あなたまで不幸になることはないのよ』
 あの時のお母さんの言葉は忘れない。だから、お姉ちゃんの分まで幸せになってやる。そう誓ったのだ。
 本当は夏が大嫌いで、お姉ちゃんの命日にもなってしまった夏を好きになれるはずがなかった。でも「幸せになってやる」その言葉を呪文にして、あたしは夏という季節を自分の中に取り込んだ。でも、それは所詮メッキでしかないのかもしれない。
 あたしは情熱的で行動的な女などではなく、内に閉じこもって鎧のようなゴスロリに身を包む無力な女でしかない。
 メッキはいずれ剥げてしまう。
「爽平。あたしはね。復讐の為にこんな手の込んだ事をしたんじゃないの」
 あたしはしゃがみ込んで爽平の頬に手をあてる。温かいぬくもり。あなたは生きているのだから。
「あなたに、自分を殺そうとした女の子が目の前にいるということを思い出して欲しかったの。事実をただ突きつけるのは簡単だったけど、それじゃ意味がないの。まったくの他人であればどんなに良かったか。あなたと知り合うことがなければ、こんなにも苦しまずに済んだのに。だからあたしはフェアになりたかった」
 惚けたような爽平の顔をしっかりと見つめ、そして話を続ける。
「あたしは現実をきちんと受け止めた爽平に、謝りたかったの。あれは不幸な事故だから。あなたを殺してもどうにもならないことはわかってるから」
「僕を許してくれるのか」
「あなたは十分罰を受けている。生きていくことこそが罪滅ぼしにもなるのよ」
「ありがとう。嘘でもうれしいよ」
 あたしは爽平の頭にあった両手を優しくほどくと、その頭部に残る傷を包み込むように撫でた。
「ううん。嘘じゃない。あなたは死なないで。それがあたしの願いだから」
「え?」
 爽平は驚いたように顔を上げる。
「今度はあたしがあなたに許してもらう番よ」
「どうして?」
「わからない?」
「……?」
 爽平は幼子のようにぽかんとした顔で首を傾げる。
「んとね」
 あたしは彼の頬を両手で優しく掴んで引き寄せた。
「賭けは……」

(了)